以下、ライブハウスくうで開催した映画イベント「映画音楽秘宝」の語りの記録です。鎌田賛太郎名義で、映画の音楽的な場面をテーマ別に紹介しました。

 

第31回 「夜と闇にうごめく人々~“物語”から飛翔する映画的快楽」2011/5/10開催

1 「ビッグ・コンボ」(1955年) ジョセフ・H・ルイス 

 まず一本、フィルムノワール時代のハリウッド映画も紹介したい。以前もジョセフ・H・ルイスの「拳銃魔」という作品を紹介したことがあるが、「ビッグ・コンボ」は当時ほとんど評価されることのなかった傑作だ。観ていただきたいのは、ジョン・オルトンという撮影監督の照明まで自在に操る技術力の高さ。この人はハンガリー出身で、ハリウッドにわたってから、エリッヒ・フォン・シュトロハイムの「メリー・ウイドウ」の撮影にも関係したが、移民のため昇進を妨げられ、しばしアルゼンチンで活動する。その成果が認められ、再びハリウッドで活動し、アンソニー・マンとの仕事(「Tメン」など)や、後には「パリのアメリカ人」のバレエシーンの照明でアカデミー賞を受賞する経歴もあるが、その才能に比し、十分な仕事を遺したとはいえない。

  「ビッグ・コンボ」の監督、ジョセフ・H・ルイスは、自分の頭の中のイメージを伝えただけで、「了解」といってわずか数分で照明設計も含め、セッティングし、その創造力と技術力に舌を巻いたことを述懐する。しかし、「オルトンは巧み過ぎて撮影技師と撮影部の部長、重役全員を脅かした。その結果撮影所から追い出されたのだ」。 「ビッグコンボ」はある刑事と組織の攻防を描く話で、リチャード・コンテが冷徹な組織のボスを演じ、へまをした仲間に、別の仲間の補聴器を耳に押し込み、大音量のジャズで「こっからドラムソロだ」などと拷問するシーンがある。後にその補聴器をつけていた仲間がコンテを裏切り、ボスの座につこうとするが、肝心の手下は実はコンテの側についたままで、自分が殺されるというシーンがある。信じがたいほど豊かな光と影の映像美の中で、補聴器をはずされ音のない銃撃によって殺される一瞬を観たい。

「ローラー・ガールズ・ダイアリー」2009 ドリュー・バリモア

 多くの映画は物語を持っている。映画にとって物語は重要なものであるが、しかし、物語だけを追うのであれば、小説でも読んでいればよいという話になってしまう。考えてみれば物語通りに進行する映画ほどつまらないものはない。一流の映画はよくよくみれば、単純に物語が面白いだけでなく、細部が輝いてこそ面白いのであり、映画とはさまざまな細部の集積によって成り立っていると考えることもできるだろう。 ところで近年の映画、ことにハリウッド大作及びそれに影響された作品群はカッティング数が異様に多い傾向にある。同時にクローズアップも多用される。このことで映像から構図が失われ、心に残る場面が実は少ない状況にあるのだ。細切れのカットが特徴であるトニー・スコットの場合は、「マイ・ボディガード」の「橋」、「アンストッパブル」の救出者の「顔」など、決定的な構図やクローズアップをきめることで映画を維持している。 

 もちろんアメリカ映画でも構図をしっかり考える作家はいるが、最近大変驚かされたのが、ドリュー・バリモアの「ローラー・ガールズ・ダイアリー」だ。登場人物の顔は基本的によく見せず、説明的なクローズアップは決定的に回避する。物語を進行させるうえでは、必ず画面の中で何らかのアクションを起こし、物語から映画を引き離そうと仕掛けている。映画は決定的に商業主義からスタートしたために、わかりやすさを余儀なくされる。だから基本的には誰にとってもわかりやすい。ともすれば、映像をみながら我々は物語に引き摺られ、画面を見過ごすことはなかったか。一流監督の作品は物語よりも“映画”を優先するものだ。映画を観ることは容易なようで、動体視力を鍛えなければ、意図を汲むことはなかなかに難しい。ドリュー・バリモアの作品は自身すら楽しみながら撮っているようで、ハリウッドと観客に強いメッセージを込めている気がしてならない。

「妻の心」(1956年) 成瀬巳喜男

 例えば構図・逆構図の切り返しによる、二人の人物が会話するシーン。この最も基本的な撮影法は、二人の人物を向かい合わせ、そこに一本の線を引き、キャメラを左右いずれかの側に固定した状態で、会話する双方を撮影する。ラインを越えると視線のずれが生じるためで、このラインはイマジナリーラインなどとも呼ばれる。これが切返しの基本で、テレビでも無数に繰り返されるこの技法は、ときにどうしようもなくつまらないものになってしまう。

  一流監督の作品では、この基本を応用して驚くべき映画的成果を見せつけられることがある。例えば、小津安二郎のイマジナリーラインを無視した永遠にかみ合わない視線。ここに極限まで単純化され反復される台詞が加わり、独特のリズムを生み出す。あるいはイーストウッド。「マディソン郡の橋」では、切り返す度にイーストウッドのサイズが大きくなり、イーストウッドがストリープに引かれていく心情が表現されている。つまり心理がショットによって表現され、余計な芝居は必要としないのだ。成瀬巳喜男はといえば、登場人物を歩かせ、片方が立ち止まり、振り返って会話させる、あるいは室内の構造に高低をつけて視線によるドラマが生み出される。つまり成瀬の室内設計は日本家屋を再現するというよりも、これを実現するために作られている。

  「妻の心」という作品では、高峰秀子と小林桂樹が背中を向けながら会話するシーンがある。薬局の一部を壊して喫茶店を作るという話から始まるこの作品は、「喫茶店」を“マクガフィン”に、ばたばたと物語が進行していく。高峰秀子と小林桂樹が夫婦で、家のごたごたの最中に小林が芸者を連れて温泉に行ったと、高峰がなじるシーンがある。背中を向け合う中で小林が前に向き直ると照明が変わるため、顔が暗くなる。これで小林の心境と立場は十分に表現されている。視線の流れ、高低、照明設計、建物の構造、ありとあらゆる映画的技術を駆使しているにも関わらず、成瀬作品はその技術をまったく感じさせないほど滑らかで透明化している。この滑らかさを洞察することが、映画を知る喜びの一つであり、また難しさでもあるだろう。この場面がもし平板な切り返しで撮影されていれば、いかにつまらない場面になっていただろうか。 (上映時、ストップのタイミングが早く、この場面のあとの三船敏郎の顔を挿入しそびれました。この作品の三船が絶品なのだ)。

「彼奴を逃がすな」(1956年) 鈴木英夫

  いつかこの場でその名前をご紹介したいと思っていた鈴木英夫。この方、近年特集上映などがあってようやく再評価の兆しもあった。東宝を支えた監督として、成瀬巳喜男を筆頭に千葉泰樹も含め、黒澤明よりも先に名前を覚えていただきたい監督、といいたい。ヒッチコックばりのサスペンス描写に定評があり、「彼奴を逃がすな」を紹介したい。 木村功と津島恵子が貧しいながらラジオ店を営み、目の前の店で殺人事件が起こる。木村功は、それを目撃するが、犯人から情報を流せば奥さんの命はないと脅迫を受ける。報復を恐れながらも、モンタージュ写真の作成に協力し、手配写真が出回るが未だ犯人は捕まらない。犯人の接近を恐れるあまり、周囲のすべてが自分を追い詰める人間に見える木村の緊迫した心境が具体的な映像と音によって延々と示される。鈴木の冴えた演出を堪能したい。

「影の軍隊」(1969年) ジャン=ピエール・メルヴィル

 香港返還以降、香港映画界において異彩を放つジョニー・トーだが、トーの映画作りに大きな影響を与えている一人がフランスのジャン・ピエール・メルビルだ。「仁義」のリメイクが流れたのは残念な話。今日はメルビルの代表作の一本である「影の軍隊」を紹介したい。戦時中のレジスタントとして闘い、死んでいった人々がモノトーンのようなブルーの色調の中で描かれる。活動家のリノ・バンチュラがつかまり、処刑場に向かう一場面を観たい。メルビル作品はすべてモノクロームのような、夜の闇あるいはどんよりと曇った世界の中で繰り広げられる。静寂の場面から一瞬にしてサスペンスが生まれる簡潔な演出ぶりを観たい。

「アンナと過ごした4日間」(2008年)

 イエジ・スコリモフスキ 今年は1930年生まれのイーストウッドとゴダールが同時期に公開されるというすごい展開になっているが、彼らより8歳年下のイエジ・スコリモフスキも若々しい。近年はクローネンバーグの「イースタン・プロミス」にも印象的な役柄で登場していた。この人、実に面白い経歴の持ち主で、若い自分は詩人でありボクサーであり、ジャズドラマーでもあり、クシシュトフ・コメダのグループにも参加したという。映画関係ではアンジェイ・ムンクとも親しく、「パサジェルカ」(傑作!)にも関わった。初期の代表作として1970年の「早春」があげられる。ジョン・モルダー・ブラウン演じる童貞のおにいちゃんが、ポール・マッカートニーの恋人だったジェーン・アッシャーに恋焦がれ、衝撃的なラストに向けて大暴走する話。今見ても、かつて観たどのシネマにも似ず、予想のつかぬ展開に唖然とついていくほかない。元々は、雪の中に落とした指輪のダイヤモンドを探すシーンを撮りたいという細部から発想されたものだという。映画が細部で発想され、また細部の素晴らしさこそが映画を形作るという例だろう。

  2008年の作品「アンナと過ごした4日間」は、アンナという女性への一途な恋心から睡眠薬を砂糖ツボに混入し、4日間彼女の部屋を訪ね、ただ近くから見つめるだけの男の物語。側にいても、ボタンをつけたり、食器を洗うくらいしかできないのだ。おろか過ぎて穢れのない主人公を演じる俳優の存在感が素晴らしい。考えてみれば、この作品の主人公は、「早春」のお兄ちゃんが童貞のまま年を重ね、甦ってきた登場人物といえるだろう。だから指輪をめぐるエピソードもリフレインされるのだ。映画史にはしばしばこのような天使のような人物が登場し、我々の魂を震わせる。では指輪が登場する3日目の夜のシーンを。

「スリ」(2008年) ジョニー・トー

  最後はジョニー・トー近年未公開の傑作「スリ」。主人公のサイモン・ヤムが住むアパートメントはあきらかにメルビルに「サムライ」を意識した設定だ。サイモンは4人組みのスリで、組織のボスに囲われたある女性が助けを求め、彼女のパスポートを雨のけぶる歩道でスリ合い、それを手にした方が彼女を自由にできるというシーンがクライマックス。香港のスリは派手で口の中にかみそりを隠し、衣類を切る。雨の中のスリのシーンは「シェルブールの雨傘」を思い出すミュージカル的演出が施され、ぴたりと揃う傘の俯瞰ショットは何度観ても鳥肌ものだ。

 

 第30回 「死の舞踏~踊るアクション空間、狂気と死のイメージ」2010/5/27開催

「母なる証明」(2009年) ポン・ジュノ

 昨年公開されたばかりの、ポン・ジュノ監督作品「母なる証明」は、主人公の母親の踊りで始まり、踊りで終わる作品だった。精薄の息子に殺人の嫌疑がかけられ、警察がまったくあてにならないために、事件の真相を探り始める母親。物語を要約すればひねりの入った刑事ものののように聞こえるが、ポン・ジュノ作品は当然一筋縄ではいかない。全編、韓国の土着的イメージを強調しつつ、不吉な水のイメージ、正体不明の人物の配置と明確に解き明かされることのない真相、全編不気味なイメージがいずれの作品においてもパワフルな演出によって貫かれ、ジャンル映画の解体が行われている。「母なる証明」のファーストシーンの母親は、泣いているのか笑っているのかわからない表情で不思議なダンスを踊り始める。それはこの作品を象徴するイメージだろう。

 2「吸血鬼」(1930-1931年) カール・ドライヤー

 カール・ドライヤーが、30年から31年にかけて製作した「吸血鬼」。フィルモグラフィとしては、「裁かるゝジャンヌ」(28年)に続く作品。物語や視覚的な怖さではなく、不気味なイメージの連鎖によって構成された真の恐怖映画といえるだろう。サイレントからトーキーへの過渡期に製作されているが、極力台詞は排除される。撮影はルドルフ・マテ。ドライヤーの試みは異界を表現するための映像の純化を目指し、照明も通常のライティングではなく、幕にあてたスポットライトをキャメラのレンズに反射させて不気味な効果をあげたり、フィルターにガーゼを当てるなど、さまざまな実験を行っている。

 吸血鬼がおがくずの中でゆっくりと窒息していくラストや、屍と化した主人公が棺から見る主観的映像など有名なシーンは数多く存在するが、片足の老兵の影が勝手に動き回る場面を。影は死者であり、死者たちが狂ったように踊る場面まで観ていく。 

 「ペイルライダー」(1986年) クリント・イーストウッド

 今年80歳を迎え、なお意気盛んに映画を撮り続けるイーストウッド。今何を作っても傑作となる稀有な作家ではあるが、しかし細部を良く見れば理解不能なことだらけ、また、イーストウッドは本当にうまい作家といえるのか疑問視されるショットも散見されるのもまた事実。理解不能点については蓮實・黒沢対談でも指摘しているが、例えば、「チェンジリング」のジョン・マルコビッチの最後に至るまでの善人ぶり、あるいは子供が戻らないことが決定的状況下でのアンジェリーナ・ジョリーのアカデミー賞の賭け、「グラン・トリノ」の車を渡す相手がモン族のお兄ちゃんでよいのかという問題。「グラン・トリノ」は、自分自身一度目に観た際はイーストウッドの死に深く動揺し明快には意識しなかったが、2度目では、あのモン族のお兄ちゃんが車の受け取り手で本当によいのかと真剣に思ったものだ。イーストウッド作品にはイニシエーションの主題が数多く存在するが、従来は、「センチメンタル・アドベンチャー」の息子、「ハートブレイクリッジ」の部下たちなど納得のいく登場人物たちが継承者として存在していた。イーストウッド映画史的には、息子のどちらかが改心し継承者として浮上したり、せめて神父が犠牲者とまではいわないが、何らかの形で貢献してほしかった。近年のイーストウッドは観客の期待を裏切り、さらに上回る形で映画作りを行っているといえるだろう。ちなみに、蓮實・黒沢対談ではイーストウッドの側から観客を拒絶しはじめたという指摘もなされている。

  さて、イーストウッドの作品には共通するモチーフがいくつか存在するが、「幽霊」の要素も重要なファクターで、「ペイルライダー」はまさに幽霊そのものが主人公となる西部劇。鉱山の利権をめぐり、地方のボスに搾取される開拓民の中に「プリーチャー」と称するイーストウッドが登場し、構造的には流れ者が町を救う形式となっている。地方のボスの雇うロングコートを着た7人組みの殺し屋が登場し、このリーダーがかつてイーストウッドを殺した張本人だが、演じるのがジョン・ラッセル。といえば、ジョン・フォードの傑作「太陽は光り輝く」(53年)の若者を忘れることができない。西部劇の系譜というよりも、映画史の系譜においてイーストウッドと一直線に結びつく感動的なキャスティングであったといえる(ジョン・ラッセルはイーストウッド作品において「センチメンタル・アドベンチャー」に続く出演)。では、ジョン・ラッセルが印象的に登場し、開拓民に死のダンスを躍らせる強烈な場面を。

 4「何がジェーンに起こったか?」(1962年) ロバート・アルドリッチ

  撮影所システムによる映画の全盛時代は1930年から50年代にかけて。赤狩り、テレビの台頭を経て、映画の陰りはハリウッドにおいて深刻化し、60年代以降混迷の時代を迎える。今俯瞰すると、70年前後に起こったアメリカンニューシネマの潮流は何も生み出さず、では誰がこの時代に“映画”を継承したかというと、ドン・シーゲルであり、アルドリッチであり、フライシャーであり、そしてイーストウッドだったといえるだろう。 そのうちの一人、ロバート・アルドリッチの「何がジェーンに起こったか?」は、ベビー・ジェーンの名で名子役だった舞台女優ジェーンと姉の確執の物語。ベビー・ジェーンの人気がかげると、姉のブランチが女優として活躍し、姉妹の立場が逆転する。ブランチの人気の絶頂時、彼女は突然の自動車事故で下半身不随となり、現在、年老いた二人は古い屋敷で二人暮らしをしている。ジェーンはカムバックしようと画策しているが、アル中もあり、すでに狂人の領域。異常行動をとり、姉にも暴力を振るうという有様だ。 この姉妹をベティ・デイビスとジョーン・クロフォードが演じ、ことにジェーン役のベティ・デイビスの悪女ぶりが忘れがたい。その顔のしわ、黒ずんだアイシャドー、毒々しい口紅、実年齢よりも上の醜悪なメイクを自ら施し、悪女ぶりを嬉々として演じる。映画史において、グロテスクなまでの悪女に徹し、しかも女優としての風格を感じさせたのは、ベティ・デイビスをおいて他にない。家にピアニストを招き、カムバックを算段するジェーンの歌と踊りのシーン、ほぼ狂人の領域にまで踏み込んだ戦慄の場面を観たい。

「デス・プルーフ」(2007年) クエンティン・タランティーノ 昨年快作「イングロリアス・バスターズ」を放ったばかりのタランティーノは、前作「デス・プルーフ」で一気に飛躍した。撮影所システムがとうに崩壊した時代にあって、スピルバーグを筆頭に映画は学校で学ぶものとなり、そしてタランティーノの登場により、ビデオショップで映画を学ぶ監督が登場する時代になったことを告げる。タランティーノは初期の作品からそうであるように、あらゆる映画からつぎはぎ状に「盗み」、映画を再構築するという映画作りを成してきた。「デス・プルーフ」は柄の悪い女性たちが延々とおしゃべりばかりを繰り返し、カート・ラッセル演じる自称スタントマン・マイクという変態にいたぶられるという低予算映画の体裁をとっているが、画面は一瞬も弛緩することなくラストまで一気に駆け進む。いかにも品のない女性(まさにビッチといった感じ)がカート・ラッセルの挑発に乗ってダンスを披露し、やがてカークラッシュの餌食となるシーンを。

「エグザイル 絆」(2006年) ジョニー・トー

  札幌では公開されていないが、今まさに新作が公開中のジョニー・トーの「エグザイル 絆」を紹介したい。サム・ペキンパーの「ワイルドバンチ」は壮絶なラストの撃ち合いが「死の舞踏」と形容され、「エグザイル 絆」は、4人組みの死を覚悟した殴り込みという設定をリフレインし、まさに「ワイルドバンチ」を思わせるジョニー・トー流のオマージュになっている。西部劇、マカロニ、おそらく日活アクション、アラン・ドロン、フィルムノワール、そうした要素を背景に、撃ち合いそのもののスペクタクル化にこれだけ労力と命を注ぐ監督は希少価値。また、アンソニー・ウォン、ラム・シュー、フランシス・ン、サイモン・ヤムなど同じの俳優を何度も起用し、一家を形成しているのもうれしい。

7 「阿波の踊り子(剣雲鳴門しぶき)」(1941) マキノ正博

 次は、日本映画から一本。数千人という圧倒的な群衆が阿波踊りを踊るクライマックスを持つ、マキノ正博の「阿波の踊り子」だ。廻船問屋の十郎兵衛という人物が海賊の汚名を着せられ、阿波踊りの真っ最中に処刑される。弟がいつか復讐に訪れるという期待も、歳月と共に町では忘れ去られ、高峰秀子演じる旅館の娘だけがそれを信じている。そして七年後、長谷川一夫が阿波踊りの日に、復讐に現れる。ここで登場する千人規模の踊り手たちがすごい。山根貞男「マキノ雅弘 映画という祭り」によれば、この映画の撮影時阿波踊りは戦争中で禁止されていたが、撮影のため特別許可が下り、全徳島の人々が集まって阿波踊りを復活させたという。興奮状態にあった参加者たちにより、ほうぼうでトラブルが発生し、警察沙汰になる騒ぎまで起こったというが、そんなエネルギーがクライマックスに炸裂する。家老が熱狂的に踊る群衆の中に放り込まれ、門の外へと連れ出される様は、延々と踊る群集の圧倒的な数と、ダイナミックなカッティングによって、驚異的なモブシーンとなっている。まさに死の舞踏だ。

「肉体の冠」(1952年) ジャック・ベッケル

 ジャック・ベッケルの「肉体の冠」は、マンダという大工と、マリーという娼婦の悲恋を描くメロドラマ。マンダを演じるのは、歌手としても有名なセルジュ・レジュアニ、マリーはシモーヌ・シニョレ。ベッケルはジャン・ルノワールの助監督を勤めた後に監督として活躍し、53歳で亡くなったために13本しか作品を残せなかったが、信じがたい程に評価が低く、蓮實重彦氏の指摘によれば、ベッケルが「編集」の作家とみなされたために評価が低かったという。アンドレ・バザンが力を持っていた時代で、バザンの理想が溝口的なワンシーンワンカットにあったというわけだ。編集とはアップ、ミディアム、ロング、俯瞰、固定、アクションつなぎなどによる組み合わせを指す。しかしこれを否定して「普通の映画」作りはあり得ない。編集がなめらかに行われることで何が起こるかといえば、映画ならではの、まさに映画でしかなしえないリズム、運動、躍動感が生まれ、それはなめらかであるほど透明化するのだ。ちなみに日本でいち早く、アクションつなぎを自分のものにしたのは、山中貞雄である。ベッケルの不当な過小評価は未だ存在し、その名を私たちは決して忘れてはならない。

 ベッケルの作品はいずれも扉や壁が重要な場面で使われる。「肉体の冠」には、マンダが扉から出ると、ボスが別の扉から入ってくるという面白いつなぎもある。また、警察署での復讐を図る場面では扉が決定的な使われ方をしている。終盤マンダがボスを追い詰め、警察署で拳銃を奪う場面でアクションつなぎが行われている。映画は非常に具体的な細部で構成されているのだ。 もうひとつ、クライマックスに突入する場面で、シャンソン「さくらんぼの実る頃」が感動的に使われている。果たして、死の舞踏はどこに存在するか。

 

 

第29回「ミッションインポッシブル!~チームプレイにみる映画的快感」2006/12/24開催

 今日はチームプレイをテーマに映画を紹介していきたい。映画のジャンルには様々あるが、西部劇、戦争映画、時代劇、スポーツもの等でもチームプレイによって何事かを成し遂げ、映画的躍動感に富む作品が少なくない。さて、チームプレイ、連携プレーといえば、何をおいてもハワード・ホークスである。プロフェッショナリズムを獲得した登場人物たちの行動はそのまま映画の面白さに直結する。ジョン・ウエインら一行が一万頭という牛の大群をミズーリまで運び交易路を開拓する「赤い河」。感動的船出となる出発シーンの男たちの顔、顔、顔だ。本作はホークス初の本格的西部劇の門出でもある。

「赤い河」(48年)監督ハワード・ホークス

 映画におけるチームプレイといえば脱獄物を連想する方もいるだろう。今年公開の傑作に「ウォレスとグルミット 野菜畑で大ピンチ」という作品があったが、粘土製のパペットを微細に動かしながら撮影するストップモーション・アニメという手法が使われている。90分程度の作品を作るにあたり、スタッフが「マッチ棒で万里の長城を築くようなもの」と語る程の労力が投入されている。英国のアードマンというプロダクションが制作し2000年に大成功を収めた「チキンラン」は、養鶏場のニワトリたちがそこから脱走を図ろうという筋立て。雌鳥たちに、サーカスのロケット砲で飛んでやってきた雄鳥が加わり、自らが飛べるよう指導するシーンがある。ニワトリゆえ結果的に飛べるはずもないのだが…。訓練の1シーンから。

「チキンラン」(00年)監督ニック・パーク他

 脱獄物をもう一本。ジャック・ベッケルの「穴」だ。ベッケルはジャン・ルノワールの助監督を務め、同時に盟友でもあった人物。「現金に手を出すな」「肉体の冠」「赤い手のグッピー」など一本とて見逃すことのできない監督だ。「穴」はジョゼ・ジョバンニが脚本を書き、実際の脱獄囚も出演している。この作品には音楽が一切登場しないが(ラストのタイトルシーンを除いて)、その代わりに聞こえてくるサウンドは、穴を掘る音、鉄索を切る鋸の音、看守の足音、男たちのあえぎと吐息であり、沈黙だ。通常脱獄物では作業に発生する音をカモフラージュするわけだが、それを逆手にとった床コンクリートの破壊シーン。延々と10分前後が費やされる、ただ穴を掘るシーンがどうしてこれほどまでに面白く、魅せられてしまうのだろうか。本作は信じがたいことにベッケルの遺作となってしまった。

「穴」(60年)監督ジャック・ベッケル

 音楽そのものが映画のテーマとなることがある。音楽家が主人公であったり、バンドを結成するという筋立てや芸道物というジャンルもそこに含まれるだろう。近年の作品でジャック・ブラックが怪演した「スクール・オブ・ロック」は音楽活動の資金稼ぎのために小学校の臨時教師になりすましたブラックが生徒たちにロック精神をたたき込み、バンドを結成する物語。当初はまったくやる気のなかったブラックが音楽の時間にアランフェス協奏曲を演奏する子どもたちを目撃し、バンド結成のきっかけとなるシーンから。

「スクール・オブ・ロック」(04年)監督リチャード・リンクレイター

 バンド結成ものをもう一本。今度は一昨年の日本映画で、女子高生たちが学園祭でロックバンドを結成し、ブルーハーツを歌う「リンダ リンダ リンダ」。この作品は「スクール・オブ・ロック」からの流れでいえば、対照的な作品でもある。まずここにはジャック・ブラックのような教師的な人物は登場しない。映画全体に事件的要素、ドラマチックな要素は排除され、また、歌そのものもロックの精神とはかけ離れたところで歌われているかのようだ。4人組の高校生の中にぺ・ドゥナ演じる韓国人留学生が混じっているのがこの映画の肝だが、彼女たちはひたすらうろうろし、彼女たちの存在だけがそこにある。これが非常にうまくいっている。学園祭前夜のシーン。妙に相米慎二の「台風クラブ」を連想してしまうのだが、ぺ・ドゥナが一人舞台にあがってメンバー紹介をするシーンを含む、約10分を観よう。

「リンダ リンダ リンダ」(05年)監督・山下淳弘

 加藤泰の「真田風雲録」は江戸初期の徳川と豊臣側の戦で、真田幸村と真田十勇士の活躍を描いた作品。中村錦之介演じる猿飛佐助は人の心が読め、透明人間になれる能力を持ち、霧隠才蔵は網タイツをはいた女性であるなど時代考証をまったく無視し、歌を多用するなど非常にユニークな作品となっていた。徳川の術中にはまる、大阪夏の陣。自分たちのため、最期はカッコよく死にたいと言いつつ、突撃する真田隊。千秋実演じる真田幸村像は何度観ても笑ってしまう。

「真田風雲録」(63年)監督・加藤泰

 「がんばれベアーズ」は元マイナーリーグ投手だった中年男が絶望的な程野球が下手なチビッコ野球チームを強力なチームに鍛えあげていくコメディ作品。マイケル・リッチーは映画史に残るような監督ではないだろうが、ここには良質のハリウッドの伝統が受け継がれている。勝負に執着し大人たちのほうこそチームプレイとは何かを忘れてしまう展開で、ある事件をきっかけにチームが回復し、ベンチ入り選手の投入で再び弱いベアーズが顔を出す。ところが子どもたちはしっかり成長していた過程が終盤の野球シーンに集約して示される。そして効果的に使用されるカルメンの音楽。この作品もいわば「ふつうの映画」として記憶されていい良質の映画だろう。

「がんばれベアーズ」(76年)監督マイケル・リッチー

 

第28回「スポーツ映画の祭典」2005/3/30開催

 「くたばれ! ヤンキース」は、「パジャマゲーム」でも知られるスタンリー・ドーネンとジョージ・アボットが、再び共同で製作・監督したミュージカル音楽映画だ。ヤンキース嫌いの初老の男性がテレビ観戦中試合の分の悪さに文句を言っていると、そこに悪魔が現れ、お前を若返らせ選手にしてやるからヤンキースの優勝を阻止せよ、と悪魔が現れる。男性は魂を売って選手として大活躍を始めるという、ファウストの翻案になっている。途中、悪魔の命令で選手を誘惑を誘惑するグウェン・バードンが登場。「映画千一夜」で淀川長治にニューヨーク芸者と呼ばれた人でもあるが、彼女の存在感が素晴らしい。バードンのダンスを踊るシーンを観よう。振り付けはボブ・フォッシーだった。

「くたばれ! ヤンキース」(1958)   監督スタンリー・ドーネン、ジョージ・アボット

 周防正行が「ファンシイダンス」の主要メンバーで学生相撲を題材に撮った「シコふんじゃった」、劇場で観た方はお分かりだろうが、あまりのおかしさに場内の盛り上がること盛り上がること。久しく劇場内で見たことのない光景だった。大学相撲部の存続をかけた弱小チームが寄せ集め編成の大活躍で次第に強くなっていく構成はスポ根もののパターンといえるだろうが、周防は絶妙の演出力でみせる。5人制で闘う学生相撲、1番2番で勝ち3番4番で負け、5人目の本木雅弘で勝負を決めるというパターンを作りながら、そこを崩してスリルさえ生む、3部リーグ決勝戦までのシーンを観たい。

「シコふんじゃった」(1991)  監督・周防正行

 昨年「スパイダーマン2」で充実した演出ぶりをみせたサム・ライミもケビン・コスナー主演で野球映画を撮っている。「ラブ・オブ・ザ・ゲーム」は1試合だけの話なのがまずユニークな構成。デトロイトタイガースが身売りすることになり、中心メンバーだったケビン・コスナーは来期放出の方針が決定している。私生活では子連れの恋人とうまくいかず、彼女は試合当日、イギリスに発つことを告げている。そうしたエピソードがニューヨークヤンキース戦の合間に挟み込まれ、一方でピッチングは絶好調で気がつくと完全試合がかかるところまで進んでいたというわけだ。冒頭、一回裏のピッチングのシーンを観たい。

「ラブ・オブ・ザ・ゲーム」(1999)  監督サム・ライミ

 ホームページの日記でも書いたことだが、キネ旬という映画雑誌の映画本ベスト10なる企画の対談で、西本正の「香港への道」について、某氏が「越境することは珍しくない」と簡単に指摘した上で本の話を進めていたが、「越境する」という言葉の使い方と「珍しくない」という言い方に大いに引っかかった。例えばハンガリー出身のルドルフ・マテ。彼はカール・テホ・ドライヤーのあの「裁かるるジャンヌ」を撮り、ハワード・ホークスの「大自然の凱歌」を撮り、ルビッチの「生きるべきか死ぬべきか」を撮り、ヒッチコックの「海外特派員」のあの傘の暗殺シーンなど錚々たる作品を撮ってきた人だ。しかし、さすがのマテも渡米後はハリウッド式の撮影方法に難儀し、サミュエル・ゴールドウィンに満足な映像を見せることができず、断念すべきかというところをグレッグ・トーランドに救われ、その後の活躍に至ったのだという。それでも、「越境する」ことは珍しくないと言えるのだろうか。

