不定期日記(web管理人の映画中心のつぶやきです)

2024年4月8日 「DOGMANドッグマン」を観てから、何となく犬が登場する映画を見返していた。考えてみれば、犬が登場する映画は無数にある。劇場で観た中で、古くはドーベルマンに銀行強盗を仕込む「ドーベルマンギャング」やサミュエル・フラーの「ホワイト・ドッグ」(黒人だけを嚙み殺すよう調教する怖い話)などが思い起こされ、最近ではブラッド・ピットの飼い犬がマンソン・ファミリーを退治する「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」が印象深い。近年のベストはケリー・ライカートの「ウェンディ&ルーシー」。が、最も泣かされたのは犬物を得意とするラッセ・ハルストレムの「僕のワンダフルライフ」かもしれない。病気で死んでしまった犬が、飼い主会いたさに何度も輪廻転生するお話。ところが生まれ変わる度に犬種が異なり、警官に飼われて犯人に撃ち殺されたり、別の家庭では虐待の挙句、捨てられしてしまう。飼い主のために一心不乱に走る様が何とも泣けてしまうわけだが、大学に進学する為、実家を出る最初の飼い主を追い掛ける場面はもう見ていられない。走る犬とそれを追い掛ける人々を描いた傑作はアリス・ギイの「ソーセージ競争」。1907年の短編で、長く連なったソーセージを盗んだ子犬を人々が追い掛け、大騒動に発展する。追い掛けるのは男性だけでなく、エプロン姿の女性たちも加わって坂道を転がり、障害物を破壊し、鶏や豚を蹴散らしていく。最後は逃げ切った子犬が勝ち誇ったようにソーセージを食べておしまいという喜劇。

2024年4月7日 ショーン・ダーキン「アイアンクロー」。あくまでフォン・エリック家の物語であって、「カリフォルニア・ドールズ」や「ロッキー」のようにクライマックスをスポーツで盛り上げる作品ではない。強過ぎる父と従順過ぎる息子たちの関係性が引き起こす悲劇。実際にはもう一人自殺した息子がいたことを描かなかったのは、それではあまりに映画が重くなり過ぎるからなのだろう。徹底的に「立ち上がる」ことの映画であって、「足」の描写が素晴らしい。

 それにしても、リュック・ベッソンの映画で落涙するとは思わなかった。「DОGMANドッグマン。犬に育てられた男の話。父に虐待され下半身不随となったケイレブ・ランドリー・ジョーンズが、自分はアーティストだとオーナーを説得してキャバレーで歌うチャンスを得る。メイクを整えた彼にスポットライトが当たり、エディット・ピアフ「群衆」のあの印象的なピアノ伴奏が流れ始める。目深に被ったシルクハットから視線を客席に向けると、ピアフが憑依したかのように唇の動きをシンクロさせる。熱に浮かされたような祭の中で出会った男と女は、群衆に引きずり回され、引っ張り回される中で一つになり、群衆によって引き裂かれる。そして二度と出会うことはなかった─。犬たちと生きるしかなかったケイレブの物語と歌が折り重なっていく。「歌っている間だけは立っていられる」。ギリギリの二本足で歌い切った彼は幕引きと共に倒れ込む。聴衆もキャバレーの仲間も一瞬呆然とした後、熱狂する。この場面には胸を打たれた。

2024年3月7日 正月以降印象に残った作品をぱらぱらと。劇場で観たものではイーライ・ロスの「サンクスギビング」の冒頭。スーパーマーケットに暴徒が押し寄せる場面は、グロとギャグのバランスが抜群。すごく真面目に映画に取り組んでいるところがいつもこの監督に感心するところ。ケリー・ライカートの「ファースト・カウ」は近年最も観たかった作品だったが、暗い場面が多いとはいえ、美しいはずの風景も字幕もよく見えない。僕の目が悪いのか、某劇場の映写能力に問題があるのか…。心の中では昨年公開作のベストワンなのだが。小泉今日子がナレーションを担当している「漫才協会 THE MOVIE」は思わぬ拾い物。テレビでは見たこともない漫才師や色物芸人がぞろぞろ登場する人間図鑑。芸人は一度やったらやめられないと言いながらも金はなく、安アパートで暮らすしかない。ある芸人は酔って線路に転落し、意識が戻ったときには右手がなくなっていた。必死のリハビリのかいがあり、義手でネクタイをしめ再び舞台に立つ。爆笑したのは夫婦漫才のご夫婦。実生活ではそりが合わず離婚するのだが、漫才は続けている。それどころかお金がないからと、いまだ一緒に生活しているのだ。キャメラがアパートまでおいかけていくと、敷布団は一枚しかないから一緒に寝ているんだと話す二人のおかしさ。浅草の愛すべき人々。

 遅ればせながら観たドキュメンタリー「東京自転車節」(青柳拓)は傑作だった。コロナ下、甲府での運転代行業が立ち行かず、ウーバーイーツの仕事をはじめに自転車で東京に向かう青年。ここで流れる替え歌音頭が絶妙におかしく、一気に映画にのせられる。誰にでも優しく、いかにも人のよさそうなお兄ちゃんなのだが、新宿を半日以上走行しても1日1万円に届くかどうか。それどころか1日3千円、4千円という日もざらで中々お金はたまらない。友人の家に居候していたが、いつまでも世話になるわけにはいかず、とうとうホームレスになってしまう。腕にとまった蚊に、お前も孤独なんだよな、今日は好きなだけ血を吸ってくれと話しかける場面には涙が流れそうになる。無精ひげも伸びて、見た目も変貌していくのだが、中身は人のいいお兄ちゃんのまま、というのがこの作品の実に面白いところで、基本はコメディといえるかもしれない、

2024年1月1日 あけましておめでとうございます。何卒よろしくお願い致します。というわけで映画はベスト10をつけるとこのような感じ。新作は20本程度しか観ていないので、ほとんど入れられなかった。

1 暁前の決断(アナトール・リトヴァク)

2 悪い種子(マーヴィン・ルロイ)

3 秘密指令(恐怖時代)(アンソニー・マン)

4 蛇の穴(アナトール・リトヴァク)

5 その男を逃すな(ジョン・ベリー)

6 グリーン・ナイト(デヴィッド・ロウリー)

7 炎のデス・ポリス(ジョー・カーナハン)

8 呪いの館(マリオ・バーヴァ)

9 EO(イエジー・スコリモフスキ)

10 夜明けまでバス停で(高橋伴明)

次 ケイコ 目を澄ませて(三宅唱)

 昨年は「ゴッドファーザー」の制作トラブルを描いたテレビシリーズ「ジ・オファー/ゴッドファーザーに賭けた男」が面白かった。ベスト10に入れた「炎のデス・ポリス」は唐突だが、カーティス・メイフィールドの歌を最高にかっこよく使った映画はないだろうとぶっとんだ。ジョー・カーナハンの刑務所を舞台にした抗争もので、冒頭にかかる音楽はなんと「ダーティハリー2」の主題曲。ラロ・シフリンの1作目はクールだったが、2作目はカッコいい系でいやでも盛り上がる名曲。今頃これをもってくるセンスにしびれたが、ラストのカーティスの使い方。「フレディ・イズ・デッド」は映画「スーパーフライ」用に作られたグルーヴしまくりの名曲で、敵対する登場人物が歌詞の名前を変えて歌う場面が素晴らしい。

 以下、その他に印象に残った作品。

「殺人捜査線」(ドン・シーゲル) 「フェイブルマンズ」(スティーブン・スピルバーグ) 「福田村事件」(森達也) 「コカイン・ベア」(エリザヴェス・バンクス) 「友情にSOS](キャリー・ウイリアムズ) 「血塗られた墓標」(マリオ・バーヴァ) 「元祖大四畳半大物語」(曽根中生・松本零士) 「白痴」(黒澤明) 「拳銃貸します」(フランク・タトル) 「鬼婆」(新藤兼人) 「私は殺される」(アナトール・リトヴァク) 「双頭の殺人鬼」(ケネス・G・クレイン、ジョージ・ブレイクストン) 「聖し血の夜」(セオドア・ガーシュニー) 「ひとりぼっちの青春」(シドニー・ポラック) 「ウルフ・オブ・ウォール・ストリート」(マーティン・スコセッシ) 「ピストルと少年」(ジャック・ドワイヨン) 「アングスト/不安」(ジェラルド・カーゲル) 「怪獣島の決戦 ゴジラの息子」(福田純) 「ジェイコブス・ラダー」(エイドリアン・ライン)

2023年12月31日 先月、佐々木(浩久)監督が帰札したので20年振りくらいに飲んだ。中学生のころから映画の話しかしいない間柄なので、時間の隔たりを全く感じない。趣味を通した関係とはそんなものなのだろう。ゴジさんの近況についてちょっとショッキングなことを聞く。それもあって、ゴジさんが全作脚本を執筆した「悪魔のようなあいつ」を観ていた。1975年当時、全話観たわけではなかったが、三億円強奪犯であり藤竜也が経営する怪しげなクラブで歌う沢田研二を、客の面前でいたぶる尾崎紀世彦の異様な迫力に戦慄したことを記憶している。荒木一郎の快演ぶりも凄まじく、人気のない倉庫で自身のチャックをおろしかけ…という場面は覚えていたが、最後はまるでゴダールの「気狂いピエロ」のように散っていくとは…。尾崎紀世彦の印象は当時の印象を上回るもので、半分やくざ者のように落ちぶれ、泥酔しながら悪態をつきまくり、沢田研二に「おふくろさん」を歌えと迫る。沢田にとって尾崎はかつての師匠筋にあたるため一切抵抗はしないのだが、尾崎は歌いかけの「おふくろさん」を中断、森進一のまねをしながらやり直せと要求する。沢田は素直に従うのだが、あの全盛期のジュリーが屈辱を受ける長い長い場面に、視聴者は見てはいけないものを見てしまったという気持ちに陥ったことだろう。ゴジさんは彼を犯人とにらむ刑事、若山富三郎に「あんた、よく我慢したな」とまで言わせている。当時のテレビドラマはそのくらい過激だったのだが(演出は久世光彦)、ゴジさんの脚本力は相当なものだと思う。ちなみにこの作品にはザ・ゴールデン・カップスのデイブ平尾がクラブのスタッフ役としてレギュラー出演しており、「ママリンゴの唄」があまりに素晴らしかったので、CDまで購入してしまった。

 かたや三億円、かたや原爆、そこに敵味方を含めた共犯関係の人物が絡み、ブツを奪われ奪い返す。「悪魔のようなあいつ」と「太陽を盗んだ男」は構造的によく似ている。週刊誌取材時のゴジさんのテープを聞くと、原爆を作るアパートの場面で夜中まで撮影がおすと、天井からスタッフの文句を言うことが聞こえてきたのだという。すると沢田研二は土下座をしながら撮影続行を頼み込んだことを話していた。沢田研二のことを常に「沢田」と呼び捨てにするのが、ゴジさんらしい。取材後、ゴジさんは文芸坐で高橋伴明さんの上映会で話をすることになっていたが、取材は3時間に及び完全に遅刻状態。「伴明に殴られるよ」と笑いながら最後まで付き合ってくれた。

