2009年10月3日 「グッド・バッド・ウィアード」にいたく感心する。イーストウッドは無論のこと、ライミやタランティーノ等への影響を考慮しても、レオーネ、コルブッチに限定されるかもしれないが、マカロニウエスタンの存在は決して映画史において無視できるものではない。「続・夕陽のガンマン」の三つどもえ、ここまでやってくれれば何の文句もない。今年の収穫です。先日は30数年ぶりにフライシャーの「マジェスティック」。これ札幌ではイーストウッド「サンダーボルト」の併映作品で、今にして思えば、なんという贅沢な二本立てだったのかと思う。当時の映画記録の点数をみると、サンダーボルト85点、マジェスティック65点と、後者にはからめ。いったい俺はどこを観ていたのだろうか。フライシャーへの過少評価という土壌も影響しているのかもしれない。今観れば、予想外の話の転がり方といい(脚本はエルモア・レナード)、的確なアクション描写といい、面白いことこのうえない。ブロンソンの役所はただの田舎の水瓜農場の経営者。知っている人は知っているポール・コスロという実にせこい顔をした役者が、三国人ばかり雇うブロンソンの手配にけちをつけ、警察沙汰の問題に発展、理不尽な形でブロンソンだけが収監される。水瓜の収穫時期のため、無口なブロンソンも時期をずらしてほしいと要求するが、もちろん通らない。同房には冷酷な殺し屋であるアル・レッティエリの脱走計画が進められており、ブロンソンはそれを逆手にとり脱獄、しかし、レッティエリを敵に回す形になってこれでもかと嫌がらせをされるはめになる。ここまでの筋を語る驚くべき簡潔さ。途中、収穫した水瓜をマシンガンでぶちぬきまくるシーンがあるのだが、このイメージだけでもすごい。さらに不利な状況を一転させるアクション描写のうまさ! フライシャー、素晴らしいの一言に尽きるだろう。映画で「マジェスティック」といったら、ジム・キャリーの主演作ではないのだ。 比較的最近の蓮實、黒沢、青山対談でアメリカ映画に「90分派」と「2時間20分派」の間に熾烈な戦いがあり、今「90分」に戻る傾向があって(「クローバーフィールド」しかり、「ハプニング」しかり)、実は深刻な問題であると語られているが、「90分」がまだ生き残っていた当時の作品群を眺めていると、あらためて今語りの経済効率性や見せることより見せないことへの努力、というかエネルギーの注ぎ方が圧倒的に足りないことが理解できる。「マジェスティック」封切りの74年のノートを見ると、シーゲルの「突破口!!」をはじめ、「デリンジャー」「ヘルハウス」「ダ-ティハリ-2」「ダ-ティメリー、クレイジーラリー」「ドラゴン危機一発」「怒りの鉄拳」「ボウイ&キーチ」「悪魔のシスター」「カンバセーション盗聴」等々の名前が並び、すべてを傑作とはいわないまでも、現在の作品との作りの違いがよくわかる。当時三番館風の劇場でもはや「90分」に戻れなくなってしまったスピルバーグの「激突!」もまだかかっていたことが印象深い。

 9月17日 最近はまったこと。まず土本典昭へのインタビュー本「ドキュメンタリーの海へ」、堪能しながら読了。話もやはり面白い。書籍では「昭和維新の朝」がかなり面白かった工藤美代子の「われ巣鴨に出頭せず」、文庫になっていたので購入。決してひよわではなかった近衛文磨の実像に迫る力作で、日中戦争の起こる背景にかなりスターリンの影があったことも含め、昭和史は興味深いことだらけだ。ブラックミュージックも相変わらず聞き続けている。知らないことだらけで楽しい。今はサム・クック、オーティス・レディング、アレサ・フランクリンなど大御所中心。黒人の歌は歌の王道だ。歌の神様は黒人に宿っている。いつもそんな思いにかられながら、聞いてしまう。映画は「サブウエイ123」、犯人役のトラボルタが抜群にいい! なんなんだ、この人。顔がいつもと全然違う人に見えたぞ。デンゼル、終盤ヒーロー風のアクションを起こしそうになるところだけひっかかったが、それもつかの間、ト二ー・スコットのアクション演出は冴えていた。30数年経ってリメイクする際の仕掛けはこのくらい細部に今の情報を取り入れるべきだといういい見本。

 8月22日 土本典昭「不知火海」。熱心に水俣病患者の家を一件一件尋ね歩いた原田医師に話したいことがあると、海辺で話し出す清子ちゃん。キャメラは背中ごしに彼女の姿をとらえ続ける。「頭の手術をしたら、病気はなおるの?」。まだ少女の幼いながらも必死な問いかけに、頭の手術は死んじゃう病気だよと答えるしかない医師。やがて清子ちゃんは「自分のことがわからない」と肩を震わせて泣き出す。思わずもらい泣きしてしまうシーンだ。自分の病気はいつか治るのだろうか、将来の自分はどうなっていくのだろうか。学校に通っても、まわりはどんどん変わっていくのに、どうして自分だけ違うのだろう。泣かなくていいよと医師はぽんと彼女の肩を叩き、穏やかにやりとりを重ねていく。このとき、彼女のそばにいる車椅子に乗った少年の不自由ながらも、彼女をみつめる視線をとらえている。ふいにキャメラは左にパンし、堤防に逆光で写る人陰(この人物も水俣病の患者である)をとらえ、再び三人のもとに戻ってくる。海辺の光景はあまりに美しい。が、このパンは唐突で明確な対象を感じさせず、通常の商業映画では見られることのないものだ。しかし、土本作品にあっては何の不思議もなく存在し、忘れがたンとして強烈な印象を残している。土本作品の魅力はデビュー作「ある機関助士」で、疾走感あふれる列車の走行、あるいは列車走行に伴う細々とした作業と周辺の風景を的確にちりばめた編集ぶりに見事に炸裂していた。キャメラと編集の素晴らしさ。それは「ドキュメント 路上」においてさらに過激に進化し、車社会の交通地獄を単に車の速度や事故、渋滞など車道の風景だけからとらえるのではなく、日常生活をふいに挿入することで軽やかにPR映画の域を超えていた。タクシードライバーの家庭で炊事をする奥さんの足下だけを追う視線、眠りこけるドライバーのクローズアップ、室内の風景、ドライバー同士で胃下垂になったレントゲン写真をみながら談笑するくだり、そして、あちこちで工事が進む東京オリンピック直前の都市の風景。この作品はドキュメンタリーとしてくくれるものではない。土本もまた、劇映画とドキュメンタリーには何の境目もなく、そこに映画があるだけなのだと教えてくれる作家の一人といえるのかもしれない。

 「水俣一揆 一生を問う人々」。チッソ水俣に乗り込み、社長相手に直接交渉する患者側の姿が全編を貫いている。会社に乗り込み、詰め寄る人々の顔、肉体。数と怒号に必死に耐え、かろうじて意識を保ちつつ受け答えするかのような社長。これほど見る側に体力を要求する作品もない。会社の一室という密室に充満する人間をとらえるキャメラもまたすごい。患者側のキャメラポジションだけではなく、社長サイドの後方にもキャメラはすえられ、両者の立場から圧倒的な顔群がとらえられるのだ。そこにはたえず、患者の怒声が鳴り響いている。不謹慎な言い方かもしれないが、加害者である社長の顔がいい(筒井武文氏は映画芸術で「義理と人情に引き裂かれるやくざ映画の登場人物を想起させて感動的」と指摘しているが、まさにそのようなイメージ)。いや、社長だけでなく、登場する人々の顔がすべていい。今の日本人にはなかなかみられない顔ばかりなのだ。浜元さんという女性が登場する。決定的に社長に詰め寄った人物の一人で、三十代後半くらいだったろうか、金も何もいらない、そのかわり私や家族の一生を見届けろ、そのためなら社長の二号さんにでも三号さんにでもなってやる、私は処女です!と言い放つときまった表情なのだろう(浜元さんは、会場が狭いため、机を会社側の机にべったりと寄せるのだが、いつのまにか自分が机の間に挟まれてしまうというコミカルな場面もあってシリアスな展開の息抜きにもなっていた)。人間と人間が対峙する、これほど劇的な映画もない。社長の前に座り込んで訴える人物。病気が悪化し、妻から離婚されることになったと声と体を震わせて訴える男性、患者側の作った文書を手を震わせながら読みあげる社長の姿。社長の隣に座っている人物(弁護士なのだろうか)が、タオルで汗にまみれた社長の頭をふくシーンも強烈だった。映像のもつ決定的な力。土本作品は震える程にそれを感じさせてくれる作家の一人である。

8月17日 お盆休みに上京。珍しく上野方面に宿をとり、翌朝は近いものだから湯島天神までてくてくと歩き、気分は「婦系図」。が、午前8時前といっても気温はかなり高く、坂道でもあるのですでに大汗をかく。それでもめげずに東大構内をぶらぶら歩き、前日に満席で見そびれた「3時10分、決断のとき」。何も東京で見る必要はないのだが、前日、暑さでへとへとになって涼むついでに前売りを買ってしまっていたのだ。9時過ぎに席を予約したが、残りは最前列の4席のみ。連休どこにも行かない家族連れ、カップルが映画館に殺到している。体をなるべく中央へよじってがんばって見る。映画のできは、要所要所設定を変えているが、デルマー・デイビス版のほうが遥かによい。グレン・フォード良かったからなあ。それに決断の瞬間が3時10分ってところがよかったのに、前倒ししすぎなんじゃないか。今のハリウッドは決断の理由もかっちり説明しないと気がすまない。その後はフィルムセンターで土本典昭特集。「医学としての水俣病第二部 病理・病像篇」「同第三部 臨床・疫学篇」。じっくりとキャメラをすえ対象をみつめる視線。何より登場人物の顔、表情がいい。中毒になりそうな気分だった。全てみた月15日は靖国神社で人間観察。そのまま皇居方面へ向かい、千鳥ケ渕公園、半蔵門、三宅坂、桜田門、皇居外苑へ抜け、結局東京駅まで歩いてしまった。何せこの一帯は226の主舞台となったところでもある。靖国神社から千鳥ケ渕に抜ける内堀通には安藤隊襲撃の鈴木侍従長官舎があり、三宅坂から桜田門の間には陸軍省、参謀本部など、野中隊が占拠した警視庁と宮城の近さも実感できた。九段坂から東京駅までの道程は足の指に水膨れができる程遠かったが(後で測定するとさほどの距離ではなかったのだが)、歩一、歩三のある六本木周辺からの距離感も想像することができた。ところで、8月26日にはアラン・シルバがジム・オルークだの藤井郷子だの川嶋哲郎だの梅津だの坂田だの小山だのとオーケストラを編成してのライブを開催するそうで、これも見たかった。 「靖国」を撮ったリ・イン氏が同名の本を出版したが、土本典昭氏との対談も掲載され、土本氏は旧制中学時代、靖国神社のそばに住んでいた思い出を語っている。当時はテキ屋が場所わりをし、サーカスや見せ物、女性が顔を赤らめるような野卑なことをやる連中もおり、拝殿など行ってる暇ないですよ、という。周辺では外国から偉い人が来ると小学生が最前列で旗をふることになっており、天皇が向こうから来ると敬礼をし、顔をあげたときにはもう反対側に行っている、だから天皇の顔は直接みたことはなく、そういった神格化が思想というよりは風俗として定着していた、つまり天皇制については疑うことなく育ったのだという話が面白かった。「靖国」は刀鍛冶の扱いが生きていなく、バランスを欠いた作品だと思ったが、土本氏は刀鍛冶の沈黙をよくあきらめずにキャメラが追った、ドキュメンタリーはキャメラだと評価していた。土本と靖国がつながってしまったが、この対談が土本氏の生前最後の対談となってしまった。

8月12日 先日、パソコンが突然クラッシュし、バックアップデータを全く回収できないまま、廃棄。中古でマックを購入したものの、周囲にマック使いがほとんどいなくなってしまった中で、再構築作業をはじめる。まだ不十分な状態だが、なんとかホームページを久々に更新。とりあえず、本日から4日間上京するので、帰札後また書きます。御迷惑おかけしました。それにしても今回は苦労した。

7月5日 某レンタルショップで格安レンタル落ちCDを大量に購入。ジャズ、ポップス、ワールドミュージックなど関心の薄いロックとフォークを除いて幅広く買ってしまったのだが、一番多かったジャンルがブラックミュージック。チャック・ベリーあたりからモータウン、ニューソウル、ファンクまで。カーティス・メイフィールドの遺作「ニュー・ワールド・オーダー」はアレンジもものすごく凝っていて、何度聴いてもすごい。でもあまりに深くて広い世界で、気が遠くなりそう。最近始まったジャパン・ジャズ・ヒストリーのシリーズ、フラスコも入っていていいですね。国仲勝男さんが紹介された「暖流」、武田和命「ジェントル・ノヴェンバー」など。中村照夫の「ライジング・サン」、市内のCDショップに置いてないけど、どうして? 最近観た映画ではブレッソン「バルタザールどこへ行く」。無駄のないピュアな映画とはこのことだ。で、ロバの無垢な瞳と哀れな死に様にさめざめと泣く。西部劇も立て続けに観た。デルマー・デイビス「決断の3時10分」、バッド・ベティカー「平原の待ち伏せ」、ウォルター・ヒル「ワイルド・ビル」、アンドリュー・ドミニク「ジェシー・ジェームズの暗殺」。ジョン・ウエ初主演、ラオール・ウォルシュ「ビッグ・トレイル」、スケールすごかった。幌馬車隊がインディアン襲撃に備える陣形の美しいこと。

5月5日 「グラン・トリノ」、イーストウッド、映画の数々の記憶が呼び起こされながら、爆笑しつつも涙してしまう傑作…という言葉では片づけることのできない、異様なる作品。十字架、幽霊(ラストの歌声は幽霊なのだと思う)、イニシエーション、肉体破壊などイーストウッド的テーマもそこここに見出すことができるが、それにしてもイーストウッドは、いったいどこに行こうとしているのだろうか。違和感を最初に感じたのは中盤の音楽の使い方だったが、感動を越えて怖ろしいものを観てしまった印象が残る。本日はようやく黒沢さんの「トウキョウソナタ」。3度観た。光が差し込み、風がめちゃめちゃ吹いていた。これが映画なんだよなあ。部屋に入ってくる風も良かったが、香川照之が失業した津田寛治を訪ねるシーンの風も良かった。あまりに自分でも理由がわからないのだが、弟役の井之脇海君のたった一言のセリフの声とイントネーションに深く動揺してしまう。それにしても、小津さんだ。とうとう黒沢さんもタイトルに「トウキョウ」をつけてしまったのだなあ。