 そのマテが「海外特派員」の次に撮影を担当したのが「打撃王」だった。ニューヨークヤンキースが最も強かった時代の4番打者ルー・ゲーリッグを演じたゲーリー・クーパーが素晴らしい。子供にホームランを約束するエピソードを観たい。

「打撃王」(1942) 監督サム・ウッド

 「まらそん侍」は森一生監督の明朗時代劇とされる一本だ。主演はまだ白塗り時代の勝新太郎。「森一生映画旅」によると、勝新自身非常に乗った企画だったという。ある藩では毎年秋に「遠足の儀」と呼ばれるマラソン大会を開催しており、上位入賞者には殿様から褒美が与えられる。勝新はライバルの藩士と殿様の娘、千鶴を射止めようと争うことになる。一方、城内には巨大な金製のキセルが納められ、トニー谷他3人組の泥棒一味が盗みだし、遠足の儀の選手として紛れ込み、関所通過を目論むというエピソードも同時進行する。遠足の儀にはどう見ても踊っているようにしかみえない大泉滉が参加しているなど(これがほとんどトップ通過という早さ)、まさに明朗快活な一本だ。

「まらそん侍」(1956) 監督・森一生

 ロバート・アルドリッチの遺作「カリフォルニア・ドールズ」は女子プロレスのタッグチームの話だった。ピーター・フォーク演じるマネジャーと二人の選手がアメリカの陰惨としかいえない工場地帯をはじめ、わびしい風景の中をオンボロの車に乗って転戦する。車の中では不釣り合いにも感動的にオペラが鳴り響く。このタッグチームが泥レスまでやりながら苦労のあげく、タッグ決勝戦に到達するまでを描く。

 アルドリッチは1918年生まれで政財界の名門の家系に生まれたというが、反骨の人ゆえハリウッド入りし、チャップリンなどの助監督につく。1953年に監督デビューを果たすが映画の斜陽期であり、十分に活躍できたとはいえないだろう。しかし、強靱なアルドリッチは貧困化する60年代以降も充実した作品を発表し、我々を楽しませてくれたものだった。遺作「カリフォルニア・ドールズ」は81年の作品だが、ハリウッド映画そのものが変質してしまった時代に、試合会場の「MGM」のロゴマークに深いため息を漏らさざるを得ない。

「カリフォルニア・ドールズ」(1981) 監督ロバート・アルドリッチ

 

第27回「女と男の逃避行~ごく単純に、ときに痛みを伴い、あくまで映画的であること」2005/2/28開催

 女と男、拳銃と車―。映画はたったこれだけの単純な要素でとてつもなく面白い作品が出来上がる。恋愛、心中、犯罪もの…国籍や年代を問わず、様々なジャンルの中で繰り返されてきた要素であり、最近ではトニー・スコットの「マイ・ボディガード」もその要素が変奏された作品だといえるだろう。そのトニー・スコットの「トゥルー・ロマンス」はクリスチャン・スレイターとコールガールだったパトリシア・アークエットがあるきっかけで出会い、マフィアのヘロインを手にしてしまったことから、マフィアと警察の双方から追われるはめになる話。何故か兄のリドリーばかりが評価され、兄よりもはるかに「映画」をしっかりと撮っているトニーが評価されないのはどういうことか。クェンティン・タランティーノはそのあたり、観るべきところはしっかり観ているとみえ、この作品に脚本を提供している。千葉真一が大好きだというタランティーノ、ここでも「サニー千葉」の作品を映画中映画として登場させているが、しっかり10年後には自分の作品に本人を登場させてしまうのも面白い。では「トゥルー・ロマンス」の冒頭シーンからみよう。

「トゥルー・ロマンス」(1993) 監督トニー・スコット

 絢爛豪華な威容を誇ったハリウッド映画の崩壊は1940年代後半からみられ、40年代から60年代に向けてハリウッド映画の内容、作られ方というものは確実に変容していく。そうした流れの中で、才能ある監督たちは、ある者は赤狩りによってヨーロッパへ逃れ、ある者はテレビジョンの世界に活動の場を移し、ある者は映画を「撮らない」ことを選択する。また、この時期ハリウッドに留まった者も撮影所の縮小によって思ったように映画を撮れないことになってしまうわけだが、才能ある監督の一人、ニコラス・レイもまた時代の流れに抗うことはできず、無念ともいうべき痛みを伴って振り返らざるを得ない作家であろう。レイの処女作「夜の人々」は「俺たちに明日はない」で知られるボニーとクライドの物語をベースにした作品で、ファーリー・グレンジャーとキャシー・オドンネルが主演した。あらためて見直すと人物の配置なども見事で、たえず高低をつけた配置によって濃厚な目線のドラマが生まれている。二人がバスで移動する途中、簡易結婚式をあげるシーンを観たい。なお、この作品はジャン=リュック・ゴダールが「予算においてB、精神においてA」と賞賛した作品でもあった。

「夜の人々」(1949) 監督ニコラス・レイ

 ジャン=リュック・ゴダールの「気狂いピエロ」はライオネル・ホワイトの犯罪小説「強迫観念」(オブセッション)に基づいた作品で、ジャン・ポール・ベルモンドが昔の恋人アンナ・カリーナと出会い、殺人事件に巻き込まれながら逃避行することになる。ところがカリーナには密輸に関わる情夫がおり、ベルモンドを裏切る。逆上したベルモンドは二人を殺し、首にダイナマイトを巻き、無残に死んでいく。ゴダールの作品は様々な引用に満ち、ここでもアラゴン、ロルカ、プレベール、最後にはランボーの地獄の一季の一節が登場する。また、映画についてもミュージカルやギャング映画、コメディ、メロドラマなどハリウッド映画的なシーンが演出され、そうした様々な要素がラストの破滅に向けて刹那的な輝きをみせる。カリーナが唄うミュージカル的なシーンを観よう。

「気狂いピエロ」(1965) 監督ジャン=リュック・ゴダール

 ハリウッド映画の崩壊が始まった時期はフィルムノワールの全盛でもあり、低予算早撮りの作品が多く生まれた時期でもあった。この時代の隠れた中心人物としてジョセフ・H・リュイスという監督がおり、実際のギャングが映画を撮るために立ち上げたキングブラザースという会社が出資し、リュイスに「拳銃魔」という作品を撮らせる。リュイスはB班出身の監督で確かな腕前をもった職人だが、残念ながらこれ以降メガホンを撮ることはなかった。が、その精神は同じB班出身のドン・シーゲルに受け継がれ、さらにはクリント・イーストウッドに継承されることになるわけだ。蓮實重彦氏の「ハリウッド映画史講義」はそのあたりについて論考されているので、未読の方はぜひお読みいただきたい。蓮實氏はその精神について、「単純で簡潔であることの美徳」という言葉で説明されている。

 「拳銃魔」もボニーとクライドの実話がベースとなった作品で、先に紹介した「夜の人々」の他、フリッツ・ラングの「暗黒街の弾痕」、ロバート・アルトマンの「ボーイ&キーチ」、サム・ぺキンパーの「ゲッタウェイ」といった系譜がみられることになる。原題は「GUN CRAZY」。ジョン・ドールとペギー・カミンズが主演した。ドールは生まれつきの悪人ではないが、子供の頃から拳銃に魅せられ、その扱いが天才的にうまいという男で、拳銃をもつたびに凶暴になってしまうようなペギーにそそのかされ、アベック強盗を働くようになる。暴力に官能するペギーが実に素晴らしく描かれている。1カットで銀行強盗を働く有名なシーンがある。そこから数分を観てみよう。

「拳銃魔」(1950) 監督ジョセフ・H・リュイス

 クリント・イーストウッドの「ガントレット」はひたすら建物や車体に銃弾の穴があく映画だった。イーストウッド演じる冴えない刑事が、ラスベガスからアリゾナのフェニックスまで、ソンドラ・ロック演じる重要事件の参考人の護送を依頼される。ところが護送の度に命を狙われ、事件を依頼した上司の汚職もみ消し工作だったことが判明する。二人はバリケードを張り巡らせたバスに乗り込み、大規模の警官の待ち受ける中、突破をはかる。バスの銃撃シーンから。

「ガントレット」(1977) 監督クリント・イーストウッド 

 前回も紹介した成瀬巳喜男は今年で生誕100年を迎える監督だ。代表作の一本「浮雲」は林芙美子原作で、高峰秀子と森雅之が主演した。農林省の技師・森は戦時中、仏印でタイピストの高峰と出会う。森は結婚しており、妻とも高峰ともきれることができず、煮え切らぬ態度のまま伊香保温泉で死ぬことを考える。しかし、そこでまた岡田茉莉子演じる若い女性とできてしまう。森は女性によくもて、だらしがないという男を好演している。結局森は屋久島に赴任することになり、高峰もずるずるとついていき、体を壊して死んでしまうのだ。だめな男と女の負の道程を描く作品だった。成瀬の演出は脚本ができると、まずばっさばっさと余計なセリフ、シーンをカットしていくところから始まるという。できるだけ余計な会話は省き、絵でみせていこうということだ。それこそがまさに映画なのであり、サイレントから出発した監督の作品がなぜ優れているのかという理由を示すエピソードと言えよう。加えて、美術、撮影、照明技術の素晴らしさ。ラストで亡くなる高峰の顔にあてられる照明、女優の顔に照明をあてるということ。そのことひとつとっても深く感動する。

「浮雲」(1955) 監督・成瀬巳喜男

 「いこか・もどろか」は暴力団の裏資金に手をつけた明石家さんまと、ギャンブルで会社の金を使い込んだ大竹しのぶが協力して金庫破りを行い、悪徳刑事に横領され、それを取り返すまでの荒唐無稽な物語。ラスト、刑事のリンチに遭い、車椅子になってしまったさんまと大竹が警察に殴り込みをかける。最後はスラップスティック時代の喜劇を思わせるタッチになり、逃げる二人の物語がファンタジーにまで昇華した。

7「いこか・もどろか」(1988) 監督・生野滋朗

 

 

第26回「誰もやらない生誕100年祭~成瀬、中川、ヴィゴ、etc」2005/1/31開催

 今年は成瀬巳喜男の生誕100年として回顧展が数々開催されるようだ。この1905年という年の生まれは映画黄金期である30年代から50年代を20代から40代で迎え、映画が最も豊かな話法を獲得していった時代を支えた世代として、成瀬に限らず見過ごすわけにはいかない。と言うわけで今回は1905年生まれの監督を特集する。

 ジャン・ヴィゴは1905年4月26日、フランスに生まれた。この人は29歳のときに結核で夭折するが、それまでに撮影した「新学期操行ゼロ」は検閲によって上映禁止、初長編となった「アタラント号」は興行的に惨敗し、ずたずたに改変されるなど、いわゆる「呪われた」作家に位置づけられた。ヴィゴは戦後に入り、トリュフォーらヌーベルバーグによって発見され、「アタラント号」は1990年になってようやく復元版が公開された。アタラント号とはセーヌ川を通行する船の名称で、物語はこの船の船長が結婚し、船員たち―猫好きのミシェル・シモンが素晴らしい―共に新婚旅行に旅立つところから始まる。川を走行する船といえば、フォードの「周遊する蒸気船」、ホークスの「果てしなき青空」、コッポラの「地獄の黙示録」などがあるように優れて映画的題材でもある。キャメラは後に亡命ロシア人としてハリウッドで重要な役割を果たすことになるボリス・カウフマンであることも見逃せない。冒頭のシーンから観よう。

「アタラント号」(1934)監督ジャン・ヴィゴ

 マーチン・スコセッシがレオナルド・デカプリオ主演で制作した「アビエイター」はハワード・ヒューズの伝記映画だが、このヒューズもまた1905年12月24日の生まれである。出身はテキサス州ヒューストン。父親は油田採掘のドリルの発明で巨万の富を得、ハワードが18のときに急死したことで大富豪となる。飛行機会社の経営の他、映画製作者としても活躍し、ハワード・ホークスの「暗黒街の顔役」も手がけた。監督降板により、第一次世界大戦時の戦争映画「地獄の天使」を監督する。これは1930年の作品だが、この時代、サイレントからトーキーへの移行期で、映画のあり方が大きく変容、「地獄の天使」もそのあおりを受け、トーキーとして撮影し直す場面もあった。さらに女優の交代(その結果、ジーン・ハーローがデビューすることになる)、100機近い本物の戦闘機の購入等による制作費の高騰など、いわく付きの作品となるが映画は大ヒット。しかし、あまりにも制作費がかかりすぎたため、回収するまでには至らなかった。

 英国がドイツの戦闘機を無傷で入手し、主人公の兄弟がそれにのってドイツの火薬庫を破壊しに行く。このとき偶然上空を飛んでたいドイツの飛行編隊が飛んでおり、そこにさらに英国空軍が迎え撃つという空中戦のシーンを観たい。なお、この撮影で3人のパイロットが死亡、ヒューズ自身もスタントとして大怪我を負ったという。

「地獄の天使」(1930) 監督ハワード・ヒューズ

 豊田四郎は1905年12月25日生まれ。松竹に入社し、島津保次郎の助監督などを務めながら、23歳の若さで監督に昇進(彩られる唇)、サイレント映画から出発する。しかし、初期の作品は色気がないと城戸四郎撮影所長から批判を受け、再び島津監督のもとで助監督修業し、「女」を仕込まれたという。以後、文芸もので充実策を連発し、中でも森繁久彌とのコンビで撮った織田作之助原作の「夫婦善哉」はとくに知られるところだ。

 56年の作品「猫と庄造とふたりのをんな」は谷崎潤一郎の原作。森繁がリリーという名の猫を溺愛し、猫を中心に世界が回っているような庄造という男を好演。映画は森繁の母・浪花千栄子と森繁の妻である山田五十鈴が大喧嘩をし、山田が家を出るシーンから始まる。別居早々、母親は持参金目当てに香川京子との縁談を進める。甲斐性のない森繁を巡り、怒り治まらぬ山田と現代っ子の香川、さらに浪花が絡んで、凄まじい人間喜劇が繰り広げられることになる。冒頭のシーンをみたい。

「猫と庄造と二人のをんな」(1956) 監督・豊田四郎

 ヘンリー・コスターは1905年5月1日、ベルリンに生まれた。ナチの台頭でフリッツ・ラング同様ドイツを脱出し、フランスを経て、36年に渡米、ディアナ・ダービンの「オーケストラの少女」でいきなり大ヒットを飛ばした。30年代から60年代後半(遺作は66年「歌え!ドミニク」だと思う)のハリウッド映画を支えた一人で、目立つ作品は少ないが、ハリウッド全盛時代に良質な作品を撮り続けた職人であり、経歴が示すようにコスターもまた「越境」する映画人だったのだ。

 47年の「気まぐれ天使」は、教会の資金集めに奔走する司教デビッド・ニーブンの願いに応え、ケーリー・グラント演じる天使が助けに現れる。が、あろうことかこの天使がニーブンの妻ロレッタ・ヤングに恋をしてしまう。このあたりからケーリー・グラントのキャスティングが十二分に活かされることになる。

「気まぐれ天使」(1947) 監督ヘンリー・コスター

 「無法松の一生」は北九州を舞台に、博打好きで喧嘩っぱやい車引き・松五郎がふとしたきっかけで陸軍大尉の未亡人と息子の世話を人が変わったように焼き、亡くなっていくまでを描く物語。稲垣浩が43年(阪妻)と58年(三船敏郎)に映画化している。

 稲垣浩は1905年12月30日生まれ。サイレント時代から監督を務め、30年代は「梶原金八」の一員として山中貞雄、三村伸太郎らと共作し、腕を磨いた。三船=無法松が祇園太鼓を叩くシーンをみよう。

「無法松の一生」(1958) 監督・稲垣浩

 成瀬巳喜男は1905年8月20日生まれ。1905年はへび年で、巳喜男の巳はへび年から名付けられた。最早世界の巨匠と位置づけられる成瀬巳喜男、ここでは芸道ものの一本「鶴八鶴次郎」を紹介したい。これは数ある山田五十鈴・長谷川一夫コンビの中でも筆頭にあがる一本。新内語りの若手コンビとして売り出し中の二人は、うなぎのぼりの人気ながら芸をめぐりトラブルも絶えない。喧嘩別れした後は、長谷川一夫がドサ回りに転じ、再び物語は巡る。芸ごとをしっかりと身につけた二人の芝居、成瀬演出の妙、さらに隅々まで配慮が行き届いた舞台空間の素晴らしさ! 寄席、楽屋、旅館、路地…画面に映るすべての空間が息を飲むほどにすごい。映画全盛とはスタッフ技術の結集。映画のプロが創り出す「映画」。「鶴八鶴次郎」はその最高水準を達成した映画の中の映画だ。

 冒頭から寄席での新内、そして最初に喧嘩別れするまでのシーンを観たい。

「鶴八鶴次郎」(1938) 監督・成瀬巳喜男

 中川信夫といえば、「東海道四谷怪談」「地獄」などとかく怪談映画の監督として語られがちだ。しかし34年にデビューし、82年、遺作となった「生きていゐ小平次」までのキャリアに怪談ものはほんの一部を占めるだけで、中川の真の評価を語る言葉とはなり得ない。この人にふさわしい評価はまだまだ成されていないとみるのがファンとしての心得ではないだろうか。中川信夫は1905年4月18日生まれ。29年、マキノに入社、マキノ正博に師事し、34年、29歳のときにデビューしている(弓矢八幡剣)。マキノ正博は1908年生まれだから中川は年上にあたるわけだが、これはマキノの早熟さを示すエピソードととるべきだろう。それにしても、このつながりだけでも監督としての中川信夫にわくわくするものを感じないだろうか。

 今回は中川信夫は怪談ばかりではないということで、現代劇、「粘土のお面より かあちゃん」を紹介して終わりたい。豊田正子原作で、伊藤雄之助、望月優子主演。最近とんと見かけなくなったけれど、以前の日本には貧乏を題材にした作品が多かった。主人公はブリキ職人で子供が二人。貧乏長屋に住み、家賃は滞納、電気も止められ、親方は給料を持ち逃げする始末。明日食う金にも困り、やがてその長屋から夜逃げするまでを描く。どん底の貧乏とはいえ、中川演出はあの醜悪な今井正映画のように決して暗くならず、貧しいながらも明るく生きる人々を感動的に描いた。

「粘土のお面より かあちゃん」(1961)  監督・中川信夫

 

 

第25回「 歌手が彩る鮮烈の映画史~『鴛鴦歌合戦』を観ぬは一生の損!」2004/12/27開催

 映画と音楽はリズム、ハーモニーが重視されるという点でも非常に似たジャンルであり、歌手や演奏家が映画に出演し成功した例は相当数に上るだろう。例えば大島渚は「1に素人、2に歌うたい、34がなくて5に役者」などという言い方をしながら、実際俳優以外の音楽家や漫才師を起用し、その存在感の面白さを引き出していた。今回は歌手や演奏家の活躍した作品を日本映画中心に辿っていきたい。

 歌手・三上寛は70年代の東映実録路線に相当数出演した。その風体からだろうか、ほとんどが情けない下っ端チンピラ役が多く、たいがい途中で殺される役が多かったように記憶している。その中でとくに印象的だったのは、75年の深作欣二監督作「新仁義なき戦い・組長の首」。刑務所で知り合った菅原文太を慕う小林稔侍のさらに弟分という役で、やくざに憧れギターを担ぎ東北から出てきた田舎者で「小林旭」と名乗るのだ。ここでも途中で殺されるのだが、彼の死がその後の文太らの行動に火をつけるという点で重要な役だった。

 ところで、三上寛は77年に中島貞夫監督と共に「ピラニア軍団」というアルバムをプロデュース及びほぼ全曲作詞作曲という形で関わり、ピラニア軍団の連中に歌わせた。ミュージシャンも坂本龍一、村上秀一、後藤次利、村松邦男など錚々たるメンバーが集結した質の高いアルバムだが、これは東映に出演し、俳優たちと共に一時期を過ごした三上寛だからこそ作ることが出来た作品だろう。やさぐれた中でふと花開くような瞬間は三上寛ならではの世界だ。「新仁義なき戦い・組長の首」に三上が「ギターをもった渡り鳥」を歌うシーンがある。

「新仁義なき戦い・組長の首」(75年)監督・深作欣二

 この三上寛が日活ロマンポルノに主演した作品がある。武田一成監督の「おんなの細道・濡れた海峡」だ。原作は田中小実昌。三上寛はヤクザの妻である山口美也子と出来てしまい、亭主(といってもうらぶれたストリップ小屋の主人だが)を訪ね、奥さんをくださいと言う。あくまでダメ男の三上はいかにも気が弱そうな物言いで、当然ヤクザたちに殺されそうになり、一人で逃げ帰るのが冒頭シーン。ポケットに山口の抜けた虫歯を大切にしまい込んだまま、三上の一人旅が始まり、行きづりの女たちと寂しげな関係を繰り返しながら、再び山口の元に舞い戻る決心をする。武田監督の演出も絶妙で、全編にほろほろと生きる悲しみのような情感が漂う作品だった。三上が途中、漁師の石橋蓮司の愛人と出来てしまい、帰らぬはずの石橋が突然戻ってきて、三上寛と絡むシーンがある。

「おんなの細道・濡れた海峡」(80年)監督・武田一成

 内田裕也はロッカーでありながら、独特のキャラクターで「十階のモスキート」「コミック雑誌なんかいらない」「魚からダイオキシン」「座頭市」のほか、若松孝二監督と組み、「餌食」「水のないプール」「エロティックな関係」など多くの映画に出演している。最も素晴らしい存在感を示したのは神代辰巳監督の「嗚々!おんなたち猥歌」ではないだろうか。二十年も売れないロック歌手という役どころがまずいい。ソープランド嬢と妻の入院先の看護師との奇妙な三角関係が、あくまで内田裕也の駄目男ぶりを通して描かれる。内田が売り込みのために人気のないレコード店で歌い、続いて酔客で賑わうキャバレーで歌うシーンがあるので観てみよう。

「嗚々!おんなたち猥歌」(81年)監督・神代辰巳

 萩原健一と神代辰巳のコンビ作の一本である「青春の蹉跌」を紹介したい。「四条半襖の裏張り」のどたどたと走る主人公、「宵待草」のでんぐり返し、「黒薔薇昇天」の岸田森の唐突なびっこなど、山根貞男が「軟骨的文体」と名付けたように、神代映画の登場人物たちはひたすらぐにゃぐにゃ、だらだらと動き回る。「青春の蹉跌」の萩原健一はアメフト選手なのでところかまわず肩をぶつけている。神代監督は音楽の使い方も独特で、絶妙のセンスで唱歌や流行歌、フォーク、ロックなどを掘り起こしてきたり、また、「青春の蹉跌」では萩原健一に画面外の音として、つぶやくように歌わせたり唸らせたりしていた。ニューヨークで神代特集を行った際には全作満席だったという。また、フランソワ・トリュフォーは「四条半襖の裏張り」を観て感嘆し、他の作品も観たいと山田宏一に述べたそうだ。神代辰巳もまた世界を容易に越境する映画共和国の住人なのだ。

 「青春の蹉跌」の萩原健一は司法試験に合格した大学生で、企業の社長令嬢との結婚を控え、順風満帆の将来を約束されている青年だが、家庭教師をしていた女子学生、桃井かおりともできており、彼女が妊娠してしまうことで存在が邪魔になってしまう。もう子どもをおろせない時期に来たことを告げられた帰り道、萩原が一瞬殺意に満ちた表情で桃井の首を絞めようとする数秒のストップモーションが恐い。そして萩原は桃井かおりを殺そうと山に連れ出すのが、なかなか果たせない。二人はおぶったりおぶわれたり、雪の斜面を滑り落ちたりしながら、やるせないときを過ごす。何かに間に合わない、切ない、そんな男と女たちの痛みを描き出す神代辰巳の感覚には感嘆するしかない。「青春の蹉跌」の雪の斜面のシーンを観たい。

「青春の蹉跌」(74年)監督・神代辰巳

  本木雅弘を俳優にしたのは周防正行監督だと思う。二人のコンビ作は「ファンシイダンス」「シコふんじゃった」の2本(「シャル・ウィ・ダンス」は助演)。本木の喜劇的センスを十二分に引き出した周防は喜劇の撮れる聡明な映画監督であり、もっとこのコンビ作品を観たかったというのが正直なところだ。「ファンシイダンス」はお坊さんの修業に入る現代っ子たちを描く喜劇。音楽は鐘=打楽器系の楽器として寺でサンプリングしたユニークなものになっている。周防監督自身、「お坊さんの所作がリズム的で、ミュージカルにしようという気はなくとも、アクションがリズムをもっているために音楽的、ミュージカル的になっている」とインタビューで語っているように、寺が見事に映画的素材として活かされた1シーンを観たい。

「ファンシイダンス」(89年)監督・周防正行

 アンソニー・マン監督の日本未公開作「愛のセレナーデ」はマリオ・ランツァというテノール歌手が主演し(30代で亡くなってしまった方だが)、果実畑の青年がオペラ歌手として成功するまでを描いた作品だ。彼のデビューのきっかけを作るのがジョーン・フォーンティーンなのだが、男が一人前になるとさっさと捨てて次を漁りにいってしまうという性悪女ぶりに、マリオ・ランツァは打ちのめされ、重要なニューヨーク公演の舞台初日に姿を消し、異国に逃れてしまう。ある闘牛士の娘が彼を救い、マリオは歌声を取り戻すまでに復活する。アンソニー・マンの色使いが素晴らしい、闘牛士の父親を偲ぶ行事のシーンから、教会でマリオが「アベ・マリア」で歌声を取り戻すところまでを観たい。

「愛のセレナーデ」(56年)監督・アンソニー・マン

 マキノ正博監督の「鴛鴦歌合戦」は日本におけるオペレッタ映画の最高峰だ。この作品、マキノ監督が別の作品を撮影していた際、主演の片岡千恵蔵が盲腸で入院するハメになり、急遽穴埋め的に作った作品で、役者、撮影現場もそのままに、脚本から完成までわずか二週間で撮ったという信じがたい作品だ(片岡知恵蔵は最後の二日間だけで撮影したという)。1939年という撮影当時は映画全盛時代で、マキノ監督の才能はもちろんのこと、映画界そのものが冴えていた時代であり、容易に傑作が生まれる土壌があったのだと思う。骨董品に目がない究極のバカ殿をディック・ミネが演じる、この世紀の傑作「鴛鴦歌合戦」、すべてお観せしたいところだが、冒頭の十分程度に留めよう。

7「鴛鴦歌合戦」(39年)監督・マキノ正博

 

 

第24回「ロードムービー、異邦人、地方ロケ~ローカル映画に魅せられて」 2004/2/27開催

 今回はいわゆるロードムービー、田舎から都会あるいは都会から田舎に出てくることで生じるカルチャーギャップ、地方ロケ、そんなことをローカル映画と総称しながら30年代から90年代までの作品を紹介したい。まずは昨年生誕100年を迎えた清水宏監督の1936年の作品「有りがたうさん」を紹介したい。これは川端康成原作の南伊豆の定期バスの運転手の話で、上原謙演じる運転手はすれ違う人々すべてに「有りがとう」と声をかけるので「有りがとうさん」と呼ばれ、親切で男っぷりがいいものだから、とくに地元の女性の人気者なのだ。バスには流れ者の娼婦、口の悪い紳士、東京へ売られていく娘など様々な人々が乗り込み、物語が淡々と進行してゆくロードムービーとなっている。

 この作品が製作された1936年という時代を考えると、もちろん映画の全盛時代であり当然スタジオ撮影が主流であって、バスの移動などはスクリーンプロセスによって撮影されるのが通常である。しかし、この作品は全編伊豆でロケーション撮影され、当時としてはかなり画期的なことだった。30年代の松竹映画というと、小津安二郎を筆頭に成瀬巳喜男は途中で移籍してしまうが、島津保次郎、五所平之助、吉村公三郎など錚々たる映画監督がおり、その中にあって清水宏は最も独創性に富んだ映画作家だといえるだろう。この作品もそうだが清水作品はロケ重視、素人を多用、そして即興性の高い映画作りを特徴としていた。太田和彦氏の著書の孫引きになってしまうが、溝口健二は清水について「清水君は天才です。僕や小津君は努力家にすぎない」と語り、小津は「自分は俳優のすべてを演出するが、清水君は何も指示しないのにちゃんと清水流になっている。やっぱり天才だ」と語っていたという。では、バスの中で歌声もきけるシーン、運転手の後ろに座っている娼婦役の桑野通子の素晴らしさも堪能していただきたい。

「有りがたうさん」(36年)監督・清水宏

 次は「牧童と貴婦人」という1938年のアメリカ映画を紹介したい。主演はゲーリー・クーパーとマール・オベロン。オベロン演じる「貴婦人」は父親が大統領選の指名を控えているような人物で、生活は父の犠牲にされ、普通の女性のように恋をしたいと願っている。そんなおりパームビーチの別荘に行った際、二人のメイドと共に「ブラインドデート」に出かけ、クーパー演じるカウボーイにめぐりあう。クーパーのほうは、早く嫁をみつけ田舎で親孝行しながら牧童暮らしをしたいと考えている純朴な男性。この「牧童」と「貴婦人」のミスマッチがこの作品のユーモアとなっているのだが、二人はやがて恋におちる。ここでご紹介したいのは、クーパーが実家に戻っているオベロンを待ちながら建築途中の家で結婚生活を夢見ながら一人芝居を演じる爆笑シーン。クーパーは周囲の人間に奇異な目で見られていることに気づかぬまま、新婚生活ごっこをやってしまうのである。ふと、他人の視線に気づいたクーパーはその後、どうするか。後は観てのお楽しみ。

「牧童と貴婦人」(38年)監督ヘンリー・C・ポッター 

 次はフィンランド出身のアキ・カウリスマキの作品から「レニングラードカウボーイズ・ゴー・アメリカ」を紹介したい。カウリスマキは80年代から90年代にかけて「真夜中の虹」「コントラクトキラー」「マッチ工場の少女」など立て続けに映画が公開され、突如登場した新人監督の異能ぶりに目をみはらされたものだった。彼は小津安二郎のフリークとしても知られ、近年、監督数人の共作で小津を語った一人でもある。この人の映画は素っ気ない程淡々とした進行が大きな特徴。登場人物に美男美女は登場せず、みんな疲れた顔をした人ばかりで、子どもを含めて絶対に笑うことはない。それでいて、おかしさがこみ上げてくるような不思議な味わいがあるのだ。台詞は極力排除され、台詞に依存せずに描写で人間を描くのも彼の持ち味といえるだろう。