2023年10月26日 先日、くうの浅川マキさんのライブ上映会。僕も足繫く通った文芸坐ルピリエ時代のもの。マキさんにふさわしい闇の奥にあるような空間。ときおりリングのようにも見えたものだ。茶色の紙袋に目の穴だけをあけて、頭からすっぽり被っている観客もいた。誰でも受け入れてくれるようであの空間が大好きだった。渋谷さんのピアノも素晴らしいが、川端民生さんのウッドベースがめちゃくちゃいい…。そんな光景がよみがえってくるる。「線路は続くよ、どこまでも~」の合間に、朝鮮人の金さんが登場する歌がある。レコーディングはされていない。たしかアパートの二階に金さんは住んでおり、アパートの階段の光景が頭の中にこびりついている。夕暮れ時のような気もする。寺山修司的な世界だ。30年以上前に一度聞いたきりなので細部は覚えていないのだが、もう聞く機会はないのだろうと思っていた。当日の上映会でも流れなかったが、撮影者の山崎幹夫さんに聞くと、「明日の上映会でそれ流すよ」と話していた。浦河での上映なので行けなかったが、山崎さんは80年代後半から90年代の途中まですべてのライブを収めているという。これはいつか聞くチャンスがあるかもしれない。

 それにしてもその山崎さんともほぼ40年ぶりの再会だった。8ミリ映画製作に没頭した頃を思い出すが、山崎さんは札幌学生映画の代表格。撮影はピカイチだった。マキさんの映像は客席から撮られており、そのポジションとキャメラの揺れが一層ライブ感を引き出す。上映後は本当に1つのライブを観た感覚に陥り、深く感動した。

2023年10月22日 「コカイン・ベア」がいい。残虐さとコメディのバランスが絶妙。近年のコメディ映画で突出した1本は「俺たちフィギュア・スケーター」だと思っているが、コメディ映画をつくることはものすごく難しく、平均台の上を歩くようなものではないだろうか。つまり、まじめにきっちりやらなければ成立しない。登場人物のキャラはすぐに認識できるのはそうしたセンスと配役もいいのだろう。しかも主役は熊。これはもう「男性の好きなスポーツ」のホークスを思い出さずにはいられないではないか。レイ・リオッタに捧げられた作品でもあった。

2023年9月17日 「福田村事件」、水道橋博士の異様な存在感に驚く。初登場場面では一瞬子供のように見え、目を疑ったが、大き目の軍服とよく張った声がこの男の虚勢ぶりを増幅させ、終始注目させられた。東出昌大の佇まいと目線もよかった。多彩な登場人物のエピソードを織り込み、関東大震災後に起きた虐殺問題を浮き彫りにする脚本は労作と思う。記者を登場人物に加えることで現代とのブリッジにしたと森監督は話すが、今の映画はここまで練り込まなければ成立しないのかとも思う(「映画」にさえ到達しないペラペラな作品が多いのも現代ではあろうが)。「エンタメ」を目指したと森監督が語ってしまうので、ではフライシャーやカーペンターを称賛する同じ立教大の黒沢清はどうエンタメに取り組んだかということをつい考えてしまう。もちろんこれは「映画的」な話で、松野や小池の発言には本当に腹が立ち、虐殺問題に関心を持つ人が増えたとすれば意義は大きい。ところで、「太陽を盗んだ男」で沢田研二と間違われる男を演じたのが森達也とは知らなかった。黒沢清に急遽頼まれての出演だったという。「クライムズ・オブ・ザ・フューチャー」、クローネンバーグの新作というので駆け付ける。80年代の作品群に回帰する悪趣味装置が満載。それはそれで喜んで観ていたが、それにしてもこの単調な切り返しはどうしたことだろう…。レア・セドゥは作品選択眼は面白過ぎる。それだけにボンド映画などに出演する必要はなかったのにと思う。

 

2023年8月2日  お店でフュージョン大会を開こうという話になり、暑い時期にはいいねえと思ったのだが、自宅のCD棚を覗くと意外とフュージョンに該当するものがない。クロスオーバーからフュージョンという言葉に切り替わった70年代後半、ボブ・ジェームスやらデイヴ・グルーシンやらを敵視し、ああついにナベサダさんも「カリフォルニア・シャワー」を出してしまうのかなどと嘆きながら、フュージョンなるものを馬鹿にしていた時期があったことを思い出す。今思えばものすごい呼称だが、「電化マイルス」と呼ばれた頃のマイルスの「ビッチェズ・ブリュー」「ジャック・ジョンソン」あたりから「アガルタ」「パンゲア」に至る衝撃は大きく、そこから派生するウェザーリポートやリターン・トゥ・フォーエバー、マハビシュヌ等の流れはジャズの王道と思い、よく聞いていた。フュージョンとは「フュージョン決定盤101」(音楽出版社)にならえば、コルトレーンが死に、マイルスが一時的に引退してジャズのリーダーがいなくなったことで縛りが緩くなり、ジャズの外側からの越境を許しフュージョンが生まれた、とも解釈できるのだろう。フュージョン・ブームとは本当に玉石混交で、ここで見られた商業主義的なものがどうしても好きにはなれなかったのだろうなあと思う。とはいえブームの最中に登場したクルセイダーズやマンハッタン・トランスファーなどは好んでいたし、スティーリー・ダンの完璧に構築された世界観にも夢中になった。キリン・バンドを結成した渡辺香津美なども熱く聞いていた。80年代以降、パット・メセニーやデヴィッド・サンボーンなどが人気を博した頃にはもうフュージョンという括りはどうでもよくなってしまい、単純にジャズというジャンルの流れで接していたと記憶する。ジャズは元々様々な音楽や楽器がミックスされて発展してきた音楽だからその意味ではフュージョンも広く解釈することができ、するとどんどん節操がなくなっていくが、80年代以降はエスニックとの融合が最も面白いと思っていた。ブラジルにはなんたってエルメート・パスコアールがいるし、迫力満点のボーカリスト、タニア・マリアがいる。アメリカではむしろアンダーグラウンドという括りになるのかもしれないが、アメリカン・クラヴェ・レーベルのキップ・ハンラハンだ。これはディスク・ユニオン時代、枚数が少ないというのにレーベル名を書いて仕切り棚を作った程はまった。アルバムにもよるがラテン・パーカッションが強力にプッシュされ、カーラ・ブレイ、デヴィッド・マレイ、レスター・ボウイ、ドン・プーレン等々にゴールデン・パロミノスのアントン・フィアーやらアート・リンゼイ、フレッド・フリス、ジャマラディーン・タクマ、元クリームのジャック・ブルース、アストル・ピアソラなどが入れ代わり顔を出す。個人的には商業主義から最もかけ離れた“フュージョン”と言いたいところだが、その括り方には無理があるし、大会ではかけないだろうなあ。

2023年7月13日 先日に続き、アナトール・リトヴァク「暁前の決断」。唸る程の傑作だった。

リトヴァクは名匠と目されつつも未だ本格的なレトロスペクティブなど開催されておらず、言及されることも少ないが、これから真に見直されるべき監督だと思う。先日の「蛇の穴」といい、リトヴァクの登場人物は自身が果たして何者なのか心が彷徨い、他者との関係性の中で葛藤を続ける。「暁前の決断」は第二次大戦下、ドイツの敗戦が濃厚となった状況にありながらも最後の反攻を阻止すべく、情報収集のためにドイツ兵捕虜の中から立候補によってスパイを養成する。スパイとはいえ母国に侵入するわけだから、逃走の恐れどころか二重スパイになる可能性もあれば、スパイ本人にとってみれば祖国の裏切り者にもなるわけである。自分が何者であるのか心が彷徨い出す、まさにリトヴァク的なテーマがこの作品の主題となっているのだ。1951年公開の本作は実話であり、各国の軍隊の協力を得ながら廃墟と化したドイツで撮影された光景はあまりに生ナマしく、リトヴァクは登場人物たちを突き放したような視線で活写してゆく。

 スパイを演じるオスカー・ウェルナーが素晴らしい。“ハッピー”がコードネームの彼は、若さと純真さが任務の妨げになるのではと危惧もされながらも、これが真にドイツのためなのだと必死で任務遂行に務める。それでも病院の院長である父親に無言電話をかけ、なつかしい声に動揺する様は痛々しい。そしてなお素晴らしいのが、ヒルデガルト・クネフだ。酒場で娼婦に身をやつした彼女をウェルナーは嫌うのだが、「あなたに私の何がわかるのか」と、戦地で夫を、空爆で娘まで亡くしたことを聞かせ、人生の輪郭を露わにする。翌日にはウェルナーと共に酒場を後にし、別の地へ歩み出すのだが、クネフもまた人生を彷徨う人間なのだ。スパイであることを見抜かれまいと周囲を警戒するウェルナーに、クネフは危険が迫っていることを必死で伝え、二人の心は一瞬通い合う。しかし、彼らの別れに言葉もなく、リトヴァクは戦時下における人間模様を冷徹にみつめている。

 

2023年7月9日 アナトール・リトヴァク「蛇の穴」。ベンチに佇むオリヴィア・デ・ハヴィランド。耳元で男性の話しかける声が聞こえるが振り向いても誰もいない。隣に座っていた女性は自分のことを知っているようだが、自分が今どこにいるのかさえわからない。キャメラが引いていくと、看護師が「整列して」と患者たちを集めている。そこは精神病院なのだ。この出だしが秀逸。自分が今存在している場所が精神病院なのか刑務所なのかさえわからず、医師の問いかけに夫はいないが結婚はしていると答えてしまう矛盾。夫が現れても誰なのかはわからない。そのわからなさゆえに、キャメラに映っているものは果たして本物なのかどうかという映画の持つ深みにさえ踏み込んでいるようにも見える。彼女を待ち受けるのはおぞましい電気ショック治療なのだが、こめかみにゼリーを塗り込み、頭に電極をセットしてメーターがぐっと上がる描写が恐ろしい。精神病院で電気ショックといえば、近年では「カッコーの巣の上で」があるが、単によくできた作品という程度におさまっているのに対し、「蛇の穴」はおぞましい何かがくすぶり続けているようだ。高橋洋氏が指摘するように、リトヴァクは急速なパンの人でもあり、例えば帰宅した夫が彼女の異変に気付いた瞬間、キャメラは急速に右にパンし、まるで別人のように窓辺に佇む彼女をとらえる。そこに映り込むのは彼女の後ろ姿なのだが、観ている方にも、あ、別人になっている!とわかるようで、急速なパンが恐ろしい効果を生み出している。重症患者を収容する病棟では中央に広げたカーペットに決して乗ってはいけないというルールがあり、それは単純に汚したくないという理由なのだが、かつての精神病院という閉鎖空間の実態を象徴するような場面ではないだろうか。精神病院といえば僕はつい「大自然の凱歌」の、あの素晴らしいフランシス・ファーマーを思い出してしまうのだが、ケネス・アンガーの著書「ハリウッド・バビロン」にあるように、彼女を待ち受けたのは鞭と拘束衣と強姦が横行する生き地獄だった。映画ではカーペットから引きずり出される場面もあるが、僕にはカーペットが看護師による虐待のきっかけとなる装置にしかに見えなかった。この作品はメリー・ジェーン・ウォードという女性の実体験が原作となっており、実態は映画以上に悲惨なものだったと想像する。生き地獄ゆえに患者たちがダンスパーティで「家路」を合唱する場面は魂を揺さぶられる。