4月26日 「ダーク・ナイト」でジョーカーを演じたヒース・レジャーの凄みは認めざるを得ないところだが、「ノーカントリー」の酸素ボンベを持った殺し屋との奇妙な符号ぶりは、今のアメリカの空気感が漂ってくるようだ。それにしても「ノーカントリー」ってシーゲルの「突破口!」でもあるなあ。要はギャングの金を奪ったために殺し屋から徹底的に追われる話。「突破口!」ではテンガロンハットを被った荒々しい殺し屋をジョー・ドン・ベイカーが演じていたが、「ノーカントリー」にもウディ・ハレルソンが同じような役柄で登場する。ウディ・ハレルソンは何をやってもいい人だが、さすがに「ノーカントリー」の酸素ボンベ男にはまったく太刀打ちできなかった。「突破口!」ならば痛快娯楽アクションといった仕上がりになるはずだが、今のアメリカ映画に造形される犯罪者は一筋縄ではいかず、痛快とはいかないものだ。

4月12日 すっかり更新が遅れてしまった。父はもう店に復帰し、通常通り営業中です。最近バタバタと過ごし、映画は多くを観ていないが、忘れがたい作品には何本か遭遇。筆頭はイーストウッドの新作「チェンジリング」。この人はもはや、何を撮っても傑作になってしまうだろうし、傑作たる表現領域を常に更新し続けるだろう。冒頭の電車がサーッと登場する場面から、ムルナウの「サンライズ」を思い鳥肌が立ってしまう。映画の表現領域の可能性を更新する監督といえば黒沢清もまたしかりで、「叫」の他者を徹底して排除した役所と恋人のシーンの数々に戦慄した。ブリテイン・ウインダスト実はラオール・ウォルシュ作という「脅迫者」はともすれば画面が停滞しがちな回想シーンがメチャメチャ面白いというフィルムノワール。「クローバーフィールド」は手持ちキャメラのみの宇宙人侵略もの、けっこう楽しめた。そうそう、ようやく鈴木英夫の「その場所に女ありて」を観られたのも最近の大収穫。ひどいなあと思ったのは「おくりびと」。滝田作品は一度も面白いと思ったことがないので期待はしていなかったが、この展開はひどい。成瀬さんなら脚本段階で、ばさばさ落としまくり広末などキャスティングしなろうし、ラストの石も削るだろう。ところで、メロディ・ガルドー、一作目はどこかで聞いたふうなメロディ、小手先感がどうも気になったが、新作はなかなかよいと思う。最近のお気に入り。

2月1日 父が現在療養中のため、当面私(息子)のほうでロンドを営業します。営業日程については断続的なものになるかもしれませんが、ライブは日程通り行います。ご迷惑をおかけしますが、しばらくの間、どうぞよろしくお願い致します。

 1月18日 本日はジャック・べッケルの「モンパルナスの灯」をさめざめと。36歳で亡くなった画家モディリアーニの生涯を同じく36歳で亡くなったジェラール・フィリップが演じる。モディリアーニが亡くなってしまう夜の町を彷徨い歩くシーン、薄くもやのかかった闇の風景はまるでフィルムノワールだ。アヌーク・エーメがいい。今日は偶然に手に取ってしまった「ゴダールの映画史」を延々と観ているうちにゴダール特集になってしまい、ランダムに「カラビニエ」「小さな兵隊」「ワン・プラス・ワン」などを続けて観てしまった。最近ではJ.J.エイブラムスの「M:I:?」を再見。やはりこれは相当な傑作だと思う。エイブラハム・ポロンスキーの「夕陽に向かって走れ」は50年代作家の不幸を思わずにいられない。映画人口の減少の反動である大作主義と赤狩りの時代がいかに有能な監督たちを潰していったことか。無念の傑作。

1月12日 「アンダーカヴァー」が予想以上の面白さでうれしくなる。賢兄愚弟ものの構造にロバート・デュバルが登場すると、つい「ゴッドファーザー」を彷彿とさせるが、ホアキン・フェニックスとマーク・ウォルバーグの似てなさがいい。雨の銃撃戦も忘れがたい。ここ数日ではとにかくロベルト・ロッセリーニの「神の道化師、フランチェスコ」に圧倒され、頭から離れない。12世紀末、イタリア地方都市の裕福な商人の家に生まれ、放蕩生活を送った後回心し、後にフランチェスコ会を創立した聖フランチェスコと弟子たちの10のエピソード。いわゆるイタリアンネオリアリズモとは無関係に、彼らの日常が淡々と、ユーモラスに描かれる。不意をつかれるように思わず涙が溢れる短いエピソードもある。この作品を観ている82分が幸福でたまらない。映画を観ていて良かった。そう言わずにはいられない作品なのだ。それから最近はフォードの「ドノバン珊瑚礁」を33年ぶりに観る。映画は観た時の年齢によって理解できたり、感動の度合いが変わることもあるものだが、フォードってすごいと思ったのは33年前に観た感動ぶりと今回の感動ぶりがほとんど同じようにあったことだ。映画には深淵なるテーマなど存在しなくてい。そこいらにある話題で、驚く程に面白い映画を作ってしまえるのだ。それは中学生程度の子どもが喜ぶレベルという意味ではもちろんなく、ただただそこに映画があるだけなのだといった手つきで、あっけないほどに軽々しく登場人物たちの身振りが映画的躍動感として光輝いてしまうことにある。思えば映画に「芸術」を持ち込もうとする作品は、映画に「同時代」を持ち込もうとする作品同様に歴史には残りがたい映画となるのではないだろうか。「神の道化師、フランチェスコ」と「ドノバン珊瑚礁」を連続して観てそんな思いが強くなってしまう。近年刊行された衝撃の映画書、ダグラス・サークへのインタビュー集「サーク・オン・サーク」に、「アーキーになるなよ」とサークに適格な助言をする映画人が登場する。アーキーとはゲージュツの意だが、助言の100倍は良い作品を作ってしまうサークという人もいたことも最近の衝撃であり、衝撃ばかり受けている年明けだ。

2009年1月1日 08年は父の入院があったりで何かと慌ただしい一年。それでも何とか無事に新年を迎えることができ、よかったよかった。今年はロンドもとうとう50周年を迎える年となった。本年もどうぞよろしくお願い致します。 年末はとにかくダグラス・サークに衝撃を受け、これからサーク、サークと騒がねばと真剣に思う。物語の運ばせ方はもちろんのこと、画面作りへの配慮がすごい。というわけで以下、昨年印象に残った作品です(再見含む)。 (邦画)「二人の息子」(千葉泰樹)「ひまわり娘」(千葉泰樹)「鬼火」(千葉泰樹)「生きている画像」(千葉泰樹)「好人物の夫婦」(千葉泰樹)「弥次喜多道中記」(千葉泰樹)「八州遊侠伝 男の盃」(マキノ雅弘)「抱擁」(マキノ雅弘)「浮雲日記」(マキノ雅弘)「色ごと師春団治」(マキノ雅弘)「人生とんぼ返り」(マキノ雅弘)「殺陣師段平」(マキノ雅弘)「婦系図」(マキノ正博)「弥次喜多道中記」(マキノ正博)「続清水港」(マキノ正博)「剣雲鳴門しぶき(阿波の踊子)」(マキノ正博)「土俵祭」(丸根賛太郎)「春秋一刀流」(丸根賛太郎)「隣りの八重ちゃん」(島津保次郎)「兄とその妹」(島津保次郎)「三尺左吾平」(石田民三)「伊豆の娘たち」(五所平之助)「五人の斥候兵」(田坂具隆)「おかあさん」(成瀬巳喜男)「彼岸花」(小津安二郎)「秋日和」(小津安二郎)「お茶漬の味」(小津安二郎)「たそがれ酒場」(内田吐夢)「人生劇場 飛車角と吉良常」(内田吐夢)「荒木又右ヱ門 決闘鍵屋の辻」(森一生)「銭形平次」(森一生)「尻啖え孫市)「三隅研次)「斬る」(三隅研次)「草を刈る娘」(西河克己)「車夫遊侠伝 喧嘩辰」(加藤泰)「大悪党」(増造)「濡れた二人」(増村保造)「千羽鶴」(増村保造)「清作の妻」(増村保造)「白い巨塔」(山本薩夫)「その後の仁義なき戦い」(工藤栄一)「十三人の刺客」(工藤栄一)「二百三高地」(舛田利雄)「大日本帝国」(舛田利雄)「大脱獄」(石井輝男)「空手バカ一代」(山口和彦)「沖縄やくざ戦争」(中島貞夫)「不良番長」(野田幸男)「それでもボクはやってない」(周防正行)「天然コケッコー」(山下敦弘)「松ヶ根乱射事件」(山下敦弘)「リアリズムの宿」(山下敦弘)「不詳の人」(山下敦弘)「アカルイミライ」(黒沢清)「魂萌え!」(阪本順治)「ぼくんち」(阪本順治)「月の砂漠」(青山真治)「二・二六事件 脱出」(小林恒夫)「ある機関助士」(土本典昭)「ワルボロ」(隅田靖) (洋画)「ぼくの彼女はどこ?」(ダグラス・サーク)「天が許し給うすべて」(ダグラス・サーク)「心のともしび」(ダグラス・サーク)「愛する時と死する時」(ダグラス・サーク)「侠女」(キン・フー)「山中傳奇」(キン・フー)「ヴァンパイア」(カール・ドライヤー)「タバコロード」(ジョン・フォード)「肉弾鬼中隊」(ジョン・フォード)「最前線」(アンソニー・マン)「人生は四十二から」(レオ・マッケリー)「バス停留所」(ジョシュア・ローガン)「彼奴は顔役だ」(ラオール・ウォルシュ)「遊星よりの物体X」(クリスチャン・ナイビー)「コルドラへの道」(ロバート・ロッセン)「鬼軍曹ザック」(サミュエル・フラー)「バラバ」(リチャード・フライシャー)「ウィル・ペニー」(トム・グリース)「突破口」(ドン・シーゲル)「マンハッタン無宿」(ドン・シーゲル)「ガルシアの首」(サム・ぺキンパー)「アワーミュージック」(ジャン=リュック・ゴダール)「マイアミ・バイス」(マイケル・マン)「ツールボックスマーダー」(トビー・フーパー)「マーズ・アタック」(ティム・バートン)「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」(スティーブン・スピルバーグ)「マリティ・リポート」(スティーブン・スピルバーグ)「A.I.」(スティーブン・スピルバーグ)「宇宙戦争」(スティーブン・スピルバーグ)「ミュンヘン」(スティーブン・スピルバーグ)「追跡者」(スチュアート・ベアード)「ボーン・アイデンティティ」(ダグ・リーマン)「ロッキー・ザ・ファイナル」(シルベスター・スタローン)「ランボー最後の戦場」(シルベスター・スタローン)「エデンより彼方に」(トッド・ヘインズ)「ゾディアック」(デヴィッド・フィンチャー)「ザ・シューター極大射程」(アントワーン・フークワ)「ライフ・アクアティック」(ウエス・アンダーソン)「イースタン・プロミス」(デヴィッド・クローネンバーグ)「ヒストリー・オブ・バイオレンス」(デヴィッド・クローネンバーグ)「ミスト」(フランク・ダラボン)「レッド・クリフ」(ジョン・ウー)「ダイアリー・オブ・ザ・デッド」(ジョージ・A・ロメロ)「28週後…」(ファン・カルロス・フレスナディージョ)「28日後…」(ダニー・ボイル)「ドーン・オブ・ザ・デッド」(ザック・スナイダー)「ブラックブック」(ポール・バーホーベン)「私のイタリア旅行」(マーチン・スコセッシ)「グエムル]のィ」(ポン・ジュノ)「デジャヴ」(トニー・スコット)「ラスト・ボーイスカウト」(トニー・スコット)「奴らに深き眠りを」(ビル・デューク)「断絶」(モンテ・ヘルマン)「クリムゾン・ゴールド」(ジャファル・パナヒ)「トゥモロー・ワールド」(アルフォンソ・キュアロン)「デス・プルーフ・イン・グラインドハウス」(クエンティン・タランティーノ)「父親たちの星条旗」(クリント・イーストウッド)「奴らを高く吊せ!」(テッド・ポスト)「ヘア・スプレー」(アダム・シャンクマン)

12月7日 蓮實氏の「映画論講義」で、自分の生まれ年の作品を今の自分の歳の数だけ言う、という話が出てくるのだが、なるほど自身の映画をとらえる一つの尺度ともなりえ、これは面白いと居酒屋で一人飲みながらあれこれ考えてみる。しかし、映画館に通い始めた以降ならばけっこう出るのだが、生まれ年となると案外出てこない。真っ先に出たのは、ヒッチコック「サイコ」、小津「秋日和」、ベッケル「穴」、森「不知火検校」、とここらあたりまでは調子いいのだが、あとはまああまりあげたくはない作品だったり、後で調べると間違っていたりでまだまだ未熟者だと痛感。妙に(というのも変だが)、ワイルダー「アパートの鍵貸します」、ベルイマン「処女の泉」などは出てきたが、フォード「バファロー大隊」、シーゲル「燃える平原児」、カサベテス「アメリカの影」、トリュフォー「ピアニストを撃て」あたりが出なかったのは痛い。

11月30日 吉田広明氏の「B級ノワール論」を買いに紀伊國屋書店に出かけると、蓮實さんの未購入の本が2冊も並んでいて一気に購入。コーナーには蓮實さん直筆のサインがあり、とにかく手にとってみよう、必ず何かが発見できるはずです、とのコメント。驕りや誇張のあるわけもなく、実際にその通りで、蓮實氏の書籍は何の迷いもなく見つけた途端購入している。「映画論講義」も触発されることしきりの本で、DVDでなんでも観られる現代は実は歴史意識の低下、あるいは今起こりつつあることへの視点の希薄化をもたらしているという状況を示すために、例えばガス・ヴァン・サントとマイケル・マン、どっちがいいのかという問いを立てることで説明する面白さ。これは迷うことなくマイケル・マンを選択するわけで、それが映画の擁護につながるといった論理は胸のすく思いでもあった。批評のない中で面白い映画を作り続けるアメリカ、ゴダール、トリュフォーを打ち倒す気概のある批評家が登場しないままのフランス、世界に様々な状況はあるけれど、蓮實氏のいる日本に生まれたことを本気で感謝すべきではないかと思う。本日はちょうど「マイアミ・バイス」。やはりドン・ジョンソンで観たい。同じマンの「コラテラル」に主演したトム・クルーズの次回作は「ワルキューレ」。昨日えらく盛り上がる予告編を観たばかりでとてもたのしみ。「レッドクリフ」はえらくわかりやすい作りになっているが、「八卦の陣」がめっぽう面白い。

11月24日 最近観て最も感動した作品はダグラス・サークの「ぼくの彼女はどこ?」。細かい話は置いておくとして、とにかく映画の作り方がでかい。別に大作映画というわけではなく、映画のつかみ方がでかいのだ。昨今、テレビもどきの映画を観るたびに腹が立ってしようがないのだが、サークの作品を観ている間、フォードやホークスやウォルシュを観ているときのような安堵感を感じていられるのだ。ここが出発点でいい。ここから始まって、では今どのような映画作りができるのか、そのひとつがイーストウッドであったり黒沢清であったり、しかし決してテレビ的な映画ではないという、ここと向こう側。平均点続出のプログラムピクチャーが懐かしくなってしまうという今。映画には映画史があるのだ。本日はアダム・シャンクマンの「ヘアスプレー」。これは良かった。アメリカ映画だった。