 「レニングラードカウボーイズ・ゴー・アメリカ」は、そんな彼がフィンランドに実在するバンドを起用して作った作品。とんがり頭にとんがりブーツをトレードマークとするバンドが、マッティ・ペロンパー演じるマネジャーにそそのかされ、ツンドラ地帯からアメリカに渡って演奏活動を行うというロードムービーで、アメリカ人にことごとくうけないのがおかしい。しかし、彼らはニューヨークからメンフィス、ニューオーリンズとアメリカ音楽のルーツを辿りながらロックやソウルを覚えレパートリーを増やしていく。ルーツを辿る映画といえば「イージーライダー」がそうなのだが、この作品には「ワイルドで行こう」が歌われるシーンもある。もちろん彼らは「イージーライダー」のように途中で拒否されることはなく、無事にメキシコに到着する。さて、その結末は? これもまた奇妙な、というよりもおかしなラストシーンで、ご覧になっていない方は必見。

「レニングラードカウボーイズ・ゴー・アメリカ」(89年)監督アキ・カウリスマキ

 「レニングラードカウボーイズ・ゴー・アメリカ」でマネジャー役を演じていたマッティ・ペロンパーはカウリスマキ作品の常連で実はロッカーでもあるという。残念ながら95年に亡くなったのが惜しい。何と言ってもカウリスマキ映画にはなくてはならない程、顔が素晴らしいのである。

 さて、レニングラードカウボーイズが登場したところで、もう一本、彼らのライブから紹介したい。93年に彼らがヘルシンキで、アレクサンドロフ・レッドアーミー・アンサンブル(旧ソ連の赤軍退役軍人楽団)と共演、7万人が熱狂したというコンサートがあったのだが、これをカウリスマキが「トータル・バラライカ・ショー」という作品として製作している。フィンランドでは国民的人気バンドだというレニングラードカウボーイズ、「ゴー・アメリカ」ではロシア民謡、ポルカ、ロックンロール、ソウルなど様々な演奏を聴かせてくれたが、彼らは「世界中のあらゆる音楽を演奏すること」をモットーとしているという。「悲しき天使」を歌っているシーンを観よう。演奏はかなりうまいことがわかる。

「トータル・バラライカ・ショー」(93年)監督アキ・カウリスマキ 

 田坂具隆は26年にデビューし、戦前は「五人の斥候兵」「土と兵隊」などで知られ、太平洋戦争末期に召集を受け、その後故郷の広島で原爆に被災、4年間闘病生活をおくった後、また監督として復帰した映画監督だ。僕はこの監督の作品をあまり観ていなかったのだが、昨年「女中ッ子」という作品を観て大感動した。左幸子が秋田から女中として上京。佐野周二と轟幸子が夫妻を演じる家に住み込むことになる。男の子が二人いて、やんちゃな弟は何かと勉強が出来る兄と比較されながら、両親に理解されず、とくに母親に愛されていないことがわかる。弟のことを理解するのはこの女中のハツだけで、二人の交流が丹念に描かれていく。女中が実家に戻っている冬のある日、弟の飼っていた犬が母親のゾウリを壊したといって捨てられてしまう。必死でチビを探し回る弟の姿が痛ましい。慟哭といってもいいような、子供が泣き崩れるシーンは胸に迫った。子供のこんな絶望を観たことがあるだろうかと涙がとまらなかった。そして弟は、いつかハツと話したように長靴を履き、たった一人で雪の秋田に向かう。ハツの名をリズミカルに呼びながら、深い雪を一歩一歩踏み出してゆく。すれ違いになったハツは列車を飛び降り、すでに吹雪に変わった山道を必死で探すのだ。そして再会。もちろん、映画はこれで終わるわけではなく、二転三転しながら厳しい結末を迎えることになる。

 左幸子という女優は、今村昌平の「にっぽん昆虫記」などの印象が強く、正直言っていいイメージをもっていなかった。しかし、この作品での左は素晴らしいの一言に尽きる! 監督によってかくも女優はかわるものか。田坂具隆、まだまだ評価が十分ではない。そんな思いも込めて、弟が秋田に向かうところを観たい。

「女中ッ子」(55年)監督・田坂具隆

 成瀬巳喜男に「石中先生行状記」という作品がある。東北は弘前を舞台に3話のオムニバス形式で製作された。小説家の石中先生だけが全編に登場し、土地の人々の様々なエピソードを見聞きするという設定だ。抜群に面白いのは3本目。若山セツ子演じる19の娘が冒頭で「あなたは今日か明日中に一生の連れ合いと出会うことになる。その人は髭の濃い男性だ」と手相見をされる。それからは町を歩くとそわそわしてしまう若山がおかしい。彼女は「青い山脈」を観に行った後、干草を積んだ馬車に乗せてもらって帰ることにする。しかし、彼女は荷馬車を間違えてしまい、それが髭の濃い三船敏郎の馬車だったのだ。すでに日は暮れ、三船の家族の住む家に一泊することになる。三船は非常に無口でしゃべるとどもってしまう程女性が苦手だが、明るくくったくのない彼女がどうも気になるらしく、風呂で綺麗に髭をそったりしている(髪がぺったりと整えられているのも笑わせる)。どうにも言葉では自分の思いが表現できない三船敏郎が素晴らしく、終盤で話すかわりになんと「青い山脈」を歌い出すというシーンが爆笑もの。二人でお祭りを見に行き(正確には弟もくっついていくのだが)、だんだんこの二人がいい雰囲気になってくるあたりからご紹介したい。

「石中先生行状記」(50年)監督・成瀬巳喜男

 

第23回「HANG'EM HIGH! 印象に残る「対決」シーンベスト6」 2004/1/30開催

 今日は殺陣、撃ち合い、カンフー、拳と拳などの対決シーンを集めてみた。まずは日本映画の殺陣、ということで二人のクレージーな兄弟の映画を続けて紹介したい。その兄弟とはずばり若山富三郎と勝新太郎。まずは弟、勝新太郎さんの座頭市から紹介したい。

 永田哲郎氏が「殺陣 チャンバラ映画史」(社会思想社)という本を執筆されており、殺陣をテーマに、歌舞伎をルーツに映画の歴史と共に殺陣がどのような変遷を辿ってきたか、代表的な俳優、映画的傾向、テレビの時代まで踏まえて執筆されている。冒頭で戦前、戦後の剣戟スターベスト10を挙げ、戦後のトップ10は・若山富三郎・勝新太郎・三船敏郎・萬屋錦之介・丹波哲郎・天津敏・仲代達矢・市川雷蔵・天知茂・夏八木勲。戦前は・大河内伝次郎・嵐寛寿郎・阪東妻三郎・近衛十四郎・月形龍之介・羅門光三郎・市川百々之助・山本礼三郎・市川右太衛門・黒川弥太郎、としている。永田氏によれば、戦後は若山、勝の兄弟が1位2位を占めるというわけだ。では、まず勝新太郎の歌が聴けるシリーズ第17作「座頭市血煙り街道」のアヴァンタイトルから紹介しよう。

「座頭市血煙り街道」67年 監督・三隅研次

 座頭市の殺陣は逆手切りと盲人の居合いをミックスした独特のもので、殺陣師の宮内昌平氏は「テストではとことんまでだんどりをマスターせず、本番では相手がどう出て、こっちがどう受けるかわからないので、勝の殺陣には真剣勝負のような迫力があった」と語っている(チャンバラ映画史)。勝はひらめきの人だから、次々と殺陣の面白さを追求していったことも座頭市の大きな魅力なのだ。ではさらに斬り合いのシーンを観ていこう。今ご紹介した「血煙り街道」の冒頭にも登場した近衛十四郎、永田氏の著書では戦前剣戟スターのベスト4位にランクされていたが、この人は殺陣師からも最高の評価を受けていた役者で、抜き打ちタイムも最速、アラカン、若山、勝新が紙一重の差で競うだろうと言われていた。では戦前と戦後を代表する剣戟スターのぶつかり合いがみられる「血煙り街道」から観たいと思う。なお、前回も「座頭市血笑旅」で監督三隅研次の構図の素晴らしさを指摘したが、三隅監督の絵作りのうまさの背後には大映撮影所のスタッフの技術的な素晴らしさがあったということにも注目していただきたいと思う。

「座頭市血煙り街道」67年 監督・三隅研次

 永田氏が戦後剣戟スターのナンバーワンに上げた若山富三郎、その殺陣の魅力が十二分に発揮されたのが72年からスタートした「子連れ狼」シリーズだろう。全部で六作が製作され、三隅研次が1、2、3、5作目の四本を撮っている。主人公拝一刀は公儀介錯人の地位にあったが柳生一族の陰謀によってその地位を追われ、妻を殺害され、一子、大五郎を乳母車に乗せて、すご腕の刺客としてさすらいの旅に出る。このシリーズの魅力は乳母車の仕掛けやユニークな武器の登場など荒唐無稽ともいえる殺陣の面白さと、若山自身の寡黙ながら異様な殺気を漂わせるその演技だ。また、永田氏によると若山富三郎は太り気味の体格ながら、運動神経がよくスピードはずばぬけていて、次に紹介する「子連れ狼 三途の川の乳母車」ではとんぼをきるシーンまである。では拝一刀が次々と女性軍団に襲われるシーンを観よう。

「子連れ狼 三途の川の乳母車」72年 監督・三隅研次

 綺麗所ということで「緋牡丹博徒」シリーズから藤純子の対決シーンを観たい。これは68年から72年まで全部で8本作られ、緋牡丹の入れ墨を背負った女やくざお竜が義理人情のしがらみの中で、不正には身をもって立ち向かっていくという任侠シリーズだ。藤純子の立ち回りは線が実に綺麗で、きりりとした中にも女らしさを秘め、非常に魅力的だ。加藤泰監督のシリーズ第6作「緋牡丹博徒 お竜参上」から、菅原文太と共に敵地に乗り込んでいくシーン、藤純子の歌もきけるシーンを観よう。

「緋牡丹博徒 お竜参上」70年 監督・加藤泰

  本日のタイトルとしている「HANG'EM HIGH」とはクリント・イーストウッド主演、ハリウッド復帰第一作となった「奴らを高く吊せ」の原題から頂いた。本来なら本作から対決シーンを紹介したいところだが、決定的シーンがないので、イーストウッド主演作の華やかな第一歩ということで「荒野の用心棒」の1シーンを観たいと思う。主演イーストウッド、監督セルジオ・レオーネ、音楽エンニオ・モリコーネという黄金トリオが誕生した作品である。この「荒野の用心棒」は世界的なマカロニウエスタンブームの引き金となった一本であり日本でも大流行したわけだが、60年代のテレビジョンの台頭という時代を考えれば(もちろんそれは映画入場観客数の激減という大きな要因にも結びつくわけだが)、テレビ放映による洋画放映というものも僕の世代にしてみれば、マカロニ人気に大きく貢献していると思うのだ(深夜枠で劇場未公開のマカロニ放映もあった)。このとき、日本の吹き替え技術の高さを抜きには考えられないわけで、とくに60年代から活躍した日本の吹き替え人は僕は日本の宝のひとつだと思っている。アラン・ドロンは野沢那智、ブロンソンは大塚周夫、マックィーンは宮部昭夫、コバーンは小林清志、ヒッチコックは熊倉一男などと定番があって、イーストウッドの声は「ローハイド」の時代から山田康男さんが「アテて」いたわけだが、山田康男はルパン3世ではなく、イーストウッドとジャン・ポール・ベルモンドなのである。とくにマカロニ・ウエスタンについては、日本の吹き替え版のほうが、すんなりと観られるという話を同世代の人間たちとよくしたものだった(ただし、いわゆる声優ブームが起きて以後の声優のあり方には批判的立場をとる。長くなるのでこれは別の機会に述べたい)。というわけで「荒野の用心棒」は吹き替え版から対決シーンを観たい。

「荒野の用心棒」64年 監督セルジオ・レオーネ

  カンフーものでも一本紹介したい。これはみなさんもよくご存じのジャッキー・チェン。酔えば酔うほど強くなるという酔八拳を使った78年の「酔拳」は、日本で紹介されたジャッキー・チェンの一本目になったわけだが、それをさらにパワーアップしたリメイク「酔拳2」のクライマックスから観よう。

「酔拳2」 94年 監督ジャッキー・チェン

 ジョン・フォードの「静かなる男」はアイルランドのイニスフリーという村にアメリカでボクサーをしていたジョン・ウェイン(役名はショーン・ソーントン)が戻ってくるところから始まる。彼はモーリン・オハラ演じるメアリー・ケイト・ダナハーという女性に一目惚れする。しかし、その兄(愛すべき俳優、ヴィクター・マクラグレンが演じている)は結婚に反対し、持参金を渡さない。それでも二人は結婚式をあげるのだが、結局は衝突し、オハラが家出してしまう。そして、ウェインは兄に直談判しにオハラを引きずっていき、あの伝説的な大男同士の大決闘が始まる。一方、村の連中は喧嘩が大好きで、この二人がいつ衝突するかと心待ちにしており、ウェインが兄のところに向かう道中も大騒ぎで着いてくるのだ。

 実はこのとき奇妙なシーンがあり、ウエインが家出に気づくところで、何かと世話を焼く老人バリー・フィッツジェラルドが登場するのだが、ウェインがとうとう癇癪を起こした瞬間にある曲をくちづさむのだ。ところがこの曲というのは映画音楽として外部につけられたもので(作曲はマックス・スタイナー)、映画の中の登場人物は知るよしもない曲なのである(ただし、その後にバーのアコーディオン弾きが演奏するシーンはある)。この曲はさあ何かが始まるぞという曲調で、フィッツジェラルドは「喧嘩がはじまるぞー」といった台詞をしゃべる代わりに、この曲をくちづさむ感じに見える。しかもそのとき、フィッツジェラルドが一瞬キャメラ目線になるように僕には見えた。これはどう考えてもジョン・フォードの演出だと思うのだが、フォードは外部音楽を口ずさみ、キャメラ目線になるという映画の文法を無視した演出を素知らぬ顔で行っているのだ。

 「静かなる男」はフォードにとっても念願の作品で、完成後は「もうこれで引退してもいい」とまで言ったことがあったという。ところがリパブリック社のプロデューサーは題材が地味であまり乗り気ではなかったということで、その前にお金を稼げる作品として「リオ・グランデの砦」が生まれることになった。このときに主演の3人、ウェイン、オハラ、ヴィクター・マクラグレンというトリオができあがった。それにしてもフォード、次回作に「太陽は光り輝く」を撮影するのであるし、つくづく引退せず良かったと思う。では、「静かなる男」を最後に。

「静かなる男」52年 監督ジョン・フォード

 

 

 

第22回「子供と映画~古今東西映画の天使たち」2003/11/27開催

 今回は子供を使った映画の特集だ。子供たちはサイレント時代から現代まで様々な映画の中で登場しているが、1930年代から最近のものまで東西を問わず集めてみた。まず最初は29歳で戦死した山中貞雄監督の―現存する作品は3本しかない監督だが―「丹下左膳余話 百万両の壺」。この作品で山中はハリウッドの人情喜劇を念頭に、時代劇ホームドラマとしての爆笑喜劇に見事にアレンジした。丹下左膳と居候先のお藤はひょんなことで、孤児となったやす坊という子供を育てることになるのだが、子供同士がめんこ代わりに使った小判が盗まれたことで、大人同士のもめごとに発展するシーンがある。丹下とお藤は言い合いになり、責任を感じたやす坊が家出をする。この後、借金を抱えた丹下が道場破りをする、という爆笑シーンにつながっていくのだが、この家出シーンを観たい。音楽の西悟郎は「とおりゃんせ」の童謡をうまくアレンジしている。

「丹下左膳余話 百万両の壺」(1935)監督・山中貞雄

 今年は小津安二郎生誕100年ということで、まもなくその命日である12月12日がやってくるが、小津も戦前から子供を使った映画を何本も作っている。サイレント時代ではとくに「生まれてはみたけれど」が印象に残る。東京の新興住宅に引っ越したサラリーマン一家の物語で、ガキ大将になる兄弟と近所の子供たちのやり取りが爆笑ものだったが、父親をなじり大人を告発するかのようなところもある作品だった。戦後、1959年に発表した「お早よう」はそのモチーフをリフレインした傑作で、ここでも男の子の兄弟が登場する。テレビを買ってくれないことで両親である笠智衆と三宅邦子と喧嘩し、口を利くのをやめることになる。音楽的なシーンではないがそこをみたい。ところで、この映画ほど、おならが登場する映画もないだろう。素晴らしい監督はユーモアのセンスが抜群であるということも感じながら観たいと思う。

「お早よう」(1959)監督・小津安二郎

 年代的なこともあるだろうが、僕などは子供の映画というと、真っ先にマーク・レスター、トレーシー・ハイド、ジャック・ワイルド主演の「小さな恋のメロディ」を思い出してしまう。せっかくの機会なので、ビージーズの「メロディフェア」が大ヒットしたこの1970年の作品も紹介したい。イギリスのパブリックスクールに通う少年と少女が恋をし、ついには結婚すると宣言して、子供たちだけで結婚式をあげ、トロッコに乗ってどこまでもいってしまうラストシーン。快作だった。メロディーフェアの聴けるシーンを。

「小さな恋のメロディ」(1970)監督ワリス・フセイン

 今年は1903年生まれの清水宏も生誕100年にあたる。清水も「みかえりの塔」や戦災孤児を集めて撮った「蜂の巣の子供たち」など、子供を使った映画が多く、「子供」が清水作品の重要な要素のひとつになっている。ここでは、坪田譲治原作の「風の中の子供」という作品を紹介したい。ここでも兄と弟という二人の兄弟が登場するが、父親が私文書偽造と会社の金の使い込みの疑いで、警察に捕まってしまい、弟のほうは親戚に預けられ、兄弟がばらばらになってしまう。腕白の弟は高い木に登ったり、河童に会いに行くといっていなくなったり、たらいにのって川を流されたり、預かった先の家で非常に迷惑がられる。ではその弟がたらいで流れていくところから、兄が一人でかくれんぼをするシーンまでを観たい。馬に乗って弟を助けるのは坂本武だ。

「風の中の子供」(1937)監督・清水宏

 最近、北野武監督で「座頭市」が作られたが、本家、勝新太郎の座頭市では三隅研次監督の「血笑旅」「血煙街道」で子供を使っている。「血笑旅」は座頭市と誤解され、籠の中で切られた母親の代わりに赤ん坊と旅をするという作品。三隅研次は60年代大映映画の中でも突出した監督だったが、座頭市ものでも、やはり光っている。子守歌を歌うシーンがあるので、そこまでを観たい。なお、シネスコの画面をうまく使った構図の素晴らしさにも注目していただきたい。

「座頭市血笑旅」(1964)監督・三隅研次

 青山真治監督の2000年の作品「ユリイカ」は映画史に残る、近年の映画の中でも突出した作品だった。バスジャックに襲われ、生き残った運転手と二人の兄弟が再生するまでを描いた3時間37分の作品。3時間37分というと、ふつうえっ長いと思うわけだが、この作品を観た誰もがまったく飽きなかったという。この作品にとってこの長さは最低限必要な時間だということがわかるわけだが、それにしてもなぜ飽きないのだろうか。これは人間が深く描かれていますねとか、そういう次元の話ではないだろう。これは観た方がぜひお考えになるべきことだと思う。映画の終盤で、ジム・オルークの音楽(まさに「ユリイカ」という曲名)が、再生に向けてのきっかけとなる重要なシーンで、ほとんどまるごと一曲使われている。最初に惹かれたのは音楽ではなく映画だった、しかもルイス・ブニュエルやジャン・コクトーがお気に入りだったというジム・オルークという音楽家は、ミニマル、ロック、ノイズなどの狭間をゆらゆらする妙なミュージシャンだと思うが、では「ユリイカ」が流れるシーンを観よう。

「ユリイカ」(2000)監督・青山真治

 フランソワ・トリュフォーの作品も紹介したい。1976年の「トリュフォーの思春期」、原題は「お小遣い」というのだが、「アメリカの夜」の子供版ともいうべき、スケッチ風の作品になっている。撮影を見学した山田宏一氏によると、素人の子供たちを使ってキャメラの前での反応が面白いので、シーンを膨らませたり、キャラクターをどんどん変えていったという。山田氏の今年出版した著書「フランソワ・トリュフォー映画読本」にもインタビューが収録されているが、トリュフォーはこの作品について、かつて製作した「柔らかい肌」という大人のもろさを描いた映画と比較し、「この『思春期』は『固い肌』と題してもよかったと思う。これは子供たちの強さ、抵抗力を描いた映画で、子供たちがいろいろな試練にぶつかりながらも、それを乗り越えていく物語。その意味では人生に対するオプティミズムに貫かれた映画」だと語っている。では「思春期」の1シーンから。

「トリュフォーの思春期」(1976)監督フランソワ・トリュフォー

 最後はジョン・フォードの映画で締め括りたい。48年の「三人の名付親」という作品だが、これはフォード自身、1919年に製作した「MARKED MEN」という作品のリメイクで、その映画に主演したハリー・ケリー(初期のフォード映画に何本も出演した俳優)が「三人の名付親」の前年に死亡したことで、この作品はハリー・ケリーに捧げられている。同時に、この映画はハリー・ケリーの息子、ハリー・ケリーJrが初めてフォード映画に出演した記念すべき作品でもある。物語は三人組の泥棒(ジョン・ウエイン、ペドロ・アルメンダリス、ハリー・ケリーJr)が銀行強盗をするが、保安官たちに追われる途中、ハリー・ケリーJrは肩を撃たれ、水筒の水もねらい打ちされ、砂漠に逃げ込む。水の補給所は限られているので、保安官たちは包囲する作戦をとる。三人組は喉がカラカラになって必死で水を探し回る中で、瀕死の母親の出産を手伝うはめになる。そしてその子供の名付親となるが、母親は死んでしまい、その代わりに子供の面倒をみることになる。赤ん坊の世話をしなければというので三人は大騒ぎになるのだが、そこでハリー・ケリーJrが子守歌を歌う。なかなかの美声で、そのシーンを観よう。

「三人の名付親」(1948)監督ジョン・フォード

 

第21回「ドッペルゲンガーー公開記念 恐怖映画の50年~ハマープロから黒沢清まで」2003/10/30開催

 最近は「リング」がアメリカでリメイクされ、今年にはいってから「呪怨」1、2がヒット、すでに第3弾も製作中だということで、洋画も含めて今またホラー映画がブームになっているようだ。ホラーといえば、世紀の大傑作「ドッペルゲンガー」が公開中の黒沢清。今年は氏と篠崎誠氏の対談による「恐怖の映画史」という著書も刊行されており、今回は恐怖映画の特集とする。著書で黒沢氏はこうしたジャンルについて、「怪奇映画」「恐怖映画」「幻想映画」の3つに分類することが可能だと述べている。「幻想映画」とは死と日常が混在した世界で、ある種心地よさのあるもの。「恐怖映画」とは死の世界が日常を脅かし、死者たちと生者の世界がまっこう対立するもの。「怪奇映画」はついに向こう側の世界に入ってしまうこと、あるいはあちら側からこちら側へ確実に何者かが侵入しそれに取り囲まれてしまうもの、だとしている。

 今我々が映画館で目にする多くが死者が日常を脅かす「恐怖映画」という分類になるわけだが、黒沢氏がこだわるところの「怪奇映画」とは、これは映画史を振り返らなければならないわけで、美術、照明、キャメラ、音楽、衣装を含めてスタジオシステムが完全に機能していた時代でなければ、日常でありながら死の世界でもある、きわめて特殊な場所で繰り広げられる「怪奇映画」はなかなか作り得ないということになる。これはもちろん30年代のユニバーサル映画もそうであるし、その後のマリオ・バーバやテレンス・フィッシャー、日本の中川信夫の作品などもスタジオシステムが機能していたからこそ生まれた映画なのだ。年代いえば、ほぼ60年代でスタジオシステムは機能しなくなり、70年代に発表されたダリオ・アルジェントの「サスぺリア」は「怪奇映画」への挑戦を感じさせた意欲作といえるだろうが、やはり限界というものを感じさせる。ではスタジオシステムの機能した時代の代表として、ハマーフィルム、これは50年代から70年代にかけて怪奇映画を量産したイギリスのプロダクションだが、その代表作である「吸血鬼ドラキュラ」を観たい。城、衣装などの美術を観るだけでも、これはたしかに今の時代ではいかにも量産が難しいということが改めて感じられるだろう。これはドラキュラをクリストファー・リー、バン・ヘルシングをピーター・カッシングが演じ、シリーズ化された。監督はテレンス・フィッシャー。この監督はアクションの演出も巧みである。音楽のジェームズ・バーナードが過剰なまでに盛り上げる音楽をつけている。

「吸血鬼ドラキュラ」(58年)監督テレンス・フィッシャー

 日本映画のスタジオシステムが機能した時代の怪談映画ということで、あまりにも有名な「東海道四谷怪談」を改めて観てみたい。この59年当時にはこうした怪奇映画も量産した新東宝という映画会社の作品だ。原色を基調とした美術や音楽の使い方など幽霊の登場をまたなくとも十分に恐い作品である。中川信夫というと、つい、この作品や「地獄」などで語られがちだが、他のジャンルでも傑作が多く、もっと再評価されていい監督なので、ご存じない方はこの機会に中川信夫という名前をぜひ覚えておいてほしいと思う。

「東海道四谷怪談」(59年)監督中川信夫

 もう一本日本の怪談もので、「牡丹灯籠」という作品も紹介したい。これはある事情で遊郭に行くことになってしまった女性がお付きの女性と自害し、盆の灯籠流しのときに現世に現れて現実世界の男性と恋におち、契りを結んでしまう。男性のほうは幽霊とは知らなかったわけで、後でそのことを周囲の人間から聞き悩む。男は村の子供たちのために私設塾などを開いており、村人たちも向こうの世界に連れていかれては困るので、お札をはって幽霊が家に入れないようにする。これは怪談映画というよりも、男と幽霊の一途な思いが哀れでもあり感動的な恋愛映画だといったほうがふさわしいだろう。盆のときだけに現世にあらわれる幽霊の女性と付き人、ゆっくりと歩調を感じさせることなく、こちら側に近づいてくるイメージが素晴らしい。大映の撮影所時代ならではの見事な作品だ。

「牡丹灯籠」(68年)監督・山本薩夫

 日本ではほとんど作品が紹介されていないが、フランスにジョルジュ・フランジュという監督がいる。「恐怖の映画史」でもとりあげているが、59年に「顔のない眼」という作品を発表している。怪物も幽霊も登場しないが、事故で顔を無くした娘のために権威ある形成外科医の父親が犬で実験したり、若い娘を殺して皮膚を移植するという内容だ。黒沢清氏は著書の中で、この父親は娘は好きなんだけれども顔は嫌いで、顔をみたとたん「マスクをつけろ」といってしまう身も蓋もないところが、ここまでやった映画はないだろうといって面白がっていた。大きな古い屋敷や墓場など一見怪奇映画風の設定が随所にみられ、しかし、設定は現代の物語ということで「怪奇映画」仕立てになっている。もっと作品が観てみたい過小評価の監督ということで、1シーンを観たい。なお、父親の助手をアリダ・ヴァリが演じている。音楽はモーリス・ジャールだ。

「顔のない眼」(59年)監督ジョルジュ・フランジュ

 撮影所システムが機能しなくなってしまった時代に、もはや「怪奇映画」というジャンルの成立は極めて難しくなってしまったわけだが、黒沢氏は80年代に「スウィートホーム」という作品で(セット費だけで7000万かかったという)、怪奇映画にトライするが非常にたいへんな思いをしながら、これ以降純粋な怪奇映画を撮ることを断念する。そんな状況の中、日本では鶴田法男、小中千昭といった監督たちが恐怖映画、いわゆる心霊実話方式を成功させ、ふつうのマンションの一室に亡霊が現れるという作品群を生み出していく。そして高橋洋、中田秀夫らが「女優霊」「リング」などといった作品につながっていくのだ。60年前後の世代が確実に映画界に実力を示したと、この時代に感じたことも付け加えておきたい。黒沢氏も絶賛する鶴田法男の「ほんとにあった怖い話」から「霊のうごめく家」の1シーンを観よう。

「ほんとにあった怖い話」から「霊のうごめく家」(91年)監督・鶴田法男

 黒沢氏はよくトビー・フーパーという監督について言及しているが、「恐怖の映画史」を読むと、それはフーパーが怪奇映画の基礎が決定的にわかっている作家としてのシンパシーだということが理解できる。フーパーはちなみに、「悪魔のいけにえ」で一気に知られるところとなり、「ポルターガイスト」「悪魔の沼」「ファンハウス」「スペースバンパイア」「スペースインベーダー」「スポンティニアスコンバッション 人体自然発火」などで知られる監督だ。黒沢氏は「恐怖の映画史」でフーパーについて約3分の1のスペースを割いて語り、しかもアメリカで黒沢作品の特集上映の際、ついにフーパーが訪れ、2、3時間話すことができたという。このとき、黒沢氏から話す前にフーパーのほうから「私が前から好きな監督で、もっと評価されるべき監督がいる。それはリチャード・フライシャーだ」と述べたという。これは映画史的にも感動的な瞬間だったとしか言いようがない事態ではないか。ベルナルド・ベルトルッチとも友人だというフーパーはやはりただものではない。そういうわけでフーパーの映画もひとつ紹介したい。一度作動するとそれを止めることはできない「死の機械」ものは黒沢氏のテーマにも通じるところだが、巨大な洗濯機が人を飲み込む「マングラー」の1シーンを観たい。

「マングラー」(95年)監督トビー・フーパー

 黒沢清自身の作品「回路」は、「現実の日常とそうではない死のようなものが境界なく入り交じってくる」と語っているように、怪奇映画に接近した作品でもあった。赤いテープではった扉の向こうはもう霊魂の世界。幽霊がどんどんこっち側の世界に侵出し、生きている人間はどんどんいなくなっていく。そして気がつくと世界は崩壊している。回路が開かれると、霊はおぼろげな存在であることをやめ、それはもう誰にも止めることはできないのだ。1シーンを観よう。

「回路」(01年)監督・黒沢清

 黒沢氏の「降霊」という作品は役所弘司と風吹ジュンの平凡な夫婦が、まったく無関係のところで誘拐された少女が役所のもちものである録音機材用のジュラルミンボックスに隠れてしまったことで少女と関わりをもつことになり、結局少女は死んでしまうことで、亡霊となって役所夫妻の前に現われるという物語だった。これは黒沢氏が「ドッペルゲンガー」現象を初めて扱った作品でもあり、どんどん亡霊に追いつめられていく役所がついに自分の姿をみてしまうというシーンを観てみよう。

「降霊」(99年)監督・黒沢清

 怖いシーンが続いたので最後は笑える作品で締め括りたい。中国版ゾンビもの「霊幻道士」だ。サモ・ハン・キンポー製作総指揮のコミックホラーシリーズで、日本では4作目の作品が初めて85年に公開された。幽霊を扱いながらギャグとカンフーアクションを見事に融合させている。