2023年7月8日 つくづく映画で心理など見せてほしくないと思う。アクターズスタジオ系の俳優がなかなか好きになれないのはそういうことで、メリル・ストリープについてトランプ前大統領が「過大評価だ」といったことに対し、蓮實重彦が「たまにはトランプも正しいことを言う」と語ったことにはつい笑ってしまった。例えばヒッチコックに心理的な描写などあっただろうか。唯一の失策は「引き裂かれたカーテン」にポール・ニューマンを起用したことだと思うが、何を考えているのか微妙な表情でみせてくれなくとも、観客は十分に映画で何が起こっているのかわかるのだ。それが“映画”というものなのだから。ちなみに「引き裂かれたカーテン」はヒッチコックの中では評判がいまいちだったらしいが、それこそ過小評価でかなりの傑作だと思う。

 マーヴィン・ルロイ「悪い種子」。恵まれた家庭に育ったはずの8歳の少女が実に単純な動機で殺人を重ねる。大人たちには愛想を振りまき、愛されもするのだが、人間的な感情が欠落しており、あるのは打算と欲望だけ。同級生が書き取り大会で勝ち取ったメダルを欲しいと思えば、ためらわずに殺してしまう。完全なサイコパスなのだ。この少女にまったく心理的な描写など介入させない演出は映画的であるという他ない。殺人場面も直接的に描写されることはなく、大人たちの会話と少女の可憐な態度とは裏腹の行動(殺人後に屋外でままごとをするなど)からじわじわと犯罪が浮かび上がっていく。「悪い種子(THA BAD SEED)」とはこの作品の場合、隔世遺伝のことを指し、母親の隠された生い立ちからオイディプス王的な展開が絡んでくる点も巧妙に作られている。こういう恐ろしい物語がまずブロードウェイミュージカルで当たっていたというのがものすごい話だが、1956年の製作なのでヘイズ・コード管理下。なので、カーテンコールのようなものがエンドマークの直後にあって、突然ほのぼの描写が付け加えられている。今更もうおそいっつーのてな感じで、当時の観客は苦笑したことだろう。真のラストは、水辺と稲妻。水と雷は映画史そのものであるだろう。ああここでもかと震えがくる。

2023年7月5日 学生時代、ジャズに狂っていたものの、周囲にYMOやクラフトワークなどのテクノとジャズを平行して聞く人間はいなかった。グルーヴしないのがYMOなので、むしろ毛嫌いされたのかもしれないが、自分は勝手に細野晴臣とジョー・ザヴィヌルに親和性を感じたりしながらテクノにもどっぷりとはまり、コンサートにも足を運んでいた。なので今年、高橋幸宏と坂本龍一が亡くなったことにはショックを受けた。ことに坂本龍一は教養溢れかえる人で、ポップスだけでなく、クラシック、現代音楽、ジャズ、ワールドミュージック等々裾野は広く、むしろ現代音楽の人というイメージがあった。土取利行と共演した「ディスアポイントメント・ハテルマ」などは現代音楽とフリー・ジャズの融合に感じられた。が、その膨大なディスコグラフィーを眺めた時、ジャンル分けなど不可能に近いと思えてくる。

 大谷能生の「ジャズと自由は手をとって(地獄に)行く」に所収される坂本龍一論では「東京藝術大学大学院修士課程を修了し、つまり日本におけるアカデミックな音楽理論の牙城に最後まで付き合いながら、そのまま最新のポピュラー音楽の現場に入ることによって、この二十世紀の音楽をめぐる二つの魅力が生み出す緊張関係を、最大の振幅でもって経験することになったミュージシャン」と評し、大学入学前の時点ですでに西洋音楽の基盤を一通り身に着けていた坂本は、アメリカの実験音楽等を通してその限界にも自覚的だったのではと推論する。「音楽の毒」に密着しながら、極めて構成的な方法で作曲するという視点から分析した「千のナイフ」や「BEAUTY」、「B‐2ユニット」論なども非常に面白かったが、坂本の仕事ぶりの傍若無人さは二十一世紀の現在から振り返れば、ワールド・ワイド・レヴェルで見事に統一感のあるもののように見える、との指摘に絶句する。その姿勢は遺作まで貫かれていただだろう。

 坂本龍一はYMO加入前のセッション・ミュージシャンとして活躍していた頃から頭角を現わしていた。浅川マキのアルバムにも名を連ねていたりするが、個人的には歌ものが好きだった。特に印象に残っているのは、前川清の「Kiyoshi」のレコードでいうとA面や加藤登紀子の「愛はすべてを赦す」。後者は1920年代に作られたポーランドのパルチザンの唄「今日は帰れない」が特に素晴らしく、森へ戦いに行く僕を窓辺で見送らないで。君のまなざしが闇を追いかけて涙にぬれるのを見たくないから、と恋人に語りかける様に何度聴いても泣いてしまう。最近では2010年に発表された大貫妙子との「UTAU」が圧倒的だった。が、坂本龍一が関わった歌もので最も聴き込んだのはほぼ全曲、三上寛が作詞作曲した1977年の「ピラニア軍団」かもしれない。若い方はわからないだろうが、ピラニア軍団とは東映のやさぐれた大部屋俳優だけの集団名で、川谷拓三や室田日出男、小林稔侍、片桐竜次等々が名を連ねた。アルバム自体は三上寛の奇才ぶりが炸裂したものといえるが、坂本龍一は約半数の曲の編曲を担当し、素晴らしい仕事ぶりをみせている。絶品なのは志賀勝の「役者稼業」で聴けるファンクアレンジ。ドスの効いた歌声と都会的に洗練されたアレンジの妙。さらに根岸一正が「死んだ死んだ死んだ」と連呼する「死んだがナ」はミニマルな繰り返しにファンクなアレンジが施され、謎の名曲となっている。

2023年6月30日 先日、「突破口!」について書いたが、個人的な思い出がある作品でもある。映画自体はドン・シーゲルとウォルター・マッソーのそりが合わなかったことで、当たらなかったらしい。マッソーは撮影中から作品が理解できなく、記者連中に悪口を言いまくっていたのだとか。それが興行に影響したのかもしれない。札幌では「スティング」との2本立てで、お蔵入りした末の公開だったという。そんなことを聞いたのは、当時の天野興行の社員からだった。なぜ天野興行かというと、中学生当時、担任から将来成りたい職業に就いている人に取材してこいと宿題を出されたからだ。当時は映画評論家になることが夢だった。ちょうどその頃、淀川長治が映画の解説のために来札することになっており、バカな中学生は映画好きならば淀川さんから容易に話が聞けるものだと思い込んでいた。早速主催元に取材を申し込んだが、あっさりと断られた。まあ当然だろう。淀川さんに直接お願いする術もない。それで経緯はともかく天野興行にお願いすることにしたのだ。後に映画監督になる佐々木浩久を誘い、当時の帝国座の2階(だったと思う)を訪ねた。ちょうど「スティング」と「突破口!」の公開直前というタイミングだったので先の話題となった次第。その日はどんなことを聞いたかすっかり忘れてしまったが、今も忘れられないのは対応してくれたおじさんが「突破口!」について、したり顔で「ドン・シゲール」と発声していたことだ。シゲールじゃなくてシーゲルだっつうの。我々中坊の方がよほど知っているじゃあないかとすっかり盛り上がり、帰り道は「ドン・シゲール」と雄叫びをあげては笑い転げたものだった。

2023年6月26日 ドン・シーゲルの「突破口!」、何度観ても面白い。銀行強盗した金が予想外の大金で、マフィアに追われるはめになる、という筋立てはまんまコーエンが「ノー・カントリー」でぱくっている(「ノー・カントリ―」は偶然大金が転がり込む)。「ノー・カントリー」にはテンガロンハットを被った殺し屋まで登場するが、「突破口!」の殺し屋を演じるジョー・ドン・ベイカーのうれしそうに人を追い詰めていく様が妙に画面を活気立たせ、片やウディ・ハレルソンといえど及ばない。シーゲルのユーモアとサスペンスをない交ぜにした演出は冴えに冴えわたり、クライマックスの「北北西に進路をとれ」のパロディもいい。犯罪者にウォルター・マッソーを起用するという配役の妙でもあるだろう(当初はドナルド・サザーランドが予定されていたというが)。

 「突破口!」が素晴らしいのは、単調な描写に陥らないよう細部の演出に工夫を凝らしている点にもある。これは映画監督の腕の見せ所であって、優れた監督ほど技術が透明化し、漫然と画面を観ているだけでは気付きにくいことかもしれない。例えば二人が会話する場面では単なる切り返しに終わらないよう凝った演出をしている。マフィア側の黒幕のジョン・バーノンが検事のノーマン・フェルを訪ねる場面では、ドアの外で待つバーノンの後方から少女が「ブランコを押してほしい」と呼び掛ける。少女は物語とは何の関係もなく、バーノンを少女の方に振りむかせるためだけの演出なのだ。バーノンは少女と他愛もない会話をしながら、外に出てきたノーマン・フェルに背中を向けながら話すことになる。つまり、単なる切り返しを回避することになるわけだ。唐突な少女の登場に観ている方は何が起こったのかと一瞬の混乱を強いられ、それ故に印象的な場面と化す。同じバーノンが、襲われた銀行の支店長にそれとなく自殺を仕向けるという怖い場面では、それとは裏腹にのどかな牧場がロケ地として選択されているのがまず心憎い。バーノンがやってくると、彼はおもむろに柵に上り、またがった姿勢となる。これにより上下の視線の構図が生まれ(彼らの関係性を示すかのようでもある)、単調な切り返しは回避される。殺し屋のジョー・ドン・ベイカーが強盗犯人のアンディ・ロビンソンを尋問する場面では、椅子に座ったままのベイカーが、殴られて弱っているアンディの頭をつかんではくるりと一回転させ、自分のひざ元に座らせる(終始上機嫌な様子でアンディをいたぶるベイカーのサディストぶり!)。これでベイカーは後方、アンディは前方に位置する形で同じ方向を向いて会話をする格好となり、しかも上下の位置関係が加わっている。シーゲルのちょっとした演出なのだろうが、見事という他ない。最も効率的なショットと創意工夫で物語を観客に提示する演出術。強盗場面でもマッソーが銀行員に銃を向けた途端、キャメラは猛スピードで左にパンし、覆面を被った仲間二人を捉え、一気に緊迫した場面へともつれ込む。このアクションの連鎖に、いつどこで彼らが侵入した?などという余計な詮索は不要。私たちは異なる場面の連続に考える間もなく、登場人物たちの推移をただただ目撃するだけでいいのだ。この作品を一気に観終わることができるのは、観客を飽きさせない細部があってこそなのだと思う。それにしてもこの二人の強盗がキャメラに捉えられた瞬間、アンディは右手で銃を構えると同時に、見得を切るように左手をぱっと開くのだが、この一瞬は何度観てもしびれてしまう。

2023年6月21日 映画史を学んでいくと、映画の❝スペクタクル化❞の起点となってしまったという点で何かと分が悪いアメリカン・ニューシネマ。しかしながら個人的には映画の観はじめと重なっているだけに、好きな作品も多い。シドニー・ポラックの「ひとりぼっちの青春」もその1本だが、最近とんとお目にかかることのなくなったフラッシュ・フォワードを多用しており、久々に観ると現在であるはずのダンス・マラソン・シーンが過去に感じられてならなかった。このあたり、稲生平太郎と高橋洋の信じ難い程面白い対談集「映画の生体解剖」でも触れていることだが、高橋氏は映画を観る時々で感じ方が変わるという。物語の大半は、1930年代の大不況下に行われたダンス・マラソンの話(実話という)。2時間のうち10分だけ休憩時間があり、あとは昼も夜もペアで踊り続けるだけ。食事もテーブルの周りを歩きながら食べる。はじめはドレスアップした男女が優雅に踊り始めるが、賞金を目的とした競技なので、最後の1組になるまで何十日間も踊り続ける。参加者を減らすために競歩まで導入され、レッド・バトンズは心臓発作を起こして死んでしまうなど、ダンスホールは次第に地獄絵図と化す。この時々で物語を断ち切るように、参加者であるマイケル・サラザンがダンス後に査問を受ける様子がフラッシュ・フォワードとして挿入される。しかしながら、このブツ切り感が異様で、ダンスの方が過去にも思えてしまうのだ。さらにいえば、サラザンの妄想とも捉えることもでき、つくづく映画における時制の不思議さを考えさせられた。果たして映画に時間というものが流れているのかどうか…。