11月16日 五所平之助「伊豆の娘たち」。終戦後封切り映画第一作と聞く。父・河村黎吉と二人娘の暮らす食堂に、佐分利信演じる居候がやってくる。娘の縁談話をめぐるてんやわんや。終盤のたたみかけに、当事者である佐分利本人がいっさい登場せずに進行するところが妙でおかしい。それにしても僕はこの当時の松竹映画に登場する脇の俳優さんたちが好きでたまらない。今回の河村黎吉、東野英治郎、笠智衆、坂本武のほか、齋藤達雄、江川宇禮雄、徳大寺伸、三井秀男、日守新一、吉川満子、飯田蝶子などなど。山根貞男氏の「マキノ雅弘 映画という祭り」はマキノ映画の真髄を名場面集的に詳細に分析した必読書。読むと観たくなる。三船敏郎、山口淑子の「抱擁」は山根氏の指摘する通り、多すぎる群衆があまりに異様。人物描写がやや図式的な気もするが、映像の迫力は並ではない。三船と山口が追っ手のギャングからクリスマスで賑わうダンスホールから踊りながら逃走し、明け方の都会の風景を眺めながら決して明るくはない未来を語り合うシーンがいい。まったく関連はないが、なぜか「その後の仁義なき戦い」を思い出す。延々十五分に及ぶ「阿波の踊り子」の怒濤の阿波踊りシーンに続き、忽然と現れる人間体。観ていない方には何のことかさっぱりわからないに決まっているが、このイメージに軽いショックを受ける。マキノさんはセリフも展開もキャメラワークも話の転がせ方もすごいが、ポーンとショックな絵も撮る。軽いショックは「色ごと師春団冶」のラストの悲壮になりそうな臨終シーンを、明るく振る舞う幽霊の立場から撮ってしまうことで明るくしてしまう展開にも受けた。再見の「人生とんぼ返り」、中風の殺陣師段平が横になったまま最後につける殺陣、演じるのは舞台役者ではない、素人の老人と宿泊先のおかみ、訳あって明かされていない実の娘の三人、箒やはたきを手に御用だの構えに泣く。前半で亡くなってしまう山田五十鈴もすごかった。熱を出した段平に薬を飲ませようとするシーンのやりとり、憎まれ口を言い合いながらも夫婦の情愛の伝わるところ、「こら」と呼びかける山田五十鈴の一言だけで鳥肌の立つ思いだ。本日はマキノさんの「浮雲日記」も堪能。三隅研次「尻啖え孫市」、中村錦之介の暗殺を謀るべく、夜道を歩く孫市の周囲に顔がひとつ、ふたつと増えていく絵作り、三隅さんらしいスタイリッシュさに魅了される。

10月28日 昔の映画雑誌を眺めていたら、宇田川幸洋氏と石上三登志氏のドン・シーゲル追悼対談が載っていて、読んでしまう。「ダーティハリー」撮影時の話も出てきて、シーゲルとイーストウッドの両者が監督を務め、どっちが監督をしていたのかわからないんだとシーゲルは語ったという。「今日はお前が撮る日だな」といってシーゲルが帰ってしまう日もあり、スタッフはそれを承知していて、シーゲルが演出する日を「シーゲリーニ」、イーストウッドが演出する日を「クリンタス」と呼んでいたという。シーゲルがいかにイーストウッドの才能を早くから認めていたのかが伝わってくるエピソードだ。シーゲルを考える上で重要なのは、プロデューサー、リチャード・E・ライオンズとの関係である。「太陽の流れ者」は、実はバート・ケネディの未公開西部劇のセットを再利用して作られた作品で、しかも物語上、燃やされてしまったセットだったという。それでも引き受けるシーゲルの精神は雇われ監督ながら、どこか尋常ではない。ライオンズはペキンパーの「昼下がりの決闘」、バート・ケネディの「モンタナの西」「ランダース」なども製作しており、つまりライオンズでシーゲル、ペキンパー、ケネディのラインながることになる。当然ジャンルとして西部劇に固執したプロデューサーなのであり、60年代というニューシネマの時代に伝統ハリウッドの精神を持ち続けた存在でもあったのだ。さらにシーゲルからイーストウッドへとその精神は継承され、あの生々しい「許されざる者」が誕生することになる。ところで先日おそらく僕より年長のアメリカ人と映画話を少ししたのだが、ちょうどポール・ニューマンが亡くなった頃なので、好きな映画を尋ねると「傷だらけの栄光」をあげていた。好きな俳優はモンゴメリー・クリフトで、とくに「陽の当たる場所」「去年の夏突然に」などをあげていた。こういうとき原題を覚えていると役に立つ。イーストウッドはどうかと聞くとまったく関心のない様子。アメリカでの評価はやはりあまり高くないとみえる。

 10月26日 今日も千葉泰樹にすっかり感心した日。「生きている画像」が実にいいのだ。大河内傳次郎扮する西洋絵画の師匠を中心に、その弟子たちとの交流をめぐるドラマ。何と言っても男優陣が豪華。15回連続落選し続ける不詳の弟子に笠智衆、才能はあるが問題ばかり起こす藤田進、無愛想だが腕は抜群の寿司職人でやがて弟子の仲間入りをする河村黎吉、番頭格の江川宇禮雄(絶品!)、大河内の旧友に古川緑波、その他田中春男など。笠さんがうだつのあがらない中で慎ましやかな女性とめぐり逢い、師匠には結婚をするならば門下とは思わぬと「婦系図」のような展開になるかと思いきや、大河内が折れて仲人を務める。朴訥ながら含蓄のある挨拶の後、旧友古川とおかめひょっとこの出し物を演じ、笑いながらも涙の止まらない新婚の二人。新婚生活を送る中、新境地を開くようでしかし笠はまたしても落選する。その一方で女にはまり、師匠の作品をくすねて金を作り、警察のやっかいになってしまう藤田。身元を引き受ける大河内は何も言わずに飯と酒を振る舞い、このことは他言するなとこっそり小遣いを手渡す。寿司職人の河村は店をほっぽり出しては絵を描きに出かけ、酒屋の借金がかさむ。大河内は事情を知、女に狂うよりはいいだろうと女房の愚痴に答え、こっそり酒代を支払っている。この河村、自分の絵がさっぱり評価されないので、半ば冗談で本日ご臨終するので葬式に来られたしと、大河内に置き手紙する。洒落には洒落で返す大河内は戒名と香典を持って出かけ、薄目を開けて横たわる河村の前でチーンと鳴らし、ハッハッハと笑い合う。香典の中身も気が利いていた。立派な戒名に、早く死にたくなりましたよ、という河村だが、ここに先生はおられますかと笠が飛び込んできて、物語は一気にクライマックスを迎えるのだ。この物語を面白おかしくさばいてゆく千葉の手並み、見事というほかない。本日は千葉でもう一本「好人物の夫婦」も。池部良と津島恵子が夫妻を演じている。島津保次郎の「隣りの八重ちゃん」も傑作。そういえばジャズ批評で映画の連載をしている人がいるが、せっかく島津を取り上げておきながら、「浅草の灯」や「兄とその妹」には感心しなかったと述べており、作品レベルでいえば水準は高いわけであり、個人的な好みで日本映画黄金期の作品を一言で簡単に裁くのは問題があると思う。過去の作品を述べるならば、まず島津の作品が観たくなるように述べるべきではないか。ボクはこの人の、ニをまったく信用しない。話題変わって映像の力強さに目を奪われまくるのはカール・ドライアーの「ヴァンパイア」。何といってもルドルフ・マテのキャメラである。吸血鬼もので、この1932年の作品を上回った映画は一本もないと断言できる。全シーンが不吉。片足の男のシルエットが勝手に歩き回り、元の人物の元に戻ってきたり吸血鬼の手先となったドクターがおが屑の中で緩やかに死んでいくところは有名だが、その前後で墓を掘る男のシルエットだけが映し出されるシーンが登場する。これが逆回しになっており、掘り返した土が後ろから飛んでくる絵になっている。このシーンも妙に恐かった。

10月22日 30年ぶりくらいにイーストウッドの「奴らを高く吊るせ!」。なるほど、これはウィリアム・A・ウェルマンの「牛泥棒」を観るまではわからなかった。完璧に「牛泥棒」にインスパイアされての作品。マルパソの第一回作品にリンチをめぐる不条理劇が題材となり、またウェルマンへの敬意をみれば、まさにイーストウッドの作家性と映画史の継承者としての原点と一貫性を感じる。いまいちすっきりしないストーリー展開だが、「ダーティハリー2」でも手を組むテッド・ポストの演出は悪くない。「いい顔」のたくさん出てくる西部劇でもあった。時代劇作家として一貫しているスピルバーグ、インディ・ジョーンズ最新作はまだ観ていないけれど、これまたほぼ30年ぶりに「1941」。9.11の予感にもならず、これはひどい出来。第2次世界大戦にふれる歴史性はひょっとして「ジョーズ」が初めてだろうか。もちろん、「ジョーズ」は戦争映画ではないが、ロバート・ショーのセリフに原子爆弾を輸送した後の潜水艦インディアナポリス号が被弾し、搭乗員たちが次々にサメに襲われるエピソードが登場する。その後のショーの死を予感させもする恐いエピソードでもある。原爆はインディ・ジョーンズの最新登場しているらしい。

 10月13日 レオ・マッケリー、いいよなあ。20数年程前、今プロデューサー業の根岸洋之の8ミリ映画を観に行ったら、「L・Mに捧ぐ」なんてキザなことをやっていて、それがレオ・マッケリー。そういえば併映は高橋洋と植岡喜晴の作品だった。本日マッケリーの「人生は四十二から」。小学六年のクリスマスの日、日曜洋画劇場(もちろん淀川さんの解説)で「我が道を往く」を観て、めちゃめちゃに感動したことは今でも忘れない。「新婚道中記」もいいが、「めぐり逢い」もいい(ただしデボラ・カーはいまひとつ)。「人生は四十二から」にリンカーン大統領のゲティスバーグでの演説が登場するが、昨日観た「バス停留所」で学のないドン・マレーが女を口説くには詩の一節も諳んじられなければといわれ、全然場違いのタイミングで唯一覚えているリンカーンの演説をぶつシーンに爆笑したことを思い出す。両作品は演説つながりであったか。島津保次郎「兄とその妹」。桑野通子がいい。戦前の女優でこんなにモダンな人もいない。桑野みっちゃん惜しいなあ。三十歳くらいで亡くなってしまったんだよなあ。もっと長生きしてくれれば、かたや山田五十鈴、かたや桑野みっちゃんくらいの存在だったかもしれない。少とも高峰三枝子あたりよりは断然上にいた人。田中絹代、高峰秀子あたりとは同格に並ぶだろう。「有りがたうさん」「淑女は何を忘れたか」「戸田家の兄弟」も桑野さんであった。そういえば、あまり参考になる本ではないが、90年頃の文春文庫で「女優ベスト150」というのがあって、現在の感覚とはかなり異なるランキングとなっている。ここで桑野みっちゃんは堂々7位。ちなみに、1位は久我美子、2位高峰秀子、3位吉永小百合、4位原節子、5位桂木洋子、6位芦川いずみ、7位みっちゃん、8位若山セツ子、9位有田紀子、10位娘の桑野みゆき。12位には市川春代が入っていたりして選考者の年代がかなり反映されていると思うが、山田五十鈴23位、岡田茉莉子100位ってのはまったくげせない(なお、杉村春子は圏外)。本日は久々にぺキンパー「ガルシアの首」も。この生き様、うちのめされる。最低の人生を歩みつつも、気高く死んでいった男。この底辺さ加減と高貴さの落差は「第七天国」にも匹敵し、それが同じ男に同居したぺキンパーの世界だ。

10月12日 ジョシュア・ローガン「バス停留所」、笑って泣ける傑作。マリリン・モンローはワイルダーものよりも断然いい。ハリウッドで歌手になることを夢見て、地図上に田舎からハリウッドまでの一直線のラインを引いてぽーっとする可憐さ。モンタナからロデオ大会に出てきたドン・マレーに一方的に求愛され、連れ帰るために投げ縄で掴まってしまうシーンに爆笑する。久々にドン・シーゲル「マンハッタン無宿」。今にも世紀の傑作「ダーティハリー」の誕生しそうな予感がそこここに満ちている。千葉泰樹「ひまわり娘」。三船敏郎が抜群にいいんだよなあ。ちょっと無骨なサラリーマンをやらせると絶品というのは、この3年後の56年に出演した成瀬巳喜男の「妻の心」でも証明している。「ひまわり娘」は何かというと女子社員たちが集まって作戦会議を開き、有馬稲子が糾弾されるところがやたらとおかしい。千葉泰樹が決して見逃すことのできない大監督であることは今年観た「二人の息子」でも実感したことだが、40分そこそこの「鬼火」もすごかった。ガス代が払えない貧しい津島恵子につけいる加東大介。薄暗い部屋で首つり自殺した彼女の横で、ごうごうと燃えさかる炎。これはかなりこわい。同じ千「銀座の恋人たち」はくっついていた夫婦や恋人たちが全員ばらばらに離れ、たがいちがいにくっついてしまうとんでもない話。衝撃のラヴコメディといってしまいたい。

10月9日 アルフォンソ・キュアロン「トゥモロー・ワールド」、なかなかよかった。エンジンのかからない車で坂道を転げてゆく脱出シーン、突然現れる襲撃者たちから車のギアをバックに入れたまま逃走するシーンなど印象深い。キム・ギドク「悪い男」、日活ロマンポルノのほうが遙か以前に先行し、しかもディープではなかったか。「デス・プルーフ  in グラインドハウス」再見。これはやはりタランティーノ本気、素晴らしいショットが随所に。半分以上が若い女性たちのダラダラした会話だけだというのに、この映画的密度の濃さ。一見、低予算の、賞の対象にもならないようなどうでもよい筋立ての体裁だが、その実キマりまくるショットの数々。映画を物語やテーマでみる方には無縁の快作。カースタントシーンもよいが、雨のシーンがとても好き。スタントマンマイクの視線も好き。トニー・スコット「デジャヴ」は「エネミー・オブ・アメリカ」の先を行く、とんでもない展開に唖然とする。最近亡くなった米日の大物俳優。代表作としてあげられる作品に疑問あり。P・ニューマンは「引き裂かれたカーテン」「ハスラー」、O・ケンはせいぜい「野獣刑事」もしくは「影の軍団 服部半蔵」くらいかな。あ、「魚影れ」があったか。