「霊幻道士」(85年)監督リッキー・リュウ

 

第20回「追悼ブロンソン!! そしてコバーン、マックィーン、大脱走の男たち」2003/9/29開催

 チャールズ・ブロンソンが亡くなった。晩年はアルツハイマーだったという。ブロンソンといえば、あの髭が有名で、70年代はマンダムのCMで日本でも一躍有名な俳優となった。ブロンソンはジェームズ・コバーン、スティーブ・マックィーンと共に「荒野の7人」「大脱走」で売り出し、60年代から70年代にかけて、アクション一筋で通した男たちであり(まあ、マックィーンの場合は一時イプセンやフォークナーの劇作に挑戦したり、「民衆の敵」に出演するなど゛演技派″への道を志した時期もあったのだが…)、醜悪なあのアメリカンニューシネマの時代にもアクション一筋で楽しませてくれた男たちだったと思う。今回はブロンソン追悼の意味も込めて、この「大脱走」の3人にスポットをあてたい。

 ところでこの三人の生年をみると、ブロンソンは1929年、コバーンは1928年、マックィーンは1930年生まれ。マックィーンが一番若いのだが、ちょうど50歳を迎えた1980年に最も早く亡くなってしまう。3人の中ではブロンソンが最も年長で長生きしたのだった。ブロンソンのチャールズ・ブチンスキーという本名が示すように、彼はロシア移民の子で、しかも15人兄弟という環境で育ち、父親は炭坑夫だったという。兄弟の中ではブロンソンだけがハイスクールを卒業したそうだが、16歳のときに父親を亡くし、ブロンソンも炭坑夫となる。いかにも後の肉体派、ブロンソンらしい経歴といえよう。

 俳優業を志すものの、芽が出るのはかなり後のことだ。初期の頃は本名のブチンスキーでスクリーンに登場し、デルマー・デイビスの「太鼓の響き」、サミュエル・フラーの「赤い矢」など、インディアンの役も多かった。54年にはロバート・アルドリッチの「ヴェラクルス」に出演している。ゲーリー・クーパーとバート・ランカスターが主演で、南北戦争末期を舞台に二人が張り合う物語だが、ブロンソンがまだ本名でアーネスト・ボーグナインらと共に下っ端の子分役で出演している。ある女性を追いかけ、タマを蹴られたり、殴られて失神してしまう情けないシーンだが、初期の作品でクローズアップも台詞もある。

「ヴェラクルス」(1954) 監督ロバート・アルドリッチ

 ブロンソンはこの後どんどん出世し、12年後の1966年には同じアルドリッチ監督の「特攻大作戦」に出演。今度はリー・マービンらと最後まで生き残るまでに出世する。そのきっかけとなるのも、ジョン・スタージェスの「荒野の7人」(1960)、「大脱走」(1963)に出演したことが大きい。作品的にはまったく評価できないが「荒野の七人」で主演のユル・ブリンナーは今回の3人にのきなみくわれていたような気がする。ちなみに、ブロンソンとマックィーンは59年にも「戦雲」で共演しているが観るべきところはあまりないだろう。やはり大きな飛躍のきっかけは「大脱走」だ。とくにマックィーンは主演クラスになっている。第2次世界大戦でドイツの捕虜収容所に札付きの脱走常習犯ばかり集められ監視されるが、連合軍側は250人の大脱走計画を企てるという実話を映画化したものだ。パスポートや切符、洋服やら脱走後に必要な物資はすべて収容所内で調達し、作成していく過程も実話だけにリアルに紹介される。製作過程で発生する音やトンネルを掘った際の土をいかにカモフラージュするか、そのアイデアも抜群に面白く、サスペンスを生み出している。250人のうち実際にトンネルを出られるのは76人で、実際に逃げおおせることができたのはたった3人。捕まったうち50人はゲシュタポに射殺され、この作品自体その50人の将兵に捧げられている。途中で目が見えなくなってしまう偽造屋を演じたドナルド・プリーゼンス(最近はプレザンスと発音されている)は、実際にこの脱走計画に参加していたという。ブロンソンは「トンネルキング」という渾名がつけられたトンネル堀りの名人で、実は閉所恐怖症でもあるという役だった。脱走シーンを観よう。

「大脱走」(1963) 監督ジョン・スタージェス 音楽エルマー・バーンステイン

 ブロンソンの人気が沸騰するのは60年代も後半、やはり髭をトレードマークにしてからだろう。そのトレードマークも60~70年代には作品によって剃ったり剃らなかったりしているのが面白い。「バラキ」に出演したときは実物に髭がないので剃っているのだが、その前作「チャトズランド」では髭を生やしたままインディアンを演じ、顰蹙をかった。人類学的にもインディアンは髭をはやさない種族ということなので、ハリウッド史上前例のないことだろう。あの髭には専門の髭デザイナーがついていたという。ブロンソンのもうひとつの魅力といえば、あの肉体美にもある。若い時分、肉体労働で鍛え、さらにボディビルで磨きあげていった肉体は、後のスタローンやシュワルツェネッガーの先駈け的な存在だった。従ってブロンソンもまた肉体を誇示するために裸体になることが多かった。さきほどの「チャトズランド」のインディアン役はもちろん全編裸での登場であるし、「バラキ」でのシャワー・シーンや、ウォルター・ヒルの「ストリートファイター」ではジェームズ・コバーンと組み、裸で殴り合うファイターの役だった。「大脱走」以降、髭と肉体というブロンソンの魅力が最初にスクリーンで強調されたのは68年の「さらば友よ」だと思う。これはアラン・ドロンとの共演で話題になった作品でもあり、この二人は後に日本から三船敏郎を招き、侍が西部劇に登場するという珍品「レッドサン」でも共演する。が、いずれもブロンソンがまったく人をくった調子でいちばんおいしいところをもっていったのだった。「さらば友よ」では金庫に閉じこめられた二人が脱出を図る際に裸になるが、もちろんブロンソンの勝ち。ここではタイトルバックのシーンから。音楽も名曲だ。

「さらば友よ」(1968) 監督ジャン・エルマン

 マックィーンとコバーンの作品も観ていこう。ジェームズ・コバーンは60年代のスパイ映画ブームで「電撃フリント」シリーズの主役をはるなど、人気を獲得していく。とくに「ダンディー少佐」「ビリー・ザ・キッド21歳の生涯」「戦争のはらわた」といった作品で、男の色気を引き出したサム・ペキンパーとの出会いは大きいだろう。そして具体的な作品として日の目を見ることはなかったが、ブルース・リーとの出会い。70年代以降のコバーンの伸び悩みはこの二人に先立たれたことも大きいようだ。ここではパット・ギャレットを演じた「ビリー・ザ・キッド21歳の生涯」を1シーンをみよう。

「ビリー・ザ・キッド 21歳の生涯」(1973) 監督サム・ペキンパー

 山田宏一氏も語っているように、ペキンパー・マックィーンコンビの「ゲッタウェイ」は、「暗黒街の弾痕」「夜の人々」「拳銃魔」「気狂いピエロ」など、男女の逃亡劇の流れを汲む映画史的な作品である。「ゲッタウェイ」はマックィーンが演じるから格好がいいけれど、よく見るとかなりのダメ男ぶりを描いた作品でもあった。 

 ジェリー・フィールディングが全スコアを作曲していたがマックィーンがそれを嫌い、クィンシー・ジョーンズに変更。かなり甘々の音楽に変わってしまう。マックィーン、大好きな俳優だが、このあたりマックィーンのちょっとずれた感性を示すエピソードである。ペキンパーならではのスローモーションを織り込んだホテルでの銃撃戦のシーンをみたい。

「ゲッタウェイ」(1972) 監督サム・ペキンパー

 ブロンソンは74年に「狼よさらば」に出演し、大ヒットを飛ばしている。街のチンピラに妻子を襲われた平凡な男性が銃を携え、たった一人で街のダニ掃除をしていく物語だ。実際、街の犯罪率は減少し、マスコミや警察から「アマチュア刑事」と呼ばれることになる。これは東南アジアなどでもパクリでシリーズ化され、主人公は必ず髭をたくわえていたというから、当時のブロンソン人気がいかに絶大だったかが理解できる。当時の映画雑誌をみると、髭をたくわえたアクション俳優がいると必ず「○○のチャールズ・ブロンソン」という渾名がつけられていたものだった。「狼よさらば」はブロンソン自身によってもシリーズ化。一作目の音楽はハービー・ハンコックが担当している。

「狼よさらば」(1974) 監督マイケル・ウィナー

 ブロンソンのアクション映画も80年代、90年代に入ると未公開作品が増え、ビデオでしか観られない作品が増えていく。91年、ショーン・ペンが監督した「インディアンランナー」に、突然(という印象だった)ブロンソンが出演し(しかも何の話題性もなく)、ある一家のおじいちゃんという役柄で、そのあまりの容貌の衰えぶりに驚いたことがあった。この作品はショーン・ペンがブルース・スプリングスティンの「ハイウェイ・パトロールマン」にインスパイアされて撮ったという監督デビュー作だ。ベトナム戦争帰りの弟(ヴィゴ・モーテンセン)は、まるで「十九歳の地図」の蟹江敬三のように「どういう具合に生きてったらいいかわからないんだよねえ」と言わんばかりに問題ばかり起こし、警官である兄(デビッド・モース)が何とか更正させようとしては失敗する地味でヘビーな物語である。

 ブロンソンは彼らの父親であり、物語の途中で奥さんを亡くし、失意の中で過去の思い出に閉じこもりながら死んでいくという、それまでにはまったくなかった役を演じている。ブロンソン自身、たいへんな愛妻家で、妻で女優であるジル・アイアランド(女優としては正直なところ今ひとつ!)に90年に先立たれ、一時は自殺まで考えたという程落胆していたという。この作品はまさにその直後の作品になるわけだが、そう考えるとこの容貌の変わり様も納得がいくような気がしてしまう。それにしてもブロンソンの映画の役柄と実人生の重なり方を思うと、「狼よさらば」といい、この作品といい、妻に先立たれる役を何度か演じてきたという奇妙な符号がこの人にはあるのだ。

 ブロンソンの最後の名演といってもいいだろう、1シーンを観よう。この作品は当時のロックの使い方も実に見事で、ショーン・ペンは監督としてのただならぬ才能ぶりを発揮している。

「インディアンランナー」(1991) 監督ショーン・ペン

 最後はセルジオ・レオーネ監督の「ウエスタン」で終わりたい。ヘンリー・フォンダとの決闘シーン。ブロンソンが終始吹いているハーモニカの秘密が明かされるシーンでもある。なお、今日冒頭で紹介した「ヴェラクルス」でもブロンソンはハーモニカを吹く男を演じていたのだった。音楽はもちろん、エンニオ・モリコーネである。

8「ウエスタン」(1969) 監督セルジオ・レオーネ

 

 

第19回「特殊効果に酔いしれろ! CG以前の映画的魔術」2003/8/28開催

 今回は特殊撮影の映画をみていきたい。特殊撮影、今でいうとこれはCGが主流になっているが、以前この企画で最近の映画は特殊撮影技術の発達によって、物語よりも映像が突出し、物語性の優位から視覚性の優位の時代を迎えたという話をした。その意味で「未知との遭遇」という作品がエポックメーキングな位置づけにあることを黒沢清監督の発言を通して紹介したわけだが、それ以後の映画史は、特撮技術、デジタル合成、CGがどんどん進化を遂げ、映画そのものへの変容へとつながってゆく。

 もちろん自分はCGについて批判的ではないし、それを堪能させてくれる作品もある。しかし、視覚性ばかりが先行し物語性が薄れていくこと、最近でいえば「マトリックス」が最も顕著な例になるだろうが、映画のスペクタクル化が進む程、観る者の思考は停止状態となり、果たしてこれは映画と呼べる代物なのだろうかという疑問さえ沸いてくるのが正直なところなのだ。

 例えば予告編しか観ていないが最近の「ハルク」という作品。ハルクの人物造形はすべてCGによってコントロールされることで、テレビゲーム化された映像と何ら変わりはなく、確かにその怪物は非常に滑らかな動きをみせながら大暴れしているというのに、一向にわくわくする感じがない。これは何なのだろう。では「ジョーズ」と「ディープブルー」の鮫はどちらが怖いか。あのブルースと名付けられ、何度も故障したという電動式、はりぼて型の鮫のほうが、水面下から突如浮上するとき、遙かに映画的な恐さを実感させてくれるという点で、CGという技術そのものが映画を豊かにするのではなく、あくまで選択の問題で、要はやはり監督のセンス次第であることが、自ずと証明されているのではないだろうか。果たしてCGが主流の今、映画は豊かになったのか。そんなわけで、今日はCG前史ということで、特殊撮影と映画の幸福な関係のみられるものを振り返っていきたい。

 さて、アメリカには戦前の「キングコング」の特殊技術を担当したウィリアム・オブライエンという先駆者がいるが、彼の技法をさらに発展させたレイ・ハリーハウゼンだ。ダイナメーションという技法で知られるレイの代表作には「シンドバッド7回目の航海」などのシンドバッドものや「恐竜百万年」「原始怪獣現る」などがある。ダイナメーションとは一コマ撮りをさらに発展させた七重合成の技術ということらしいが、まずは「アルゴ探検隊の大冒険」から、骸骨との有名な戦闘シーンを観たい。音楽はバーナード・ハーマン。例によって管楽器、打楽器を多様する印象的な音楽をつけている。

「アルゴ探検隊の大冒険」(63年)監督ドン・チャフィー

 特殊撮影といえば、映画の初期にはスローモーションや逆回転、三重露出、コマ落としなどもそのひとつとしてあげられるだろう。また、ガラスに風景を描いて遠くの被写体と同時に撮影するグラス・ペインティング、先ほど紹介した一コマ撮りの技法、さらにオプティカルプリンターのような光学機械によって、その技術はさらに高度になっていく。ミニチュア撮影の技術も映画ではお馴染みとなっているが、日本でこの分野の第一人者といえば何といっても円谷英二である。1942年には「ハワイ・マレー沖海戦」でミニチュア技術で第一級の仕事をみせてくれた。そして、怪獣映画の最高峰「ゴジラ」が1954年に登場する。音楽はもちろん伊福部昭。

「ゴジラ」(54年)監督・本多猪四郎 

 さて、ヒッチコックの作品も紹介したい。1940年の「海外特派員」は戦争勃発の危機に揺らぐ不穏なヨーロッパ情勢の取材に特派員として赴いたジョエル・マックリーを主演に、政治的な陰謀を描いている。ラスト近くで、主人公たちの搭乗する飛行機が敵弾を受けて海中に突っ込むシーンがあるが、その墜落する瞬間は操縦室の1カットで撮られている。「ヒッチコック・トリュフォー 映画術」でヒッチコック自身、嬉々としてこのシーンのトリックを語っているが、紙で作ったスクリーンプロセスに迫る海を見せながら、海中に突っ込む瞬間、スクリーンの裏に置いた水槽の水がスクリーンを破って飛行機に流れ込むというものだ。また、もっとたいへんだったのは墜落後に翼の一部が機体からはずれ、流されていくというシーンだったとヒッチコックは語っているのだが、その自信が示す通り、技術と物語が見事に融合し、この時代によくぞここまで撮ったという素晴らしいシーンとなっている。黒幕で登場するハーバート・マーシャルの品格ある演技にも注目。

「海外特派員」(40年)監督アルフレッド・ヒッチコック

 ジョン・フォードの「ハリケーン」は南洋の小さな島が消滅してしまうほど凄まじいハリケーンをすべてスタジオ撮影で描いたことでも有名な作品だ。淀川長治さんのお話では、15台の巨大な扇風機で暴風を作り、巨大なプールに鉄の板を敷き、シーソーのように動くようにして波を作ったという。1937年のことだ。この40年後にディノ・デ・ラウレンティス制作でリメイクされたが、洪水のシーンだけを売り物に、失敗作となっていた。

「ハリケーン」(37年)監督ジョン・フォード

 ミュージカル映画の分野ではフレッド・アステアが映画ならではの様々なテクニックを駆使して、その華麗なダンスを引き立たせていた。「イースターパレード」では突如、バックダンサーの中でアステアだけがスローモーションで踊る、素晴らしいシーンがある。歌は名曲「ステッピン・アウト」だ。

「イースター・パレード」(48年)監督チャールズ・ウォルターズ

 

 

第18回「夏のイメージから 南洋、露出した肉体、船と帆etc」2003/7/24開催

 今回は夏のイメージということで思いつくままに紹介していきたい。夏という季節だけで思い浮かべても、様々な作品が思い浮かぶものだが、名著「映画千一夜」では夏の映画として、「旅情」「街の風景」「青い麦」「狂熱の孤独」「夜の大捜査線」「十二人の怒れる男」「欲望という名の電車」「イグアナの夜」「ああ結婚」「ひまわり」「悲しみの青春」「暗殺のオペラ」「山猫」「夏の嵐」「ベニスに死す」「避暑地の出来事」「おもいでの夏」「不良少女モニカ」「夏の夜はみたび微笑む」「夏の遊び」「緑の光線」などなどについて語っていた。この中からはじめに「避暑地の出来事」を紹介したい。ある二組の中年夫婦がいてそれぞれ仲は最悪になっている。この片割れ同士が昔の恋人同士で避暑地で再会、不倫の果て離婚し、再婚する。この子供同士がトロイ・ドナヒューとサンドラ・ディーでやがて愛し合う関係になり、親のスキャンダルと純血の問題に悩む。再婚した親のもとで再会する若い二人のシーンから観よう。当時、マックス・スタイナーの挿入曲がパーシー・フェイス楽団の演奏で大ヒットした。

「避暑地の出来事」59年 監督デルマー・デイビス

 ミュージカル映画の全盛時代に、水泳選手から女優に転向したエスター・ウィリアムスという人がいた。「水着の女王」という作品から水中バレエのシーンを観たい。

「水着の女王」49年 監督エドワード・バゼル

 イタリアのネオリアリズムの後期には田植えの映画が多かったという。「にがい米」もそうした一本だが、冒頭でたくさんの女性が太股を露わに田植えをする。非常に野性的で官能的な光景であり、ハリウッド映画では絶対に観られないシーンだ。シルバーナ・マンガーノの健康的なエロチシズム。田植えで歌うシーンを観よう。

「にがい米」49年 監督ジュゼッペ・デ・サンティス

 エリック・ロメールも「緑の光線」「海辺のポーリーヌ」「夏物語」など夏を舞台にした作品をいくつか撮っている。処女長編作「獅子座」も夏が舞台。ある売れない作曲家に、おばあさんの遺産が手に入ることになり、仲間を集めて大騒ぎする。ところが従兄弟のものだということが判明し、ホテル代を払う金もなく、バカンスで人気のなくなったパリの街中を歩き回るはめに陥ってしまう。映画のほとんどのシーンはパリの街を彷徨するシーンに費やされる。一日目、二日目、三日目、男の服装も顔つきも次第に汚れていく。そしてロメールはこの男の焦燥感だけではなく、パリの街、水、空といった光景をフィルムに定着させていく。「獅子座」が撮影されたのは1959年。「勝手にしやがれ」「大人は判ってくれない」と同じ年に制作されたヌーベルバーグの代表作でもある。

「獅子座」59年 監督エリック・ロメール

 小津安二郎の作品では「ああ、いいお天気」「今日も暑うなるで」などと天気のことが再三言われるわけだが、小津の作品のほとんどが天候は快晴、夏の印象が強い。実際に蓮實重彦氏の「監督 小津安二郎」におさめられたキャメラマン厚田雄春氏へのインタビューを読むと、ロケハンは夏に行い、撮影は夏から秋にかけて行っていたと語っている。小津の作品群にあって例外的に雨や雪が降る作品「浮き草」や「東京暮色」では、天候の違和感が示すように、物語の展開も異様なものとなる。ここでは「東京物語」でもとりわけ有名な 笠智衆と東山千栄子が熱海に行くシーン。この作品は小津作品の中でもとりわけ暑さということが強調され、登場人物たちのほとんどが団扇をあおいでいることでも印象的だ。東山さんもこの暑さの中で亡くなっていくことになる。

「東京物語」53年 監督・小津安二郎

 最後はオーソン・ウエルズの未完の作品「イッツ・オール・トゥルー」を紹介したい。これは1942年、つまり「市民ケーン」の次回作になる予定だった作品で、資金繰りその他の軋轢から未完の作品となってしまう。これはオムニバスとして構想され、そのうち一編はブラジルの小さな村の漁師の実話。オーソンは生活の保障を大統領に訴えるために何千キロの距離を筏で一ヶ月かけて航海した4人の男の話を再現しようとした。このフィルムが製作から半世紀後に発見され、オーソンのかつての仲間が編集した。大胆な映像の連続で、オーソンの天才振りを伝える。

「イッツ・オール・トゥルー」42年 監督オーソン・ウエルズ

 

第17回「俯瞰 20世紀 継承と孤立 クリント・イーストウッドの美学」2003/4/25開催

 クリント・イーストウッドは巨匠である。ジョン・フォード、ハワード・ホークス、ヒッチコックなど映画史の巨匠たちの名前をあげながら、そこに連なる大作家の一人であることをまず述べておきたい。

 イーストウッドは1930年に生まれた。映画界入りするのは1955年で、従ってイーストウッドは50年代に映画界での活動を始めた映画人なのである。これまで述べてきたように、50年代といえば、ハリウッドの全盛時代であり、また、スタジオシステムの崩壊をはじめとするハリウッドの斜陽期にもあたっている。

 イーストウッドはこの50年代にウイリアム・A・ウェルマンというベテラン監督の作品に出演する(「壮烈! 外人部隊」)。ウェルマンはハリウッド全盛期に「つばさ」「民衆の敵」をはじめ数々の傑作を撮っている映画監督だが、これをきっかけにイーストウッドはウェルマンと家族ぐるみのつきあいをするようになり、73年の監督作品「愛のそよ風」ではウェルマンからアドバイスをもらっていたという。また、イーストウッド自身、「ウィンチェスター銃73」などで知られるアンソニー・マンが大好きだと公言しているわけだが、彼は50年代へのこだわりをもちながら映画製作を行うハリウッド映画の継承者なのである。

 前回の70年代特集との比較でいえば、視覚性優位となった映画界で、物語性優位の映画作りを孤立といってもいい状況の中で成し遂げてきたのがクリント・イーストウッドなのだ。そうしたイーストウッドのあり方に決定的な影響を与えたのが、50年代からB級活劇を撮り続けた監督ドン・シーゲルだ。彼らの共作活動(といってもいいだろう)は68年の「マンハッタン無宿」に始まり、「真昼の死闘」「白い肌の異常な夜」と続き、71年に「ダーティハリー」という大傑作を生み出すことになる。

 これはみなさんよくご存じのシリーズだと思うが、アヴァンタイトルでさそり(アンディ・ロビンソン演じるサイコキラー)の残虐な殺しを示し、捜査するイーストウッド、さそりからの脅迫状を発見するまで、まったく無駄のない驚くべきタイトルになっていると思う。狙撃場所となったビルを発見するハリーの刑事としての的確さ、また舞台がサンフランシスコであることをも容易に観客に理解させてしまう演出、「ダーティハリー」は冒頭から傑作であることを確信させる。ではこの「ダーティハリー」のタイトルを早速観てみよう。音楽はラロ・シフリンだ。

「ダーティハリー」(71年)監督ドン・シーゲル

 今回の特集にあたって、中条省平氏の著書「クリント・イーストウッド アメリカ映画史を再生する男」を大いに参考にさせていただいているが、中条氏はイーストウッド作品における「教育とイニシエーション」という主題について指摘している。これは「サンダーボルト」ではイーストウッドとジェフ・ブリッジスの関係に認められたことだし、「アウトロー」でも父親に刺繍してもらったシャツの花柄を恥じながら死んでいくサム・ボトムズとの関係、さらには「ルーキー」「ハートブレイクリッジ 勝利の戦場」などでもみられたことだ。

 82年の「センチメンタル・アドベンチャー」は、末期の結核患者であるカントリーシンガーをイーストウッドが演じ、実の息子のカイルがその甥っ子役となって「教育とイニシエーション」を映画全体の主題としていた。この作品はロードムービーにもなっているが、甥っ子の家族たちが暮らす南部の農村風景は、30年代の恐慌時代ということもあって「怒りの葡萄」を想起させずにはいられず、こうしたジョン・フォード的な記憶も「センチメンタル・アドベンチャー」には漂う。物語はテネシーのナッシュビルで開かれるオーディションへ向かう道中記となっているが、絶命する寸前までマイクの前に向い、最後のレコーディングを行うイーストウッド、それを見守る息子という感動的なシーンを観たい。(「センチメンタル・アドベンチャー」の原題は「ホンキートンクマン」というが、98年にイーストウッドがフランスのセザール賞を受賞した際、プレゼンターとなったジャン=リュック・ゴダールは「ミスター・ホンキートンクマン」と呼びかけていたのが印象的だった)

「センチメンタル・アドベンチャー」(82年)監督クリント・イーストウッド

 イーストウッドの作品にはこの「センチメンタル・アドベンチャー」を含め、自己破壊的な人物が登場する。「ホワイトハンター ブラックハート」「許されざる者」そして「バード」。この自己破壊衝動といったこともイーストウッド映画の底に流れるイーストウッド自身のネガティブな本音なのだろう。イーストウッドの無類のジャズ好きということもあって、チャーリー・パーカーという題材が選択され、「バード」ではそうした自己破壊性が極められていくことになる。「バード」はイーストウッドには珍しく、現在と過去と近い未来が交差するという複雑な構成をもちながら描いた作品だった。南部への演奏旅行の1シーンをみたい。

「バード」(88年)監督クリント・イーストウッド

 「許されざる者」の次回作となった93年の「パーフェクト・ワールド」では再び教育とイニシエーションというテーマが繰り返される。脱獄犯を演じるのはケビン・コスナー。彼と誘拐された子供の心の交流からイニシエーションというテーマがさらに押し進められている。

 しかし、このあたりのイーストウッド作品になると、映画的な快感というものは感じられない。これは前作の「許されざる者」でも底知れぬ不気味さとしてまとわりつき、ジーン・ハックマン演じる保安官を倒し、イーストウッドが生き残ったところで、勧善懲悪という図式から遙かに遠く、居心地の悪さというものを強烈に感じさせる。中条氏は「ここに立ちこめているのは凄まじい私怨であり、個人の暴力を肯定する西部劇というジャンルの原罪を血のしたたる傷口のように露わにしている」と指摘している。こうしたイーストウッドのネガティブな一面は「パーフェクト・ワールド」の主人公ケビン・コスナーの性格にも反映され、脱獄犯でありながら人間的な優しさをもつ一面と、あっという間に凶暴さがむきだしになる怖さの両面性が見事に演出されている。

 イーストウッドはインタビューで「私は一つの物語を語る際に観客自身がその空白を埋めることができるように心がけている」と語っているが、善悪の宙づり、結末の宙づりとでもいえるような居心地の悪さもクリントの作家性であり、眼差しの深淵さだと思う。そして、こうした指向はいよいよ生者と死者の境目さえ曖昧になっていく97年の「真夜中のサバナ」で極められていくことになるのだ。では「パーフェクト・ワールド」のケビン・コスナーが黒人の家庭でみせる、その両面性の怖さがみられるシーンを観たい。

「パーフェクト・ワールド」(93年)監督クリント・イーストウッド

 イーストウッドはハワード・ホークスに匹敵すると言っていいほど、様々なジャンルの作品を発表している。西部劇はもちろん、サスペンス、犯罪映画、戦争映画、ミステリーなど実に多彩だ。そして恋愛映画も「愛のそよ風」と「マディソン郡の橋」で手がけている。また、イーストウッドは自身の年齢と映画の題材を見事に重ね合わせながら作品を発表しており、「ハートブレイクリッジ」以降は「ルーキー」「シークレットサービス」「マディソン郡の橋」「目撃」「スペースカウボーイ」など「老い」もひとつのテーマになっている。

 「マディソン郡の橋」は、イーストウッドとメリル・ストリーブの4日間という限定された時間の中で培われた永遠の愛が―それは成就しなかったことで永遠となるわけだが―描かれるが、しかし、映画が始まった時点ですでに主人公たちは死んでおり、生者の中にふいに死者が現れ、生者と対話をはじめるという構成になっている。イーストウッド自身、「映画の使命とは亡霊たちに身体を与えること」だと語っているが、こうした亡霊は「許されざる者」「荒野のストレンジャー」「ぺイルライダー」にも登場しているし、不可視の存在という意味では、「目撃」でイーストウッド自身が犯罪者からは見えない存在の目撃者として主人公になる作品だった。

 「マディソン郡の橋」ではイーストウッドの微妙な演出にも感心させられる。メリル・ストリーブの視点からだけイーストウッドが描かれ、イーストウッドの一人称の視線はいっさいないのだ。はじめの出会いのシーンでは、イーストウッドのイメージが切り返しのたびに拡大され(これを中条氏はサブリミナル的効果だと指摘しているが)、しだいに接近していく映像によって彼の想いの高まりが見事に表現される。では、二人が初めてしっかりと互いの肉体を感じ合うことになるダンスシーンを観たい。

「マディソン郡の橋」(95年)監督クリント・イーストウッド

 イーストウッドが人気を博すきっかけとなったのはセルジオ・レオーネとのマカロニウエスタン3部作である。この成功でイーストウッドはアメリカに凱旋し、66年に自身の製作会社「マルパソ・プロダクション」を設立、現在に至っている(ちなみにマルパソとは、悪い道、の意)。「許されざる者」はマカロニ3部作の監督セルジオとドン・シーゲルに捧げられている。最後は「夕陽のガンマン」のラストの決闘シーンで締めくくりたい。音楽はもちろん、エンニオ・モリコーネである。

「夕陽のガンマン」(65年)監督セルジオ・レオーネ

 

第16回「俯瞰 20世紀 70年代以降のシネマ」2003/3/31開催

 前回は1900年前後に生まれた監督の特集ということで、映画の全盛時代、1930年代から50年代の充実した作品群を紹介した。今日は優れた映画を紹介するというよりも、70年代以降の映画、アメリカ映画とはどのようなものであったかを振り返りたい。自分のことを少し言わせてもらえば、1960年の生まれで、映画館へ意識的に足を運び出したのは1973年のことだった。これは後で考えると、映画の全盛時代をスクリーンで観ることが出来なかったのであり、ずいぶんと不幸な時期に映画を見始めたなという気がしてしまう。