2023年6月18日 中学生の時に「エクソシスト」を観て以来、ジョン・ガーフィールドという俳優が気になってしょうがなかった。リー・J・コッブ(刑事)がジェイソン・ミラー(神父)に「君は『ボディ&ソウル』のジョン・ガーフィールドに似ているな」というセリフがあったのだが、その映画にも俳優にもお目にかかれる機会が全くなかったからだ。エイブラハム・ポロンスキー「悪の力」、ロバート・ロッセン「ボディ&ソウル」といった代表作は後にDVDで観ることができたが、赤狩りによるトラブルさえなければ、ガーフィールドはバート・ランカスターやカーク・ダグラスあたりよりも大物俳優になっていたのではないだろうか(ランカスターはガーフィールドと同じ1913年生まれ、ダグラスは1916年生まれ)。ガーフィールドはこの他「郵便配達は二度ベルを鳴らす」や「破局」「ユーモレスク」なども印象深いが、遺作となったジョン・ベリー「その男を逃がすな」は本当に素晴らしい。職がないが故に工場の給与を強奪し、警官を射殺するはめに陥り、人込みとプールに逃げ込む。そこで知り合ったシェリー・ウィンタースの実家に逃げ込み、その家族は自分と同じような下層階級であることが痛ましい。唯一見出した愛を自らの疑心暗鬼からぶち壊し、孤独に死んでゆく様は、ガーフィールド自身の死と重なる。盟友の劇作家クリフォード・オデッツが赤狩りの公聴会に召喚され、共産党員の仲間を密告。その2日後にガーフィールドは女友達のアパートで亡くなっているところを発見される。心疾患を患っていた上に深酒を重ね、ほとんど自殺的な行為だったといわれる。

2023年6月17日 ああ、これぞ「映画」だと思う瞬間がある。優れて映画的な場面とは、ある描写の後に遅れて物語がつかめることがあるものだ。ヘイズコードはその制約故に観客の想像を掻き立てる描写を生み出したという点で、功罪半ばしたものとはいえ、その意義は大きい。吉田広明氏の名著「B級ノワール論」では、ジョゼフ・H・ルイスの「ビッグ・コンボ」のまさに映画的な場面をわかりやすく抽出している。それは、ギャングの手下2人が夜中に電話で呼び出され、同じ部屋に寝ていることを示す場面。ヘイズコード下にあってホモセクシュアルの直接的描写は不可能であり、いくら仲のよい手下同士であっても同じ部屋に寝起きするわけがなく、同性愛を暗示する。現代の映画であれば、同性愛の性的描写をたっぷりと盛り込むだろう。「ビッグ・コンボ」の暗示的描写は即座にそれと知れるものではなく、観客は一拍遅れてハッとそれに気づくのであり、そのインパクトこそが映画を決定的に陰湿なものに染め上げていく。これこそが物語が後からやってくる瞬間なのだ。

 

2023年6月16日 スコリモフスキ、「EO イーオー」は間違いなく今年のベストテンに入れるだろうな。スコリモフスキが人生で唯一泣いたというロベール・ブレッソンの「バルタザールどこへ行く」をベースにした作品。屠畜の銃声音に続くクレジットタイトルの最中、さめざめと泣いてしまったが、荒唐無稽なイメージが連鎖する頑固おやじの映画という印象。それにしてもイザベル・ユペールだ。画面に登場した瞬間の顔の存在感といったらない、皿を床に叩き落とし、カーテンを引きちぎっては投げといった意味不明のアクションと音響。現代最強の女優がこの人だろう。アメリカ映画では絶対的にみることができない顔なのだ。

 70年代の山田太一脚本作品「男たちの旅路」の「シルバーシート」の回を観てしまう。鶴田浩二、水谷豊、桃井かおりらが警備員を演じるドラマだが、冒頭で志村喬が国際線の飛行場で亡くなる。老人の志村に飛行機に乗る予定はないのだが、毎日のように誰彼となく話しかけ、昔話ばかりするので周囲からは嫌われていた。志村と同じ老人ホームで暮らしているのが、笠智衆、藤原釜足、加藤嘉、殿山泰司というものすごいキャスト。彼らは反抗心から無人の電車をジャックし閉じこもる。周囲の人間には老人たちの要求をつかみ取ることができず、警察を呼ぶ前に鶴田浩二の登場という展開になる。この時代ならではの映画的なキャスティングで、笠智衆は1904年生まれなので小津(安二郎)さんの1歳年下。藤原釜足は1905年生まれなので成瀬(巳喜男)さんと同い年。加藤嘉は1913年生まれ、殿山泰司は1915年生まれと続き、鶴田浩二は1924年生まれなので最も若い年代となる。つまりドラマと同じく世代ギャップがあり、鶴田Ī対老人たちという図式で電車ジャックの場面が進行する。このやりとりが抜群に面白く、最年長の笠と弁の立つ加藤が中心となって、「私らの要求がわかるかね」と鶴田に詰め寄る。加藤の主張を要約すれば、力のなくなった老人が次々と使い捨てにされる中、老人は過去に行ってきたことで敬意を表されてはいけないのかということなのだが、鶴田は自身の戦争体験を述べつつ、「こういうことで抗議しては過去をけがすだけではないか」と説得にかかる。それは理屈だ。あんたの20年後は今の私らと同じだと笠、あんたはまだ若いから理屈で納得ができるんだと加藤が応じる。その言葉を受け、鶴田は「20年後の覚悟はできている。少なくともこんなことはしない。はっきり言いましょう。皆さんは甘えている。歳をとればわかるというくらいならなぜこんなところに閉じこもったんです」とやや声を荒げ、外の連中に訴えを述べることを促す。しかし老人たちは全く動じない。淡々とした調子で「私らは押し入れに閉じこもった子供です」と笠。老人たちは始めからどうなるとも思ってはおらず、志村の死を迎え、寂しさと悔しさと無念さからこのまま大人しく死んでたまるかという気持ちだったと明かす。やおら、沈黙していた藤原が「お前なんかにはわからないんだ!」と無念な思いを叫び、「わかった、もういいやね、おっさん」と殿山がいさめる。最後に笠が「これは老人の要領を得ん悪あがきです。黙って警察に引き渡してくれますね」と伝え、鶴田は素直に応じる。このドラマは鶴田対若者という図式で、戦争体験を引きずった若者嫌いの男と若者たちの距離が縮まっていくところにドラマ性があったが、この回は鶴田と老人たちは断絶したまま終了する。さらに後の回では病気により死の迫った部下の桃井かおりを愛し、仕事にも支障を来したことで、これまで保ってきた鶴田の威厳は完全に失墜する。ドラマ内で作り上げたキャラクターを破壊する山田太一の筆致は稀有だったと思う。O

 

2023年4月12日 「ノック 終末の訪問者」、何かと叩かれがちなM・ナイト・シャマランは断固擁護したい。シャマランは間違いなく黒沢清を観ている。黒沢さんといえば、「蛇の道」をフランスでリメイクするとか。仕込み杖のコメットさんは出てくるか。「マッシブ・タレント」は意外な拾い物。借金返済のため、ここ数年はハリウッドで東映プログラムピクチャー時代の俳優のような活動をしていたニコラス・ケイジ。引退していないのに、なぜかカムバックしたような風情が唯一無二。スピルバーグ「フェイブルマンズ」。映画はあらかじめ呪われたもの、そこがいい。室内の俳優はとにかく動く、アクションの連続。ジョン・フォードを演じるデヴィッド・リンチが登場する場面は時空が歪む。ジャック・カーディフ「悪魔の植物人間」を初めて観た。まさかトッド・ブラウニングの「フリークス」がこんなところで継承されていたとは…。森崎東「帝銀事件・獄中32年の死刑囚」。何かが降りてきたような仲谷昇の演技に衝撃を受ける! 今冬「刑事コロンボ」を全作観る。「忘れられたスター」「祝砲の挽歌」「歌声の消えた海」「仮面の男」「恋におちたコロンボ」あたりがよかった。スピルバーグは知られているが、ジョナサン・デミやベン・ギャザラ、テッド・ポスト、ロバート・バトラーなどの監督作も。初期作品に登場するギル・メレ作曲のコロンボのテーマが滅茶苦茶カッコいい。

2023年2月13日 アンソニー・マン、「秘密指令」が素晴らしい。フランス革命下、恐怖政治を推し進めるロベスピエール。共和派は体制内部に密偵を送り込み、ロベスピエールが隠し持つ粛清者の名簿を白日の下に晒すことで、独裁阻止を目論む。製作は1948年、つまり非米活動委員会の公聴会が始まったばかりであり、赤狩りへの反論の意志は明白だろう。しかし、撮影ジョン・オルトン(「Tメン」「ビッグ・コンボ」)、美術ウィリアム・キャメロン・メンジーズ(「海外特派員」)らスタッフに異能の職人を要すアンソニー・マンは、名簿の争奪戦を主軸に息詰まるような美術セットの中で光と影を巧みに操り、ただただ活劇を見せてくれる。演出にまったく無駄がない、キャメラの位置が完璧、映画はひたすら直線的に突き進む。あっという間に観終わる。

光と影の中で、密偵と反体制女性活動家が素性を探りながら出会う
光と影の中で、密偵と反体制女性活動家が素性を探りながら出会う

2023年1月1日 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。先日、高校時代の友人が約30年ぶりにロンドを訪問。彼もジャズ喫茶に通い狂った仲間の1人。もう1人のジャズ仲間O君と「ニカ」というジャズ喫茶で待ち合わせしたところ、帰り際に2人とも所持金はゼロであることに気付き(何たるバカ)、お金を持って迎えに来てくれた友人。学祭では「バードランド」という名のジャズ喫茶を開き、マッチも作り、ウエートレスも綺麗どころを揃えて好評だった(はず)。それにしてもお互い好きなものは昔から変わらず、人間の本質ってのものは変わらないものだと実感した次第。

 映画はアゲアゲになってナンボ、あるいは心が傷付いてナンボのもんだとどこかで思っているのだが、昨年は青山真治が亡くなったことが本当に痛い。ゴダールもジャンマリ―・ストローブも吉田喜重も昨年亡くなったわけだから、蓮實さんの心痛も相当なものだろう。

 新作も随分と見逃してしまったが、個人的ベスト10をつけるならばこのような感じ。

 ①水の中の八月(高橋陽一郎)②グレゴワール・ムーラン対人類(アルチュス・ド・パンゲルン)③たそがれの女心(マックス・オフュルス)④彼を信じた十三日間(黒沢清)⑤その女を殺せ(ドン・シーゲル)⑥プリズン・エスケープ 脱出への10の鍵(フランシス・アナン)⑦クライ・マッチョ(クリント・イーストウッド)⑧殺し屋ネルソン(リチャード・フライシャー)⑨勝手にふるえてろ(大九明子)⑩ウエスト・サイド・ストーリー(スティーブン・スピルバーグ)次「橋」(ベルンハルト・ヴィッキ)