9月24日 観られる時に観ておかねばと、映画を観だめ。増村保造、「千羽鶴」「清作の妻」。若尾文子はやはりすごすぎる。美しくも妖しく、エロティックでもサディスティックでもマゾヒスティックでもあり、愚かで孤独で怖ろしい。こんなになんでもかんでも言葉が浮かび、どれもこれも当てはまる女優はいないのだ。丸根賛太郎、「春秋一刀流」「土俵祭」。春秋は39年、土俵は44年、モダンです。両作とも片岡千恵蔵主演。春秋は用心棒稼業の平手造酒が喧嘩の度にいくら稼いだかを記した小遣い帳が随所に挟まれ、ラストにババーンと活きる洒脱な構成。面白うてやがて悲しき筋立てながら、ズバッときまる爽快感。土俵は黒澤明脚本、本人が撮るよりも間違いなく傑作であることは78分でまとめた手腕が証明する。黒澤ならば絶対にこの尺では収まらないのだ。ジャファル・パナヒ、「クリムゾン・ゴールド」。何故このビデオが家にあるのか忘れていたのだが、キアロスタミ脚本というので流していたら最後まで観てしまった。いきなり、宝石店強盗に失敗し、拳銃自殺するシーンから始まる実話。

9月21日 ふと増村保造を観たくなり、本日は「大悪党」と「濡れた二人」の2本立て。「濡れた二人」の若尾文子がはなれで北大路を待ちわびる雨のシーン、何度観てもすごい。成瀬の「乱れ雲」と2本立てでもう一度観たくなった。映画ファンを自称するならば増村もまた避けることのできない監督の一人と断言したい。

9月14日 久々にゆったり時間のある連休、たまっていた映画をかたっぱしから。マキノさんの「婦系図」、これはもう日本最高の女優、山田五十鈴を観るための映画、何と可憐な、そして切ない主人公であろうか。泣きに泣ける、マキノ作品でもトップクラスの傑作。ダグラス・サーク「愛する時と死する時」、アンソニー・マン「最前線」、サミュエル・フラー「鬼軍曹ザック」。今年朝日新聞社から発行された藤崎康氏の名著「戦争映画史」ベスト30にも選出された3本。戦争に引き裂かれる愛の物語、サークの感傷に溺れることのない演出力の途方もなさに酔いしれ、マンの斜面を使った相変わらずの演出の素晴らしさに酔いしれ、フラーのロマンチシズムを徹底的に排除した真にハードボイルドなタッチに酔いしれる。そしてリチャード・フライシャー、「バラバ」。あえて比較するならば、「ベン・ハー」などより100倍素晴らしいフライシャーの職人芸。所詮アカデミー賞などその程度の評価しかできないのだから、ワイラーよりはフライシャーのほうが遙かにすごいのだということこそが正当な評価というものだろう。

8月31日 父はお盆明けから復帰。ミュージシャンの方々には千羽鶴を折って頂いたり、ご心配おかけした皆様、どうもありがとうございました。通常営業時間午後5時からですが、少しずつ早めていく予定です。

7月27日 父入院から早くも3週間が経過。意外と体力はもっている。日中の仕事とはまったく異なる業種なので、メリハリがついてよいのか。連日のピンチヒッターをやっているとさすがにお客さんにはいろいろなことを言われるもので、非常に感慨深いものがある…。お盆明け頃には復帰できると思うのですが。

7月13日 父が入院したため、急遽仕事が終了後ロンドをオープン。夜7時のオープンを目指しているが、過ぎてしまうこともしばしば。それでも何とか1週間。お客さんが来店するまでの時間帯は大音量のジャズ喫茶状態。暑いのでドアを開け放しており、トイレまでよく聞こえるくらい。何かをかけると次にこれが聴きたいという流れができて、先日はヒップホップまでかけてしまった。いったい何屋なんだと思われるかもしれない…。「ミラクル7号」が観たくてしょうがないのだが、なかなか行けずじまい。

 6月15日 「不良番長」シリーズ何本か。野田幸男と内藤誠によるいかにも品の悪い東映作品もまた紛れもない映画だ。番長シャロックは名曲だと思う。そんな流れでほぼ全曲を作詞作曲した三上寛の「ピラニア軍団」を久々に聴く(今ピラニア軍団などと、余程の映画好きでなければ知らないだろうが)。新仁義なき戦いシリーズで小林旭に憧れてヤクザになり、哀れに死んでいくアキラを演じた三上寛だからこそ描けたであろう、大部屋俳優さんたちの心情風景は聴き応えがあるし、野口貴史歌うところの「関さん」はやはり泣ける。それと面白いのは坂本龍一のアレンジ。70年代には浅川マキのアルバムでも名前を見せたYMO前の坂本、シンセがまだ珍しい時代にこの人の存在は貴重だったのだろうと思う。

 6月4日 かつてロッキーにもランボーにも何の魅力さえ感じなかったはずなのに、いったいスタローンという人はどうなってしまったのだろうか。昨年の「ロッキー・ザ・ファイナル」は素晴らしかったし、今回の「ランボー 最後の戦場」も決して悪くないのだ。「ランボー」の上映時間はきっちり90分。思えばランボー・シリーズはすべて90分から100分の長さにきっちりと収まっていたのだし、ロッキーだってほぼ2時間の1、2作目を除きすべて同様の長さに収まっている。スタローンの作品はハリウッド、スタンダードの上映時間を踏襲するものであり、近年のハリウッドのほぼ140分という上映時間とは一線を画すものだ。スタローンはその多くの作品のシリーズの脚本を手掛け、中盤以降は監督も務めることが多いわけだから、上映時間に無自覚なわけがない。監督・主演が定着するイーストウッドの場合は90分から出発し、90分の作家のまま2時間を超えることが必然というねじれた魅力さえ僕は感じてしまうのだが、そこにスタローンを並べてみると上映時間に関する頑なまでの姿勢がみえてくる気がする。しかも今回のランボーは「プライベート・ライアン」を彷彿させるリアルな殺戮シーンへのこだわりが強く、銃撃や吹き飛ばされ頭部、手足などかなり手の込んだ仕掛けが施されている。つまり視覚性優位の画作りに拘る程上映時間は長くなるはずなのに(ましてや今回スローモーションはいっさい使われていない!)、それでも90分で収めるというのは時間に自覚的ではない限り、昨今のハリウッドではかなり珍しいことだと言えるのではないだろうか。かつては「ロッキー」など唾棄すべき映画などと、周囲がほめるほどに言いたくなったものだが、「ロッキー・ザ・ファイナル」が妙に新鮮だったのはスタローンがハリウッド映画の何らかの継承者であることを感じさせたからであり、それは上映時間と無関係ではないと思うのだ。そして今回のランボーの90分。ここで収めたが故に描写不足の側面もあることはある。本来であれば、ホークスの一連の作品やアルドリッチの「特攻大作戦」にみられるようなプロ集団の魅力が描かれれば、本当に言うことはないのだけれど、そこはスタローンの限界であるのだろう。また、スタローンについてこう書いてしまうことは、今「フツウの映画」さえ滅多に観られないことで周囲とのバランスから自ずと浮上してしまうというアンバランスの現象によるせいかもしれない。しかしそれでも、スタローA決ト悪くないぞともぜひ言っておきたいのだ。ラストカットなども実にいい構図だったじゃないですか。

6月1日 金曜はシーナ&ロケッツ30周年ライブ。シーナの地鳴りのような歌声、ものすごい迫力。僕はロックンロールにはほとんど縁のない人だが、さすがにこのクラスは聞かせる。バンドの姿がただただカッコよかった。昨日はくうにて中本マリ&大石学。歌伴に終わらないピアノ。とはあまりにギャップのある打ち上げ後の話、笑った。フランク・ダラボンの「ミスト」は傑作。冒頭数分でスーパーに立て籠もる、「ゾンビ」じゃないの、ここですでにワクワクさせる。薬局での怪物襲撃シーンのたたみかけ、フフフと声を漏らしながら楽しめた。オチはともかく突然荘厳な音楽が初めて鳴り始める終盤の終末感もいいじゃないですか。先日、久々に「ユリイカ」。4度目かな。やはり傑作。三上寛の「負ける時もあるだろう」、昔レコードをうっぱらってしまったのでCDで買い直す。これはやはり初期の快作だ。この人のパワーは並ではない。海で死んだ男が歌い始める「海男」もいい。三上氏の評価はもっともっとる上がるべきだ。買い直したといえば、南正人の「南回帰線」。浅川マキさんはよくライブで南氏の「海と男と女のブルース」を歌っていたのだが、録音は残していない。その曲がこのアルバムに収録されている。もルース調で歌う本作よりも、マキさんのほうが遙かによいのだ。またぜひ聴いてみたい一曲。宮沢正一の「人中間」も買い直してしまった。これはやばい、こわい。買い直さなければよかった。最近のものでは半野喜弘がお気に入り。エレクトロ・ミュージックはあなどれない。

5月6日 モンテ・ヘルマンの唯一のメジャー作品「断絶」をようやく観る。60~70年代のアメリカにこんな映画作家がいるのだ。ジェームズ・テイラーがアメリカ大陸を自動車レースで食いつなぎながら横断するロードムービー。ペキンパーの友人で、ウォーレン・オーツとは古いつき合いという。オーツがシーンごとに色の違うセーターを着ているのがおかしくてしょうがない。今やもう自分で何を撮りたいのかすらわからなくなっているスコセッシの「私のイタリア旅行」も予想外によかった。黒沢清の「アカルイミライ」がなぜかとても好きで最近5度目の再見。蓮實さんの息子さんのハスミは蓮実と表記するが、重臣氏のパシフィック231のサントラも未だ発売中で購入。黒沢監督もそれを望んだというが、これは映画音楽として成立していない。かといって既成曲を使用したわけでもない摩訶不思議なサウンドだ。サントラといえば、最近中古店で原正孝の「初国知所之天皇」(はつくにしらすめらみこと、と読みます)を発見!。原氏が古事記をモチーフに日本各地を単独で渡り歩きながら3年がかりで撮りあげた小宇宙ともいえる作品で、当初のバージョンは8時間あったというが、僕が80年に観たのは「アゲイン」版。寺山「トマトケチャップ皇帝」、原一男「極私的エロス 恋歌1974」、柳町光男「ゴッド・スピード・ユー!BLACK  EMPEROR」、高峰剛「オキナワンチルダイ」との自主映画オールナイトで観たのだが、最も衝撃を受けた瞬間がまざまざと甦る。音楽もすべて原氏が自作自演、ヘタウマ系といえるが、早川義夫にサジェスチョンを受けたという内容は素晴らしい。アケタさん監修の「中央線ジャズ決定盤101」はジャズファン必読本。

3月4日 先日、千葉泰樹の「二人の息子」。宝田明と加山雄三の兄弟と妹、父・藤原釜足、母・望月優子。父の失業をきっかけにその家族が負の連鎖によってみるみると崩壊の危機に直面する。サラリーマンでようやく安定した生活を送れるようになった宝田の元に、月いくらかでも仕送りをしろとせがむ加山と宝田夫妻の対立、できの悪い弟で白タクくらいしか始められない加山が素晴らしい。成瀬作品以外で加山雄三がいいと思ったのは初めてかもしれない。白タクの炎上するシーンは千葉の巧みな演出で衝撃が走る。加山が轢き殺した鶏で、家族が鶏スキヤキを囲むシーンもすごい。うっかり卵でもあれば最高だと口走る父の一言で、たったひとつの生卵の奪い合いならぬ譲り合いから家族の大喧嘩に至る陰惨な情景。どこを切り取ってもすごい作品だ。何気なく観た作品だが、これは一生忘れることのない映画の一本になるだろう。ひとえに千葉泰樹の素晴らしさである。市川など追悼している場合ではないのだ。東宝に成瀬あり、千葉あり、鈴木英夫ありではないか。 ところで故・末松太平氏のご子息によるブログを発見。ご子息といってももう還暦を越えた年輩の方。父が亡くなるまで父親の過去に興味はなかったそうだが、ブログには追体験の軌跡も反映されている。末松氏は悪名高い澤地の書籍の間違いやらにすべて付箋を貼ってコメントもつけていたというが、書籍本体の写真が掲載されていて付箋の量に笑ってしまう。それにしても数年前の週刊文春に掲載された襲撃遺体写真にコメントをつけ、つい最近も単行本を出した保阪の文章には腹が立ってくる。

2月11日 9日より上京。羽田到着後、真っ先に東京国立近代美術館フィルムセンターに飛び込む。マキノさんの生誕100年でレトロスペクティブを開催しているのだ。観ることができたのは「八洲遊侠伝 男の盃」。8割方座席は埋まっていただろうか。この作品、何せ藤純子のデビュー作。彼女の登場シーンで、おじさんばかりの会場が少しざわめいたのが微笑ましい。千葉真一も新人のころで、マキノさんはへたもん同士なら目立たんやろと言って演出をつけている。終映後、会場から拍手。このような環境で映画が観られるのは実に気持ちがよい。7階の展示室を見学すると、おお!伊藤大輔の「忠治旅日記」の断片をビデオ上映しているではないか! 10年以上前にコレクターの家の納屋から発見されて修復されたものだが、中気で倒れた忠治が戸板でかつぎこまれ、残った子分たちが捕手たちと切り結び、次々と倒れていく終盤だけとはいえ、異様なまでの悲壮感と迫力にぶっとんだ。たった7分間だが、うなりつつ2度観る。隣では小津さんの「和製喧嘩友達」も上映していて、横移動。奥のコーナーでは父、マキノ省三さんを描いたテレビドラマ「カツドウ屋一代」を上映。省三役を長門裕之。マキノさんが監督した作品をクトしているそうだが、「正博誕生」の巻は共同監督に長門さんの名が並ぶ。時間切れで最後まで観られず。ちなみにこの企画、3月末まで約100本を上映する。