 70年代とはどういう時代だったを振り返るにはその前の映画史を知っておく必要があるのだが、アメリカ映画の戦後からおおざっぱなおさらいをしていくと、まず赤狩りの時代があって、ジョセフ・ロージーをはじめ有能な映画作家や映画的人材を流失してしまう。さらに、テレビの台頭による映画人口の減少、撮影所システムの崩壊といったことが起こる。50年代から60年代にかけて、テレビへの対抗から大作映画の流行があったのだが、当然制作費がかかるのでリスクも大きくなる。そうした中で、50年代に傑作を放った有能な映画監督(例えばニコラス・レイ)たちは大作路線の中で作家的生命を絶たれていくことになる。

 そして、60年代には映画の倫理規定であるヘイズコードが解除されたことも映画のあり方を大きく変えることになる。このことによって、過激な暴力や性描写が可能となり、アメリカンニューシネマの流行につながっていく。今振り返れば、これはアメリカ映画のどん底時代という気がしてしょうがない。何故なら、ニコラス・レイの「夜の人々」やフリッツ・ラングの「暗黒街の弾痕」が「俺たちに明日はない」という無惨な作品に変換され、それが受け入れられてしまう時代だったのだから。

 いわゆる全盛時代の映画には、まず物語があって映像はそれに奉仕する形で効率的な語り口を持ち得ていたし、ヘイズコードという制約のある中で、物語るための作家的差異が大いに競われ、充実した作品群を量産していたのだ。ヌーベルバーグはだからこそ「アメリカ映画はすべて似通っている」という言い方をしたわけだ。多くのアメリカンニューシネマは、それまでハリウッド映画が培ってきた映画的遺産をほとんど継承していない。映画は映画に向けて作られず、同時代という反映画的なものに向けられて制作されていたのだ。これはやはり不幸な時代であったと言うほかないだろう。

 ところで、自分が映画館に通い始めた70年代前半といえば、どのような作品が流行していただろうか。当時はアメリカンニューシネマの影を引きづった作品がまだまだ作られていたが、「ポセイドンアドベンチャー」などのパニック映画、「ダーティハリー」「フレンチコネクション」の後を受けてのポリスアクションブーム、カンフー映画、オカルト映画などという傾向にシフトしつつあったと記憶している。そして75年にスティーブン・スピルバーグの「ジョーズ」が公開される。ハリウッドの流れを決定的に変える一本だったと言えるだろう。スピルバーグは1947年生まれだから、当時は20台後半だった。音楽のジョン・ウィリアムスは後に何本もスピルバーグと組み、さらにこの後のハリウッド映画の代表的な音楽作家として、高らかにオーケストラ音楽を奏でていくことになる。

「ジョーズ」(1975)監督スティーブン・スピルバーグ

 今、「ジョーズ」を観ると、ヒッチコック的なキャメラワークがあったり、映画史を継承しながら実にまともな映画作りをしていることがわかる。この後、スピルバーグは様々な転換期を迎えながら作品を現在に至るまでコンスタントに発表しているが、「激突」「ジョーズ」以降、スピルバーグの作品にはどうもごちゃまぜのイメージがあり、何をしたいのかわからないと思うことが多い。その要因のひとつとして、特撮技術の向上があげられると思う。そのことによって、物語よりも映像が突出し、物語性の優位から視覚性の優位へという時代を迎え、これがアメリカ映画の潮流となっていく。これに従って、上映時間も2時間を超えることがスタンダード化していくことになる。

 スピルバーグは77年に「未知との遭遇」という作品を発表しているが、クライマックスで、巨大な宇宙船と地球人が交信する。黒沢清監督はこのシーンについて「映像によって物語が作者の意図を超えて変えられる初めての映画だった」(「ロスト・イン・アメリカ」デジタルハリウッド出版局)と語っている。あの巨大な母船をみたときに、それまで考えていた物語性がぐらっと歪んだというわけだが、この後、特撮技術、デジタル合成、CGがどんどん進化を遂げ、映画そのものへの変容へとつながってゆく。

「未知との遭遇」(1977)監督スティーブン・スピルバーグ

 70年代にオカルト映画ブームがあったと述べたが、こうしたジャンルは後にホラー映画という言葉で浸透するようになる。60年代まではロジャー・コーマン製作による低予算作品やH・G・ルイスという血まみれ映画の専門家などもいたのだが、当然ハリウッドの主流にはなり得なかった。ホラー映画ブームの背景には先ほども指摘したように、ヘイズコードが解除されたことがある。現在もレクター博士の映画が製作されるなど、ホラーはハリウッドの得意ジャンルとなるわけだが、その突破口を切り開いたのがトビー・フーパー監督の「悪魔のいけにえ」だった。視覚性優位となり、見せ物性が高くなっていった時代、観客はただただ呆然と映像を眺めることしかできないことが多くなってしまったわけだが、またしても黒沢監督の言葉を借りれば「人間の想像力を完全に停止することのできた初めての映画」が「悪魔のいけにえ」なのだ。音楽的シーンの選出が難しかったので、レザーフェイスがチェーンソーを持って走る様を観たいと思う。

「悪魔のいけにえ」(1974年)監督トビー・フーパー

 スピルバーグらがヒットを飛ばしてきた映画界の流れ、そしてデジタル技術の進化といった中で登場した代表的監督の一人がジェイムス・キャメロンだ。「エイリアン2」「ターミネーター」「アビス」「トゥルーライズ」そして「タイタニック」など大ヒットを連発してきたキャメロンの「ターミネーター2」から、技術革新の部分なども観てみよう。

「ターミネーター2」(1991年)監督ジェイムス・キャメロン

 キャメロンまで来ると映画史的感性はかなり希薄になり、視覚性の優位という点で映画のクライマックスはひとつではなく、いくつも盛り込まれ、上映時間もどんどん長くなっていったことが理解できる。さらに一本の作品に関わるスタッフの膨大な人数! 蓮實重彦氏は「トゥルーライズ」のエンドクレジットに膨大なスタッフの名前が出てくることを危惧しながら、前回紹介したマキノ雅弘のような低予算の中でも映画の躍動感をみせてくれる作家の知恵の重要性を指摘している。 

 スピルバーグや44年生まれのジョージ・ルーカス、そうした世代が当時ハリウッド第9世代などという総称で呼ばれ、新たな波を作っていると言われた時代があった。フランシス・コッポラを含め、70年代の終わりに黒沢明が「影武者」を作る際に来日していたが、このあたりは決定的に目指す人を間違えており、この70年代という時代はアメリカ映画が混沌とし、まさに今の映画の流れへと続くわけで、やはり極めて危うい時代だったという気がする。救いだったのは80年代に入りロン・ハワードや(最近はちょっと厳しいけれども)、ニコラス・レイの弟子にあたるジム・ジャームッシュなどが登場したことだった。

 そうした状況の中でも、「映画」をみせてくれ続けた存在がマイケル・チミノではないだろうか。デビュー作はクリント・イーストウッド主演の「サンダーボルト」。その後「ディア・ハンター」「天国の門」「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」「シシリアン」「逃亡者」などを発表する。構図の素晴らしさといったこともあるし、活劇が撮れる監督だと思う。しかしながら、「天国の門」が大惨敗してハリウッドから追放同然の身となり、満足に映画を撮れなかった時期も長かった。1943年生まれのチミノは、早いもので今年、還暦を迎える年齢に達するわけだが、まだまだ次回作を期待したい監督だ。「ディア・ハンター」の結婚式の1シーンを観てみよう。

「ディア・ハンター」(1978)監督マイケル・チミノ

 70年代を振り返るとき、自分自身の世代ではものすごい熱狂ぶりがみられたわけだが、ブルース・リーという存在をはずして考えることはできない。70年代は黒人映画ブームというものもあり、つまりマイノリティが映画の中でも主張しはじめるといったことが起こっていた。サイレント時代の早川雪舟という存在もあるのだが西洋人のエキゾチック趣味を越えるものではなかっただろう。ブルース・リーはいよいよ東洋人のハリウッド進出という先鞭をつけ、そのブームはその後ジャッキー・チェンの活躍にバトンタッチされ、現在の香港映画人がハリウッドで活躍する基盤ともなっているのだ。

 「燃えよドラゴン」の鏡の格闘シーンからラストシーンまでを最後に観てみたい。これはオーソン・ウエルズの「上海から来た女」の鏡に連なる映画史的なシーンとしても記憶されるべきものだ。

「燃えよ!ドラゴン」(1973年)監督ロバート・クローズ

 

第15回「俯瞰 20世紀 1890年~1900年代生まれの監督たち」2003/2/24開催

 今年は小津生誕100年ということで、その命日である12月12日に照準をあわせて様々な企画が立ち上がっている。小津は1903年に生まれ、還暦の63年、奇しくもその誕生日に亡くなっている。1927年にデビューし、1962年の「秋刀魚の味」が遺作となる小津は、以前この企画でも話題にでたが、映画の全盛期である30年代と50年代の渦中にいるのであり、まさに黄金期を支えた一人なのだ。今日はそうした映画の黄金期を支えた世代である1900年前後に生まれた映画監督たちに焦点を当て、その決定的な映画監督の名前をもう一度、ここで読み上げていきたいと思う。

 この映画の100年という歴史。たかだか100年なのである。例えば今日の配布資料(日本映画監督出生順リスト、世界映画監督出生順リスト)をみていただくとわかるがマノエル・デ・オリべイラは1908年の生まれで、例えばジョセフ・ロージーよりもニコラス・レイよりも、サム・ペキンパーよりもずっと年上なのであり、マキノ雅弘と同じ年齢だったりするのだ。オリべイラは最近も新作映画が公開され、まったくの現役の映画監督であり、1908という年代は現在進行形であってもおかしくない年代なのだ。若い世代の人と話していて、よく「それは古い映画ですか」などと言われることがあるが、映画とはまったく歴史の浅い、新たな表現領域であり、素晴らしい作品はいつ観ても新鮮で発見があるもの。古い、新しいという、時代にとらわれる見方に何の意味もないと思う。

 さて、一本目は小津の名前が出たところで、1947年の作品で「長屋紳士録」を紹介したい。小津は、時間の経過を示すカットなど挿入しないし、目線は文法的にわざと間違えるし、一体これは何なんだ映画なのかと思わせる、過激な映画を作り続けた人だといってもいいだろう。観てない人は、何だこんなのありかとどんどん驚いてほしいと思う。

 笠智衆が唄う「長屋紳士録」は一度この場でも上映したが、今回はもう少し前のドラマの部分から観たい。戦後すぐの時代、東京の焼け野原を舞台に、親とはぐれてしまった子供を笠が長屋に拾ってくる。飯田蝶子演じるかあやんが面倒をみることになり、当初まったく愛情がわかなかったが、次第に情が通じるようになっていく…。はじめの子供を捨てに行こうとする場面から笠が「のぞきからくり」を唄うところまでを観よう。

「長屋紳士録」(1947)監督・小津安二郎

 以前この企画のチェンジアップコーナーで浜田氏が清水宏の「花形選手」を紹介したが、清水宏も1903年生まれであり、今年が生誕100年なのだ。デビューは24年の「峠の彼方」、59年の「母のおもかげ」が遺作になる。僕自身、清水宏の作品を多く観ているわけではないが、セットよりも実景をうまく使い、自由闊達な映画作りをしていたという印象がある。坪田譲治の原作もの、「みかえりの塔」、戦災孤児を集めて撮った「蜂の巣の子供たち」など、子供の登場が清水作品の重要な要素の一つになっていると思うが、53年に「都会の横顔」という銀座で迷子になった子供の作品をとっている。池部良のサンドイッチマンが、子供を連れて歩くシーンを観よう。池部が実にいい。

「都会の横顔」(1953)監督・清水宏

 小津、清水のもう少し後の1909年生まれの監督に山中貞雄がいる。この人は残念ながら38年、29歳のときに戦死してしまい、現存する作品は3本しかないとされている。デビューは32年。37年の遺作「人情紙風船」を観ても、長屋の構図や、ふとインサートされるショットなど実に見事で、その映画的な話法には天才的なものがあったと容易に理解できる。ちなみに監督、加藤泰は山中の甥っ子にあたる。誕生年でみると、山中の翌年の1910年に黒澤明が生まれている。一歳違いとはいえ、山中と比較すれば、これは粋とやぼくらいの雲泥の差があるといえるだろう。作家的資質もあるだろうが、43年にトーキーでデビューした黒澤に比べ、山中はサイレント映画から撮り始めたという経験の差も大きいだろう。「ヒッチコック/トリュフォー映画術」でもたしか、映画学校の話をトリュフォーが切り出すと、そんな無駄なことはせず、サイレント映画を撮ったほうがはるかに勉強になる、といったことをヒッチコックが語っている。映画の全盛期を支えた映画監督たちは映像だけでみせるサイレント映画の経験をもっていた、ということは知っておくべきだ。

 さて、山中、35年に「丹下左膳余話 百万両の壺」という作品を撮っている。丹下の剣戟をあっと驚く爆笑時代劇に変換した必見作だ。実は百万両の値打ちがあるというこけ猿の壺。これをある道場主が探している。しかし、江戸中探し回るのをいいことに、彼は一日中遊んで暮らす口実にしているのだ。奥方には10年かかるか20年かかるかわからない、お前と離れるのは寂しいことだ、などと大嘘をつき、道場を出るまでは悲壮感あふれた大芝居をしている。しかし、道場を一歩出たとたん、突然活気に溢れ、足取りが軽くなるという転調が面白い。このシーンを観てみよう。

「丹下左膳余話 百万両の壺」(1935)監督・山中貞雄

 映画の面白さを生涯追求し、娯楽に徹した映画監督マキノ雅弘は、1908年生まれで山中の一つ年上になる。映画がまだ活動写真と呼ばれた時代に、映画の父と呼ばれた父、マキノ省三のもとで、子役として160本以上の作品に出演。18歳で監督デビューし、72年までに260本以上の作品を撮ってきた。マキノはまさに映画が体に染みこんだ映画の申し子のような人だ。28時間で一本の映画を撮ったこともあれば、2本の映画を同時に撮ったこともある。どんなに貧しい環境でもアイデア一つで躍動感溢れる映画にしてしまう。マキノ雅弘という人がいてくれたおかげで、映画史はどれほどカラフルに彩られたことか。その功績は計り知れない。演出術にも驚くべきものがある。「次郎長三国志」の森の石松と投げ節お仲の絡み。お仲に石松が熱をあげ、酒場でいっぱいやっているお仲のもとへ。石松は、女は目でくどくもんよ、などと入れ知恵をされている。お仲がよろけ、ぞうりが脱げる。石松が駆け寄る。お仲は「履かせて」と言う。その色香。お仲の足にふれ、はっとし、顔をみることすらできない石松。この流れの中にもお仲の色香、石松の純情を巧みにみせるマキノの演出術が光っていると思う。そして、二人のデュエットとなっていく。この魅力的なシーンを観たい。

「次郎長三国志第3部 次郎長と石松」(1953)監督・マキノ雅弘

 ドイツからハリウッドに渡り、ハリウッドにヨーロッパ的な洗練をもたらせたエルンスト・ルビッチ。1892年に生まれ、1915年にデビュー、23年にハリウッドに招かれて、「ニノチカ」「極楽特急」「天国は待ってくれる」「生きるべきか死ぬべきか」「青髭8人目の妻」などといった傑作を発表。ハリウッドの倫理規定ヘイズコードを逆手に直接的なセックス描写は巧みに避け、省略などによって観客の想像力をかきたてながら、見事にエロティックなシーンを演出した。ビリー・ワイルダーはルビッチの弟子にあたる存在だが、これも粋とやぼくらいの開きがあることは、ルビッチを観ることで容易に理解できると思う。ルビッチは初期の小津にも影響を与えている。先ほど、石松がぞうりを履かせるシーンを観てもらったが、「メリーウィドウ」という作品でもモーリス・シュバリエがジャネット・マクドナルドに靴を履かせるところがある。お互いに身分を偽り、男女が駆け引きをしているところだが、どうやって靴を脱がせ、個室につれていくのか、ルビッチならではのシーンとなっている。メリーウィドウにのってダンスするところまでを観たい。

「メリーウィドウ」(1934)監督エルンスト・ルビッチ

 映画の国フランスにはジャン・ルノワールがいる。ジャンは印象派絵画のあのルノワールの次男。1894年生まれ、1924年にデビュー、62年まで映画を撮った。「素晴らしき放浪者」「大いなる幻影」「ピクニック」「南部の人」「黄金の馬車」「フレンチカンカン」「ゲームの規則」など、そのフィルモグラフィは実に魅力的だ。59年の「草の上の昼食」には笛をふくと何かが起こるという男が登場する。ピクニックをしている男女たちにものすごい風が吹くことになる。風というと「キートンの蒸気船」やジョン・フォードの「ハリケーン」など様々な映画を思い出すが、この目に見えない風というものが映画にあっては実に映画的な興奮を呼び起こすのだ。物語はともかく、映画は風が吹くのだということ。また、面白い風を観ることができたという喜び。「草の上の昼食」のこのエロティックで魅惑的なシーンを観たい。

「草の上の昼食」(1959)監督ジャン・ルノワール

 ヒッチコックは未だにリメイクが作られ、あらゆる世代の監督に影響を与えている。1899年生まれ、1922年にデビューし、76年の「ファミリープロット」が遺作となる。63年の「鳥」では、鳥の声を電子楽器を使って音程をコントロールしながら捏造し、恐怖の効果をあげるという画期的な方法をとっていた。子供たちが学校から集団で逃走するところでは子供の集団の足音、羽ばたきの音から始まり、次に足音を消し、鳥の声、子供の叫び声だけを強調するなど、よく観るといろいろと音響をデザインしているのがわかる。主人公たちが家の中で第一波の襲撃を受けるところでは、鳥は少ししか姿をみせず、音の恐怖が強調される。鳥の声だけでなく雨戸を閉める音、扉をつつく音などあらゆる音が恐怖の対象となっている。生涯を人を怖がらせることに捧げたヒッチコックを映画史が持ち得たことを感謝せずにはいられない。

「鳥」(1963)監督アルフレッド・ヒッチコック

 映画監督の友人は、映画そのもののあり方がイベント化し、何か突出したものがなければ企画が通らない、なかなか「普通の映画」が撮れない、と嘆いている。彼は「発狂する唇」や「血を吸う宇宙」などがヒットし、その責任の一端は自分にあるとしながらも、スポンサーは脚本などろくすっぽ読まず、「誰が(役者)」で「何をするのか」しか考えないし、そのような傾向がどんどん過激になっているというのだ。何百という映画館で「ハリーポッター」が公開され、その影で「普通の映画が撮れる」クリント・イーストウッドの作品が単館公開、早期打ち切りということになっている。映画史を振り返りながら、では普通の映画とは何か、ということを観客の側が理解していくことは非常に重要なことではないだろうか。

 最後はジョン・フォードである。フォード自身も好きだと述べている53年の「太陽は光り輝く」で締めくくりたいと思う。ケンタッキー州の小さな町にプリースト判事という人がいる。選挙が控えている。ところが、ある売春婦が亡くなり葬儀を行いたいのだが神父に敬遠され、判事が取り仕切ることになる。売春婦の葬儀を行えばスキャンダルとなり、選挙の落選は決定的だ。しかし、プリーストは決行する。葬儀では砂利道を進む馬車の音だけが響き、それを怪訝そうに町の人々がみている。軽蔑の眼差しを浮かべながら。あちこちで悪口を話しているのもわかる。しかし、そうした町民たちに憤るように、勇気ある人たちが一人また一人と葬儀の参列に加わる。奮い立つ人々がいる。やがて黒人霊歌が響いてくる。葬儀が始まる―。

 参列に加わる青年はジョン・ラッセルという俳優で、80年代にはクリント・イーストウッドの「ぺイルライダー」に出演。映画史が継承される感動的なキャスティングだった。

「太陽は光り輝く」(1958)監督ジョン・フォード

 

第14回「映画のワクワク感 アヴァンタイトル集」 2002/12/23開催

 今回はアヴァンタイトル(クレジットタイトルの前のドラマ)の映画を特集する。これが決まれば、これから一体どんな映画が始まるのか、ワクワク感でいっぱいになってしまう。これもまさに映画的な体験といえるだろう。個人的にアヴァンタイトルでつい思い出してしまうのは007シリーズだ。現在も続く同シリーズ。早速初代ボンドを演じたショーン・コネリーの4作目「サンダーボール作戦」から観てみよう。

「007サンダーボール作戦」(1965)監督テレンス・ヤング

 女性警官と元泥棒が結婚したものの、不妊症で子供ができない。そんな折りに、5つ子誕生のニュースが飛び込み、一人くらい盗んでも…というアクションコメディ映画が「赤ちゃん泥棒」だ。ステディカムを駆使して縦横無尽に動くキャメラも話題のひとつだった。冒頭10分で警官と泥棒が刑務所で出会い、子供を盗む決意をするまでをユーモラスに描いている。

「赤ちゃん泥棒」(1987)監督イーサン・コーエン

 アルフレッド・ヒッチコックの「間違えられた男」は現実の事件を元に、ニューヨークのバンドマンが保険会社の襲撃犯に間違われる、という事件を描いたものだった。主演はヘンリー・フォンダ。ヒッチコックが冒頭、シルエットで登場する。

「間違えられた男」(1956)監督アルフレッド・ヒッチコック

 第2次世界大戦で連合軍側からも勇将と謳われたドイツのロンメル将軍の悲劇的な末路を描いた「砂漠の鬼将軍」。ロンメルを演じるのはジェームズ・メイスン。監督はヘンリー・ハサウェイだった。

「砂漠の鬼将軍」(1951)監督ヘンリー・ハサウェイ

 ジョン・フォード自身、気に入っている作品だと述べている「幌馬車」は、モルモン教徒の幌場車隊が新天地ユタを目指す物語だった。ガイド役をベン・ジョンソン、ハリー・ケリー・Jrが務め、そこに無法者が絡む。サンズ・オブ・パイオニアーズが主題曲を歌う。

「幌馬車」(1950)監督ジョン・フォード

 野生の動物を捕獲し、世界中の動物園に供給するプロフェッショナル・チームを描く「ハタリ!」。いかにもホークス的な痛快作で、冒頭のサイの捕獲シーンから、この作品が大傑作となる予感が立ちこめる。ハタリとはスワヒリ語で危険という意味だ。音楽はヘンリー・マンシーニだった。

「ハタリ!」(1961)監督ハワード・ホークス

 神代辰巳の作品では登場人物たちがしょっちゅう鼻歌を歌ったり、既成の映画音楽にはとらわれない音楽が使われ、独特の世界をみせてくれる。時間の構成もばらばらに解体され、そんな神代タッチが確立された頃の作品がこの「濡れた欲情・特出し21人」だ。古川義範演じるスケコマシが冒頭妙な節をつけて「恨み節」を歌うところが何とも面白い。

「濡れた欲情・特出し21人」(1974)監督・神代辰巳

 殺人、強盗犯などの凶悪犯罪者を集めて部隊を結成し、ノルマンディ上陸前の破壊工作を行おうというのが「特攻大作戦」だ。指揮官はリー・マービン。これにジョン・カサべテス、チャールズ・ブロンソン、ドナルド・サザーランド、テリー・サバラスら猛者どもが大暴れする。

「特攻大作戦」(1967)監督ロバート・アルドリッチ

 日本映画でアヴァンタイトルといえば、どうしても「仁義なき戦い」を思い出してしまう。監督は深作欣二。そうそうたる顔ぶれがタイトル部分で顔をみせてくれる完結編から観てみよう。

「仁義なき戦い・完結編」(1974)監督・深作欣二

 

 

第13回「俺(あたい)にも歌わせろ! 歌手が歌う映画音楽 洋画篇」 2002/11/25開催

 今回は前回に続き、歌手が歌う映画音楽の洋画編だ。ところで、歌というものはとりわけ歌詞があるだけに映画で活用する際は映画的効果が期待されるものだと思う。しかし、昨今の映画では音楽産業が力をもったこともあり、タイアップとしての映画音楽という音楽市場も見越した使われ方をしているものが多く、安易に音楽が使われているという印象がある。

 ロベール・ブレッソンも語っているように、「トーキー映画が沈黙を発明した」のであって、サイレント映画は必ずしも沈黙していたわけではない。映画における音、音楽の使われ方は本来もっと深い意味があるはずだ。今日は映画と音楽の幸福な関係がみられる映画を紹介しながら、そのようなことを考える機会になればと思う。

 さて、一本目はハワード・ホークス特集でもご紹介した45年の「脱出」だ。主演はハンフリー・ボガート、ローレン・バコール。前回はバコールの歌うシーンを紹介したが、音楽を担当し、かつ重要な脇役をやったホーギー・カーマイケルが「香港ブルース」を歌うシーンを紹介したい。この人は「スターダスト」をはじめ、ジャズ・スタンダードの作曲でも知られている。

「脱出」(45年)歌ホーギー・カーマイケル

 安易な音楽産業とのタイアップという話をしたが、既成曲をふんだんに使う映画がとりわけ90年代以降増えている気がする。クエンティン・タランティーノもそういう手法が好きな監督だろう。既成曲をちりばめた映画の先駈けといえば、69年の「イージーライダー」であろう。これはアメリカンニューシネマというくくりでの代表作と言われがちだが、むしろデニス・ホッパーのデビュー作として観たい。しかし、この後ホッパーは「ラストムービー」という呪われた傑作を発表し、一時映画界から消えてしまう。「イージーライダー」ではストーリーと密接に絡みながら、効果的にロックが使用されていた。

「イージーライダー」(69年)歌ステッペンウルフ

 ホッパーは「ラストムービー」をめぐってハリウッドと対立し、追放されたあげくに酒とドラッグに溺れ、精神病院にまで入院してしまうことになる。しかし、80年代の後半に入り奇跡の復活をとげ、俳優として活躍する一方で、「ホットスポット」「ハートに火をつけて」など監督としてかなりの手腕を発揮した。88年の「カラーズ」では監督に専念、ロスのストリートギャングの抗争をクールに描いていた。主演はショーン・ペン、ロバート・デュバル。音楽はハービー・ハンコックが担当し、俳優としても活躍するアイスTがラップを歌っている。

「カラーズ 天使の消えた街」(88年)歌アイスT

 ロバート・アルトマンは71年に「ギャンブラー」という傑作を発表している。これは西部開拓の時代、カナダの国境に近い炭坑町が舞台。ウォーレン・ビーティ演じる賭博師が流れてきて、ジュリー・クリスティと組んで売春宿をはじめる。が、街をのっとろうとする企業に殺されてしまう。雪の中を凍り付いて死んでゆくシーンが印象的だった。ビルモス・ジグモンドのカメラも素晴らしい。レナード・コーエンというカナダ出身のシンガーソングライターが歌うタイトルバックのシーンを観たい。

「ギャンブラー」(71年)歌レナード・コーエン

 80年代のフランスに衝撃的に登場したレオス・カラックス。「汚れた血」はドニ・ラバン主演で「ボーイ・ミーツ・ガール」「ポンヌフの恋人」と共にアレックス3部作の一本で、86年の第2作目。フィルムノワールとメロドラマが合致した傑作であり、ふるえるような映像の魅力に溢れていた。ジュリエット・ビノシュ、ジェリー・デルピーの二人の女優も素晴らしい。アレックスは自分の過去を捨て、ある一味の強奪計画に加わるが、ミシェル・ピッコリ演じる男の連れ、ジュリエット・ビノシュに次第に惹かれてゆく一夜のシーンがある。ラジオからシャンソンに続いてデビッド・ボウイの「モダンラブ」がかかり、ラバンが疾走する。

「汚れた血」(86年)歌デビッド・ボウイ

 ヴィム・ベンダースの「ベルリン天使の歌」の続編で「時の翼にのって」という作品がある。ベンダースはロック好きで知られ、この作品でもニック・ケイブ、U2、ローリー・アンダーソンなどの音楽を使っている。本人の役でも出演するルー・リードがコンサートで「WHY CAN'T I BE GOOD」、なぜ善人になれないのか、という歌を歌うシーンを観たい。

「時の翼にのって」(93年)歌ルー・リード

 フランスにレオス・カラックスが登場した八十年代、アメリカにはジム・ジャームッシュが登場した。その公開作「ストレンジャー・ザン・パラダイス」をみたときは、新しい作家の登場に立ち会った、という感動を覚えた気がする。86年の「ダウン・バイ・ロー」は前作に続いて、ジョン・ルーリーとトム・ウエイツ、イタリアからロベルト・ベニーニの3人が主演。この3人は刑務所で同室となり脱獄し、素晴らしい冒険物語になる。おかしいのはこの3人のコミュニケーションが何とも行き違ったものになっている点で、とりわけたどたどしい英語を操るベニーニがおかしかった。音楽はジョン・ルーリーが担当し、トム・ウエイツが歌っている。舞台はルイジアナの沼沢地帯で、ニューオーリンズの町を横移動で映す冒頭の素晴らしいシーンをみたい。

「ダウン・バイ・ロー」(86年)歌トム・ウエイツ

 先週ジェームス・コバーンが亡くなった。追悼の意味も込めて、サム・ペキンパーの「ビリー・ザ・キッド 21歳の生涯」を紹介したい。これは原題がパット・ギャレットとビリー・ザ・キッド、パットをコバーン、ビリーをクリス・クリストファーソンが演じている。また、音楽をボブ・ディランがつけていて、出演もしている。このビリーとパットは友人同士だったわけだが、パットは後に保安官になってビリーを追うことになる。ペキンパー映画でおなじみの俳優が脇にたくさん出てくるが、ギャレットが協力を依頼するガンマンたちは老人だったり、ビリーとの共通の友人だったりして、誰もビリーを殺したくない、でもそうせざるをえない時代に変わっている。それがとても切なかった。老人が死ぬ場面ではボブ・ディランの「天国の門」が歌われる。そんな1シーンをみたい。

「ビリー・ザ・キッド 21歳の生涯」(73年)歌ボブ・ディラン

 ヒッチコックの「知りすぎていた男」はジェームズ・スチュアートが医師、ドリス・デイがその妻であり歌手であるという設定で、モロッコである事件に巻き込まれて子供を誘拐されてしまう。夫妻は犯人を追ってイギリスまで追う。そして、犯人の潜む大使館で子供の所在を確認するためにドリス・デイの歌が効果的に使われる。子供と母の間の思い出の歌を、さすがにヒッチコックは映画の中の重要な道具として見事に使っている。その1シーンをみたい。

「知りすぎていた男」(55年)歌ドリス・デイ

 「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」というジャズのスタンダードになっている曲があるが、この曲を最も効果的に活用した映画といえば、クリント・イーストウッドの「スペースカウボーイ」ではないだろうか。ロシアの通信衛星が墜落の危機に瀕する。このままで地球に落下してしまうだろう。これを修理できるのは設計者であるクリント・イーストウッドしかいない、というわけで、40年前のパイロットチームが再編成されることになる。チームはクリントのほか、トミー・リー・ジョーンズ、ドナルド・サザーランド、ジェームス・ガーナーの4人併せて262歳などと宣伝では言われていたが、この気概の男たちの映画、最後の15分ほどをみて今日の締めくくりとしたい。