 

 その他印象に残った作品 「10番街の殺人」(リチャード・フライシャー)「チェルノブイリ・ハート」(マリアン・デレオ)「ドント・ルック・アップ」(アダム・マッケイ)「アラブの盗賊」(ジャック・ベッケル)「拾った女」(サミュエル・フラー)「OLD オールド」(M・ナイト・シャマラン)「二重結婚者」(アイダ・ルピノ)「コーダあいのうた」(シアン・ヘダー)「私をくいとめて」(大九明子)「スティル・ウォーター」(トム・マッカーシー)「ニュー・オーダー」(ミシェル・フランコ)

 

2022年11月16日 ミハイル・カラトーゾフ、「怒りのキューバ」(1964年)の葬儀シーン。クレーンによるワンカット。ドローンもCGもない時代に、一体どうやって撮影したのだという衝撃。映像の圧倒的な力強さに心を打たれる。

2022年11月6日 「水の中の八月」、こんな傑作が1998年に製作されていたとは…(石井聰の作品とは別物)。監督というよりもテレビ用なので演出といった方がよいだろうが、高橋陽一郎という人は全く知らなかった。高3の夏、水泳部に所属する水橋研二が千葉の港町を自転車で疾走する。その走りは弁当を食べながらもあれば、二人乗り三人乗りなど様々なシチュエーションがドラマの進行と共に繰り広げられ、少年の心情を投影するかのようだ。

 

 全編にわたる、落下のイメージにも驚かされる。団地の屋上で少年が仰向けになって顔に浴びる水、校舎からホースで浴びせられる水、散水車に自転車で後続し浴びる水、タイヤの山の頂上からの滑走、団地の屋上にわざわざ自転車を担ぎ上げ、そしてまた担ぎおろす行為…バラックの上にまた建物が重ねるなど、高さを強調した場面が随所に示される。黒沢清を思わせる廃墟のような場所の撮影も効果的で、クレーンや移動、長回しが随所に導入されている。この作品は決定的に撮影の映画であって、キャメラは生き物のようにうごめいている。水泳部の試合の始まりから終わりまでを、あっけないワンシーンワンカットで描くシーンは見事だ。

 

 モラトリアム期にある少年2人と少女1人。お前らは魚になって泳げと指導する教師と尾骨のあたりに鱗が生えてると少年に見せるスナックの女。少年の周囲から一人また一人と関わった人間が去ってゆく。「10、9、8…」とカウントする少年のモノローグと、プールの水中に一人浮かぶ少年の姿(ここはスコリモフスキーの「早春」を思い出す)。わずかに水がひたされたプールの中を自転車で走る少年の光景は切なく胸が痛む。セリフは相当に切り詰められ、彼らの話し言葉は説明不足でぶっきらぼうでさえある。それでも胸を締め付けられるほどにせりあがってくる、少年の夏の物語。この作品はとにかく全編「映画」でできている。

 

 「水の中の八月」は脇に登場する俳優がまたすごい。準主役の林隆三は順当として、他に芹明香、大杉連、光石研、モロ師岡、渡辺哲、高橋明、俳優以外では若松孝二、友川かずき、ギリヤーク尼ケ崎まで出演しており、高橋陽一郎の人脈はただ事ではない。「日曜日は終わらない」という作品がまたすごいらしい。ぜひDVD化してほしいものだ。

2022年10月23日 YouTubeでアルチュス・ド・パンゲルン「グレゴワール・ムーラン対人類」。あまりの面白さに一気に最後まで。字幕なしで十分に楽しめる。ドジばかり踏んできた男(パンゲルン)が一目ぼれしたバレー教室の女性に財布を届ける話。パリ中がサッカーに熱狂する夜、信じがたい邪魔が次々と入り、女性の待つカフェになかなかたどり着くことができない。登場する車は基本的にぶつかっておしゃかになることになっており、犬が運転する車まで登場する。途中関わる人間はどこかいかれた人間ばかり。男は若き日のベルモンド並みに走り、ショットガンを発砲しながら追いかける男もいれば、彼の体を求めて追いかける男までいる。逃走中に逃げ込んだマンションでは仮装パーティが開かれ、ヒトラーやムッソリーニ、ガンジー、KKK、エレファント・マン、「イージー・ライダー」のキャプテン・アメリカなどの姿まで見え、ここでも爆笑エピソードが。サッカー中継で男たちが大興奮する中、財布を待つ女性もなぜか最前列で「ボヴァリー夫人」に没入しながら自分の姿を重ねた妄想をしており、どこかおかしい。主人公の男も妄想の人であって、冒頭の走行中の列車から降ろされる妄想場面からして笑わせるが、少年時代はフレッド・アステアが好きで、彼女と優雅にダンスをする場面はひたすら美しい。ほぼ90分。映画は車と女と銃だけで作れることが、ここでも実証されている。50代で亡くなったパンゲルンが惜しい。


2022年10月22日 「彼を信じていた13日間」のユースケ・サンタマリアはイーストウッド的な「幽霊」のようで素晴らしい。永作博美が失踪したのではと彼のあとを追い、探しあぐねたあげく、彼が坂道をコンビニの袋をぶらさげて向ってくる切り返し。素晴らしいあの坂道は、相米さんの映画のようでもあり感動的だ。再び失踪したユースケ・サンタマリアをようやくみつけたのは、かつてキャンプをした東京郊外の山間部。もはや彼の姿を見ることはないだろうと思った矢先の不意の出現に驚かされる。なるほど、風をテントの揺れでみせる手もあるか。嵐が訪れる瞬間、ユースケの髪が風になびき、灯りが消え、彼の顔の半分が薄い影に染まる。“顔半分”は「回路」や「東京ソナタ」でも一瞬みられた黒沢さん特有の怖い演出。嵐がおさまるとテントの小窓から満月の光が永作博美の表情を幸福そうにに照らすが、彼女に背を向けて寝ているユースケは影で覆われている。もはや幸福な結末を迎えないだろうことを予感させるショットだ。そして、下半身を川につかったまま左に歩くユースケと、その姿を追う永作をとらえた横移動。永作がそのまま川に入っていくという一連のキャメラの動き。思わず「やった!」と声が漏れてしまう。わずか40分弱。映画的な記憶に彩られた紛れもない「映画」なのだと思う。

2022年10月2日 かつてドイツの男子中高校生は皆半ズボンだったのだろうか。半ズボンから軍服へのギャップが凄まじいベルンハルト・ヴィッキ「橋」。第2次世界大戦末期のドイツでは少年まで狩り出し、前線へ送ろうとしていた。7人の少年の異なる生活背景を丁寧に描き出すことで幼さが際立ち、戦場が地獄に変貌する。さすがに今朝入隊したばかりの少年たちを戦場に送っては足手まといになると、上官は後方の橋の警護を命ずるが、それが裏目に出る。現実の戦争と遊びに区別がつかない少年たちは、突然仲間の死を目の当たりにし、攻撃を開始する。「子どもを殺す気はない。幼稚園に帰れ」との米兵の呼びかけは、英語がわからない少年たちには届かない…。これが実話をもとにした作品とは。しかもこの橋は戦略的に全く重要ではない場所だったのだ。狙撃兵のスコープに映る少年兵の演出など戦闘場面も見応えがある。

 2022年9月25日 ほとんど報じられていないようだが、澤田幸弘監督が亡くなる。日活から東映へ。末期の日活ニューアクションを長谷部安春や小澤啓一らと共に支えた人だった。「斬り込み」や「関東幹部会」も印象に残るが、「反逆のメロディー」は佐藤蛾次郎の歌もあってよかった。東映では「高校大パニック」の共同監督、松田優作との「俺たちに墓はない」などもあったが、こうう職人はみられなくなってしまった。そもそも職人の必要な映画の企画そのものが、存在していない。

 成瀬巳喜男の作品から名前をもらった我が家の愛猫は星になってしまった…。

 

2022年9月13日 アラン・タネールの訃報が飛び込んできたかと思いきや、ゴダールが亡くなる。ついにか…。思いは色々あるが、「女と男のいる舗道」が一番好きだったかもしれない。我が家の猫も最後の命の火をかすかにともしながら、日々が過ぎてゆく…。

 

2022年9月3日 リチャード・フライシャー「ジャズ・シンガー」を約40年振りに観る。札幌での公開は1981年で「殺しのドレス」の併映。「どこがジャズ?」と、当時のノートを見ると辛口のコメントが書いてあったが、そもそも初のトーキー映画とされるアル・ジョルソンの同名映画のリメイク。1927年の作品なので、ジャズ・シンガーとはいってもモダンな唱法が聞けるわけもなく、「スワニー」や「ブルー・スカイ」など後のジャズ・スタンダードがオリジナルスタイルで聴けるという感じ。記憶は薄いが、ロシア系の白人ジョルソンが黒塗りで歌う姿には違和感が残った。フライシャー版「ジャズ・シンガー」にも黒塗りで歌うシーンがあるが、ジョルソン版程どぎつくはない。主役がニール・ダイアモンドのため、当時観る前からどこがジャズ?と思っていたわけだが、今観ると、映画の面白さとニール・ダイアモンドの歌は全く無関係であることがよくわかる。個人的にはダイアモンドの歌よりも、ユダヤ教の教会音楽の方が興味深かった。シドニー・J・ヒューリーが降板し、何でも屋のフライシャーが監督を引き継いだため、どこまでがフライシャーの演出なのか定かではないが、語りの経済効率は流石といったところ。先祖代々のユダヤ教の先唱者という役割を捨て、ポップスの道に走るダイアモンドだが、成功しかけたカリフォルニアの地で父の怒りにふれ、放浪の旅に出るくだりは(ダイアモンドは終始いい人に見えるが、やっていることは相当身勝手!)、髭とヒッチハイクを強調しつつ極めて簡潔に描かれ心地よい。無一文になったダイアモンドが開店前の酒場に現れ、1曲聞かせろと言うオーナーとの合唱から即採用になる場面は最も印象に残った。フライシャーの中で決して上位に来る作品ではないだろうが、雇われ仕事でもきっちり「映画」に仕上げる職人ぶりは実に貴重。

 

2022年5月21日 “コスパ”がやたらに求められる時代。この感覚は人間の質に影響を与えそうな気がするが、ある方は今時「ホテル・カリフォルニア」は前奏がカットして流されると嘆いている(自分は前奏だけで昇天するという)。損害賠償請求された「ファスト映画」なんてのもそんな部類に入るだろう。リチャード・フライシャーの「その女を殺せ」を観ると、これこそ本当の意味での「ファスト映画」と言いたくなるほどに、ものすごい速度で映画が展開する。刑事がマフィアのボスの未亡人を裁判のために列車で護送するという筋立てだが、未亡人が刑事と共に部屋を出たとたんネックレスの飾りが階段を転がり、キャメラがそれを追うと命をねらうギャングをとらえ、あっという間に刑事の一人が射殺される、というのが冒頭数分。一人で証人を護送することになった刑事は前後にしか移動できない列車の中で、巨体のために通路を塞いでしまう乗客や刑事を悪人と思い込む子供などの邪魔を受けながら、複数の殺し屋と対決するはめになる。不利な状況に陥りながらも列車の窓に映った敵影を有利に使うなど随所に映画的仕掛けが施され、71分があっという間に終わる。1952年の作品だが、それ以前のハリウッドスタイルとは一線を画し、新しい感覚が暴力的といえるほどに漲り、このまま60年代70年代の映画作りに直結する。しかも1990年にリメイクされた「カナディアン・エキスプレス」よりも遥かにスピーディで面白いのだ。さらにもし今再度リメイクされたとしたら、細部の引き延ばしと大仰なアクションが繰り返されるのが目に見えるようで、上映時間は容易に2時間を超えるだろう。“ファスト映画”というならば、「その女を殺せ」こそ見本のようなものだ。