 2月といえば226の月でもある。昨日は朝から渋谷まで行き、「二・二六事件慰霊塔」に参る。渋谷税務署の一角にひっそりと立ってはいるのだが、NHKを右手に見ながら税務署の角を曲がると、唐突に巡り会う。かつては代々木練兵場があり、銃殺刑が行われた場所だ。綺麗な花が添えられていた。昭和維新の歌を歌いつつ、軍歌だけに勢いをつけて向かったのだが、慰霊塔を目前にすると言葉を失う。ただただ、手を合わせるだけだ。その後、銀座線を青山一丁目で大江戸線に乗り換え(初めて乗った。車両が小さい)、麻布十番へ。大丸ピーコック前の坂を少し登ると、賢崇寺の入口に出る。ここは栗原中尉の父が入門された寺で、226で死んでいった二十二士の墓がある。ここには江戸時代からの墓や陸軍少将など軍人の墓も多く、興味深い。二十二士の墓は墓地のずっと奥の目立たない場所にあった。裏側をのぞけないようにしているのか、両脇に樹木が植えられている。おりしも東京はここ数日雪が降り、まだ周囲に残雪がある。雪の降る2月の東京の気温や空気を実感しつつ、手を合わせた。ここはすぐ隣が六本木。空を見上げると、ITバブルの象徴のような六本木ヒルズの高層ビル群がここを見下ろしている。いっ何たる光景だろうと思った。 それからさらに小金井市まで足を伸ばし、江戸東京たてもの園へ。ここには高橋是清邸が移設されている。ああ、また屋根に雪だ。一階は食事もできる休憩所になっている。高橋邸はかつて青山一丁目から赤坂見附に至る市電通りに面し、周囲に大宮御所や各国公館があったため、銃声を聞かせないよう軍刀と拳銃だけで襲撃したと松本清張は「昭和史発掘」で推測している。高橋蔵相を襲撃したのは近歩三の中橋基明部隊。中橋中尉が表門から、中島莞爾少尉が東門を乗り越えて邸内に侵入。高橋が二階の十畳間で臥床中あるいは布団の上に坐っていたところを中橋が撃ち、中島が斬りつけて即死状態だったという。部隊は邸内を探し回り、書生を脅し寝床に案内させる。しかし女中がひとかたまりになっているところへ書生が飛び込み、以降は案内なしに進んでいったと女中の談話が残っている。移設された屋敷は二階が二間だが、一階は広く、周囲を廊下が取り囲む状態でいくつもの部屋がある。二階に上がる階段は二箇所あるのだが、いずれも狭く急で、廊下の端から発見するのは困難、目の前に来て初めて階段を認識できるような作りだった。邸内の資料では侵入したのは玄関から右手を回った奥の階段だったというが、木造張りの邸内にドカドカとして兵士たちの靴音はさぞや異様な物音であったろうと思う。ところで事件後の青年将校たちの減刑を求める嘆願運動では70万という数のほか、小指が9本あったという話には驚いた。 ジャン・ルノワールの回顧展は行けなかった。先週は東京日仏学院で蓮實さんと黒沢さんが対談をしていたのだが。

 昨晩は旧友と下北沢で飲む。二人とも元・下北在住。下北というところは、飲み屋のゆるい感じが楽でいい。友人の行く所すべて閉店しており(一件はロック酒場だったはずなのに、ヒュードロドローという効果音に三角巾をしたおねえちゃんが看板を出しているところだった)、明るくて感じのよいおねえちゃんがやっている飲み屋。ホッピーならぬハイッピーというものが出ていることを初めて知る。ビール味とレモン味の2種。当然注文。味は?と聞かれて、…ホッピーみたいとしか言いようがない。でもレモン味のほうは甘くていまいち。ハイッピーのビンの裏側には、メロディ不明のまま「ハイッピーのうた」の歌詞が。「泡がムクムクハイッピー ビールのようでビールじゃない サワーのようでサワーじゃない ホップが入った大人味 お酒をわるならハイッピー!」だと。森山浩二の「ライブ・アット・ミスティ」がCD化されたのは収穫。メンバーがすごくてベースに森泰人、ギターになんと高柳昌行!高柳の歌伴、珍しい。スティーブ・グロスマン、「アイム・コンフェッション」はハロルド・ランドが参加。他、ジョージ・パッチンスキー、ホリー・ランドをやっているハクエイ・キム。板橋文夫とカルメン・マキ、惠資の共演盤「時には母のない子のように2007」は「かもめ」などもやっていて楽しめる。 

2008年1月3日 新年を迎えました。早いもので今年は年男。映画の本数ここのところ、かなり減ってしまったが、少ないながらも昨年は鈴木英夫の傑作群をまとめて観られたのは大収穫。以下、昨年の記憶に残る作品です。

 邦画「非常都市」(鈴木英夫)「暁の合唱」(鈴木英夫)「彼奴を逃すな」(鈴木英夫)「黒い画集第二話 寒流」(鈴木英夫)「危険な英雄」(鈴木英夫)「殺人容疑者」(鈴木英夫)「社員無頼怒号篇」(鈴木英夫)「社員無頼反撃篇」(鈴木英夫)「旅愁の都」(鈴木英夫)「殉愛」(鈴木英夫)「女生きてます 盛り場渡り鳥」(森崎東)「現代人」(渋谷実)「犬猫」(井口奈己)「樋口一葉」(並木鏡太郎)「応援団長の恋」(野村浩将)「與太者と小町娘」(野村浩将)「腰弁頑張れ」(成瀬巳喜男)「生きぬ仲」(成瀬巳喜男)「夜ごとの夢」(成瀬巳喜男)「君と別れて」(成瀬巳喜男)「限りなき舗道」(成瀬巳喜男)「お国と五平」(成瀬巳喜男)「浪人街」(マキノ雅弘)「野良猫ロック 暴走集団71」(藤田敏八)「輪廻」(清水崇)「予言」(鶴田法男)「LOFT」(黒沢清)「石中先生行状記 青春無銭旅行」(中川信夫)「私刑」(中川信夫)「番場の忠太郎」(中川信夫)「思春の泉」(中川信夫)「青ヶ島のこどもたち 女教師の記録」(中川信夫)「涙」(川頭義郎)「姉妹」(家城巳代治) 洋画「ドミノ」(トニー・スコット)「エネミー・オブ・アメリカ」(トニー・スコット)「ホステルイーライ・ロス)「暗黒への転落」(ニコラス・レイ)「キッスで殺せ!」(ロバート・アルドリッチ)「エレファント」(ガス・ヴァン・サント)「誘う女」(ガス・ヴァン・サント)「タイタニックの最期」(ジーン・ネグレスコ)「枯嶺街少年殺人事件」(エドワード・ヤン)「鉄腕ジム」(ラオール・ウォルシュ)「デス・プルーフ・イン・グラインド・ハウス」(クエンティン・タランティーノ)「プラネット・テラー・イン・グラインド・ハウス」(ロバート・ロドリゲス)

2007年11月25日 アイパッチの巨匠の一人、ラオール・ウォルシュの「鉄腕ジム」は素晴らしい。思えばウォルシュという人はグリフィスの「国民の創生」に俳優として出演したキャリアの持ち主なのだから、映画草創期からキャリアを重ねた筋金入りの映画人。「鉄腕ジム」を撮影した42年はすでに監督歴は30年近いわけで、画面全体をコントロールするパワーと熟練ぶりには目を見張るものがある。ことに海上にこしらえたリングでのボクシングシーンはすごかった。警官隊が突入し、大観衆が逃げまどうシーンの躍動感。俯瞰ショットで、画面手前の観衆はぽろぽろと海に飛び込み、リングの向こう側だけでなく、その上にも観客席があって人々がうごめいているのがわかる。しかもこのモブシーンは多くのエキストラを動員した大きな見せ場として強調されることはないのだ。この贅沢ぶり。鉄腕ジムとはジェントルマンジムと渾名されたジェームス・コーベットのことで、元世界ヘビー級チャンピオン。初めて詰め物入りのグローブをはめて試合をした人物でもある。エロール・フリンとその家族が爆笑エピソードを連発してくれる。フリン、なんだか演技がうまいと思わせてくれた。コーベットがチャンピオンの座を勝ち取るのが、ボクシング史の最初に名前の出てくるジョン・L・サリバンだ。今では信じがたいが、当初のボクシングはベアナックル=素手で、しかも75ラウンドのマラソンファイトなんてことも行われていた。そういえばブロンソンの代表作(ボクはこのときのブロンソンが一番好きなんだが)「ストリートファイター」でもベアナックルのラフファイトが描かれていた。サリバンはやっぱりーと思ってしまうが、アイリッシュ系だ(「静かなる男」のウエインはアメリカでボクサーとしてトラブルを起こし、イニスフリーに帰って来ますねえ)。で、サリバンを演じるのがワード・ボンドなのだからたまらない。サリバン対コーベットの実際の試合では老雄サリバンがノックアウト負けを喫し、万余のファンの前で「新王者ジムをみんなで祝福してください」と言って大喝采を浴びたと言われるが、映画ではもっと映画的に感動的に描かれている。しんみり終わらないところもまた素晴らしい。

9月24日 ロバート・ロドリゲス「プラネット・テラー」、通常のハリウッド映画より血糊の量も多めで、サービス精神旺盛な快作。片足がマシンガンになってしまったお姉ちゃんの健気な勇姿を横移動でとらえたシーンに目がうるうるする。いや、それよりもここ数日は鈴木英夫のあまりの素晴らしさに陶然としてしまう。「黒い画集第二話 寒流」。池部良主演のどんどん疎外されてゆく銀行マン。敵役の上司を平田昭彦が好演。上役に女をとられ、地方に左遷され、スキャンダルをネタに上役の失脚をねらうシリアスな過程で、突然挿入される爆笑(と言って差し支えないだろう)もののシーンに鳥肌が立った。「彼奴を逃すな」とこの「寒流」に登場する宮口精二がまた素晴らしい。鈴木監督は俳優の思わぬ魅力を引き出すのがうまい。「危険な英雄」は誘拐事件を追う新聞記者の逸脱ぶり。主演が石原慎太郎というのがつらいのだが、鈴木演出にかかれば余計な心配は不要。「殺人容疑者」は終盤の犯人・丹波哲郎を追う刑事の追跡シーンの緊迫感。鈴木作品を何本か観て、クライマックス・シーンに会話のほとんどない行動描写のシーンが多いことに気がついた。登場人物が歩き回るのだ。「殺人容疑者」ではそれが歩くわ、わ、飛び降りるわで、祭りのように炸裂している。加えてロケ撮影の素晴らしさだ。「社員無頼 怒号篇」「同・反撃篇」、またしても上司に女をとられ、会社をおわれ、復讐を図る会社員の物語。主演は佐原健二。またしても敵役の上司を演じる上原謙がいい。そして、団令子、水野久美はじめ登場する女優陣が全部いいのに感心した。鈴木監督は役者をしごく人でもあるそうだが、成瀬巳喜男がある女優について「彼女どう?」と聞くと、鈴木は「しごいておいた」と答え、成瀬は「ふふふ」と笑っていたそうな。「旅愁の都」は、「暁の合唱」と同じく宝田明、星由里子のコンビもの。サクサクと観てしまう。そうなのだ、鈴木映画は実に滑らかなのだ。もちろんこれは撮影所が稼働した映画全盛時の映画屋さんのレベルの高さでもある。「殉愛」は特攻隊にとられた鶴田浩二と八千草薫の悲恋もの。切ないワルツをパジャマ姿で踊るところからもうだめだった。とめどなく涙が止まらない。ハリウッド全盛時の大メロドラマを観ているようだった。

9月17日 「スキヤキ・ウエスタン・ジャンゴ」は要は三池映画ということでペケ。撃たれてドテッ腹に空く穴ひとつとっても、「ロイ・ビーン」の後は、サム・ライミが「クイック&デッド」で脳天に、ロバート・ロドリゲスが「フロム・ダスク・ティル・ドーン」でタランティーノの手の平に穴を開けているのだから、もう少しひねりがきかせられないものだろうか。銃弾を通さぬ鉄板、跳ね返りのクッションを使った銃撃。どこかで観た光景だし、心ある踏襲になっていない。60年代の日活アクションの方が遙かに荒唐無稽だし、本場というのも妙だがマカロニウエスタンにも及ばず(「真昼の用心棒」でフランコ・ネロの助っ人に現れた兄貴が「旦那方!」と叫び、自分の背後にウイスキーボトルを投げ、まったく振り返らぬまま銃で射抜いてしまう痛快さ!)。その点、「デス・プルーフ」はめちゃめちゃやっているようで、しっかり映画になっている。とうとうタランティーノも映画に雨を降らせるようになったのかと、ちょっと感動(フィルムの擬似キズのことではない)。タランティーノは今回撮影も自分で手掛けているらしいが、これがまた素晴らしい。これまでで一番いいんじゃないか、タランティーノ。鈴木英夫作、あらためて感動。「暁の合唱」「彼奴を逃すな」。「暁の合唱」は戦前の清水宏版で、木暮実千代の役を星由里子、佐分利信の役を宝田明が演じている。星と新珠三千代の腕相撲シーンなども絶品。女優演出の的確さ、赤色の使い方(自動車教習所の車が全部赤いのもちょっと感動)など素晴らしい。うって変わって「彼奴を逃すな」のサスペンス演出、どっぷり堪能。木村功を追いかける謎の男、その間に偶然挟み込まれる坊主、3人が一列に並び歩くシーンなども凄かった。この影、音の使い方! まったくカラーの違う作品でみせる鈴木英夫の監督ぶり、どちらもハイレベルだ。薄っぺらな映像しか撮れない今のテレビ屋は鈴木英夫を観て勉強し直せ。続けて観た中川信夫の「青ヶ島の子供たち 女教師の記録」「若さま侍捕物帖 謎の能面屋敷」も面白かった作品。「青ヶ島」は文部省選定風の作品なのだが、そこは中川、ただじゃ終わらせない。八丈島よりもさらに遠い青ヶ島に住む人々、同じ東京都でありながらまったく違う困窮の生活。断崖絶壁に囲まれた島故に港もなく、とうとう3カ月物資が運ばれず。この作品の終盤には突如スペクタクルシーンがやってくるのだ。

8月20日 中川信夫といえば「東海道四谷怪談」「地獄」といった怪談ものが有名だが、「『粘土のお面』より かあちゃん」の完成度を観ればわかるように、むしろそれは一部の作品群なのであって、怪談映画だけの監督ではない。酒と豆腐をこよなく愛した中川監督にちなみ、「酒豆忌」が毎年命日に開催されているというが、スカパーの好企画もあって盆休みには数本の中川作品を堪能することができた。とくに「思春の泉」は傑作。原作は石坂洋次郎の「草を刈る娘」。東北の農村に草刈りの季節がやってくる。農民たちにとっては年に一度のうれしいイベントでもあって、笑い声に満ちた農民たちの移動シーンに、左幸子のナレーションがかぶり、すでにこの時点で傑作を予感させ、背筋がゾワゾワしてくる。岸輝子と高橋豊子演じる二つの村のばあさんは毎年、この草刈りでそれぞれの村の男女をくっつけるのが恒例で(かみあわせてみっか、というセリフが笑える)、今年のターゲットは左とこの作品がデビューとなる宇津井健なのだ。二人のばあさんは仲が良いながらも、毎年派手な喧嘩をすることでも有名で、若い二人の行き違いから駐在所の東野英治郎に談判するシーンは、東野が仲人を務める結婚式の直前というこあって板挟みとなり、これも爆笑ものの名シーンとなっている。クソをたれるのなんだのと、方言が愉快に活き活きと躍動し、この何とも大らかな印象は、ちょっとルノワールの映画を思い出させもする。はじめから終わりまで、これだけ登場人物たちの爽やかな笑いに満たされた映画があっただろうか。

 このほか「石中先生行状記 青春無銭旅行」(これも傑作!)「番場の忠太郎」(山田五十鈴! 若山富三郎の殺陣!)「私刑」「若き日の啄木 雲は天才である」「雷電」など。音楽はブラジルの創作楽器グループ・ウアクチ、プロジェクト和豪、アラム・ハチャトゥリアン「ガイーヌ」などが面白かった。8月4日 秘かにはまっているのは浜田ブリトニー。漫画家になった渋谷ギャル。こいつらバカじゃねーのって話満載で、身近にいたら腹が立ちそうだが、3人組の彼女らには彼女らなりの一本筋の通った屁理屈があって全然憎めないのがいい。今年の春頃だったか出張先のホテルでたまたま読んだ週刊誌の内容が爆笑もので、捨てなきゃよかったなあと思っていたら、先週のスピリッツにも登場していた。意味不明のギャル専門用語には「とりま」=とりあえずまあ、「たしかし」=たしかに、などと欄外の注釈が入り、今どきのギャルの生態観察というか、何とか動物記のようでもある。が、本人自身にそんな客観性はないようで、野口英世をみて「しょぉとくたいし 千円札の人?」、ペリーをみて「ペルー」などと答えているのが笑える。