10「スペースカウボーイ」(00年)歌フランク・シナトラ

 

 

第12回「俺(あたい)にも歌わせろ! 歌手が歌う映画音楽 邦画篇」 2002/10/31開催

 今回は歌手が歌う歌ものということで、60年代から最近の作品まで紹介したい。

 今日は、野良猫で始まり、野良猫で終わろうと思うのだが、まず最初は一回目のこの企画でもご紹介した「野良猫ロック」シリーズ第一作目の「女番長 野良猫ロック」を今度は映像付きで紹介したい。1970年の作品で、これは60年代の裕次郎、小林旭の時代からまた世代が変わって量産されたアクション映画群、日活ニューアクションと呼ばれた中の一本だ。女番長、非行グループ、ヒッピーなどの集団が抗争し全滅していくという、当時の時代と日活末期という気分を反映していた。シリーズの監督は藤田敏八、長谷部安春。この一本目には売り出し中の和田アキ子が出演していて、主題歌「男と女のロック」を歌っている。和田のバイクと藤竜也のバギーカーの追いかけシーンから曲を聴く。

「女番長 野良猫ロック」1970年 「男と女のロック」歌・和田アキ子

 続いて、これも「野良猫ロック」シリーズの四作目「野良猫ロックマシンアニマル」。長谷部安春監督作品。ズー・ニー・ブーというグループが「ひとりの悲しみ」という、みなさん別の題名でよくご存じの曲のオリジナル曲を歌っている(尾崎清彦の「またあう日まで」のこと)。ボーカルは町田義人。作詞は阿久悠、作曲筒美京平。ところで、長谷部安春という監督は千カット以上で撮った「俺にさわると危ないぜ」、全編望遠レンズで撮った「広域暴力・流血の抗争」など、スタイリッシュなアクションをみせる人でもある。

「野良猫ロック マシンアニマル」1970年 「ひとりの悲しみ」歌・演奏ズー・ニー・ブー

 さて、長谷部安春続きで、もう一本紹介したい。これも一回目で紹介したものだが、「野獣を消せ」という作品だ。これは野良猫ロックシリーズの前の作品で、渡哲也、藤竜也、川地民夫などが出演。出演もしている尾藤イサオが主題歌「ワイルドクライ」を歌っており、この歌いっぷりに注目。この曲は米軍基地のある町で渡の妹がレイプされ、血の付いた赤いゴムゾウリがアップになって、真っ赤にただれた夕陽の大写しがタイトルバックになってこの曲がかかると記憶している。

「野獣を消せ」1969年 「ワイルドクライ」歌・尾藤イサオ

 2001年9月に相米慎二監督が53歳で亡くなった。その死はあまりに早すぎたし、日本映画界で最も重要な監督の一人であっただけに、未だ映画界はその動揺を隠せずにいるのではないだろうか。相米監督は音楽の使い方にも抜群のセンスを見せた人で、とくに既成曲の選択のセンス、挿入の仕方が素晴らしく、単なる既成曲を並べるだけの作品群とは雲泥の差があった。85年の日活ロマンポルノ「ラブホテル」は、仕事に失敗して死に損なった男と、あるホテトル嬢の物語。山口百恵ともんたよしのりの曲がたいへん効果的に挿入されていた。山口百恵の「夜へ」は阿木耀子作詞、宇崎竜童作曲。曲自体素晴らしく、この選曲のセンス、そして曲が物語に突き刺さるようなセンス。そんな1シーンをみたい。

「ラブホテル」1985年 「夜へ」歌・山口百恵

 市川雷蔵は69年に37歳の若さで亡くなった。しかし、150本以上の映画に出演。68年に「ひとり狼」という股旅ものの傑作を発表している。雷蔵は「沓掛時次郎」など股旅ものが得意ジャンルのひとつで、撮影半ばで病気のため降板した「関の弥太っぺ」も股旅ものだった。「ひとり狼」は雷蔵にとって最後の股旅映画になるが、これは最高の部類に入るだろう。登場人物の一人を演じる長門勇が間接話法的に主人公について語るのもよく、孤独感が痛切に出ていたと思う。ウィリー沖山が歌う主題歌を1シーンをみながら聴きたい。

「ひとり狼」1968年 主題歌・ウィリー沖山 

 日活ロマンポルノのトップランナー、神代辰巳。その作品群では、男女の性愛という形で徹底的に肉体が描かれる。ポルノ以外の作品でも、だらだらと肉体が絡み合ったりぶつかったり、「青春の蹉跌」ではショーケンと桃井かおりがおぶったりおぶわれたり、「宵待草」では登場人物が路上をごろごろ前転しながら物語が進められる。この独特の文体を映画評論家の山根貞男氏は「軟骨的文体」と呼んでいる。登場人物はよく歌や鼻歌を歌っていて、それがしょっちゅう流れているのも、また、神代映画ならではだが、この監督も音楽的な閃きにものすごいものがあった。79年に東映で撮った「地獄」。これは親子2代にわたって近親相姦を犯し地獄に堕ちるという、すごい話だが、山崎ハコが「きょうだい心中」という歌を歌っている。

「地獄」1979年 「きょうだい心中」歌・山崎ハコ

 三上寛は、ここで以前紹介したことがあるが、ピラニア軍団を歌手に全作詞作曲でアルバムを作ったり、「仁義なき戦い」シリーズや寺山修司の作品に出演するなど、映画と関係の深い歌手だ。79年には武田一成の「女の細道・濡れた海峡」に主演、山口美也子演じるストリッパーと東北の雪の中をさまよい歩き、印象的だった。同じ武田監督の76年のロマンポルノに「夫婦秘戯くらべ」という映画があるが、ここでは「関係」という歌を歌っている。映像がないので、歌だけを聴いてみたい。

「夫婦秘戯くらべ」1976年 「関係」歌・三上寛

 東映で傑作を連発した工藤栄一もすでに亡くなってしまった。60年代には「十三人の刺客」「十一人の侍」など集団抗争時代劇、「日本暗黒史」シリーズなどを撮り、その後、テレビに移行。そして、79年に「その後の仁義なき戦い」でスクリーンにカムバックし、以後、「影の軍団服部半蔵」、「ヨコハマBJブルース」、「野獣刑事」などなど大活躍した。活劇、アクションの監督であるだけでなく、映像の詩的な美しさが、奥行きの深い映画にしていた。北海道出身の人でもある。「その後の仁義なき戦い」はいわゆるやくざ映画だが、青春映画の傑作でもあり、主人公の根津甚八が仲間を裏切り、死に別れ、どんどん堕ちてゆく切ない映画だった。柳ジョージとレイニーウッドの歌を全編に効果的に使っていた。

「その後の仁義なき戦い」1979年 柳ジョージとレイニーウッド

 最後は鈴木清順監督の2000年に公開された最新作「ピストルオペラ」を紹介したい。これは清順が日活で最後にとった―というのはこれを作ってクビになってしまうからだが―「殺しの烙印」のリメイクだ。殺し屋たちがナンバー1の座をかけて殺し合う、その一人、通称野良猫の役を江角マキコが演じていた。音楽は元ミュートビートのこだま和文、主題歌とエンディングテーマはエゴラッピンが歌っている。どこをきっても清順映画の映像美、江角と永瀬正敏の対決シーンで聴いてみたい。

「ピストルオペラ」2001年 こだま和文・エゴ・ラッピン

 

 

第11回「活劇の精神、映画の原点! 喜劇映画を観よ!!」 2002/09/30開催

   映画の幼年期、ハリウッドが誕生する以前の1910年代始めから、喜劇映画は人気を博したジャンルだった。マック・セネットが笑いの工場キーストンを設立し、スラップスティック喜劇をどんどん製作する。ロスコー・アーバックルやキーストンコップスらの人気スターは、破壊的で無秩序な、信じがたい世界を形成し、それまでの演劇的な表現から映画はどんどん解放されていくことになる。喜劇は映画の創生期からまさに映画的なジャンルなのだ。 ヴォードヴィリアン出身のマルクス・ブラザーズはサイレントからトーキーへの以降期に登場し、20年代から40年代に活躍した。当初は5人兄弟だったが、グルーチョ、チコ、ハーポの3人が中心メンバーだ。彼らは傍若無人な振る舞いで、破壊的なナンセンスギャグを連発し、彼らの行くところ、何もかもが破壊しつくされてしまうかのようだ。33年の「我が輩はカモである」でグルーチョはフリード二アという独裁国家の大統領になり(何という筋立て!)、隣国と戦争を始めるのである。さあ、これからまさに戦争だという歌になるシーンをみたい。 

1.「我が輩はカモである」33年 監督レオ・マッケリー

 長男のチコ・マルクスはたいへんなピアノの名手でもあって、右手の人差し指をピストルを撃つような動きにしてピアノを弾くところが、彼の芸の見せ所でもあった。46年の「マルクス捕物帖」という映画からピアノ演奏シーンをみたい。 

2.「マルクス捕物帖」46年 監督アーチー・メーヨ

 さて、もうひとりのマルクス兄弟、ハーポ・マルクス、この人がすごい芸の持ち主なのである。彼は映画の中ではまったくしゃべらず、チコが通訳となって、ハーポの発する動きや音からジェスチャーゲームのように言っていることを当てるギャグがよく登場するのだが、つまりハーポはサイレント映画的な役割を担っていたのだ。この人はたいへんなハープ演奏の名手でもあり、「マルクス2挺拳銃」という作品から、インディアンの笛とセッションするシーンをみたい。

3.「マルクス2挺拳銃」40年 監督エドワード・バーゼル

 ハリウッドの大プロデューサー、サミュエル・ゴールドウィンは作品だけでなく、多くのスターを育てた人でもある。以前、ハワード・ホークスの「ヒットパレード」という映画をここで紹介したが、その主演コンビ、ダニー・ケイとヴァージニア・メイヨもそうしたスターだった。この二人は47年の「虹を掴む男」という作品でも共演しており、ダニー・ケイは、いつも何かを空想している出版社の編集者を演じていた。空想のたびに、「ポケタポケタ、、」という音が聞こえてくる、そんな1シーンをみたい。 

4.「虹を掴む男」47年 監督ノーマン・Z・マクロード

 決して多作の人ではないが、フランスにジャック・タチという面白い作家がいる。監督・脚本・主演を自分でこなしてしまう人で、「ぼくの伯父さん」ものでは帽子、丈の短いコート、パイプといういでたちで、飄々としながらも、かなり不器用で、周囲の人々に迷惑をかけまくるユロという伯父さんを演じる。しかし、周囲には子供をはじめ彼のことを愛し、気になってしょうがない人々もおり、小さなエピソードが淡々と、独特の味わいでスケッチされていく。「ぼくの伯父さんの休暇」の、ある避暑地での最後の夜を過ごすシーンをみたい。 5.「ぼくの伯父さんの休暇」52年 監督ジャック・タチ

 日本映画も紹介したい。ご存じの方も多いであろう、植木等主演の「ニッポン無責任時代」だ。植木は「コツコツやるやつぁ、ご苦労さん」と歌いながら、調子よく世渡りし、嘘のような大出世を遂げる主人公を演じている。クレージーキャッツのコミックソングは60年代の日本で大ヒットしたわけだが、今みてもただならぬ勢いを感じることだろう。監督は古沢憲吾。喜劇は頭の悪い作家では撮れないもので、古沢の手腕というものも見落としてはいけないところだと思う。「ハイ、それまでよ」を歌う宴会のシーンをみよう。 

6.「ニッポン無責任時代」62年 監督 古沢憲吾

 森崎東という喜劇監督をご存じだろうか。69年の「喜劇・女は度胸」がデビュー作で「男はつらいよ」の監督作もあるが、山田某とは格が違う。80年代には「生きてうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言」という大傑作がある。森崎喜劇は訳ありの男と女が登場する群像劇で、とにかくやたらと面白く人間が描かれている。 人間の語り部、森崎はあるインタビューでこんな話をしていた。九州の炭坑では、どこに行っても「すかぶら」という人がいる。語源はわからないが、この人はまったく仕事をしない人で、一緒にヤマを下りても、現場ではまったく仕事をせず、話ばかりしているという。だから休憩のときもそいつだけ汚れていない。そして、時間が来ると「もう時間ばい、出よう出よう」といってみんなを率先して出すらしい。「すかぶら」は一人分のノルマも果たせないが、しかし、仲間はみんな許しているという。ラジオやテレビがかかっているわけでもない暗闇の中では、あいつとあいつができていて、夜這いに行ったとか、そういう話がいちばん面白いからなんだと。そして、森崎は「自分はすかぶら風に生まれたんだ」と語っているのだ。

 70年代に「喜劇・女」シリーズがあった。新宿芸能社というストリッパーの斡旋所が舞台で、森繁久彌が主人、中村メイコや左幸子がおかあさんを演じていた。ここにも様々な男と女が登場し、泣き笑いをみせくてくれる。71年の「女生きてます」から、一つのエピソードを観たい。

7.「喜劇 女生きてます」71年 監督 森崎東

 サミュエル・ゴールドウィンが育てた芸人に、エディ・カンターという人がいる。30年代に活躍した人で、「突貫勘太」「当たり屋勘太」など、本当に趣味のいい喜劇映画だったと思う。36年の「当たり屋勘太」は、スラップスティックの荒唐無稽なシーンがラスト10分にわたって繰り広げられる。こうした作品を観ていると、喜劇の精神、活劇の精神が躍動し、これがまさに映画なのだと思わされる。36年といえば、映画全盛時代。50年代以降、テレビも登場し、ハリウッドは緩やかに崩壊していくわけだが、このような作品を観ながら今俯瞰したとき、映画の失ってきたものの大きさに唖然とさせられることはないだろうか。そんなことも考えながら、30年代の映画を最後に紹介したい。

8.「当たり屋勘太」36年 監督ノーマン・タウログ 

 

 

第10回「恋する映画大特集 女と男の機微に泣け!」 2002/08/28開催

 1932年のフランス映画「巴里祭」。監督はルネ・クレールで、音楽はモーリス・ジョベールが作曲している。この作品の作られた当時は映画がまだトーキーになったばかりの時代であり、それまでのサイレント映画の、足音を行進曲のリズムで伴奏するなど、あまりにも音が画を模倣しすぎることについてジョベールは批判的だった。「巴里祭」にはカフェに泥棒が入るシーンで、格闘すると自動ピアノが鳴り出すという面白いシーンもあるが、音楽が映像と対位法的に使われるという、それまでにない先駆的な音の使い方をしている。

 映画は巴里の下町を舞台にした花売り娘とタクシー運転手の恋の物語だ。二人は仲が良かったりいがみあったり、ダンスを踊っても、楽士が途中で酒を飲み音楽が中断するなど何かと邪魔が入ってぎくしゃくしている。ところが、そこに雨がざあっと降り、二人は雨宿りをし、仲直りをする。雨がロマンスを生む。そんな最後のシーンを観たい。

「巴里祭」(32)音楽モーリス・ジョベール

 アメリカ映画を代表する監督の一人、フランク・キャプラの「或る夜の出来事」は1934年の作品だ。クラーク・ゲーブルとクローデット・コルベールが主演で、失踪中の社長令嬢と失業中の新聞記者が出会い、結ばれるまでをユーモアたっぷりに描いた道中記である。この作品で有名なヒッチハイクのシーン(ゲーブルがヒッチハイクの仕方についてうんちくをたれまくるが一台も止められない…)と、乗り合いバスで乗客たちが「空中ぶらんこに乗った勇敢な若者」という歌を大合唱する、ハッピーな1シーンを観たい。

「或る夜の出来事」(34)

 ラオール・ウォルシュは1941年に「いちごブロンド」というラブコメディを撮っている。ジェームズ・キャグニーが主演で、憧れのいちごブロンドの女性をめぐる騒動をユーモアたっぷりにテンポよく描いている。劇中、「バンド・プレイ・オン」という曲が効果的に何度か聴かれるが、憧れの女性とキャグニーのデートをするシーンで聴いてみたい。意味なく挑発的な太ったカップルと喧嘩っぱやいキャグニーのやり取りも楽しいシーンだ。

「いちごブロンド」(41)

 人間同士の恋愛ではない恋愛映画もある。例えば「キングコング」。これはキングコングの美女への切ない片思いの物語だった。1933年の「キングコング」は巨匠マックス・スタイナーが音楽を担当。スタイナーはウィーン生まれで、ヨハン・シュトラウスやオッフェンバックと親交のあった家庭に生まれ、マーラーに師事したというが、「シマロン」(戦前版)「風と共に去りぬ」「三つ数えろ」「避暑地の出来事」やジョン・フォードの作品など代表作が無数にある。同時代にアルフレッド・ニューマンやミクロス・ローザなどといった作曲家がいるが、こうした作曲家たちと共に旋律を朗々と歌い上げる、いわゆる後のハリウッドスタイルの映画音楽の原型を創造していった。エンパイアステートビルで命果てるキングコングの最後を見届けたい。

「キングコング」(33)音楽マックス・スタイナー

 ロン・ハワードの84年の作品「スプラッシュ」は人間と人魚の恋の物語だった。ギリシャ時代から伝えられる人魚伝説は、ここで現代のファンタジーにアレンジされている。トム・ハンクスとダリル・ハンナが主演。海で溺れた少年とそれを救った人魚の淡い恋。成長した二人が海で再会するシーンを、テーマ曲を聴きながら観たい。

「スプラッシュ」(84)音楽リー・ホールドリッジ

 アルフレッド・ヒッチコックのほとんどの作品は恋愛映画である。57年の「めまい」は最も官能的な愛の映画だろう。ジェームズ・スチュアートとキム・ノバクが主演だった。高所恐怖症のために警察を辞めた刑事が友人の妻の監視を依頼され、やがて恋に堕ちていく。音楽はバーナード・ハーマン。この企画ではすでに何本か紹介してきたが、ヒッチコック、ハーマンのコンビはこの作品の前に「ハリーの災難」「間違えられた男」、この作品の後には「北北西に進路を取れ」「サイコ」などがあり、乗りに乗っていた時代だったと思う。

「めまい」(58)音楽バーナード・ハーマン

 ジャック・ドゥミーの「シェルブールの雨傘」は、アルジェリア戦争によって引き裂かれる若い二人の切ない愛の物語だった。主演はカトリーヌ・ドヌーブとニーノ・カステルヌオーボ。ミシェル・ルグランが音楽を担当し、すべての台詞が歌で歌われるというユニークな作品となっていた。シェルブールの町を塗り替えてロケしたという、色彩の美しさが忘れがたい。タイトルバックの雨傘が並ぶところは、映画ならではの素晴らしさだ。冒頭のタイトルバックと、別れる前夜の主題曲を歌うところを続けて観たい。

「シェルブールの雨傘」(64)音楽ミシェル・ルグラン

 ブロードウェイの演出家としても活躍したルーベン・マムーリアンは、1932年に「今晩は愛して頂戴ナ」という作品を撮っている。トーキー映画の初期は日常的な会話というより、華やかに歌い踊るミュージカル的、オペレッタ的な作品が多かったが、この映画もシネオペレッタ的な作品となっており、フランスの人気シャンソン歌手モーリス・シュバリエと舞台歌手だったジャネット・マクドナルドが存分に歌を聴かせてくれる。この二人はエルンスト・ルビッチの傑作「メリーウィドウ」のコンビでもある。

 この作品は、パリの朝がはじまるところから始まるのだが、町の靴職人や工事する人、いびきをかく浮浪者、布団をぱんぱんたたく音、そういった音がすべて一つの音楽、リズムを奏でるという面白い導入部となっている。そして王女と庶民である仕立屋がついに結ばれる、驚くべきラストシーンを観たい。

「今晩は愛して頂戴ナ」(32)

 

第9回「これぞハワード・ホークス!~至福のジャムセッションと歌の世界」 2002/06/24開催

 ホークスは1896年に生まれ、1977年に亡くなった。1925年の「栄光への道」でデビューし、70年の「リオ・ロボ」が遺作となるが、その間、監督とクレジットされた作品は40数本にのぼる。偉大な映画作家の中でもとりわけホークスは西部劇、スクリューボールコメディ、ギャング映画、ミュージカル、冒険映画、メロドラマなどあらゆるジャンルの映画を撮った。驚くべきことに失敗作は一本もない。すべての作品は徹底して娯楽、エンターテインメント性に貫かれ、余分な描写はいっさいなく最短距離で映画の面白さを表現する聡明さに溢れる。そこにあるものは単なる物語ではなく映画そのものであり、もはや何も口を挟む余地はなく、ただただ観ていただきたいとしか言いようがない。

 映画好きという人と話していて、ふと、ああこの人は物語だけを観ているなと思うことがあるが、映画には物語だけではなく、映画でしか表現できないものがある。ハワード・ホークスの映画にはそうした映画的な要素がびっしりと詰まっており、製作された年代は映画にとってまったく問題ではなく、ただもうそこに映画があるのだいう発見をしていただきながら、たとえビデオでしか観られなくても、そこらでかかっている映画よりも遙かに豊かな映画体験を味わうことができることだろう。ホークスの作品にはよく登場人物たちのセッションシーンがあって、これがまたすべて素晴らしいのだが、今日はジャムセッション、歌のシーンを中心に紹介したい。

 ホークス作品の特徴として、プロフェッショナリズムというものがある。登場人物たちはそれぞれなにがしかのプロであって、彼らは連携プレーによって、あらゆる困難を乗り越えていく。「リオ・ブラボー」は「真昼の決闘」という西部劇に腹を立てて作った作品だとホークス自身述べているが、真のプロはこうだ!という作品になっている。ある凶暴な一味に対して、ジョン・ウエイン演じる保安官にはアル中と足の悪い老人、青二才というハンディキャップのある仲間しかいない。これをプロたちの連携プレーによって乗り越えていく。アル中を演じるのはディーン・マーティンで、彼の歌にリッキー・ネルソン、ウォルター・ブレナンが加わり、ジャムセッションとなるシーンがある。なお、ホークス映画では主人公はセッションに参加しないことになっていて、ジョン・ウエインは後ろからにこやかに見守っている。そんなウエインの表情にも注目していただきたい。非常に美しいシーンだ。

「リオ・ブラボー」1959年

 ハンフリー・ボガート主演の「カサブランカ」を海の話に焼き直して制作されたのが、45年の「脱出」だ。同じくボガートが主演している。原作はアーネスト・ヘミングウェイで、脚本はウィリアム・フォークナー。フォークナーは以後何作かホークス映画の脚本に加わることになるが、こうした作家を動員するのもホークスの面白いところだ。これは当時20歳のローレン・バコールのデビュー作でもあり、ホークスはバコールに低音の声を維持させるよう特訓させたそうだが、その歌声を聞いてみたい。ピアノ演奏をしているのは「スターダスト」の作曲で有名なホーギー・カーマイケルで、重要な役柄を演じていた。

「脱出」1945年

 ホークスは魅力的な女性を創造する達人でもあったのだが、ホークス自身、ベストの女優としてフランシス・ファーマーの名をあげている。この人は伝説の女優で、顔がよく、知性もあり、仕事に取り組む姿勢が素晴らしかったという。ケネス・アンガーのハリウッドスキャンダルを描いた著書「ハリウッドバビロン」にも詳しいが、ファーマーは軽い交通違反をきっかけに、警察に逆らいに逆らい、精神病院に収容され、あげくにロボトミー手術を施されてしまう。そのファーマーが主演しているのが「大自然の凱歌」(36年)だ。

 これはホークスが途中でプロデューサーのサミュエル・ゴールドウィンにクビになりウィリアム・ワイラーが完成させている。エドワード・アーノルド演じる製材業者が、その会社の娘婿になり、出世しようかというとき、フランシス・ファーマー演じる女性と巡り会うが結局仕事を選ぶ。その女性は製材業者の友人と結婚し、子供を産んで亡くなってしまう。その子供が母親にそっくりで、製材業者は再び彼女を手に入れようとするが、今度は自分の息子と争うことになる。では、ファーマーとエドワード・アーノルドが最初に出会うシーン、ここでファーマーが歌っている。伝説の女優をみよう。

「大自然の凱歌」1936年

 テネシーの山男アルビン・ヨークという平和主義者が、その主義を捨て、第一次世界大戦で英雄になる―。ゲーリー・クーパー主演の「ヨーク軍曹」だ。この男は七面鳥をうつときに舌をぶるぶる震わせながらヘンな声をあげて、仕留めてしまう名人なのだ。それを応用し、たった一人でドイツ兵を何十人と捕虜にしてしまう素晴らしくでたらめな映画だった。時代的には愛国的な作品を撮るべきはずなのに、まったくそうなっていないところもホークスならでは。暴れん坊だったヨークが田舎にいる時分、雷に打たれて啓示を受け、教会で祝福されるというシーンがある。神父を演じているのはホークス映画で重要なバイプレーヤー、ウォルター・ブレナン。この人も注目していただきたい。

「ヨーク軍曹」1941年

 ケーリー・グラント演じる科学者は、ある製薬会社で若返りの薬を研究している。これを檻から抜け出したチンパンジーが偶然完成させてしまう。飲んだ人は10歳程度の子供に戻ってしまい、大騒動が起きるというかなり狂った作品がある。52年の「モンキービジネス」だ。奥さんを演じているのはフレッド・アステアとのダンスの共演でも有名なジンジャー・ロジャース、若き日のマリリン・モンローも出演している。薬を飲んでしまい10歳の子供同士に戻ってしまった夫婦が喧嘩をし、奥さんが昔のボーイフレンドに電話で言いつける。ボーイフレンドは正気なので本気で助けに向かうのだが、グラントのほうは近所の子供と共にインディアンごっこをしながら頭の皮をはごうと待ち受ける。ここもユニークというほかないが、グラントと子供たちのセッション・シーンを観たい。

「モンキー・ビジネス」1952年

 アフリカで猛獣狩りをするハンターたちを描いた「ハタリ!」という作品があった。これもホークス的なプロフェッショナリズムの人々による連携プレーが随所にみられ、わくわくしてしまう作品で、ロケット弾を使って猿を捕獲するシーンなど、もう信じがたいような映画的興奮を味わうことができる。カメラマンとして参加するエルサ・マルティネリがピアノを弾き、レッド・バトンズがハーモニカを吹いてセッションするシーンを観たい。ここでもジョン・ウエインは後ろから見守っている。

「ハタリ!」1962年

 マリリン・モンローとジェーン・ラッセルが主演した「紳士は金髪がお好き」という作品はミュージカル仕立てのラブコメディ。マリリンはあるお金持ちの2世とパリで結婚することになっているが、父親の妨害でモンローだけで、船旅をすることになる。船旅での素行が悪ければ結婚させないという父親の目論見だが、そこにラッセルがお目付役で頼まれる。パリ行きの船には何故かオリンピック選手団なんてのも同乗しており、そこでミュージカルシーンになるところを紹介したい。

「紳士は金髪がお好き」1953年

 この企画では音楽シーンだけを抽出して観てきたが、もっと観ていたいと思ってしまうことがしょっちゅうある。52年に「人生模様」という映画があるが、5人の映画監督がオー・ヘンリーの短編をオムニバス形式で撮っている。ホークスは「酋長の身代金」というパートをとっているが、25分の短編なのでここで上映したい。前代未聞の悪ガキが登場し、詐欺師たちをいたぶる。この映画の他の部分はみんなお涙頂戴ものだが、ここだけ突出して狂っている。ちなみに小津安二郎の「突貫小僧」も同じ原作の映画化だ。

「人生模様」から「酋長の身代金」1952年

 

 

第8回「空飛ぶ絨毯の乗り心地 エスニック・シネサウンドに酔いしれろ!」 2002/05/27開催

 南洋もの、歴史劇などハリウッド映画のエキゾチズムというものがある。映画音楽においてもテーマにふさわしいバラエティに富んだ音楽を聴くことができる。また、他の国で製作される映画では、その国の伝統音楽、民族音楽や土地のニュアンスを取り入れた映画音楽が聴けるだろう。今日はそうした映画音楽を国際色豊かに(といってもいつもながら独断と偏見の選択だが)聴いてみたい。

 一本目は1937年のドイツ映画で「南の誘惑」という作品だ。監督はデトレフ・ジールク。この人は後にハリウッドに渡り、ダグラス・サークという名前で才能を開花させていった監督だ。「南の誘惑」では、スウェーデンのある女性がプエルトリコを訪れ、島の大地主に情熱的な恋をし結婚するが、結局はよそ者であり、男の異常なまでの嫉妬深さに苦しむことになる。島では、ペストが流行しているところも映画を面白くしているところで、医師である昔の恋人が研究のために島を訪れ、彼女が苦しんでいる様を見かねて救いだそうと三角関係のメロドラマになっていく。

 原題の「ハバネラ」は歌の題名で、美しい島の象徴であるかのように、冒頭から島の人々によって歌われる。主人公を演じるのは映画が紹介されなかったために日本では知られていないが、ドイツの大女優ツァラー・レアンダー。映画の終盤、彼女が絶望的な状況の中、物憂く低いトーンで「ハバネラ」を歌うシーンを観よう。

「南の誘惑」(1937年独)歌ツァラー・レアンダー

 アレクサンダー・コルダという大プロデューサーが1940年に制作した「バグダッドの盗賊」というイギリス映画は、アラビアンナイトの一挿話を映画化したファンタジーだ。空飛ぶ絨毯、小瓶から飛び出す大男、おもちゃの空かける馬など、楽しいシーンが満載され、デジタル技術全盛の時代に観ても、十分に堪能することができる。別の言い方をするなら、デジタル技術などなくとも見せ方の才能さえあれば、まだまだ面白い映画は作れるはずで、この当時の映画に学ぶことができるのだと思う。

 悪役ジャファルを「カリガリ博士」で有名なコンラート・ファイトが演じている。ジャファルがサルタン大王の王女を自分のものにするために、大王を殺害するシーンを観てみよう。大王の世にも珍しいおもちゃ好きが祟り、策略にかけられるシーンだ。音楽はブダペスト出身のミクロス・ローザ。「ベン・ハー」が最も有名な作品であろうが、終生、ジプシー音楽に並々ならぬ関心を抱き続けたという人だ。

「バグダッドの盗賊」(1940年英)音楽ミクロス・ローザ

 ジョン・フォードの「静かなる男」は、アメリカでボクサーをしていた男ジョン・ウェインが故郷のアイルランドの村に戻ってくるところから始まる。ウェインはモーリン・オハラ演じる娘に一目惚れ。ところが、彼女にはビクター・マクラグレン演じる堅物の兄貴がおり、大騒動が繰り広げられることになる。屋外シーンはすべてアイルランドで撮影され、美しく牧歌的な風景な素晴らしい。アメリカ育ちで典型的なヤンキーのウェインとアイルランドのしきたりに拘るオハラや村の住人たちのやり取りがおかしく、美しく、やがて泣けてくる。ようやく二人が婚約にこぎ着け、初デートをするシーン。「ケリー・ダンス」という曲を聴く。音楽はビクター・ヤングだ。