5月20日 最近クルト・ヴァイルをよく聞いていて、「マック・ザ・ナイフ」は結局ドイツ語で聴くのが一番しっくりくると思うようになった。「メッキ―・メッサ―」と言った方が馴染み深く、この言葉の響きに魅了されている。ロッテ・レーニャも入手。後には「007ロシアより愛をこめて」の靴先にナイフを仕込みボンドを殺そうとしたメイド役が有名だが、顔写真を眺めているとクリストフ・ヴァルツによく似ていることに気付いた。写真を並べてみると親子に見える。ヴァルツはボンドに殺された母の敵を討つため、数十年後にスペクターとなって現れた、などというのは単なる妄想。

2022年4月8日 ジョン・カーペンター レトロスペクティブ。たった3本の公開とはいえ、素晴らしいことだ。上映時間がすべて90分台であることの意味を映画をつくることにたずさわっている方々は真剣に考えるべきだと思う。蓮實氏は「すべての映画は90分で語れる」といった趣旨のことを述べていたと思うが、90分を基準に考えてみるとこのシーンは長い、いらないとの見方が生まれる。つまり、冗長さや説明的な画面が気になることがどうにも多いのだ。スネークがカセットテープを引きちぎりながら画面右に消えてゆくという「ニューヨーク1997」のあのあっさりとした終わり方。これも今の映画はできないことだろう。この90分の意味を考えたとき、「ユリイカ」や「ドライブ・マイ・カー」の3時間の必要性がわかる(「ドライブ・マイ・カー」は少し長いと思うのだが)。などとそんなことを書こうと思った矢先、青山真治が亡くなった。この人はこの歳で死んではいけない人だ。青山氏は「香りも高きケンタッキー」について、観た日以前と以後が全く異なることを述べていた。フィルムセンターで数度しか上映していないこの作品を観るまで、死ぬことはできないなどとよく考えるのだが、つい最近簡単にダウンロードできてしまった。これほどこだわってきた「香りも高きケンタッキー」を、こんなに簡単に観てしまってよいものなのだろうか。できれば大勢の観客と共に劇場で観たいのだが…。

2022年3月6日 「ザ・ユナイテッド・ステイツvs.ビリー・ホリデイ」。アンドラ・デイがビリー・ホリデイの歌声にかなり近づけて芝居と歌を披露したことに関心した。どちらかといえば晩年の声に近い。南部のリンチを扱った「奇妙な果実」という曲をめぐる、国家と個人の闘いを意味する映画のタイトルは決して大げさなものではない。リンチの描写がより生々しくなる第2連と第3連には戦慄さえ覚えてしまうのだが、デヴィッド・マーゴリックの著書「ビリー・ホリデイと≪奇妙な果実≫ “20世紀最高の歌の物語」にはこの曲を聞いた人々の様々な反応や回想が描かれ興味深い。

 

 ビリー・ホリデイが初めて「奇妙な果実」を披露したパーティ会場では詩の内容が浸透するにつれ、大騒ぎだった場が聖堂のように静まりかえり、最後は葬式のようになったという。ところが、しばしの沈黙の後、拍手喝采が沸き起こった。ショックと感動がない混ぜになった反応は、「奇妙な果実」特有の出来事としていくつか紹介されている。この歌が決定的に嫌悪されなかったのは進取の気性に富むニューヨーク市民ならではの感情と考えられるが、そのニューヨークでも「奇妙な果実」を歌うことを禁ずるクラブは少なくなかった。ビリーがこの曲と運命的に巡り合う場となったカフェ・ソサエティは「奇妙な果実」を味わうことができる全米唯一の場となり、チャップリンやローレン・バコール、リリアン・ヘルマン、ラングストン・ヒューズなども訪れた。

 1939年にビリーの「奇妙な果実」は録音された。今でも容易にこの歌を聴くことができるわけだが、録音話の出た当初、コロンビア・レコードは南部の顧客を敵にまわすことを恐れ、ビリーを見い出したレコード・プロデューサーでさえ、この歌を嫌った。結果的にコロンビアは容認せず、受け入れたのは左翼系の小会社コモドア・レコードだった。

 1939年という年は、ある意味で象徴的な年だ。なぜなら「駅馬車」や「オズの魔法使」「風と共に去りぬ」等々といった傑作、大作映画が連続して発表された年だから。トーキーを経た「映画」は1930年代に話法を完成して全盛期を迎え、その頂点となった年が1939年ではないかと僕は考えている。時代は第2次世界大戦に突入し、優雅に映画を撮っている場合ではない。そして戦後まもなくマッカーシズムが吹き荒れ、ハリウッドは赤狩りの恰好のターゲットとなる。華やかな時代は1939年を境に終焉したのだ。こうした転換点は30年代に全盛時代を迎え、次第に麻薬に耽溺してゆくビリーの歌手人生ともほぼ重なる。まさにこうした時代の流れの中で「奇妙な果実」は発表されたのであり、左翼を敵視し、やがては公民権運動を弾圧する国家対ビリー・ホリデイという図式が生まれていく。

 「ビリー・ホリデイと≪奇妙な果実≫」によると、1941年には共産党の破壊活動に関する議会調査で、「奇妙な果実」の作者エイベル・ミーアポルは「この歌のために共産党は金を支払ったのか、あるいはこの歌で稼いだ金を共産党に寄付したかどうか」と尋ねられている。また、マッカーシーを支援するFBI長官エドガー・フーパーや彼の息がかかったコラムニストに責め立てられたバーニー・ジョゼフソンは、1950年代はじめにカフェ・ソサエティを売り払っている。「奇妙な果実」に「赤」のレッテルを貼り、排除しようとのねらいだ。「奇妙な果実」が放送禁止になった証拠はないというが、この歌の持つメッセージ性が騒ぎを起こす元になるのではないかとラジオ局も腰が引けていた。そして反乱の芽をつぶすために合衆国政府がビリー・ホリデイ個人をターゲットにしたのは、「ザ・ユナイテッド・ステイツvs.ビリー・ホリデイ」の描くところだ。

 

 それにしても「奇妙な果実」は、歌そのものとしても奇妙な気がする。歌詞はさておき、ジャズ・ソングとして取り上げるには抑揚がなく地味なのだ。しかし、何度も耳にするうちに毒が体に回っていくような感覚を覚える。他の歌手が歌う「奇妙な果実」を聞くと、ビリー・ホリデイの歌が全くの別物であることに気付かされる。ビリーの前にも「奇妙な果実」を歌っていた歌手はいたが、この歌が有名になって以降はニーナ・シモン、カーメン・マクレー、アビー・リンカーン、ディー・ディー・ブリッジウォーター、カサンドラ・ウィルソン、ロバート・ワイアット、スティング等々数多くの歌手が取り上げてきた。

 とりわけ目立つのは公民権運動全盛の60年代に歌ったニーナ・シモンで、自らの厳粛なピアノに静かな怒りを湛え印象深い(「パステル・ブルース」所収)。最近ではホセ・ジェームズも取り上げているが、近年最も印象に残るのはカサンドラ・ウィルソンだろう(「ニュー・ムーン・ドーター」所収)。彼女は母親がリンチを目撃した様子を詳細に聞いている上、音楽ビジネスは未だ奴隷制の中にあると、現在進行形の問題として取り上げている。シンプルながら凝った楽器編成と不協和音下に語られる「奇妙な果実」の物語は、地の底からじわじわと這い上がり、鈍い光を放っている。エイベル・ミーアポルの次男がユナイテッド航空に乗った際、カサンドラの「ニュー・ムーン・ドーター」が機内で流されたが、明らかに1曲目の「奇妙な果実」がカットされていたという、未だにこの歌への拒絶感を示すエピソードもある。

 ちなみに日本人にもこの歌を取り上げた人がいる。浅川マキだ(「ブルー・スピリット・ブルース」所収)。山下洋輔のフリー演奏に続き、闇の奥からぬっと現れるマキさんの存在感はただごとではない。他に日本人で取り上げそうな方は沖山秀子くらいしか思い浮かばなかったが、ビリー・ホリデイのレパートリーをいくつか歌った「サマータイム」に「奇妙な果実」は収録されていない。浅川マキは「奇妙な果実」を歌っても違和感のない極めて稀有な日本人シンガーであると思う。

 ニーナ・シモンやカサンドラ・ウィルソンらの強い意思を感じさせる歌いっぷりとビリーの歌を比べれば、ビリーに演出的な要素は全く感じられない。むしろ淡々と歌っているといってもいい。それでもビリーの歌が強烈な余韻を残すのはなぜなのか。

 嗚咽と嘔吐。けだるさと容赦のなさ。彼岸と此岸のあわいから聞こえてくるような叫び─。とても言葉で言い表すことはできないが、悲しみも怒りも超越し、自身の全存在をかけて歌と向き合う壮絶な姿勢が伝ってきて、胸を打たれるのかもしれない。ビリー・ホリデイの数々のレパートリーの中でも、この1曲だけは別次元にある。他の歌手とビリーの大きな違いは、最後に「クラップ」を「クラーアーップ」と声をあげて締めくくるところだ。「クラップ」とは「ここにあるのは 奇妙で苦い作物」の「作物」の意で、最後にここでとどめを刺される感じ。アンドラ・デイは「ザ・ユナイテッド・ステイツvs.ビリー・ホリデイ」でこの解釈を踏襲して歌っている。本家に及ぶべくもないが、歌詞をドラマチックに聴かせる演出と編曲によって初めて聴く方はショックを受けるかもしれない。

 

 「奇妙な果実」は1939年の録音が最もインパクトが強いが映像はない。が、YouTubeで実際に歌っている姿をみることができる。彼女が亡くなる年である1959年2月のロンドンのテレビ放送で─映画「BILLIE ビリー」の「奇妙な果実」歌唱場面はこれを着色したもの─相当衰えてはいるが肺腑をえぐられる思いがする。

 

 ビリー・ホリデイの激しくも短命だった人生を思いつつ、彼女が若かりし頃、「あなたが微笑めば、世界中があなたと一緒に微笑んでくれる」と心躍るように歌った「When you are smiling」(君微笑めば)を聞くと涙が止まらなくなりそうだ。

CBS「The Sound of Jazz」のセッション。「奇妙な果実」の裏面だった「Fine and Mellow」を歌った。ビリーの右にレスター・ヤング、コールマン・ホーキンス、ジェリー・マリガンが見える
CBS「The Sound of Jazz」のセッション。「奇妙な果実」の裏面だった「Fine and Mellow」を歌った。ビリーの右にレスター・ヤング、コールマン・ホーキンス、ジェリー・マリガンが見える