8月3日 ビル・エヴァンスを久々に聞き直すとあまりによくて、学生時代以来のはまりぶり。マーク・ジョンソン、ジョー・ラバーベラとのラスト・トリオは素晴らしい。他、ミンガス、ドルフィーの新譜、キップ・ハンラハンの新譜、ガリアーノ新譜など。澤野のミハエル・ナウラもなかなかよかった(ジャケットがクラフトワークみたいだ)。近頃購入するCDはジャズとラテンと現代音楽という感じ。ラテンはブラジル一辺倒で、マリア・クレウーザ、ジョイス、エリス・レジーナ、ガル・コスタ、ナラ・レオンなどなど歌手の宝庫だ。やばいのは現代音楽で、気になる作曲家のものをちょこちょこ購入しているが、メシアンの「トゥーランガリラ交響曲」にすっかりはまってしまう。西洋音楽に溶け込むガムランの色彩、楽器で表現される鳥たちの声…なんなんだこれは、というよりも実に面白い。 中原昌也氏の「エーガ界に捧ぐ」は面白い。この方、臭覚がものすごく発達しているのではないか。ガス・ヴァン・サント、最近立て続けに観ているが、「エレファント」「ジェリー」「誘う女」あたりは素晴らしい。「サイコ」は未だによくわからない。「エレファント」の冒頭、枯葉の中を写真部の学生が写真を撮らせてといって、カップルの撮影をするシーンになぜか深く感動してしまう。足元の覚束なさが紛れもない映画にみえたのかもしれない。と書きつつ、リュック・フェラーリの「CELLULE75」という作品を聴いていて、テープ編集とピアノ、パーカッションのからみが非常に面白い。ビデオテープに残っていた黒澤の「野良犬」を観ていたら、暑さの表現があまりにくどくて最後まで観られず。西宮の「コーナーポケット」のマスターが亡くなる。残念だ。

6月24日 僕は「癒し系」云々といった言葉を音楽や映画に使うのが大嫌いなのだけれど(そもそも人を癒そうと思って演奏するミュージシャンなどいるのだろうか)、ライスレコードから発売されている「ガムラン・ドゥグン」というCDには「インドネシアから届いた、極楽ヒーリング・ミュージック」と宣伝文句があって、これだけで真っ先にエサ箱から除外していた類の作品だった。しかし、何度CDショップを覗いても、「ドゥグン…ドゥグンなんだよなあ」とひっかかる。ドゥグンとは小編成で演奏するガムランミュージック。84年にSOUPレコードからガプーラ(グループ名)の演奏を収録した「ドゥグン・インストルメンタル」という作品が発売され、僕はこの世界の虜になってしまったことがある。いや、今もそうか。僕は無人島になど行くつもりはないから、持っていくレコードなど考えたこともないが、家が火事になったらドゥグンと浅川マキは持ち出すかな、とは考えたことがある。いわゆるガムランミュージックはあの深淵なゴングの響きに代表される非常に格調高い宮廷ガムランの世界もあるし、異常に早いテンポでエネルギッシュに演奏するバリ島のガムランなど様々ある。ドゥグンは中部ジャワの宮廷音楽とし1年代にまで遡る非常に古い歴史を持っているが、インドネシア独立後は伝統を引き継ぎつつも庶民的な音楽として発展した経緯があるようだ。ドゥグンの楽器編成はドゥグンと呼ばれる木の枠に吊したゴングセット、サロンと呼ばれる鉄琴類、両面太鼓クンダン、そしてスリンという竹の縦笛が用いられ、非常に親しみやすい。「あっちの鶏」「物乞い」「しょうがの花」「蒸しだんご」なんて曲名が並んでいる。このスリンが可憐で素朴なメロディをあてどもなく奏で、ポコポコとした打楽器音、音階音に調律されたゴングの音などがそれに付き添い、そして大きなゴングが16,32拍目の節目でゴーンとなって全体を引き締める。しかも大きなゴングの鳴る際は打楽器類の音が統一され、ゆらゆらしつつも整合性があって独特の世界を醸し出している。音階は沖縄風の5音音階。沖縄音楽も好きな人間にとってはたまらない音楽かもしれない。4拍子を基本にぐるぐる螺旋階段を昇っていくような、エンドレスの反復性にクラクラと陶酔してしまう。大編成ガムランの格調高さではなく庶民的小編成で奏でる分、生活感もあって心に深く刺さり込んでくる。何なのだろう、これは。ヒーリング? まさか。そういえばジョグジャカルタ鴻Xメi安宿)に泊まった際、楽器をもった老婆が一件一件裏庭のドアをノックし、宿泊者に唄を披露した。5音音階の古い民謡風。何だか知らないが泣けた。演奏料は日本円で100円で十分だった。意味は全然わからないが、これが歌なんだと思った…。で、結局、思い切ってライスレコードの「ガムラン・ドゥグン」を購入したわけだが、なんだやはりあのドゥグンの世界じゃないか。ライナーにはSOUPの「ドゥグン・インストルメンタル」に衝撃を受けた、なんて日本人のコメントが載っていたりして。ヒーリングなんて書かなければ、もっと早く聴いていたのになぁ、サイコーだよこれ。

 昨年札幌に来たジム・オルークは当日の演奏もそうだったようにより即興性の高い方向に行ってしまったのだなあ。今日本在住らしいが、今のところの新譜、恐山の「ミミドコデスカ」を聴いて。個人的には「ユリイカ」から「ハーフウェイ・トゥ・ア・スリーウェイ」「インシグニフィカンス」の流れ、あるいはガスター・デル・ソルの頃がポップで切なくて好きだった。即興といえばデレク・ベイリー、一昨年亡くなったが、晩年の顔の素晴らしいこと。「トゥ・プレイ」だ。ここでデヴィッド・シルヴィアンの名前も久しぶりに聞いた。プロデューサーになっている。そうか、JAPANとベイリーはつながるのか。ユゼフ・ラティーフの「イースタン・サウンズ」、ジャ・ジャンクーの音楽を担当した半野喜弘「トゥモローズ・クエスト」も最近面白かった一枚。

6月3日 「300」、300人対100万人の対決を楽しみにしていたのだが、狭い地形に誘い込んで戦いに持ち込む戦法はしょうがないにしても、スローモーションとCG多用の肉弾戦にイマイチ、多勢に無勢感が出ず。「ドーン・オブ・ザ・デッド」のザック・スナイダー、楽しみにしていたのだが。4人でマパッチの軍隊に挑む「ワイルドバンチ」は偉大だ。しかし、あそこでスローモーションが有名になってしまったわけで、ぺキンパーの功罪といえるだろうか。やはり映画は滅多なことでスローモーションを使ってはいけない。アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥの「バベル」は傑作だと思うが、日本編だけがどうもだめだった。役所さんの比重が軽すぎるし菊地凛子がまるでいいと思えない。それとも自分が日本人だからだろうか。最近はよくカエターノ・ヴェローゾを聴く。レコード屋時代、ジャズ専門フロアながらワールドミュージック系はこっちの担当だったので、国内盤ではスープ、ボンバレーベルはもちろん、輸入物もけっこうあってかなり聴かせてもらっていた。さすがにブラジル物ではショーターと共演したミルトン・ナシメントやジャヴァンは人気があるのだが、ぶっとんだのはヴェローゾ。ちょうど「フェリ・ラーダ」の頃だ。MPBの中でもとりわけとんがっている人で、しかも決してスノッブではなくドスが利いている。「リーブロ」も傑作だが、85年のニューヨーク録音「カエターノ・ヴェローゾ」の場合は極めてシンプルに作られていて、仕掛けをはいだヴェローゾのほうがドスが利いているとは。ドスドスといって、決してこわい音楽なのではなく、どこまでも美しく心地よいのだが。後に何度もレコーディングする「地球(テーハ)」などとくに。菊地成孔は「妖術の秘密の基が全面にさらされた重要作」と語っているが、ギターのポイントがかなり高い。菊地といえば、この人がえらいと思うのはジャズと並列に他のジャンルの音楽を聴いていること(ピグミー族の音楽がすごいことを教えてもらったのは今年の大発見)。ジャズというスタンスからエスニックなものを取り込んだり、評価したりという立場ではない。実は最近もある方とブラジル物の話をしていて、その方の場合はジャズの変換装置を通したブラジル物はよく、本場物はペケだという。困っちゃったなあ。まあ、やるのならキップ・ハンラハンくらいやってくれれば、相当面白いのだけれど。だから僕はアストラッド・ジルベルトはまったく聴けない。そういえば菊地氏、ジョビンの隠れた名曲「ルイーザ」をUAと共に録音しているが、これは本人の歌唱力はともかくとして良かった。ジョビン本人は「あれはフランス」と語っているらしいが、ちょっとフランシス・レイ風だったりして。話がごちゃごちゃになってきた。レコード屋時代の話に戻ると、サンバには明るく踊れるものばかりではなく、泣けるサンバがあることも発見だった。例えばベッチ・カルヴァーリョの「大自然に泣く」。それからスープの「大衆音楽の真実2」に収録されているネルソン・カバキーニョ。後者は手放ししてしまって、ときどき思い出したように探すが見つからず。札幌の某レコード店の方は、あれに2は存在しないと豪語していたが。フン!

5月20日 今回の「映画芸術」は追悼特集として森安建雄を取り上げている。細野辰興のリードにある通り、一般の読者はまず知らない名前だろう。なぜなら助監督として活躍はしたものの、映画監督作品は一本もないからだ。僕自身も名前を聞いてピンと来るものがない(特集を読み進むにつれ、僕は確実にこの人とお会いしていたことを思い出すのだが…)。対談でゴジさん(長谷川和彦)自身が語っているように、「画期的ではあるけど、普通ありえない」特集なのだ。結果的に、なぜ特集を組むのか、その明快な回答が得られぬままに編集を終えてしまった印象は残るが、語っても語りきれない程に人間的魅力を持つ人物であったことは痛い程に伝わってくる。

 森安さんは今村昌平のプロダクションに入り、映画人としての人生をスタートさせた。テレビドキュメンタリーのほか、「復讐するは我にあり」「ええじゃないか」についている。今村は横浜放送映画専門学院(現・日本映画学校)の理事長を務め、順調にスタートを切ったものの、2年目に経理ミスから今村プロは倒産状態に陥った。今村プロの経営を任された森安さんは中古のトラックを購入し、瀬戸市で不合格品の陶器を仕入れ、新宿や渋谷でテキ屋をしてまで経営を支えようとしたのだという。今村プロにいた武重邦夫氏は今村昌平という人物について語っている。「付き合った人は何故か彼のために尽くしたいと思うようになる」人ではあるが、その一方で「助手になるや彼の私生活に組み込まれ、凄い重圧をかけられ身動きも自由に出来なくなる。それは今村流の鍛え方なのだが、助手たちは間違いなく人格を破壊され、彼の意思に逆らえない人間に育てられる」。森安さんは「ええじゃないか」の撮影でその二重苦を体験し、失踪事件を起こす。

 ゴジさんと森安さんの出会いは「青春の殺人者」の調査段階だった。今村昌平が「青春の殺人者」のプロデューサーだったことが接点となったわけだが、森安さんは同作品の現場には入れなかったものの、「復讐するは我にあり」終了後「太陽を盗んだ男」の現場に滑り込みで入り助監督を務めた。ゴジさん曰く、「ヤスは年上、年下に関わらず、人にかわいいと思わせる能力に長けた奴だった。偏愛されがちな変な奴だったよ」。同じく森安さんがかわいい今村昌平は懸命に戻るよう連絡を取り続けるが、ある日、森安さんは父親に付き添ってもらい、辞表をもって今村に挨拶しに行ったのだという。以後、「セーラー服と機関銃」「ションベンライダー」などの相米慎二作品につき、ディレクターズカンパニー結成後も多くの作品で助監督を務めた。「光る女」の際は初めての映画出演の緊張感を少しでもほぐそうと、武藤敬司とMonday満ちるを三鷹にある森安さんの実家に住まわせ、何かと世話を続けた。撮影中、この3人は常に一緒に行動していたので、現場では「3馬鹿トリオ」と呼ばれていたとMondayさんは懐かしそうに振り返っている。映画には異様に出たがる人でもあり、「太陽を盗んだ男」のプルトニウム強奪シーンで炎放射器で火だるまになるガードマン、池上季美子のDJに「私モロッコに行きたい」というオカマの声、黒沢清の「地獄の警備員」の会社員、最近では「自殺サークル」のコーモリの父、「ゲロッパ」の冒頭のヤクザなど。

    92年にディレクターズカンパニーは解散。この時期、「ジョゼと虎と魚たち」(後に犬童が映画化)「笑う出産」の映画化に奔走するが実現することはなかった。長い助監督生活の中で、初めて自ら監督したいと述べていた作品だった。ゴジさんはこの頃、細野辰興が撮った「しのいだれ」を新宿に観に行き、偶然森安さんに会っている。順調に動けていない森安さんの境遇は理解していたものの、飲みに誘うこともなく何となく別れてしまったことを未だに悔いていると話す。「ヤスにしてみれば後輩のお前(細野)のほうがしっかり映画を撮っているという想いがあったんだろうな。あのとき細野のバカぐらいのことを一緒に言ってやればよかったんだが。元気がないときは本当に元気がない奴だったよな」。

 ゴジさんの話からは森安さんへの思いの深さが伝わってくる。同じ今村プロのもとで修業した森安さんは、自分たちのところへ家出をしてきたのだという話。―俺の場合は自力でぐれて脱出した。でもあいつは家出しただけだった。イマヘイに牙を剥かなかった。ヤスは逃げ歩いたんだよ。イマヘイから逃げた。そして俺からも逃げた。でも俺も相米もヤスを追いはしなかった。俺も相米も愛が足らなかった。俺なんか振り向いたら誰もいないでヤスだけがいたんだ。感謝と愛はあまるほどあるが、ヤスがなりたかった監督にしてやらなかったんだから、イマヘイより俺のほうが罪が重いよ。 ゴジさんは相米慎二と同い年である森安さんを20代から知っている。その二人が共にもうこの世にない。相米慎二についてはどんな悪口を言ってもいいのだ、好きなことをやって評価されたのだから、という。しかし、相米とは真逆のヤスについての特集は、綺麗にいうだけの特集は嫌だし、「ヤスさんは負け組で不幸に死んだと決めているのが不愉快」と述べたあるプロデューサーの言葉も引用し、特集の意義について追求する。ゴジさん、細野、荒井晴彦の三者による対談は着地点を見出せないまま重いものになっている。