「静かなる男」(1952年米)音楽ビクター・ヤング

 日本の時代劇からも紹介しよう。柴田錬三郎原作で、市川雷蔵主演の「剣鬼」という作品だ。出生の秘密をもつ主人公は犬っこと蔑まれて育った無学な男だが、馬よりも早く走れる才能をもち、草花を見事に咲かせ、偶然知り合った浪人から居合い術を学び、剣の達人となっていく。やがて彼は、藩内のお家騒動に巻き込まれ、悲劇的な幕切れに突入することになる。監督は三隅研次だ。

 音楽は当時、大映、松竹、日活と映画会社を問わず大活躍した鏑木創(かぶらぎはじめ)。「剣鬼」ではガムランの鐘の音色を時代劇音楽に持ち込み、面白い効果をあげている。鏑木は民族音楽を積極的に映画音楽に取り込み、時代を先取りする試みをはや60年代に実践したのだ。終盤の斬り合いのシーンから聴いてみたい。

「剣鬼」(1965年日)音楽・鏑木創

 リノ・バンチュラ主演の「べラクルスの男」は、南米某国の大統領暗殺に雇われた殺し屋の話だ。監督のジョゼ・ジョバンニは第2次世界大戦中はレジスタンスとして活躍、戦後は暗黒街に生き、収監経験を元にジャック・べッケルの傑作「穴」に協力する。60年代以降はフランス犯罪映画の新たな担い手として大活躍した。音楽はフランソワ・ド・ルーべ。フォルクローレを土台に、美しく流れるようなメロディーと歌を作曲している。曲の途中、突然転調し映画的展開になるところも鳥肌物の名曲だ。

「べラクルスの男」(1967年仏)音楽フランソワ・ド・ルーべ

 1988年の「AKIRA」は大友克洋原作のサイキックアクション漫画を本人が監督したアニメーション作品だ。この80年代後半は、民族音楽が「ワールドミュージック」と呼ばれ、やたらとマイノリティ音楽が発売され、また、民族音楽と西洋音楽の融合、各国のミュージシャン同士の交流が進められた時代だったといえるだろう。「AKIRA」では芸能山城組が音楽を担当、インドネシアのガムランやケチャ、さらに青森のねぶたのかけ声も取り込んだ曲が提供されている。

「AKIRA」(1988年日)音楽・芸能山城組

 サム・ペキンパーは1977年にジェームス・コバーン主演で「戦争のはらわた」という戦争映画を発表している。原題は「CROSS OF IRON」。第2次世界大戦のロシア戦線を舞台に、敗色濃厚なドイツ軍を描いている。音楽はアーネスト・ゴールド。「ハンシェン・クライン」という日本人でもよく知っているドイツ民謡にドイツ軍歌を織り交ぜ、ユニークなコントラストのタイトル曲を作曲している。

「戦争のはらわた」(1977年米)音楽アーネスト・ゴールド

 ベルナルド・ベルトルッチの「ラストエンペラー」は大ヒットした作品なのでご覧になった方も多いだろう。清朝最後の皇帝・溥儀の波乱の生涯を描いた作品だった。音楽は坂本龍一、デビッド・バーン、スー・ソンの3人が担当していた。坂本は東南アジア、アフリカ、南米などあらゆるエスニックなニュアンスを織り交ぜ、新たな音楽世界を創造する名手だと思うが、「ラストエンペラー」は世界に彼を知らしめるに至った傑作だろう。

「ラストエンペラー」(1987年伊英中)音楽・坂本龍一、デビッド・バーン、スー・ソン

 90年代の日本映画を振り返ると圧倒的に北野武の時代だったといえるだろう。中でも「ソナチネ」は彼の決定的な作品である。北野映画の音楽はすべて久石譲が担当している。この人はミニマルミュージックの作曲家だといえると思う。60年代以降、ミニマルの反復する音楽の一面は民族音楽の反復性とリンクし、民族音楽的なミニマルミュージックが聴かれるようになるのだが、久石の音楽もそうした流れにあると思う。「ソナチネ」では沖縄音楽が反復音楽的にリフレインし、心地よい音楽性が映画のただならぬ雰囲気と奇妙に調和していた。映画は要するにやくざの抗争劇なのだが、沖縄に行っても何もすることがない、そんな北野的なワンシーンから聴いてみよう。

「ソナチネ」(1993年日)音楽・久石譲

 最後はホオ・シャオシェンの「川の流れに草は青々」という台湾映画で締めくくりたい。ある村の小学校の先生が途中で教師を辞めるために、学期末までその弟が受け持つことになる。その教師はちょっとどじな若い青年で、子供たちとの面白おかしい、小さなエピソードが綴られていく。村や自然の風景は透明感に満ち、そこで生活する人々が情緒豊かに描かれる。終盤、川を綺麗にするために子供たちが演芸会を開き、その収入で稚魚を買い、川に放流しようというシーンがある。これまでエピソードを綴ってきた子供たちの演芸、そして川の放流シーンに流れる台湾歌謡風の主題歌(映画の中で何度か効果的に流れた曲だ)、それに続く先生と子供たちの駅での別れ、やがて子供たちは走る汽車を追いかけてゆく―これを映画と呼ばずして何と呼ぶのか。

10「川の流れに草は青々」(1982年台)

 

 

第7回「永遠のガンマン大連合! これを聴かずに死ねるか!!」 2002/04/30開催

 19世紀、アメリカ西部のカウボーイたちは牛を追い、長い道のりを移動しながら生活した。夜になると牛を落ち着かせるかのように、あるいはキャンプファイアを囲み、長い夜の退屈しのぎに歌ったものだ。従って開拓時代の西部は実に歌に溢れた世界であり、西部劇というジャンルは歌とかけ離れては成り立ち得ないものだといえるだろう。今日は西部劇の美しい音楽を聴いていただきたい。

 さて、西部劇といえばジョン・フォードに尽きるだろう。今日は何本か紹介したいが、まず騎兵隊3部作といわれる中の一本「リオ・グランデの砦」から聴いてみたい。もちろん主演はジョン・ウエイン、別居中の妻をモーリン・オハラが演じている。横暴なアパッチ族との戦いの中で、ウエインの息子が部隊に入隊してくる。ウエインの見せる、父親と上官、両面の表情が何とも素晴らしい。歌のシーンが多く、しみじみとした気分が横溢するこの作品には、サンズ・オブ・パイオニアーズという男性ボーカルグループが連隊歌手として登場している(メンバーの一人がフォードの娘婿だ)。上官に歌を捧げるシーンを聴いてみよう。

「リオ・グランデの砦」(50年)歌サンズ・オブ・パイオニアーズ 音楽ヴィクター・ヤング

 ジョン・フォードの作品にはよくダンスシーンが登場する。「幌馬車」は西部開拓の時代にモルモン教徒の幌馬車隊がユタに新天地を求めて移動する話で、ベン・ジョンソン、ハリー・ケリーjr、ワード・ボンドらフォード映画常連の俳優たちが主演している。幌馬車隊は旅の途中、大きな川を発見し(当然のことながら、西部においては水をいかに確保するかが、旅を成功させる重要な鍵となる)、それを祝って「チャッカワラ」という曲で歌とダンスに高じるシーンがある。フォード自身、「モルモン教徒はみな巧みな踊り手だ」と語っているが、この場面を紹介したい。

「幌馬車」(50年)音楽リチャード・へイゲマン

 騎兵隊といえば、インディアンと戦って全滅したカスター将軍という有名な将軍がいる。フォードの「アパッチ砦」のモデルにもなっているが、カスターの半生を描いた「壮烈第7騎兵隊」という作品があった。監督はラオール・ウォルシュ、エロール・フリンがカスターを演じている。映画の後半で、カスターは寄せ集めの第7騎兵隊に失望し、それを見事に統制のとれた部隊に仕上げていくシーンがあるが、その経過を示すために、「ギャリーオーウェン」という歌が極めて効果的に使われている。この見事に映画的なシーンから観てみよう。

「壮烈第七騎兵隊」(42年)音楽マックス・スタイナー

 西部劇の名手といえば、代表作に「ウィンチェスター銃73」「裸の拍車」「シマロン」「西部の人」などがあるアンソニー・マンを忘れてはならない。「ララミーから来た男」は殺された弟の敵を討つためにララミーからニューメキシコにやってきた男の話で、ジェームズ・スチュアートが主演している。映画ではコーラスで主題歌を歌っていたが、歌手アル・マルティーノが歌ったバージョンもなかなかいい。ご存じだろうか。マルティーノは「ゴッドファーザー」でシナトラがモデルの歌手を演じていた人だ。

「ララミーから来た男」(55年)音楽ジョージ・ダニング 歌アル・マルティーノ

 エルビス・プレスリーも「燃える平原児」という西部劇に出演している。監督は名手ドン・シーゲル。プレスリー演じるペイサーは牧場主とインディアンの間に生まれた混血児で、白人とインディアンの戦いに巻き込まれ、どちらにつくべきか激しく揺れ動いていくことになる。原題の「FLAMING STAR」は、燃える星の意。インディアンの言い伝えで、人は死ぬときに激しく燃える星を見るらしい。「燃える星よ、どうか俺に輝かないでくれ」と歌うプレスリーの主題歌、それに続く歌のシーンをみよう。それにしても、プレスリーはシャツの襟を立て、カウボーイ姿も実に様になっていた。

「燃える平原児」(60年)歌エルビス・プレスリー

 日本のガンマンも一人紹介しよう。小林旭だ。60年代の日活の渡り鳥シリーズは、ギターをしょった旭演じる滝伸次が日本の各地を訪れ、土地や店を奪おうとする悪漢を倒し、純情な娘の慕情を断ち切って去って行く、というもので、宍戸錠との荒唐無稽な掛け合いも呼び物のひとつだった。渡り鳥シリーズは全部で9作が作られ、5作目の「大草原の渡り鳥」で、ついに西部劇に到達する。舞台は北海道の釧路、摩周湖。旭が、母を捜す子供を連れ、馬に乗って登場する冒頭からわくわくしよう。

 ところで、最近大滝詠一監修で旭のCDが4枚発売された。その名も「アキラ1」「アキラ2」「アキラ3」「アキラ4」。どれも傑作だゾ。

「大草原の渡り鳥」(60年)歌 小林旭

 マカロニウエスタンからも一曲紹介しよう。今回のタイトルにもひっかけさせてもらっているが、「続・荒野の用心棒」の監督セルジオ・コルブッチに「ガンマン大連合」という作品がある。主演はフランコ・ネロ。武器商人のネロが革命軍リーダーのフェルナンド・レイを政府軍から連れ出す。その監視役にトーマス・ミリアン(チェ・ゲバラがモデルといわれる)。政府軍に雇われた殺し屋をジャック・パランスが義手に鷹をとまらせながら怪演していた。音楽はマカロニの巨匠、エンニオ・モリコーネ。60年代にマカロニウエスタンで行ってきた音楽的実験はここに至って爆裂的サウンドと化し、コーラス、ギター、鐘の音などモリコーネ節が最高潮に上り詰める。

「ガンマン大連合」(70年)音楽エンニオ・モリコーネ

 60年代に入り、西部劇を継承した映画作家、サム・ペキンパー。60年代はハリウッド自体が極端に力を失った時代であり、西部劇の製作本数も激減する。「遅れてきた」西部劇作家ペキンパーの作品も、もはや製作されなくなった西部劇の挽歌を奏でるかのようだった。69年の「ワイルドバンチ」はヘイズコード以後に製作され、その凄絶な暴力描写で話題となったが、1913年を舞台としたこの作品には車も登場し、近代が押し寄せてくる中で時代遅れとなった荒くれ男たちは、フロンティアスピリットなどという精神からは最も遠く、孤独に死に場所を探すほかなく、それは殺す側も殺される側も同じであって、まるで西部劇そのものの終焉を歌うかのような作品だったと思う。

 音楽をつけるのはジェリー・フィールディング。1922年生まれのこの人は赤狩りで公職を追放され、しばらくほされるが、60年代に復帰する。「ワイルドバンチ」で作曲された音楽は、絶え間ないドラミングに弦や金管楽器が絡み、殺伐とした血の匂いを見事に表現していた。今からお聴かせするタイトルバックの音楽は、あと数分で残劇の場と化す平和な町の風景に、極めて不穏な空気を張りつめる。

 なお、この後のぺキンパーの「ゲッタウエイ」でもフィールディングは音楽を担当したが、プロデュースも兼ねたマックイーンがボツにし、クインシー・ジョーンズに軟弱なメロディーを書かせてしまった。マックィーンは決して嫌いではないが、こうしたフィールディングの玄人の仕事はわからないのだろう。

「ワイルドバンチ」(69年)音楽ジェリー・フィールディング

 ペキンパーも亡くなった。しかし、アメリカにはクリント・イーストウッドがいるのである。マカロニ・ウエスタンから出発し、現代最強の映画作家となったイーストウッドは「荒野のストレンジャー」「ペイルライダー」「許されざる者」などウエスタンの傑作を現代の我々に観せてくれる。つい最近は「スペースカウボーイ」という大傑作もあったではないか。76年に製作された「アウトロー」は南北戦争末期、たった一人で北軍に抵抗し、お尋ね者になったアウトローの話だ。音楽はこれもジェリー・フィールディングである。妙な作家性など出さずにジャンルに奉仕する姿勢が素晴らしい。残念ながらこの作品の4年後の80年に心臓発作で急死してしまった。

「アウトロー」(76年)音楽ジェリー・フィールディング

 さて、最後は映画史が持ち得た最大のスター、ジョン・ウエインで締めくくりたい。サントラではないが、ジョン・ウエインの主題曲ばかりを集めたイタリア盤があり、西部劇の曲はすべて混成コーラスで歌われ、フォードやホークスの作品の一場面を思い出すような、いつかどこかで聴いたメロディーで溢れている。ここから、「ザ・ガール・アイ・レフト・ビハインド・ミー」、「アイル・テイク・ユー・ホーム・アゲイン、キャサリーン」(冒頭の「リオ・グランデの砦」でも連隊歌手が歌っている)、「イエロー・ローズ・オブ・テキサス」のメドレー3曲を紹介する。それぞれの曲のイメージ映像として、ハワード・ホークスの「赤い河」、ジョン・フォードの「黄色いリボン」「騎兵隊」を上映する。1万頭の牛をミズーリへ運ぶキャトルドライブの雄大さ(「赤い河」)、詩情あふれ、切なく、しみじみと泣けるようなフォードの映画の神髄(「黄色いリボン」)、そしてフォードのユーモア(「騎兵隊」)を感じていただけたらと思う。 

10「赤い河」「黄色いリボン」「騎兵隊」音楽ジョン・ウエイン企画アルバムよりメドレー

 

第6回「恐怖映画の革新的サウンドを聴け!」2001/03/25開催

 30年代のトーキー初期から50年代まで活躍した日本の作曲家、深井史郎は「色彩感は映画音楽にとって極めて重要である」と述べている。映画音楽は音楽的構成よりも色彩感が優位なのであり、人間の感情を瞬間的に方向づけていくためには、本能的な色彩感に頼っていくしかないというわけだ。最もドラマティックで実験的な音楽表現を可能にする恐怖映画というジャンル、果たしてどんな色彩感を感じさせてくれるだろうか。

 吸血鬼映画は、カール・ドライヤーの「吸血鬼」(31年)、ムルナウの「吸血鬼ノスフェラトゥ」(22年)など大変に歴史の古いジャンルである。その中でドラキュラ役者として成功した一人が英国のクリストファー・リーだ。50年代から70年代にかけ、恐怖映画を専門に制作した英国のハマーフィルムというプロダクションがあった。中でも最もヒットしたのが、リー演じるドラキュラ映画だった。何といってもドラキュラは伯爵なのだから、品がなければつとまらない。優雅さと知性があり、さらに女性にもてるタイプでなければならない。それに加え、死人なのだから、冷たさが全身を覆っている必要がある。クリストファー・リーはそのすべての魅力を兼ね備えていたと思う。

 記念すべき第一作目の「吸血鬼ドラキュラ」の監督はハマーフィルムのエース、テレンス・フィッシャー、音楽はジェームス・バーナードだ。バーナードはハマーフィルムの主要作品のほとんどを手がけ、このドラキュラもので、ハマーフィルムのカラーとムードを決定づけた大功労者である。もっと評価されていい人だろう。英国王立音楽院出身のバーナードの曲調は非常に格調高く、ドラキュラ伯爵にふさわしいものだ。音楽は「ドラキュラ血の味」から、映画は1作目から上映する。

「吸血鬼ドラキュラ」音楽:ジェームス・バーナード

 74年に「エクソシスト」が公開され、オカルト映画ブームがあった。当時、興行的に最も成功したのが「オーメン」である。最近、DVDでシリーズ3作が発売されたが、つい最近CDでも未発表曲を含め発売されたばかり。旧約聖書のヨハネの黙示録をモチーフに、ハルマゲドン、悪魔による世界征服、666の痣は悪魔の印、なんてのもここから始まったものだ。音楽は巨匠ジェリー・ゴールドスミス。宗教音楽をベースに、恐怖映画サウンドをここまで壮大に作り込んでくれたら、何の文句もないだろう。

「オーメン」(76年)音楽:ジェリー・ゴールドスミス

 ホラーブームの中でも異彩を放った「サスぺリア」という作品があった。監督はダリオ・アルジェント。ある美少女がドイツのバレエ学校に入る、しかし、そこは悪魔の崇拝者たちのアジトだったというストーリーだ。怪しげなセット、赤を基調としたライティングなど、恐怖映画のムードを極限にまで押し進め、まるごとお化け屋敷のような作品となっている。音楽はイタリアのプログレッシブロックグループ、ゴブリン。当時すでに解散していたが、この作品のためにユニットを再結成した。ロックグループによる斬新なホラー表現が、映像との相乗効果となっている。ゴブリンは当時、ジョージ・A・ロメロの「ゾンビ」などこの手の映画を多く手がけた。

「サスぺリア」(77年)音楽:ゴブリン

 さて、恐怖映画といえば、やはりまたしてもヒッチコックを忘れるわけにはいかない。今日紹介したいのは異常心理ものの先駈け的な作品「サイコ」だ。音楽はバーナード・ハーマン。「ハリーの災難」から始まったヒッチコックとハーマンのコラボレーションは、「めまい」「北北西に進路をとれ」「知りすぎていた男」など作品を経るごとにどんどん充実していく。「サイコ」は弦楽器のみで音楽が構成され、とくに有名なシャワー室での殺害シーンでは高音を強調した曲作りで、絶大な効果をあげている。ハーマンは「白黒の映画を白黒の音楽で飾りたかった」と語っている。ジャネット・リーが運命のベイツモーテルへ向かうシーン、そして、そのシャワー室のシーンから2曲を聞こう。

「サイコ」(60年)音楽:バーナード・ハーマン

 次もヒッチコックで「引き裂かれたカーテン」を聴く。この作品はジョン・アディソンが音楽を担当しているが、実はこれもバーナード・ハーマンでやる予定で、曲も完成していた。しかし、ある場面をめぐり、ヒッチコックとハーマンの意見が対立し、結局、ハーマンがこの作品から降りることになってしまったのだ。ヒッチコック映画の音楽は以後、作品ごとに作曲家が変わっていくことになってしまう。

 問題となったのは、主演のポール・ニューマンが農家でグロメクという男を殺害するシーンだ。科学者であるニューマンは軍事秘密を探るために東ドイツに亡命を装って入国したものの、農家で協力者と落ち合ったところをグロメクに勘づかれてしまう。そして、ニューマンは主婦と共に殺しのプロを相手に格闘する。武器は包丁やスコップなど家庭にある道具を使うしかない。外にはグロメクの乗ってきたタクシーの運転手が待っており、音を立てることはできない。ヒッチコックは「人間を殺すことがいかに難しく大変であるかを表現したかった」と語っているが、映画では包丁の刺さる音やスコップで殴る音などが生々しい効果をあげている。

 このシーンをめぐって、ヒッチコックは音楽は不要であると言い、ハーマンは絶対に必要だと対立したのだ。結果は自明だろう。しかし、ハーマンはいったいどんな音楽を用意していたのだろうか。ここでは紹介しないが、ハーマンの用意したタイトル曲は、「サイコ」とは一転し、12のフレンチホルン、7つのトロンボーン、12のフルート、それにパーカッションという管楽器中心の編成で、実験的な音楽をつけている。ハーマンにとっても意欲作であったことは間違いないだろう。ハーマンの思いをくみ、失われた映画音楽をそのシーンに挿入して再現してみたい。

「引き裂かれたカーテン」(66年)音楽::バーナード・ハーマン

 バーナード・ハーマンの話が出たところで、ハーマンをたいへんに崇拝しているという現代の作曲家、ダニー・エルフマンの作品を紹介したい。彼は子供時代からSFとホラーに多大な興味をもっていたという。同好の士、ティム・バートンとの出会いによって、「バットマン」をはじめ、その才能は開花してゆく。ここではバートン総指揮の人形アニメミュージカル「ナイトメア・ビフォー・クリスマス」を紹介したい。骸骨男とつぎはぎだらけの女性が主人公で、登場するキャラクターもすべて異形というダークファンタジーだ。撮影前から音楽が作られ、エルフマン自身、主人公の歌も歌ってしまうという入魂ぶりだった。

「ナイトメア・ビフォー・クリスマス」(93年)音楽:ダニー・エルフマン

 現代の恐怖映画の代表的監督ジョン・カーペンター。日本では79年に公開された「ハロウィン」で知られ、以後「遊星からの物体X」「ニューヨーク1997」「ゼイリブ」「光る眼」「マウス・オブ・マッドネス」「バンパイア最期の聖戦」など精力的に作品を発表している。自己のスタイルにこだわり、スピルバーグの依頼も断ってしまうという徹底ぶりがうれしい。いつも自分の作品に自分で音楽をつけるのもカーペンターの特徴だ。初期の快作「要塞警察」から、シンセサイザーによる独特のカーペンター節を聴こう。ちなみにこの作品のリメイク「ゴースト・オブ・マーズ」が今年公開される予定になっている。

「要塞警察」(76年)音楽:ジョン・カーペンター

 最後は日本映画を紹介しよう。現在公開中の「血を吸う宇宙」の前作「発狂する唇」だ。脚本は高橋洋、監督は札幌出身の佐々木浩久。音楽はゲイリー・芦屋という30代の若手で、佐々木監督との出会いから映画音楽を作曲するようになったという。近作に黒沢清の「CURE」「人間合格」などがある。それにしても、例えば「リング」などもそうなのだが、最近のホラーものの音楽は効果音的なものが多く、メロディが失われてしまっている。ゲイリー氏はメロディもかける、頼もしい若手だと思う。タイトル曲と、カンフーバトルの2曲から聴いてみよう。

「発狂する唇」(00年)音楽:ゲイリー芦屋

 

第5回「ジャズと映画の危険な関係」 2002/02/24開催

 ジャズと映画は相性がいい、と思う。今日はジャズが映画の中でどのように扱われてきたのかを振り返ってみたい。まず紹介したいのは、ハワード・ホークス監督の「教授と美女」だ。これは1941年の作品で、ジャズ史から振り返れば、ビ・バップの鼓動を伝える「ミントン・ハウスのチャーリー・クリスチャン」が記録された重要な年でもある。

 ビ・バップとはもちろん、ふだん我々が最もよく耳にするモダン・ジャズの原型となった音楽だ。とはいってもまだまだこの時代はスイングジャズ全盛時代であり、「教授と美女」においても、ビッグバンド編成のジャズが演奏されている。主演はゲーリー・クーパー、バーバラ・スタンウィック。8人の教授たちが百科事典の編纂に取り組んでいる。言語学の教授であるクーパーは現代の生きた言葉であるスラングをまったく知らないことに気づき、町へ調査に出かける。あやしげで下品な言葉を真面目な顔でメモしていくクーパーがおかしい。

 そして辿り着くのがジャズクラブだ。ジャズ屋はスラングの宝庫なのである。ここでバーバラ・スタンウィック演じる歌手が登場し、「ドラム・ブギ」という歌を聴かせる。バックの演奏はジーン・クルーパ楽団。バーバラの歌に続き、クルーパが素晴らしい技を披露してくれる。その技とは…もちろん観てからのお楽しみである。

「教授と美女」歌・バーバラ・スタンウィック、演奏・ジーン・クルーパ楽団

 ハワード・ホークスは1959年に「リオ・ブラボー」を発表し、同じ素材で66年に「エル・ドラド」、70年に「リオ・ロボ」を製作する。同じテーマを変奏するだけで、これだけ素晴らしい作品を作ってしまうホークスの手腕をみていると、もはや映画にとって物語は重要ではないことがわかってくる。「教授と美女」の7年後にも、ホークスはそのリメイク「ヒットパレード」を発表した。

 カラー作品で、主演はダニー・ケイとヴァージニア・メイヨ。今度は8人の教授たちが音楽史を編纂するという設定になっている。教授の一人をベニー・グッドマンが好演。ルイ・アームストロング、ライオネル・ハンプトン、トミー・ドーシー、メル・パウエルなど今回は音楽がテーマだけにジャズ・ミュージシャンたちがごろごろ登場する。「ジャズの音楽史」を録音する、ご機嫌なシーンを観よう。

「ヒット・パレード」歌・ヴァージニア・メイヨ、演奏・サッチモ、ベニー・グッドマン、ライオネル・ハンプトン他

 映画とジャズの両方で成功したアメリカ人といえば、フランク・シナトラだろう。シナトラの歌をと考えているうちに、ピーター・フォークでさえが歌を披露するギャング・ミュージカル「七人の愚連隊」(1964年)を思い出した。ディーン・マーチン、ビング・クロスビーなどシナトラ一家が華やかに登場する作品だ。ちなみに、最近公開された「オーシャンズ・イレブン」は、シナトラ一家による「オーシャンと11人の仲間」のリメイクだ。「七人~」を再見すると、サミー・デイビス・Jrが拳銃を撃ちながら歌い、踊る愉快なシーンがあったので、こちらを上映しよう。編曲はネルソン・リドルが担当している。

「七人の愚連隊」歌・サミー・デイビス・Jr

 モダン・ジャズが流行する以前は、スイング・ジャズの全盛時代だった。その違いはダンスができるか否か、ということでもある。これまでに紹介したのは、スイング・ジャズを映画に導入したもので、ここから先は、モダン・ジャズ以降の作品を取り上げる。

 モダン・ジャズと映画の相性の良さを世界的に知らしめたのはフランスのヌーベルバーグである。ヌーベルバーグの先駆け的作品「死刑台のエレベーター」でマイルス・デイビス、「大運河」ではMJQが起用されるなど、ジャズ・ブームを生む。ウッドベースによる不安感の表現、ドラムスやシンバルによるサスペンスフルな効果は、ジャズがいかに映画にマッチする音楽であるかを証明した。「死刑台のエレベーター」で使われたジャズは登場人物の心理にも色濃くシンクロしたものだったといえるだろう。当時の代表的な一本ということで、アート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズが音楽を担当したエドアール・モリナロ監督の「殺られる」(1959年)を紹介しよう。

「殺られる」音楽:アート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズ

 前回の犯罪映画特集でも登場したジャン・ピエール・メルビルの日本初公開作品「いぬ」(1962年)でもジャズが使われている。原題の「LE DOULOS」は「警察に密告する者」の隠語で、フレンチノワールの傑作だ。若々しいジャン・ポール・ベルモンドが主演している。音楽はポール・ミスラキ。ピアノはジャック・ルーシェだった。

「いぬ」音楽:ポール・ミスラキ

 アメリカ映画においても、1958年の「死刑台のエレベーター」より前にモダン・ジャズを使った映画があった。「欲望という名の電車」や「波止場」、「黄金の腕」などがそうだ。「死刑台~」の監督ルイ・マルもそれらの映画に影響を受けたことを語っている。その「黄金の腕」の監督オットー・プレミンジャーが1959年に発表した「或る殺人」ではデューク・エリントンが音楽を担当した。ある軍人の妻がレイプされ、軍人は犯人を殺す。裁判では、レイプか不倫かをめぐり、弁護士と検事が激しく対立するという法廷ドラマである。ユーモラスな弁護士役のジェームズ・スチュアートと切れ味鋭い検事役のジョージ・C・スコットの対比も見所だった。ソウル・バスのタイトルデザインも見事なので、そのタイトルと劇中のエリントンの登場シーンを観よう。

「或る殺人」音楽:デューク・エリントン

 60年代以降のアメリカ映画はヌーベルバーグの逆影響から、ジャズを積極的に活用するようになる。「パリの旅愁」「ハスラー」「拳銃の報酬」などのほか、「真夏の夜のジャズ」というドキュメンタリー作品も製作された。日本映画においてもこの時期、ジャズが使われるようになったのだが、それはまた別の機会としよう。作曲家ではジェリー・フィールディング、ラロ・シフリン、レニー・ニーハウス、ミシェル・ルグラン、クインシー・ジョーンズなど、ジャズ畑から多くの才能が進出することになる。60年代はアメリカ映画音楽界の地図が大きく塗り代わった時代だともいえるだろう。

 ところで、ニューヨークに目を向けると、役者としてというよりも、監督として異色の映画を発表し続けた才人ジョン・カサべテスという人がいた。最も有名な作品は「グロリア」であろうが、「ラブ・ストリームス」「オープニング・ナイト」などアメリカにもこんな作家がいたのかと、驚きを禁じえない作品群が並ぶ。同じニューヨークで出発したジム・ジャームッシュにも大きな影響を与えたことだろう。

 そのカサべテスが1959年に発表した処女作「アメリカの影」では、チャールズ・ミンガスが音楽をつけている。この作品はすべて即興によって撮影され、人種差別の壁に悶々と生きる若者たちの姿がドキュメンタリー・タッチで生々しく刻まれている。ここで聴こえるジャズは、もはやサスペンスを盛り立てるための手段などではない。映像と音楽が完全にシンクロし、登場人物の孤独や怒りを映像と対等に表現しているだ。

「アメリカの影」音楽:チャールズ・ミンガス

 後にチャーリー・パーカーの伝記映画「バード」を製作することになるクリント・イーストウッドは、初監督作品から、自分がジャズ・ファンであることをしっかりと表明している。「恐怖のメロディー」がそれだ。原題は「Play Misty For Me」。「ミスティ」とはもちろん、あのエロール・ガーナーの「ミスティ」のことである。

 物語は怖い。イーストウッドはラジオのDJで、毎回「ミスティ」をリクエストする女性がいる。この女性、一夜を共にした後は、もう悪魔のようなストーカーに変身する。どこにでも現れ、他の女性と会った日には、それが単なる仕事の打ち合わせであっても、激しい攻撃を加えてくる。ついには殺すか殺されるかというところまでいってしまうのだ。映画の中で、モンタレー・ジャズ・フェスティバルのシーンも挿入され、キャノンボール・アダレイがファンキーを演奏していたり、ジャズファンとしてはそちらにも目が釘付けになる。では怖いシーンをバックに「ミスティ」を聴こう。