2022年2月23日 スピルバーグ「ウエスト・サイド・ストーリー」、冒頭の廃墟が僕には戦争直後のベルリンか、911でのビル崩落後の光景のように見えた。キャメラが廃墟をワンショットでなめていくと巨大な鉄球をアップでとらえ、そのささくれだった表面が暴力的なイメージを喚起する。この冒頭の61年版との大きな違いは、スピルバーグ的な刻印だろう。小林信彦氏はかつて、金網を見ると誰もがフィンガースナップを鳴らしたがったと「ウエストサイド物語」の流行ぶりを指摘していたが、金網は登場するもののスピルバーグにその辺のこだわりはないようだ。それよりも冒頭のジェット団とシャーク団の抗争場面で印象に残るのは廃墟から続く埃や塵のイメージであり、それは決定的な悲劇の場となる倉庫の塩山につながっていく。ジョン・フォード的ともいえる米国史へのこだわりを底流に、予期せぬ事件に巻き込まれていく若者たちの物語は現代的かもしれないが、あくまで「映画」として成立させるスピルバーグの手腕。音楽の力が大きい。マリア、トニー、ベルナルドの恋人、ジェット団、シャーク団の五重唱はやはり素晴らしかった。

2022年2月20日 ウエス・アンダーソン「フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊」、出版社前の歩行者、犬、猫、自転車、オートバイのバラバラの動線が素晴らしい。横移動の心地よさ。運動から言葉が生成され、動きと言葉が奇跡的に融合する。傑作。「ソイレント・グリーン」を観なおすと、2022年の時代設定の話だった。スティーブ・カーバーがコロナで亡くなる。「超高層プロフェッショナル」は傑作だった。

2022年1月23日 小柄な女性歌手というのはたくさんいるだろうが、僕がそう聞いて(と、誰に聞かれたわけでもないが)、真っ先に頭に浮かぶのはエディット・ピアフとジュディ・ガーランドかもしれない。ピアフは142㎝とも147㎝ともいわれ、ジュディは151㎝前後と定かではないが、お二方とも小柄な体躯ながらパワフルな歌唱の持ち主だったのはよく知られていることだろう。音楽にはメロディとリズム、ハーモニーが重要な要素であるが、相倉久人さんの言い方を借りるならば音色そのものも重要な要素であって、突出した歌い手は音色=声を発した瞬間に人の心をとらえて離さないものだ。僕にとってはピアフもジュディも一発でハートを撃ち抜かれた歌い手だが、単純に歌に感動したというだけでなく、死の影のようなものがまとわりつき、特別な存在感を放っている。考えてみれば、心が震えるような感動とはそういうものなのだと思う。ジュディの場合、初めて存在が印象付けられたのは中3のときに劇場で観た「ザッツ・エンタテインメント」の「サマー・ストック」の場面だった。同映画で紹介されている「オズの魔法使」も「若草の頃」も大好きな作品だったが、MGM最後の出演作となった「サマー・ストック」で、少し年をとったジュディが黒づくめの衣装で軽快に歌う「ゲット・ハッピー」は格別だった。しかし華やかな場面とは裏腹に、そこは「ハリウッド・バビロン」の世界。若い頃から太りやすい体質だからとスタジオ側に薬物を投与され、眠れないからと睡眠薬も手渡され、完全に薬物中毒に陥った彼女はアルコール中毒も加わって撮影時の混乱と入院と自殺未遂を繰り返し、遂にはハリウッドを追われてしまう。その後ワーナーの「スタア誕生」で奇跡的に復活はするものの、ハリウッドは容赦しなかった。「サマー・ストック」は破滅的な人生を送らざるを得なかった彼女の最後のMGM出演作なのであり、幸福を希求する「ゲット・ハッピー」の歌声は痛切な叫び声に聞こえてならない。

 ピアフもまた交通事故の影響でモルヒネ中毒に陥っていたというが、その2年程前には最愛の恋人だったマルセル・セルダンを飛行機事故で亡くしている。ちなみにセルダンは知る人ぞ知るアルジェリア出身の名ボクサーで、通算成績は105勝60KО4敗。ジェイク・ラモッタとの激戦は有名で、「レイジング・ブル」でも描かれている。僕はピアフの代表作でもある「群衆」と「水に流して」という曲が大好きで、「群衆」は熱に浮かされたような祭の雑踏の中で自分を幸せにしてくれる男と巡り合い、しかし群衆が二人を引き裂き、二度と彼に出会うことはできなかったという、人生を凝縮させたような悲しい歌だった。「水に流して」はすべての苦しみも喜びも水に流し、再出発を誓う清々しい曲想の歌だが、晩年に歌われたピアフの歌声からは諦念のようなものさえ感じられてしまう。それにしてもピアフはビリー・ホリデイが好きだったというのがうれしい。ピアフとビリーは同じ1915年生まれなのだ。そして、ピアフとジュディは同じ47歳という若さで亡くなっている。

エディット・ピアフ
エディット・ピアフ
「サマー・ストック」のジュディ・ガーランド
「サマー・ストック」のジュディ・ガーランド

2022年1月16日 「クライ・マッチョ」は近年のイーストウッド作品のベスト。一つはやはり馬なんだと思う。馬ほど映画の画面に最も美しく収まる動物はいないし、どうしてもフォードを連想してしまう。車と馬が並走する場面。イーストウッドは馬を見ないまま、追い越していく。ここは「許されざる者」がふと脳裏をよぎる。孤独な主人公にわけありの登場人物たち(ときには動物も)が寄り添って作りあげていく疑似家族の描写は今回も素晴らしく、特に手話を通して子どもとやりとりをするイーストウッドの後ろ姿には、その光景を微笑ましく見つめるマルタの目を通して泣けてしまう。そしてニワトリのマッチョを真ん中に、イーストウッドと少年が並んで歩く光景。ここはもっと長く観たかった。「運び屋」のギャグも笑ったが、警官の疑いがはれた後にイーストウッドが延々と警官を罵るセリフを言い続ける場面には爆笑してしまう。アドリブがあるのかはわからないが、ニック・シェンクが冴えている。上映時間104分のテンポは異様に早く、特に冒頭からメキシコでラフォに出会うまでと終盤はめまぐるしい。イーストウッドの姿がみられるのはこれが最後になるのではないだろうかという不安がよぎるのだが、結末に向けての恐るべき楽天性は何だろう。観ている最中、映画が終わってほしくないと思い続けたのは久しぶりだった。
 前日は「マークスマン」を観る。イーストウッドの薫陶を受けたロバート・ロレンツの新作がこれほど「クライ・マッチョ」に似通った作品とは知らなかった。メキシコから違法入国した孤児をカルテルから守りつつ、親類の元に届けようとするリーアム・ニーソン。モーテルで「奴らを高く吊るせ!」を観る場面があり、リスペクトされている。

2022年1月4日 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。まだまだ収束の兆しがはっきり見えてこないコロナ。今年こそはと願うばかりです。

 年末年始は映画、音楽、読書三昧。33年版、フリッツ・ラングの「怪人マブゼ博士」も字幕なしで観ていたが、本当にどうかしてるといいたくなる程のイメージ。ナチス政権下では上映中止にもなる。年末にはとうとう瀬川昌久さんが亡くなってしまった。クロード・ソーンヒルを聴くようになったのもこの人のおかげだった。「スノー・フォール」を聴く。瀬川氏の晩年に大谷能生氏は本当にいい仕事をしてくれた。もちろん蓮實重彦氏も。昨年は300本強映画を観たが、劇場は月1本程度。旧作を含めてベスト10をつけるとこのような感じ。

①愛のまなざしを(万田邦敏)②オールド・ジョイ(ケリー・ライカート)③ウェンディ&ルーシー(ケリー・ライカート)④ドライブ・マイ・カー(濱口竜介)⑤男性の好きなスポーツ(ハワード・ホークス)⑥迎春閣之風波(キン・フ―)⑦ボクシング・ジム(フレデリック・ワイズマン)⑧夜までドライブ(ラオール・ウォルシュ)⑨モンタナの目撃者(テイラー・シェリダン)⑩こどもが映画を作るとき(井口奈己)

 実際のところは、ホークスとウォルシュがダントツだが時代を優先して。ホークスは「光に叛く者」(1931)も素晴らしく、この時代のハリウッド映画と同時に観ると映画作りの新しさが鮮明になる。何たるモダンぶり。万田さんの新作は仲村トオルの発狂ぶりが凄かった。発狂しているのだ。たまらず「接吻」も観直す。「接吻」はここ何年かで最も衝撃を受けた作品かもしれない。小池栄子が“映画”を背負っているのだけれど、やはり万田さんがぶっ飛んでいるのだろう。昨年はケリー・ライカートの年でもあった。「オールド・ジョイ」は自分にとって毒針がいくつも仕掛けられているような作品で、観終わった後にじわじわと毒が回ってくる。ヨ・ラ・テンゴの音楽が延々と耳に残り、今まで観てきたことを反芻しつつ、何かを発見し、心が傷つき、帰路の車内から見える雨に滲んだネオンが思い起こされる。何だろう、この感覚は。「ウェンディ&ルーシー」はようやく再会できた愛犬ルーシーの後ろ姿のショットに本当に泣いた。

 その他昨年印象に残った作品。「ファイナル・プラン」(マーク・ウィリアムズ)「アイス・ロード」(ジョナサン・ヘンズリー)「悪魔のせいなら、無罪」(マイケル・チャベス)「リバー・オブ・グラス」(ケリー・ライカート)「ミークス・カット・オフ」(同)「ライフ・ゴーズ・オン 彼女たちの選択」(同)「エルヴィス&ニクソン」(リザ・ジョンソン)「マリリン・モンロー 瞳の中の秘密」(リズ・ガルベス)「激怒」(フリッツ・ラング)「犯罪王デリンジャー」(マックス・ノセック)「誰もがそれを知っている」(アスガー・ファルハーディ)「田舎司祭の日記」(ロベール・ブレッソン)「人里離れた屋敷」(D・W・グリフィス)「野生の馬の捕獲」(ガブリエル・ヴェール)「馬の水浴び」(同)「殺人光線」(レフ・クレショフ)「ゾンビ特急地獄行き」(ユージニオ・マーティン)「ビルマVJ消された革命」(アナス・オステルガード)「大酔侠」(キン・フー)「五毒拳」(チャン・チェ)「梁山伯と祝英台」(リー・ハンシャン)「東海道四谷怪談」(中川信夫)「狂恋詩/狂った果実」(中平康)以上3本は撮影西本正「やくざ絶唱」(増村保造)「ひばり捕り物帖かんざし小判」(沢島忠)「陸軍」(木下恵介)「空に住む」(青山真治)「ある遭難」(杉江敏男)「子連れ狼 三途の川の乳母車」(三隈研次)「子連れ狼 死に風に向う乳母車」(同)「日本鬼子 日中戦争・元皇軍兵士の告白」(松井稔)

「怪人マブゼ博士」
「怪人マブゼ博士」

2021年12月8日 牧口雄二さんが亡くなったらしい。映画監督としての活動期間は限られ、しかも予算やスケジュール等から思うような作品は撮れなかった方と思うが、撮影期間12日で仕上げた「玉割り人ゆき 西の廓夕月楼」は素晴らしかった。「毒婦お伝と首切り浅」は「暗黒街の弾痕」や「夜の人々」など男と女の犯罪逃避行ものでいえば「拳銃魔」に匹敵する傑作と思う。

 先日久々に「シコふんじゃった。」を観る。はじめの柄本明と本木雅弘の教授室での会話は完全に小津目線。竹中直人の役名が「青木富夫」というのは忘れていた。対抗戦は実によくできている。2勝して2敗し、最後に本木が決める。このパターンを繰り返し、最後の試合は2敗から始まり万事休す。そこでスマイリーがまわしの下のジャージをはぎとって出場し勝利。青木も初めて勝って2勝2敗まで持ち込む。反復とずれ、ここも小津調といえなくもない。