    森安さんは糖尿病の合併症なのだろうか、04年に失明。その年、転落事故で大腿骨を骨折し、入院。翌年には糖尿病が悪化し、また人工透析で通院するようになった。昨年5月30日、今村昌平が死去。通夜に「森安はよれよれの身体を支えながら祭壇の前で手を合わせていた。とてもじゃないが、正視出来ない有様だった。師匠の葬儀なのに、僕は森安の姿に涙していた」と武重氏。その際、車椅子姿の森安さんは武重氏にやせ細った腕を差し出し、かすれた小さな声で「ごめんなさい…」と言ったという。今村プロを離れて25年間、森安は「ごめんなさい」という言葉を抱えて生きていたのだろうか。なんて気の弱い誠実な心優しい男なんだと心痛かった。そう武重氏は述懐する。9月2日、糖尿病と原因不明の腹水からくる痛みで入院。10月1日、心不全のため死去。今村昌平が亡くなって4カ月後のことだ。享年59歳。

    特集を読み進むにつれ、僕は森安さんにお会いしたことがあるのを思い出した。お祭り好きの森安さんはよく仲間内の遊びの行事を企画しており、当時まだ助監督だった佐々木浩久に誘われ、90年頃だったと思うが伊豆半島の今井浜の海水浴に行ったのだ。そのときの幹事が森安さんだった。あれはまさに祭りだった。行きは佐々木、「爆・BACK」の森永憲彦らと新宿で待ち合わせ、踊り子号で映画タイトルのしりとりなどをしながら伊豆半島へ。めざす旅館に到着すると映画屋さんばかり4、50人はいる。宴会の席上でそれぞれ自己紹介を行い、僕は週刊誌の記者をしていたので、早速「宝石」という渾名をつけられ、宝石、宝石と呼ばれるはめになる。 夜、大部屋に一同が集まりウインクゲームが始まる。やったことのある方ならわかるだろうが、異常に面白い。基本的には鬼を秘かに決め、鬼は円座になった中で誰にも気づかれぬよう視線があった人間にウインクをする。ウインクをされた人間はその場で瞬殺される。が、ウインクをみやぶった人間は告訴とかなんとかいって、当たっていれば鬼の負けとなる。ここに相手の名前を覚えなければいけないなどと細かいルールが加わっている気がするが忘れてしまった。すごいのは罰ゲームで、何重にも巻いた棒状の新聞紙で脳天を思い切り殴るのだ。相手が女性であろうと、誰一人手加減して殴っている者はいない。打たれた人間は必ず足をバタバタさせてのたうち回り、数人は翌日もたんこぶが残っていた。あまりに盛り上がるので、途中、旅館の方が他のお客さんの迷惑になりますからと、注意しにくる。その度にゴジさんはしーっと声をひそめるそぶりをするのだが、また、あっという間に盛り上がってしまう。再び旅館の方が来るが、また同じ繰り返し。しまいには旅館も諦めたのではなかったか。このようなゲームをすると、才能を発揮する者が必ずいるものだが、この夜は僕がそうだった。唯一頭を殴られなかったのだ。耕史さんがやたらとそのことを根にもってというか面白がっていた。

    翌日は海水浴を楽しんだ後、さすが映画屋さんたちだなあと思ったのは、助監督連中が集まってあっという間にながしそうめんの台をそこらの材木などを使って作ってしまったこと。味のほうは忘れてしまった。「爆・BACK、最高ですよ」と語っていた毛利という助監督は黒沢清の助監督を務めた毛利だろうか。桑田の「稲村ジェーン」の現場に入っていた助監督はあの現場はスタッフと監督が完全に分裂し最低の状態だったなどと話している。海水浴最後のイベントはソフトボール対戦。ゴジさんがピッチャーのチームでライトを守る。相手チームにやたらと飛ばす左バッターがいて、彼が打席に入ると「宝石、バック!」とポジションの移動を命じられる。もっとバックと言われ、さらに下がるとそこは海なのだが、本当にそこまで飛ばすから恐れ入る。結果、こっちのチームが負け、対戦に負けたチームは壁に向かって一列に並ばされる。何事が起こるのかと思って振り返ると、砂浜にサッカーボールが数個置かれている。勝者が敗者を的にシュートを決めるわけだ。当然、標的にされたのは昨夜一度も新聞紙で殴られることのなかった僕だった。だが、幸運はまだ続いており、自分のほうにまとまって飛んできたボールは腕をかた程度。翌年の海水浴に僕は参加できなかったのだが、佐々木の話では「えっ宝石来てないの」と榎戸さんが残念がっていたという。一年後に仕返しをしようとは榎戸さんも相当執念深い。 こうしてあっという間に海水浴のイベントは終了したわけだが、この一切を実質的に取り仕切っていたのが森安さんだったのだ。ゴジさんは「ああいうことは異常に頑張る奴だったよな。やつの熱情と努力がなければあんなに人は集まらないんだよ。あいつモブシーン、エキストラがたくさん出るシーンが本当に好きだったよな」と振り返っている。確かに、あれだけの人数の大宴会を取り仕切るのは並のことではなかったはずだ。楽しさの裏側に森安さんの情熱があったことを今さらながら、ありがたく思う。僕にとっては森安さんと遭遇した、わずか二日間の出来事であったが、人間的魅力と有能な映画屋さんの一面を甲斐間見ることができた気がしている。ソフトボールのとき、最終回に僕はランナーで出塁し、サードベースに滑り込んだ際、腕を少し痛めた。軽症だったし、誰にも痛めたようには見えなかったはずだが、「あ、宝石が腕痛めてる。大丈夫?」と言ってすぐに駆け寄ってくれたのが他ならぬ森安さんだった。森安建雄という名前を聞いて、ピンと来なかった僕は馬鹿だ。ごめんなさい。そして、ありがとうございました、森安さん。

5月6日 昨年は仕事が落ち着かずどこにも道外旅行はできなかったが、連休、初めて広島に行ってきた。広島といえば、地元の方は嫌がるだろうが、どうしても僕の頭の中では、チャララーチャララー、ズンズンズンズン…と津島利章の例の名曲が浮かんでくる。まあ映画の撮影は東撮及び京都市内なのだから、繁華街を歩いてもその名残りを発見することはできないのだけれど。それにしても連休の上、地元では60万という人が集うフラワーフェスティバルを開催中ということもあって、どこに行っても人で溢れかえり、ゆったりと市内見物というわけには行かなかった。日暮れ時に歩いて行った原爆ドームは負の象徴でありつつも、ライトアップされた美しさに思わず息を飲む。平和記念公園では被爆を生き残ったピアノで、北海道出身の木原健太郎氏が演奏していた。平和記念公園には野良猫の親子が住みついていて、翌日も行くが発見できず。夜は広島市内のサテンドールへ。札幌のとあるピアニスト、ギタリストに会ったらよろしく言っておいてくださいと言われる。広島もいわゆるジャズ喫茶はほとんど残っていなく、ライブ中心になっている。かなり酔っていたようで、宿泊先のホテルの場所がわからなくなり、なぜかラー屋でラーメンを一杯食べてからお店の人に尋ね、親切にも通りまで出て教えてもらったことを、翌日ラーメン屋の前を通りかかって思い出す。今回は取材も絡まないのですっかり観光気分。二日目は宮島。さすが世界遺産というだけあって、これまた人の山。JR宮島口から船が2系統出ているが、祭日だけに両便とも10分置きのフル稼働。いずれの便もデッキにびっしりと人が立ち並び、どっさりと人を運ぶ様が何やら異様だった。それでも満潮時の大鳥居は美しいし、厳島神社は北海道では味わうことのできない歴史を感じさせる建造物だ。中年夫婦らしき人が二人とも肩に年寄りのデブ猫を乗せていた。猫ってあんな風に旅行に連れて行けるものなのか。船にも乗せられるのか。気になる。あなご飯、見た目以上に上品な味。夜は広島名物お好み焼き。広島風はキャベツの千切り、豚肉、そば、卵が入っているのが基本。始めにパック入りのマヨネーズをポンと置かれたのに違和感を感じたが、混ぜたほうがうまい。好まれるのはわかったが、でもあまり燃えなかったなあ。 三日目は呉へ。どうも発想がチャララー、なのだよなあ。「極道になるゆうたらですよ、生みの親は捨てにゃいけんのですけん」「こんなもここらで男をあげんと、もう舞台は回ってこんど!」。呉に向かう車中で、やたらと映画のセリフが頭に浮かんでくる。映画は恥ずかしかったけれど、大和ミュージアムの10分の1大和は壮観。潜水艦イロハにまつわる展示や(池部良の「メインタンクブロー!」のセリフが頭をよぎる)や回天の実物など、太平洋戦争の記憶が呉という町の有り様を物語っている。しかし、如何せん人が多すぎ。とてもゆっくりと見学できる状態ではないのが残念だった。広島市内に戻り、ジャズクラブBirdへ。岩国出身のマスターは一番になれないのならとプレイヤーを断念し、ジャズ喫茶、レコード店、プロモーター的活動など、ジャズ的環境全般に関わってきた人。昨年オープンしたばかりの今のお店はライブ環境も整え、ピアノ、ドラムス等の他、最新型のハモンドオルガンまで置いている。音の調整もこなせる。広島ジャズの中核的存在になれる方だと思うが、岩国での活動が長かったために前面に出るには難しい一面もあるようだ。ミュージシャン、観客ともにジャズのレベルを高めるにはまだまだい現状があると嘆いていた。ジャズ初心者がライブ中心に走ると、演奏者のレベルにその耳を委ねることになるわけで、レコード、CDで耳を鍛えようとしない聴き方は限界を生みやすい。実際、訪問中にも、若い女性から「今日はライブありますか」と電話がかかってきて、ないと答えるとぶつっと電話が切れてしまう。今、「これがジャズじゃ」ってレコードがかかっているのにね、と。マスター、偶然にも昨年は北海道旅行をしたそうだ。某店で聴いた演奏者、あまりにひどくがっくりして帰ってきたと話す。店の奥のちょっとしたスペースで、レコードとCDも販売しており、フレディ・レッドとホッド・オブライエンを購入。そういえば昨年はBirdにスティーブ・キューンとカーリン・クローグが出演したそうだ。おお、それはすごい!満席ですかと聴くと、ぱらぱらという程度だったそう。ギャラをめぐる話だの、何やらかにやら聴く。最終日の夜は海鮮料理店でちょっと奮発。おこぜの唐揚げ、地穴子の白焼き、日の浦小芋のあげまんじゅうに、地元の賀茂鶴大吟醸。地穴子の白焼き、わさび醤油で食べるのが抜群にうまかった。

4月30日 成瀬巳喜男はいったん始めるとやめられなくなる。今日は「腰弁頑張れ」「生さぬ仲」「君と別れて」「夜ごとの夢」「限りなき舗道」のサイレント5本立て。これで成瀬監督作品89本中64、5本ほど観られたことになるだろうか。10数年前は観られない作品が多かったのに有りがたいことだ。それにしても成瀬はサイレント時代から才能を存分に発揮している。単純に面白い。セリフなどほとんどいらないのだ。「腰弁頑張れ」「生さぬ仲」「夜ごとの夢」「限りなき舗道」「君と行く路」「娘・妻・母」「女の座」「女の歴史」「ひき逃げ」「乱れ雲」で共通して描かれるものは交通事故だ。突発的な事故は突然の人物の不在、あり得ない出会いを生み、人物、物語を動かす装置となる。サイレント期からこれほど徹底して突発事故を描いてきたことに今日驚いたが、遺作となった「乱れ雲」終盤のほとんどサイレント映画といっていいほどセリフのない、あの見事な事故シーンの演出を思い出す。交通事故だけ切り取っても、成瀬はここまで到達したのかと感慨深かった。

4月29日 井口奈己監督の「犬猫」をようやく観る。素晴らしい。性格が犬と猫のように違うが、何故か同じ男性を好きになり、常に微妙な関係の二人の女性の共同生活。このゆらゆらとした感覚は、段取り的演出とは正反対でツルツルと蕎麦を食べるように身体に入り込んでくる。つい、食べ物のことを書いてしまったが、この作品には常に食べる物が登場する。カレーライス、スパゲティ、ポテトチップス、手作りケーキ、etc。脚本家の小川智子氏が「犬猫」のサイトで、そのことにふれながら、新宿駅でみかけた井口氏があまりにもおいそうにアイスクリームを食べていたので声をかけられなかった、という話を書いていて笑ってしまった。井口氏は黒沢清の「地獄の警備員」の制作現場にいたのか。現在、永作博美主演の「人のセックスを笑うな」を制作中ということで、楽しみだ。本日は「犬猫」のほか映画3本。並木鏡太郎の「樋口一葉」、野村浩将の「応援団長の恋」「譽太者と小町娘」。「譽太者~」はサイレント期の作品で、太田和彦氏が和製マルクスブラザースと書いていたが、三井弘次をはじめとする3人組がばっちりとキマっている。素晴らしいのは「樋口一葉」の山田五十鈴。山田、山田、五十鈴、五十鈴。ひみとれていた。昨日観た渋谷実の「現代人」のマダムも凄みがあった。やはり日本最高の女優である。

4月22日 ロバート・アルドリッチ、「キッスで殺せ!」。暗闇に突如裸体にトレンチコートを身にまとった女性が現れる、その鮮烈なイメージ。映画だ映画だ。「レポマン」でリメイクしたアレックス・コックスもえらい。嫌な予感がして観るのをずうっと渋っていた「スウィングガールズ」、筋のためのベタな演出、段取り丸見えで観ているのが辛くなる。やっぱり。「寝ずの晩」。第一印象、キャメラが近い。マキノが遠のく。菊地成孔の「聴き飽きない人々」、爆笑しながら読んでしまう。ジャズ編で、村井、沼田の両氏が菊地氏の前でたじたじだったのも興味深い。影響されてビョークの「デビュー」入手。菊地氏によるとビョークはこれ一枚でいいらしい。アンドレア・サバティーノは全然手に入らないぞ。今月は中古本、中古CDめぐりをときどき。新品だがビクターの廉価版CDでタド・ダメロンの「フォンテーヌブロー」が出てるではないか。昨年、東京の某ジャズ喫茶で、マスター不在のため、ママさんに探しに探してもらって聴かせてもらった一枚。ダメロンのアレンジが好きだ。決してうまいとは言えないピアノも大好きだ。「メイティング・コール」もコルトレーンより、ダメロン聴きたさに聴いてしまう。誰の作ったかド忘れしてしまったが、ビリー・ストレイホーンの作品集が出ていた。買おうと思ったけれど「フラワー・イズ・ア・ラブサムシング」が入っていないのでやめてしまった。僕はストレイホーンであの曲が一番好きだ。弘前のスガのマスターに「暗いのが好きなんだ」と言われた曲。ダラー・ブランドも演奏していたが、盛り上がらない曲想のせいか、あまり演奏してくれる人がいない。絶品なのに。札幌に演奏してくれるピアニストはいないものだろうか。カサンドラ・ウィルソン、もっていないアルバムもぱらぱらと入手。ザ・バンドの「ザ・ウェイト」、カサンドラが歌っても素晴らしい。プラグドニッケルのマイルス、すごい。昔レコードで持っていたヴァン・ダイク・パークスの「ソング・サイクル」再入手。やはりいいな、これ。レコードで持っていれば、さぞ高値になっていたであろう。東京在住時代、新宿厚生年金ホールでコンサートを観たことがある。パークス&ディスカバー・アメリカ・オーケストラ。細野晴臣が特別出演していた。僕は変態なのでメレディス・モンクも入手。しかし馬鹿なので「タートル・ドリームス」かと思ったら「ドルメン・ミュージック」だった。ま、どっちでもいいんだけど。YM好セったわりに、聴いたことがなかった「テクノドン」も入手。YMOは全部いいね。ブックオフのCDは値段ばかり高くてろくなものがないと思っていたが、たまには掘り出し物があるものだ。入手できたのはエルフィ・スカエシの日本人プロデュース作。とにかくダンドゥットはサイコーなんだ!エルフィはダンドゥットの女王なんだ!歌詞なんて日本の演歌なんだ。でも腰くねくねのダンス・ミュージックでもあったりするんだ。「やかましい!でも最高!」なんて曲もあったりして。サイコーに艶っぽい声で歌われるアジアの大陸歌謡。「パチャラン」どっかで再発しないかねえ。大好きな漫画家、山松ゆうきちの初期作品集も入手。三上寛の曲を全編に盛り込んだ短編があったのに驚いた。「酒男」と書いて「のみすけ」と読むタイトル。飲んではきちがいになり、決して更正することはできない男の物語。山松の作品には負け犬しか登場しない。