「恐怖のメロディー」音楽:エロール・ガーナー

 最後は日本映画から。1979年の「十九歳の地図」という作品だ。原作は中上健次、監督は柳町光男。新聞配達の青年が配達区域で出会う人々の態度を、×印にして地図に埋め込んでいく。×がたまれば、いたずら電話をしたり、飼い犬を殺す、というテロ行為を重ねてゆく。音楽は今も人気の高いピアニスト、板橋文夫。当時監督本人から聞いたのだが、本来は板橋が新録をするはずだったのが、体調不良のため、レコードからの使用となったそうだ。映画では、板橋の「濤」から「グッドバイ」、森山威男の「ハッシャバイ」から「ノースウインド」を使用している。クレジットはなかったが、本田竹広の「サラームサラーム」も使われた。

「十九歳の地図」音楽:板橋文夫

 

 

第4回「これぞピカレスクロマン 犯罪映画を聴け!」 2002/01/28開催

 フィルムノワール(暗黒映画)は1941年のハンフリー・ボガート主演作、「マルタの鷹」を皮切りに多くの映画ファンを魅了してきた。夜のシーンや暗い場面の多いこのジャンル。蓮實重彦と山田宏一の対談集「傷だらけの映画史」でも面白く語られているが、戦争に向かう緊縮体制の中で、ハリウッドにおいても電力の使用を制限されたという。フィルムノワールはまさに時代にもマッチしたジャンルでもあったのだ。そして、これはフランス映画界にも影響を与え、フレンチノワールの作品群を生み出してゆく。

 1954年、ジャック・ベッケル監督、ジャン・ギャバン主演の「現金に手を出すな」が登場する。パリの暗黒街の男たち。ドジな親友を見捨てられない初老のギャングの悲哀。音楽は20年代から活躍し、ジャン・ルノワールやロベール・ブレッソンにも曲を提供した大御所ジャン・ヴィエネール。ハーモニカをフィーチュアした「グリスビーのブルース」は当時も大ヒットした。この見事な作品にふさわしい名曲だ。

「現金に手を出すな」から「グリスビーのブルース」音楽:ジャン・ヴィエネール

 アメリカとメキシコの国境を舞台にアメリカの悪徳警官とメキシコの麻薬捜査官の対立を描いた「黒い罠」(1958年)。この作品はなんといっても、リハーサルに丸一日、撮影に丸一日を費やしたという、3分20秒に及ぶ冒頭のワンシーンワンカットが有名だ。監督はオーソン・ウエルズ。主演はチャールトン・へストン、ジャネット・リー。ウエルズは悪徳警官役としても、異様な人物像を造形している。この人は真に天才的な映画作家なのだろう。面白い映画など簡単に作れる、故にただの映画など撮らないのだ。出演作、「第三の男」ではそのあまりにへたな演出ぶりに地面につばを吐いていたという逸話も残っている。音楽はこの作品で一本立ちとなったヘンリー・マンシーニ。全編、ジャズ・イディオムに溢れた曲作りで、当時としては画期的なサウンドを提供している。

「黒い罠」音楽:ヘンリー・マンシーニ

 犯罪映画といえば、アルフレッド・ヒッチコックを欠かすことはできない。イギリス時代のほぼ最後に製作された「バルカン超特急」(1938年)は音楽そのものが重要なキーワードとして使われた作品だ。第二次世界大戦直前の緊張状態にあるヨーロッパ。ある老婦人が列車の中で忽然と消える。もちろん故あってのことなのだが、老婦人の役割には意外なものがあって、ストーリー展開そのものにも唖然とさせられる。密室での失踪事件にヒッチコックは推理ものにありがちな陳腐な表現はしない。全編、これが映画だ、という躍動感で埋め尽くす。それにしても、音楽の使い方のなんたる面白さ! 観た人は必ず口ずさむことになっている(嘘じゃないって)、この名曲を聴く。

「バルカン超特急」音楽:ルイス・レヴィー、チャールズ・ウイリアムス

 レッドパージはアメリカ映画界にも大きな影を落とし、映画史を振り返るとき、たいへん重要な意味をもつ出来事だ。ジョゼフ・ロージーやジュールス・ダッシンのようにヨーロッパに活動の場を求めた有能な監督もいた。そのダッシンが55年に発表した「男の争い」は「現金に手を出すな」と共にフレンチノワール隆盛の礎となった作品だろう。原作は暗黒街小説の大家オーギュスト・ル・ブルトン。こうしたジャンルでは、様々な男たちが“最後の大仕事”に挑み、様々な結末をみせてくれたものだ。そして、観客たちはきまって「あのとき、こうしてさえいれば…」と無数の後悔をさせられてきたのではなかったか。男たちが無言で役割を遂行してゆく、クライマックスの約30分に及ぶ宝石店襲撃シーンは大きな見せ場。その果てにどんな結末が待っているか。音楽はフィリップ・ジェラール。男たちの生き様を鎮魂歌のように奏でる、ラリー・アドラーの素晴らしいハーモニカ演奏をぜひ聴いてほしい。

「男の争い」音楽:フィリップ・ジェラール

 ドン・シーゲル監督の「殺人者たち」(1964年)は元々はテレビ用に製作されたという。出演はリー・マービン、クルー・ギャラガーの殺し屋コンビに、ジョン・カサベテス、アンジー・ディキンスン、そして、元大統領のロナルド・リーガンで、なんでこれがという豪華メンバーである。原作はヘミングウェイの短編。二人の殺し屋が元レーサーごときの殺人にしてはあまりに高額の報酬であることから黒幕の究明に乗り出してゆく。マービンのハードボイルドなはまりぶりは「ポイント・ブランク」と双璧をなすものだろう。音楽はヘンリー・マンシーニで、実は「黒い罠」の劇中曲の使い回しとなっている。95分、ぎゅっとしまった傑作だ。

「殺人者たち」音楽:ヘンリー・マンシーニ

 フレンチノワールといえば、ジャン・ピエール・メルビルである。「賭博師ボブ」(1955年)は、「モンマルトルで起きた奇妙な物語…」というメルビル自身のナレーションで始まる。夜と昼を隔てる数分、そんな薄明の、儚い時間に、男の物語は語られるのだ。ボブがそんな時間にいつもの店での賭け事を終え、けだるく家路を辿る冒頭から引き込まれる。何よりアンリ・ドカの撮影が素晴らしい。疲れ切ったその初老の男は鏡を見て「ヤクザの顔だ」とぽつりと呟く。彼もまた、“最後の大仕事”としてカジノ襲撃を企てる。そして、夜と昼を隔てる薄明の時間、なんともアイロニカルな結末を迎える。浸みるように流れるトランペット演奏、「ボブのテーマ」を聴く。

「賭博師ボブ」音楽:ジョー・ボワイエ、エディ・バークレー

 第一話でも登場した「黄金の7人」シリーズは、嘘としか思えない犯罪計画をユーモアとサスペンスを織り交ぜながら荒唐無稽に綴った快作シリーズだった。ダバダバ系のこのタイトル曲、最近リバイバルブームもあったので、お聞きになったことのある方もいるだろう。ジャズのエッセンスでしっかりと作られた佳曲だ。

「黄金の7人」音楽:アルマンド・トロバヨーリ

 日本映画からも1曲。大映映画の質を支えた職人、森一生の「ある殺し屋」(1967年)だ。森監督は座頭市シリーズの原案となる「不知火検校」や市川雷蔵の凄絶な時代劇「薄桜記」など、当時の大映の中でもずば抜けた傑作を発表している。この作品は、ふだんは板前、夜は名の知れたプロの殺し屋という、後の必殺シリーズの先駆け的な作品。森の演出は格調高く、そして、クールな殺し屋を演じる雷蔵の抑えた演技、しびれます! 鏑木創の淡々とした主題曲もこの作品の気分を効果満点に盛り立てる。

「ある殺し屋」音楽:鏑木創  

 カラー時代のジャン・ピエール・メルビルの代表作として、アラン・ドロン主演の「サムライ」(1967年)をあげたい。音楽は第一話でも紹介したフランソワ・ド・ルーべ。60年代から70年代にかけ、犯罪映画というジャンルで、男性的な曲作りの一方で、繊細さと儚さを漂わせたナーバスな名曲を連発した異色の作曲家である。しかし、残念ながら夭逝してしまった。映画を観てからずいぶんと年月が経っても、記憶の底から蘇るのは、まずこの人のメロディーだったりする。

「サムライ」音楽:フランソワ・ド・ル-べ

 ヴィム・ヴェンダースはロック好きの映画作家としても知られる。彼の初期の音楽を担当したのはドイツ・プログレッシブ・ロックグループ「CAN」にいたユルゲン・クニーパーだ。「アメリカの友人」(1977年)は、そのヴェンダースとクニーパーのコラボレーションが見事に炸裂している。原作はパトリシア・ハイスミス。この作品は「太陽がいっぱい」の続編で、トム・リプレーは警察に捕まらなかったという設定で登場。アラン・ドロンに代わって、デニス・ホッパーが演じているが、ドロンよりもはまり役。3度映画化されたリプレーものでは、この作品がずば抜けているだろう。事件に巻き込まれていく額縁職人にブルーノ・ガンツ。そして、ニコラス・レイ、サミュエル・フラー、ダニエル・シュミットという映画作家たちの登場に注目。ヴェンダースの映画への思い、記憶が泣ける程伝わってくる。

10「アメリカの友人」音楽:ユルゲン・クニーパー

 犯罪映画の締めくくりはヒッチコックにしよう。主演はポール・ニューマンとジュリー・アンドリュース。50本目の作品として創られた「引き裂かれたカーテン」(1966年)だ。東ドイツへの亡命を装って、軍事秘密を探ろうとする科学者、それを知った当局との攻防。脱出することだけを描く後半、観るたび、画面に釘付けになってしまう。ジョン・アディスン作曲による、この堂々とした主題曲を聴く。

11「引き裂かれたカーテン」音楽色:ジョン・アディスン

 

 

第3回「燃えるサントラ! ジャンル映画の男たち」 2001/12/26 開催

 アクション、戦争、時代劇、特撮ものなどのジャンルから、派手なもの、勇壮なもの、などなど燃えるサントラを特集する。映画の映像をBGM(バック・グラウンド・ムービー)として出来るだけ流し、音楽を主役に楽しもうという企画だ。まずはメジャー中のメジャー、007シリーズ。例の「ジェームス・ボンドのテーマ」を新旧で聞き分けたい。

「ジェームス・ボンドのテーマ」音楽モンティ・ノーマン

 続いて、ピアース・ブロスナンの「007トゥモローネバーダイ」から。作曲はデビッド・アーノルド。同じボンド・テーマといっても時代と共にこれだけ変化している。サンプリング世代ならではのボンド・テーマといえるだろう。ちなみにアーノルドは子供時代「007は2度死ぬ」を観て007シリーズの大ファンになったのだとか。この作品に続き、「007ワールド・イズ・ノット・イナーフ」でも音楽を担当した。

「007トゥモローネバーダイ」から「バックシート・ドライバー」音楽デビッド・アーノルド

 次は戦争映画から「バルジ大作戦」(1965)。監督はケン・アナキン。この作品は第二次世界大戦末期、敗戦色濃厚のドイツ軍が大戦車軍団を編成し、起死回生の反撃に出ようと連合軍と戦う様を描いている。そのドイツ軍、へスラー大佐を演じるのが、ロバート・ショウ。音楽は少年兵とへスラーら将校が歌うシーン。これから反撃に出ようというのに少年兵しかいない。本当にこれでいけるのか。そんな思いを跳ね返すかのように、少年兵たちが軍歌を、実に勇ましい表情で歌い出す。その姿にうたれたへスラーらも共に歌い始めるという感動的なシーンとなっている。その場面から歌を聴く。(当日の参加者から、この軍歌は実際にドイツで歌われた軍歌であり、しかも現役の歌であるという情報を頂いた)。

「バルジ大作戦」音楽ベンジャミン・フランケル

 続いてもう一本戦争映画から「パットン大戦車軍団」(1970)。監督はフランクリン・J・シャフナー。脚本はフランシス・コッポラ、音楽はジェリー・ゴールドスミスが担当している。パットン将軍は有能な戦略家だったが、気性が激しく、度を越す石頭ぶりで部下から嫌われ、軍からも見放されて行くような不遇の人物だった。スコット自身、反骨精神旺盛な俳優で、この作品ではアカデミー主演男優賞を受賞拒否、以前助演賞候補になった「ハスラー」ではノミネート段階から拒否したという。スコット自身、パットンに共感する面が多かったのか、役作りの入れ込みようはものすごく、鼻を矯正したり、入れ歯にしたりで、パットンが憑依したかのような役者ぶりが見所だ。

「パットン大戦車軍団」音楽ジェリー・ゴールドスミス

 次もジェリー・ゴールドスミスの音楽で「カプリコン1」(1977)という作品を。監督はピーター・ハイアムズ。火星探索船の開発に、ある部品の納入ミスがあり、予算を削減されないためにも、宇宙センターがある大がかりな詐欺行為をはたらく。それに巻き込まれる3人の宇宙飛行士、事件をかぎつける新聞記者……。記者役にエリオット・グールド、3人の宇宙飛行士はジェームス・ブローリン、サム・ウオーターストーンに、O・J・シンプソン! ジェリー・ゴールドスミスは現在もっとも人気の高い作曲家の一人。「オーメン」「猿の惑星」「パピヨン」「スター・トレック」「エイリアン」「ザ・グリード」等代表作は数え切れないほどある。この作品は初期の代表作だ。

「カプリコン1」音楽ジェリー・ゴールドスミス

 今回は日本映画界の二人の作曲家の作品を紹介する。まず黒澤明の「隠し砦の三悪人」から佐藤勝の音楽を。これは、戦で敗れた側のある姫と侍大将が国境を脱出するというスリリングなアクション映画。侍大将に三船敏郎、狂言回しの役で、千秋実と藤原釜足が出演している。余談になるが、以前「スターウォーズ」が公開された際、ロボットのC3POとR2D2について、モデルになったのはこの「隠し砦」の千秋と藤原だということが言われていた。映画史をひもとけば、もっと以前からローレル・ハーディをはじめ、大小コンビはいくらでもいるわけで、黒澤持ち上げすぎの発言に閉口したものだ。映画は藤田進の「裏切りごめん」のシーンをバックに。

「隠し砦の三悪人」音楽・佐藤勝

 次はヒッチコックの映画「トパーズ」(1969)から。出演はフレデリック・スタッフォード、ジョン・バーノンなど。これは62年のアメリカのキューバ危機を背景にスパイの暗躍ぶりを描いた作品。音楽はヒッチコック作品では珍しいモーリス・ジャール。かけるのはタイトルのソビエト軍の行進シーン。タイトルシーンと同じ曲をビデオにかぶせてかけるのは、映画では行進時の走行音などが入っているため。本当は音楽家にとって、音楽が台詞や効果音等によってかき消されてしまうのは、うれしいことではないだろう。今日のこのような場で、映画音楽家たちの思いをはらそう。

「トパーズ」音楽モーリス・ジャール

 「スペースバンパイア」はSFとホラーが合体した不思議な作品だった。監督はトビー・フーパー。音楽は「ひまわり」「ティファニーで朝食を」「ピンクパンサー」「ハタリ」などの大御所、ヘンリー・マンシーニ。意外な組み合わせだが、結局、このジャンルの映画を手がけたのは最初にして最後だった。

「スペースバンパイア」音楽ヘンリー・マンシーニ

 次は「バットマン・リターンズ」。監督はティム・バートン。バットマンはヒーローものではあるが、善と悪が闇の部分で通底しているような不思議なキャラクターだ。ここに登場するペンギン男は奇形によって両親に捨てられ、バットマンも幼い頃両親を殺害されたというトラウマを抱えている。バートンのバットマン・シリーズは善と悪のどちらもが生まれて来たことを悔やむかのような人物として描かれている。ダニー・エルフマンの音楽はそんなヒーローもののダイナミズムと闇の部分を見事に同じ曲の中で表現している。

「バットマン・リターンズ」音楽ダニー・エルフマン

 「大空港」は、バート・ランカスター、ディーン・マーティン、ジョージ・ケネディ、ジャクリーン・ビセットなどが出演するオールスターもので、後のエアポート・シリーズの原点となった。音楽はトーキー初期から活躍したアルフレッド・ニューマン。彼は、アカデミー賞受賞9回、ノミネートだけでも49回というキャリアをもち、アメリカ映画音楽の第一人者といえるだろう。この作品はニューマンの遺作で、わくわくするような名曲だ。

10「大空港」音楽アルフレッド・ニューマン

 最後は伊福部昭音楽による「ゴジラ」を聴く。佐藤勝はゴジラ生誕40周年の際、交響楽団を率いてコンサートを開いたことがあり、これが実に素晴らしい作品となっている。その中から「宇宙大戦争マーチ」を。ファンにはもっとも人気が高いと言われる「怪獣大戦争」のテーマなど、複数の主題を結びつける構成も見事。BGMは「怪獣王ゴジラ」から。これはレイモンド・バー扮する新聞記者がいちいち日本での動きに立ち会っているという「ゴジラ」をアメリカで再構成した珍品であり、ひどい作品だが、それでもゴジラの登場シーンは素晴らしい。ところで、最近テレビでチャップリン映画を放映していたが、ふとゴジラとチャップリンの映画に共通点があることを発見した。それは両者とも後ろ姿で終わる作品が多いということ。ゴジラというのは後ろ姿もいい怪獣なのかもしれない。ゴジラ映画が未だに作られるのは、そんなところにも魅力があってのことか。

11「宇宙大戦争マーチ」BGM「怪獣王ゴジラ」

 

 第2回「-唄う俳優大行進 -」2001/11/22 開催

   今回は俳優が歌っている映画と作品を特集する。まずは梶芽衣子主演のさそりシリーズ3作目「女囚さそり・けもの部屋」(1973東映)から。監督は伊藤俊也。梶芽衣子はこのシリーズで「恨み節」をヒットさせており、音源もあるが、この「けもの部屋」の冒頭がものすごいショックシーンから始まるので、ビデオから紹介する。

1 梶芽衣子「女囚さそり・けもの部屋」

      続いては佐藤蛾次郎の歌。1970年の日活映画「反逆のメロディー」で歌っている。監督の沢田幸広は、どこでつながるのかわからないが山田洋次のファンだという。しかし、そこからこの佐藤蛾次郎の素晴らしい抜擢が生まれたのだろう。これは前回も紹介した日活ニューアクション時代の作品。警察の頂上作戦によって解散したやくざ組織が再編し体制的となっていく中、納得出来ない若者たちが反抗し、全滅していく様が描かれる。主演は原田芳雄、藤竜也、地井武男、梶芽衣子。蛾次郎は石原裕次郎の「もずが枯れ木で」を歌う。   曲の後、藤竜也との絡みのシーンがあり、続けてもう一曲歌うのでそこまで続けて上映する。 

2 佐藤蛾次郎    「反逆のメロディー」 

 次は、まもなく新作「ピストル・オペラ」が公開される鈴木清順監督の「東京流れ者」。鈴木監督は世界的にも評価が高く、この映画がある外国の映画祭で上映された際、興奮した観客たちが上映後に「東京流れ者」の大合唱をしたとか。ただし、今回は渡哲也の主題歌ではなく二谷英明の歌を聴く。「東京流れ者」は東京のシーンはハードボイルド、新潟のシーンは任侠風などと土地ごとの構成もユニークで、雪のシーンの中、二谷の歌う妙な歌がおかしい。 

3 二谷英明「東京流れ者」

   ロバート・ミッチャムは実に歌のうまい俳優だ。映画俳優チャールズ・ロートンの唯一の監督作品「狩人の夜」でも聴くことが出来る。ここでのミッチャムはこんな役も珍しいというくらいの悪役。子供が二人登場し、妹のぬいぐるみには、父親が強盗した1万ドルが隠されている。刑務所でその話しを聴いたミッチャムが出所後、奪いにやってくる。その移動中のミッチャムの歌いっぷりが怖い。母親を殺され、子供たちは自力で脱出、やがてリリアン・ギッシュ演じるおばあちゃんに拾われ、ミッチャムとリリアンが対峙する。ミッチャムが歌い、リリアンもそれに併せて歌う。善と悪が合唱する戦慄のシーンだ。 

4 ロバート・ミッチャム、リリアン・ギッシュ「狩人の夜」

      ロバート・ミッチャムの歌をもう一曲。映画音楽ではなく、アルバムとして発売された「カリプソ」という作品から。ある映画の撮影でミッチャムがカリプソに遭遇し、惚れ込んだあげくについにレコードまで出してしまったという、それがこの「カリプソ」だ。スターが片手間に歌うようなものではまったくなく、実に完成度の高い作品で、それほどミッチャムは歌がうまいのだ。アルバム1曲目の“Jean  And Dinah”を。 

5 ロバート・ミッチャム アルバム「カリプソ」より“Jean And  Dinah”

 80年代に香港映画 Mr.BOOシリーズが日本でヒットした。マイケル、サミュエル、リッキーのホイ3兄弟によるコメディで、兄弟の中で一番2枚目のサミュエルは歌手としてもかなり人気のある人らしい。驚いたことに日本でも未だにファンが多く、Mr.BOOに関するホームページがいくつもあった。ある若い女性の作ったホームページには日本語を吹き替えた広川太一郎の台詞まで収録していた。今日紹介するのはサミュエル・ホイが「ロック・アラウンド・ザ・クロック」を広東語で歌った「ライズ・アラウンド・ザ・クロッ ク」。レコードは当時Mr.BOOを観て、実際に香港に移り住んだという札幌の女性に借りたものだ。 

6 サミュエル・ホイ「Mr.BOO!ギャンブル大将」より“ライズ・アラウンド・ザ・クロッ ク”

 70年代、ピラニア軍団という東映大部屋の男優たちの集団が人気を呼んだ。室田日出男、川谷拓三などがその筆頭。東映や日活映色画にも出演した歌手の三上寛が、ピラニア軍団の俳優たちのために、「ピラニア」というアルバムを全作詞作曲で制作している。その中から志賀勝がものすごい低音で歌う「役者家業」という歌を。ちなみに編曲は坂本龍一。 

7 志賀勝(アルバム「ピラニア」から“役者家業”)

   テレビの「顔で笑って」という番組で共演した山口百恵と宇津井健がデュエットをしている。 

8 宇津井健&山口百恵(TV「顔で笑って」より“パパは恋人”)

    「くう」の山本氏からのリクエストで桃井かおりの歌を。バックは憂歌団。 

9   桃井かおり&憂歌団(アルバム「WATASHI」より“たばこ止めないの”)

    次は小津安二郎の映画「長屋紳士録」(1947)から 笠智衆の歌を。それにしても世界中で小津安二郎ほど変な映画を作り続けた人はいないのではないか。よく言われる目線の問題や、時間の経過を示すカットのないこと、等々、観れば観るほど不思議な魅力に引き寄せられてしまう。ご覧になっていなければ、ぜひ観てほしい。「長屋紳士録」にはおかしな子供が登場して笑わせてくれる。子供の登場する映画で言えば「生まれてはみたけれど」「お早よう」など何度観ても爆笑してしまう。 

10  笠智衆「長屋紳士録」

   昭和30年代には高倉健と美空ひばり主演による歌ものが何本か作られた。「娘の中の娘」もその一本。監督は佐伯清。最近まで知らなかったが撮影は三村明。三村といえば、全盛期のハリウッド仕込みの撮影監督。山中貞雄の遺作「人情紙風船」の素晴らしい撮影が忘れられない。歌はラストの大団円を迎えるシーンから。山村聡の姿もみえる。

11 高倉健、美空ひばり他多数「娘の中の娘」

    黒澤明は撮影前に古今亭志ん生を呼んで俳優たちに江戸時代の長屋の雰囲気を学ばせたという。ラストの役者たちのアンサンブルによる馬鹿囃子を聴く。

12 田中春男、三井弘次、東野英治郎ほか「どん底」

 

第1回「これを聴いて泣け!(笑え) 60~70年代アクション映画を中心に」 2001/10/05 開催

「赤い砂の決闘」音楽エンニオ・モリコーネ

 マカロニ・ウエスタンといえば、即座にモリコーネの音楽が思い出される程、彼の創造した音楽はその存在を世界を知らしめることに貢献している。「赤い砂の決闘」はモリコーネの記念すべきマカロニデビュー作なのだ。イタリアで西部劇が作られ始めた頃の作品のため、音楽のほうもまだ手探り状態の感があるが、この快適なテンポに、すでにモリコーネ節があふれている。次作「荒野の用心棒」で、口笛、ギター、コーラスの器楽化、鐘の音等々のユニークな創造によって、マカロニ音楽のひな形がすでに完成してしまうわけだが、復讐や皆殺し、拷問ばかりが行われるマカロニ世界で、この祝祭感に満ちた音楽のはまりようは何なのだろう。これもまさにモリコーネ・マジックといえるのかもしれない。モリコーネ絶頂期の代表作といえる「続・夕陽のガンマン」を聴く。

「続・夕陽のガンマン」音楽エンニオ・モリコーネ

 マカロニ・ウエスタン音楽がこれだけ人気を博したのは、実に名曲が多かったということに尽きる。男性ボーカルによる歌ものにも、イタリア語で意味がわからないにも関わらず、男心をくすぐる佳曲が多かった。映画は観ていなくとも歌で泣く、映画はクソでも歌で泣く。「荒野の10万ドル」もそんな一本だ。

「荒野の10万ドル」音楽ブルーノ・ニコライ

 60年代のイタリア映画はマカロニ・ウエスタンのほかに、スパイアクションや犯罪映画ものも量産した。コメディ調の泥棒もの「黄金の7人」シリーズも大ヒットしている。音楽を担当したアルマンド・トロバヨーリはカラフルなアレンジで、マカロニものとはひと味違う、ハイセンスな曲を提供した。ちなみにこの人、ジャズピアニスト出身で、ジャズアルバムも出している。71年に発表された「黄金の7人・1+6 エロチカ大作戦」を聴く。

「黄金の7人・1+6 エロチカ大作戦」音楽アルマンド・トロバヨーリ

 60年代から70年代にかけてのフランス映画で、一世を風靡した作曲家の一人、フランソワ・ド・ルーベ。「サムライ」「冒険者たち」など犯罪映画ものが多い人だが、どことなく憂いを帯びた切なさが感じられるのも魅力だろう。アラン・ドロンとチャールズ・ブロンソンの男気の犯罪映画「さらば友よ」を紹介する。

「さらば友よ」音楽フランソワ・ド・ルーベ

 当時のフランス映画でもっとも人気の高かった作曲家はおそらくフランシス・レイだろう。「男と女」「ある愛の詩」「パリのめぐりあい」など、恋愛映画が多かった人だ。もともとはアコーディオン奏者で、譜面を読むことができなかったという。そんな彼が珍しく戦争映画を担当したのが「脱走山脈」だ。戦争映画といっても、ドイツ軍の捕虜となり動物園の象の飼育係となったイギリス兵が、象を連れて脱走する話で、どこかほのぼのとした作品となっている。アルプスの山越えをするイギリス兵と象、そんなイメージからフランシス・レイが抜擢されたのだろう。

「脱走山脈」音楽フランシス・レイ

 さて、もう一曲エンニオ・モリコーネを。60年代から70年代にかけてのモリコーネは実験的な映画音楽を多作し、どれも素晴らしい出来だ。まったくその才能には驚嘆するばかりだが、チャールズ・ブロンソンの主演で「狼の挽歌」という映画があった。こんなにかっこいい主題曲もそうないだろう。

「狼の挽歌」音楽エンニオ・モリコーネ

 監督ドン・シーゲル、主演クリント・イーストウッドの「ダーティハリー」。この時代のアクション映画の最高峰ではないだろうか。アンディ・ロビンソンが演じた敵役「さそり」のイメージもものすごかった。冒頭、さそりがスコープを覗き、プールで泳ぐ女性を射殺する場面から始まり、ハリーが射殺したさそりを見下ろし、バッジを投げ捨てるところで終わるこの映画、ハリーとさそりの視線が常に上下し、ものすごい視線の、そして空間のドラマでもある。音楽はジャズ畑出身のラロ・シフリン。この前後に「ブリット」と「燃えよドラゴン」があって、もっともシフリンがのっていた時代だろう。ちなみに、この頃から活躍したアメリカの作曲家は、クインシー・ジョーンズ、ジェリー・フィールディング、レニー・ニーハウスなど、ジャズ出身の人が多かった。ジャズが映画的に洗練された形で映画界に持ち込まれた時代でもあったのだ。

「ダーティハリー」音楽ラロ・シフリン

 プログラムピクチャーの時代、主演スターはよく主題歌を歌っていたものだ。石原裕次郎や小林旭など、歌手として本格的に活躍したスターも多い。うまいなあ、と思わせるスターの一人、勝新太郎。「新・兵隊やくざ 火線」から河内音頭風の主題歌「兵隊やくざ」を聴く。

「新・兵隊やくざ 火線」歌・勝新太郎

 ロマンポルノがスタートする直前の日活映画末期には、ニューアクションと呼ばれる作品群が狂い咲くように発表された。ハードボイルドものを得意とした長谷部安春監督の「野獣を消せ」も忘れがたい傑作だろう。主演は渡哲也、藤竜也。出演もしている尾藤イサオの、ほとんど、笑い声とうなり声だけで歌う主題歌「ワイルドクライ」がすごい。

10「野獣を消せ」から主題歌「ワイルドクライ」歌・尾藤イサオ

 以前友人たちとビデオを持ち寄り、オールナイトを行った際に大受けしたのが「ゴジラ対ヘドラ」。公害問題、サイケデリック時代のやたらと暗いゴジラ映画。やたらと人も死ぬ。劇中歌われる「かえせ! 太陽を」という究極のメッセージソング。笑える。

11「ゴジラ対ヘドラ」から「かえせ! 太陽を」歌・麻里圭子

 テレビで町内会で売り上げを巡る戦争があったりすると、未だに「仁義なき戦い」のメロディーが流れることがある。あれを作曲したのが津島利章である。東映やくざ映画といえば、津島である。「仁義の墓場」も「北陸代理戦争」もそうだった。「県警対組織暴力」で、あの津島節を思い出してみよう。

12「県警対組織暴力」音楽・津島利章

 先ほども紹介した日活アクション末期の時代、「野良猫ロック」シリーズという集団暴走アクション映画があった。藤田敏八と長谷部安春が監督を担当している。大映と配給を共同で行うダイニチ映配というシステムがあったのもこの当時。映画はそんな状況を反映してか閉塞感に満ちたものが多かった。「女番長 野良猫ロック」にはプロダクションとの提携で売り出し中の和田アキ子が出演、歌も歌っている。なかにし礼作詞、鈴木邦彦作曲による「男の女のロック」。これが実にうまい。

13「女番長 野良猫ロック」より「男と女のロック」歌・和田アキ子