 昨日は三隈研次「大魔神怒る」。東宝にも1作目「ゴジラ」があるが、いわゆる日本の特撮物の最高傑作ではないだろうか。撮影森田富士郎、美術内藤昭等は世界に誇れる大映スタッフ陣であるし、大体子供向けに作られていない。溜めに溜めて怒れる大魔神が登場するのはラストから15分程手前。大魔神はゴーレムをもとに造形された神様だが、登場に必然性がある。海を割って登場する特撮技術は今の目で見てもレベルが高い。

2021年12月4日 万田邦敏「愛のまなざしを」。今年の「ドライブ・マイ・カー」と双璧の傑作。愛するが故に死を選択せざるを得なくなる展開は増村保造的だが、感情を極力抑制した演出はロベール・ブレッソン。ブレッソン的な演出は「UNLOVED」で極めていたが、一点をみつめて会話するのではく、高低さを活用した視線と動きへの演出が活劇性を生み出す。例によって単純な切り返しはほぼ存在せず、イマジナリーラインのルールは限定的。例えば仲村トオルが息子の部屋で再婚を切り出すくだりは、奥の机に座る息子に対し、仲村が中央から左側の椅子、また中央に戻り今度は座るといった移動により切り返しを無用にする。まるで動きが先にあるかのような人物配置は画面を活気づかせ、とにかく単調に終わることがない。そして随所に挿入される手の動きへの演出だ。杉野希妃の動機を説明しない構成はまさに映画的で清々しい。三宅唱らが執筆しているパンフレットも読みごたえがあり、万田さんと濱口竜介が対談している。その中で明かされる、仲村トオルの芝居で脚本の内容を変更した話が面白い。発狂した男のジグザグ歩きはルイス・ブニュエル「エル」そのままで、思わず「おおっ」と声をあげてしまう。嘘をつき続ける女よりも嘘を信じる男の方が上をいっているという、仲村トオルはとにかくぶっとんでいた。「エル」のあの歩きの奥にもトンネルが見えたが、「愛のまなざしを」のファーストカットもトンネルを描いた絵で始まる。トンネルはこの作品で重要な意味を持つが、平面から始まるというファーストカットにも衝撃を受ける。

2021年12月3日 アマゾンプライムがジュネス企画の映画を大放出しており、すごいことになっている。ハワード・ホークスの「光に叛く者」は、トーキーになって直後の作品だが、刑務所で囚人たちが不満を表すために「イエ―ッ」と大合唱するくだり、トーキーを最大限に活用するホークスの手腕にうなる。ラオール・ウォルシュの「夜までドライブ」はアイダ・ルピノが観られる幸福。

 カイエ・デュ・シネマの今年のベストテンが発表されている。「ドライブ・マイ・カー」はうれしい。ケリー・ライカートの新作、レオス・カラックス、アピチャッポン・ウィーラセタクン、ウエス・アンダーソン、早く観たい。

1First Cow (Kelly Reichardt) 2Annette (Leos Carax) 3Memoria (Apichatpong Weerasethakul) 4Drive My Car (Ryusuke Hamaguchi) 5France (Bruno Dumont) 6The French Dispatch (Wes Anderson) 7All Hands On Deck (Guillaume Brac) 8The Girl & The Spider (Ramon & Silvan Zurcher) 9The Card Counter (Paul Schrader) 10Benedetta (Paul Verhoeven)

「夜までドライブ」のアイダ・ルピノ
「夜までドライブ」のアイダ・ルピノ

2021年11月15日 「アイス・ロード」のキャメラがトム・スターンだったことに驚いたと昨日書いたが、リーアム・ニーソンの新作「In The Land Of Saints And Sinners(原題)」の監督がロバート・ロレンツだという。ますますクリント・イーストウッドよりの人選だが、ニーソンとイーストウッドの関係とは…。

2021年11月14日 ネット配信にも驚かされることがあって、フレデリック・ワイズマンの「ボクシング・ジム」がラインナップされている。テキサス州にあるロード・ジムに集まる老若男女。中にはリングサイドに赤ん坊を寝かせ、練習に励む女性もいる。自分も一時、東京のボクシング・ジムに通っていたが集まる人たちが本当に面白い場所で、ロードジムでも練習の合間の他愛もない会話が愉快だ。1ラウンド3分という時間を体にすり込ませるためのタイマーが鳴り続ける中、パンチとステップ、縄跳び、コーチの掛け声等々が心地よいリズムで描写される。試合など描かず、全編ほぼトレーニング場面のみ。これがひたすら面白い。音楽もナレーションもなし。ドキュメンタリーはこれでいいのだ。途轍もない傑作だと思う。

 「アイス・ロード」は今年2本目のリーアム・ニーソン主演作。春先の厚さ80センチの氷の上をトラックで走る「恐怖の報酬」もの。決して重要作ではないが満足度は高い。キャメラがイーストウッド映画常連のトム・スターンというのはちょっと驚いた。リーアム・ニーソンものは今年の「ファイナル・プラン」がまたいい出来で、異才ジャウマ・コレット=セラと組んだ頃からアベレージが高い。

2021年11月7日 D.W.グリフィス、「人里離れた屋敷」。100年以上前の短編がなぜこれほど面白いのか。とある屋敷に侵入せんと主人の外出を待ち伏せる三人組。その構図からして素晴らしいが、ドアを蹴破ろうとする三人と子供を抱えて狼狽する母親のクロスカッティングがただただ純度の高い映画的場面。サイレントながら最初のドアが破られる場面には驚いた。奥の間に逃げ込み、外出先の主人に電話で様子を伝えるうち、主人の周囲にいる人々が次第にざわついてくるところが素晴らしい。警官らと共に幌馬車に乗り込み疾走するラスト・ミニッツ・レスキュー。映画の原点がたくさん詰まっている。


 2021年10月31日 東京では上映が延長される集客ぶりだったというが、ケリー・ライカート(いつの間にやら、ライヒャルトの表記ではなくなっている)特集、4作とも実に素晴らしかった。長編デビューとなる「リバー・オブ・グラス」は、殺人を犯したと思い込むにわかカップルの逃避行ものといえそうだが、「暗黒街の弾痕」から「地獄の逃避行」「テルマ&ルイーズ」あたりまでの犯罪劇を踏まえつつも、彼らは同じ町に漂泊し続け、誰からも追われることはない。主人公の女性コージー(名前の由来は実に切ない)は顔を見られては困るとモーテルでの滞在をほぼ強要され、物憂い日常の積み重ねが彼女のボイスオーバーと共に綴られていく。深夜に忍び込んだプールの青い水にゆらゆらとたゆたうコージーの姿は、彼女の境遇を象徴した映画的な描写だ。母親から盗み出したレコードには「素直な悪女」や「ビバ!マリア」のサントラが紛れ込み、母親もまた日々の倦怠からの逸脱を願っていたようで、閉塞感がつのる。たったの25セントがないために、道路料金所からも脱出できない二人。犯罪者でなければ何者でもない。そのことに気付いた瞬間、物語が突然反転し、映画が終わってしまう衝撃。ライカートはデビュー作から只者ではない。

 「オールド・ジョイ」、旧友が再会し、男二人(と愛犬ルーシー)で山中への小旅行を目指す。当初は和やかに見えた二人の関係は風景の移り変わりと共に、小さな亀裂を重ねていく。しかし、口論や事件が起こるわけでもなく、表面上は小さなやりとりを繰り返しているだけだ。ライカート作品はいずれも横移動の撮影が素晴らしく、風景や自然音(小鳥のさえずりや水の流れる音)の描写が効果的に挿入され、一見ミニマルな作家にも見えるだろう。しかし、根無し草的に歩んできた男と、結婚して間もなく子供が生まれる男という二人の異なる生き様には埋めようのない溝があり、二人の関係性が妻からの電話で突然切断されたり、道に迷う描写などから不穏さが立ち昇っていく。温泉につかり話し続ける男と沈黙する男、そこに聞かれる自然音と素晴らしい構図で切り取られていく風景描写。永遠に浸っていたくなるような愛おしい場面なのだが、そこに、いくようにも解釈できるような、小さな出来事が起こる。この場面こそが断絶を描くクライマックスであったという驚き。帰路につく車内から見える夜の町のネオンサイン、無言で見るその風景には何とも寂し気な疲労感が漂う。二人の別れはいつもの友人同士の別れでしかなく、根無し草の男はルーシーに別れを告げて去る。そしてこの男にごく小さな出来事が起こって映画は終わる。奇跡のような作品だと思った。男優二人とも素晴らしいが、根無し草男を演じたのはデッド・ロウリー「ア・ゴースト・ストーリー」で予言的な話をしていたミュージシャンのウィル・オールダム。ヨ・ラ・テンゴの音楽が耳から離れない。

 構図とショットの素晴らしさに圧倒される「ミークス・カットオフ」。1845年を舞台とした西部劇。地平線の手前の集団が画面から消えゆく刹那、右上方の天空に一頭の馬が現れるが、実は先ほどの集団のオーバーラップという面白さ。道に迷い、水を求めて彷徨う一行。繰り返される女性たちの生活描写。突然現れる1人のインディアン。先込め式のライフルからは2発銃弾が発射されるが当たることはない。ライフルを撃ったのは男性ではなく女性だ。彼女は、後に捕まったインディアンの信頼を得ようと破れた靴を縫い合わせるが、コミュニケーションが成立することはない。道案内を務めるミークスの先導は全くあてにならず周囲には不信感が募るばかりだ。荒涼とした風景を彷徨う人間たちの寄る辺なさ。死にそうになる者は現れるものの、一人も死なず、銃弾は先の2発しか発射されない。アクションが起こるのは、坂から転げ落ちる幌馬車が横転する場面くらいだ。アメリカ大陸の原風景に不穏な空気を漂わせながら、西部劇が解体されてゆく。見通しの立たない未来に向かって先頭を歩き出すインディアンの後ろ姿に呆然とする。

 「ウェンディ&ルーシー」。ポン・ジュノも絶賛したらしいが、冒頭のウェンディ(ミシェル・ウィリアムズの自然体のお芝居には終始釘付けになった!)と、「オールド・ジョイ」にも登場した(?)愛犬ルーシーが戯れる横移動のあまりの美しさに見惚れてしまう。お金も家も携帯電話も持っていないウェンディは、ルーシーと共にボロ車でオレゴンを目指していたが、車の故障とルーシーが行方不明になったことで小さな町を彷徨うはめに陥る。工場が閉鎖し、町自体がギスギスした中で彼女への風あたりは冷たい。老警備員だけが親切にふるまうのだが、それを受け入れつつも常にぶっきらぼうになってしまうウェンディの態度が異様に面白い。ようやく見つかったルーシーとウェンディの切り返しから、去り行くウェンディの後ろ姿、稜線の横移動、足元からティルトアップする後ろ姿、列車の停車場、貨物列車にホーボーのように乗り込むウェンディ、列車から映り込む横移動の風景…あまりに美しい映像の連続に、画面が滲んで見えた。

 ケリー・ライカートは人生で1本の映画を撮り続けている。

 特集には含まれていないが、傑作「ライフ・ゴーズ・オン 彼女たちの選択」の終わりには「ルーシーに捧ぐ」とインサートされており、彼女のことだったかと胸が締め付けられた。

リバー・オブ・グラス

ミークス・カットオフ

オールド・ジョイ

ウェンディ&ルーシー