4月8日 ワイズ出版刊、澤井信一郎と鈴木一誌の「映画の呼吸 澤井信一郎の映画作法」は久々に読み応えのある映画書。「映画はセリフだ!」 マキノさんの助監督時代の澤田発言、マキノマジックの種明かしをするようで、読んでいるだけで聴き惚れる。阿部和重と中原昌也の対談「シネマの記憶喪失」で中原氏が絶賛するイーライ・ロスの「ホステル」、かなり面白かった。なるほど「ポーキーズ」から「マラソンマン」になるという展開、観て納得する。本日、後半は終日ジャズ漬け。バド・パウエルの「ポートレイト・オブ・セロニアス」にしびれ、トニー・フルセラにしびれ、アーネスティン・アンダーソンの「モーニン・ロウ」にしびれ、デビッド・マレイの「ラバーズ」にしびれ、ジョン・サーマンの「サイモン・サイモンの不思議な旅」にしびれ、ドン・エリスの「ライブ・イン3  2/3/4タイム」にしびれ…。それにしてもクリフォード・ジョーダンの「イン・ザ・ワールド」、よくCDになったものだ。中古店では完璧にみかけたことがなかった。まあ、出回ったとしても、とても手が出るような値段ではなかっただろうが。ストラタ・イーストは「グラス・ビード・ゲームス」まではレコードが再発になっていたものこれは快挙。「ヴィエナ」は泣ける。ミシェル・カミロの「スペイン・アゲイン」でピアソラの曲を取り上げているが、悪くはないものの聴く度に本家のピアソラが聴きたくなる。で、実際ピアソラを聴くと、やっぱりこっちのほうが断然すごい。演奏の合間に入る奇妙な金属音のサウンド、どうやって出しているのかわからないが、「チッチキチー」ではなく「チキチキチー」ってやつ、これがめちゃくちゃかっこいいのだ。

3月31日 今、宮崎県といって真っ先に連想するのは鳥インフルエンザでもあの貧相な知事の顔でもなく、東村アキコの『ひまわりっ』なのだ。週刊モーニング連載中のこの漫画には「健一レジェンド」というサブタイトルがついており、とある会社のコールセンターに勤める主人公のOLと、同じ会社のお客様サービス課にいる父親を主軸に、主人公以外はほとんどまっとうな人物が登場しないというギャグ漫画になっている。最も強烈なキャラクターなのはサブタイトルが示す父親で、小柄、童顔の超甘党、他人の言うことにはまったく耳を貸さず、自分の言いたいことだけを的はずれの英語を交えてしゃべりまくる。また、他人のまったく予期せぬ発言に突然ぶちぎれたり、腹を抱えて笑い出したりしてしまうのだが、それも瞬間のことで、まるで動物のようにさっきまでの自分の態度は忘れてしまい、とにかく周囲を、というよりも唯一まっとうな娘を翻弄しつくすのだ。会社の朝礼では上司が一言お願いしますとバトンタッチすると、すかさず「ハイ了解」と言って「本日いよいよ私の娘の傑作漫画が掲載されておる別冊ザボンが発売されますので、欲しい人は私に言ってくれればそこの田中書店で買うてきますので」と仕事とはたく関係のないことを堂々と述べ始める。漫画家を秘かに目指す娘の投稿作品が掲載されたからなのだが、シャボンをザボンと言い間違えている。おまけに漫画の内容が娘の失恋のエピソードが元ネタになっていると勘違いな判断をすると、緊急ミーティングと言って即座に社員を集め、「誠に手前勝手なアイウォンチューだということは重々承知しておりますが、絶対に買わないください」とやらかす。しかもよく状況が飲み込めていない社員たちはパチパチと拍手で返し、漫画のコマの隅には「なんかようわからんけど、とりあえず手ぇたたいとけばいいがー」という宮崎県人特有の集団心理であることが示される。実は「健一2号」と呼ばれるもう一人の登場人物をはじめとして傑作キャラのオンパレードで、僕自身とくに気に入っているのは、主人公アキコの漫画書きの手伝いをする、常に口に歯ブラシをつっこんだままの就職浪人の女性。この女性の話言葉は「○○ゆえー」「○○ナリ」「○○の件について」というパターンしかない。「下級生どもが生意気にもコスプレやりたくないなどとぬかしたゆえー、こちらから願い下げてやった件についてー」などと常に返答し、感情が激した場合は必ず「ぬおー」と言うことになト驕B この作品は本人の自伝的作品で、驚くことに父親や会社のエピソードはほとんど実話だという。現在モーニング誌上で絶好調の展開をしている真っ最中なのだが、不思議なことに札幌市内の書店にはほとんど置いていないのが残念だ。もとより品薄なのか、ネット上でもほとんど手に入れることが難しいらしい。市内中心部では唯一紀伊国屋書店に既刊3冊中第1巻と3卷のみ置いていた。紀伊国屋書店は担当者の気が利いていて、ポップには登場人物と共に「この漫画がなぜか全国の書店員には人気のある件についてー!」と書き込まれていた。

3月10日 黒澤明という人は決して悪い監督ではないだろうが、国内国外の評価はあまりに持ち上げ過ぎなのであり、映画史を顧みるうえではどうにもバランスを欠いているとしか言いようがないと思うのだ。1910年生まれの黒澤は、山中貞雄よりも一つ年下、マキノ雅弘よりも二つ年下という世代に属するわけだが、今更言うまでもなく、黒澤に決定的に欠けているものはサイレント映画の経験である。マキノ省三言うところの「1スジ 2ヌケ 3動作」の3番目にあたる、実は最も重要な映画的な要素の部分が、黒澤映画を再見する度に疑問符として残り、マキノ、山中、小津、成瀬などの名前をあげるまでもなく、もっと優れた映画監督はたくさんおりますねと、言いたくてしようがなくなってくる。 そんなことを今更思ったのも知人が「黒澤VS.ハリウッド」を貸してくれたからなのだけれど、この本を読むとちょっとこの人は…と思える箇所がいくつかあって、おそらく著者の意図とは裏腹であろう監督像というものが見え隠れしている。同書は「トラ・トラ・トラ!」の監督降板をめぐる謎を新資料から読み解くという内容で、僕が決定的にこの人は…と思ってしまったのは、米国側の監督を務めるリチャード・フライシャーへの黒澤の評価である。プロデューサーのエルモ・ウィリアムズから共同監督がフライシャーであることを聞いた途端、黒澤は激しい拒否感を示したという。黒澤自身、フライシャーの映画は「ミクロの決死圏」一本しか観ていなく、人間がミクロ化し、体内に潜入するシーンに体中がムズムズして気持ちが悪くなったという程黒澤にとってはだめな映画だったという。以後、共同監督としてのフライシャーに「ミクロ野郎」とニックネームをつけ、忌み嫌っていたと伝えられる。後に舛田利雄と共に「トラ・トラ・トラ!」のピンチヒッターを務めた深作欣二は「映画監督 深作欣二」で「ミクロの決死圏」について「洒落ててシャープな映画だった」と述べており、深作さんの方が話が分かるじゃないもっとも深作自身、「トラ・トラ・トラ!」のフライシャー演出は評価していない。制作の過程で黒澤、フライシャーを交えてのハワイ会談が企画されたものの、黒澤は台本が完成していないことを理由に、フライシャーとの面会を拒絶。「フライシャーでは相手にならない、もっと格が上の監督に代えろ」とプロデューサーに更迭を要求している。これにはさすがのエルモも「更迭など論外。少なくともフライシャーには礼を尽くせ」と反発。その甲斐あって一度だけ両者が顔を合わせることになった食事会では、黒澤は話し合いの内容に対して上の空だったというが、フライシャーが次々と出される料理にケチャップをたっぷりかけるのを見て、「ケチャップ野郎」というニックネームを付け加えることになった。  では、黒澤言うところの一流監督とは誰だろうか。フォックスとの契約段階で黒澤プロダクションは劇場公開用プリントにおける監督クレジットについて、客観的な評価としてクロサワよりも格上の監督でない限り、クロサワの名前を優先すべきだとの要望を提出している。その際、格上監督の例としてあがった名前がすごい。フレッド・ジンネマン(当初黒澤自身が共同監督に希望。エルモは「真昼の決闘」にも関わっている)、ロバート・ワイズ、ウィリアム・ワイラー、ジョン・スタージェス。今、客観的に振り返り、これが本当に「一流」で「格上」の監督と言えるのだろうか。なぜ、ロバート・アルドリッチやドン・シーゲルの名前があがらないのか。が、黒澤作品を観るとき、それもわかるような気がする。それらの名前は客観的にどっこいどっこい。これが黒澤の限界だったのかという気さえしてくる。しかし、世間の客観的評価というものは、黒澤自身の評価が高いように、黒澤が一流として名を挙げた監督たちの評価が高かったのだろう。これにはやはり異議を唱えたい。「トラ・トラ・トラ!」の制作で、原寸大の空母の建設を要求し、結果自滅の原因となる素人俳優を起用し、撮影外の時点でも実際の軍人であるを要求し、部屋の壁の色が違うと何度も塗り返しを命じ云々といった映画作りの精神と、予算と時間もない中で創意工夫し自由闊達に映画を撮っていったマキノの精神は、両極にあるものだろうが、そのどちらが映画的であったか。その答えは残された作品にあるだろう。 さて、今、世界でクロサワと言ったとき、名前が挙がるべきは黒沢清であろう。黒沢氏は92年に刊行された著書「映像のカリスマ」で「なんでもいいから騙されたと思って見てみよう。印象が希薄だからといって、一本の映画を見ないで済ますことは怠惰である」としながらフライシャーについて語っている。結びはこうだ。「私は、ヘルツォークの百倍、スピルバーグの五倍、ヴェンダースの倍、フライシャーを支持する」。ヘルツォークの名前が登場し、スピルバーグよりもヴェンダースの評価が高いのが気になるところだが、この文章自体、84年のイメージフォーラムに寄稿されたもの。フライシャーの位置付けには揺るぎがないと確信する。

2月25日 いよいよ明朝は「昭和維新」を掲げる青年将校たちの決行日となる。中心メンバーとなる磯部浅一、村中孝次、栗原安秀、安藤輝三、野中四郎あたりの名が多くの文献でも頻繁に登場するが、湯河原温泉で牧野伸顕前内大臣襲撃を企て、思わぬ警官の反撃に失敗した河野寿大尉の物語もまた、低く重く悲壮感が漂い、肺腑を衝く。決起に関する報道は当局によって差し押さえられたものの、かろうじて発行された号外をみて、兄・河野司は「さては、やったな」と第六感が働いたという。司氏は以後松坂屋百貨店を退職し、事件の真相究明と仏心会の発足に尽力することになる。河野大尉は襲撃の際、警官の銃撃を胸に受け、熱海の衛戌病院に入院し、そのまま憲兵に逮捕される。決起部隊は29日になると叛乱軍と位置づけられ、将校たちは自決を迫られる。奉勅命令は直接下達されなかったがために、彼らの判断は二転三転し、遂に軍事裁判の席上で自分たちの思いを訴えようと、自決した野中を除き決意する。が、河野大尉は事態収拾の宮内省発表を耳にし、苦しみ考え抜いたあげく、「叛徒という絶対絶命の地位は、一死もって処すのみ」と死を決意する。兄は返す言葉なく、無言でうなづくのみだった。自宅に戻った司もとに、九州の弟から血判した手紙が届いている。骨肉の兄への自決を促す悲痛な内容だ。ラジオと新聞の発表はどれほど青年将校たちの真意を伝えることができたのか。自決は切腹である。しかし逮捕の身では拳銃も軍刀も手元にはない。兄は果物ナイフを頼まれる。それにしてもいったん死を決意した人間はこれほどまでに落ち着き払い、柔和さに満ちた表情ができるものなのか。院長や憲兵隊長に対しても、武士道的温情のうちに、立派に死所を与えられたことを感謝する言葉を遺している。わずかに残された時間に遺書を書き上げ、最期の面会となった日は兄、姉らと別れの酒を静かに飲む。一同盃を上げた瞬間には、なにかしらおかしがたい荘厳さとでもいうような雰囲気が流れたという。最期に交わした言葉は「さようなら」である。その後には「お元気で」とも「また会いましょう」とも続ける言葉がない。 翌自決当日、河野大尉の付添婦にも何か朝から予感があったらしく、終始大尉の身近にあって離れなかったという。が、彼女が事務所に立った隙に素早く軍服に着替え、縁側から病室を抜け出る。山林に入り、熱海湾を望む崖下の大きな松の木の根本に端座し、武士の作法にのっとって果物ナイフで下腹部を真一文字に割き切り、返す刃で頸動脈を突く。一刀、二刀、数刀が加えてあったという。鮮血がこぶしを染め、前に崩れ落ちるように倒れていた。付添婦の報告で職員一同が捜索にあたり、自決現場を発見。河野大尉はまだこと切れてなく、「まだ切れてませんか」と言い、さらに一刀を頸部に加えた。止血すると「よしてください」と力無く腕を振り、意識を失う。果物ナイフは刃が滅していた。大尉は割腹後、十六時間の長きにわたって生を保ち、おりおり意識を回復しては「刃物が骨にあたって切れなかった」などと断片的に語った。しかし、一言半句も苦痛を漏らさず、苦面さえ呈すことがなかった。一刀で死を得ず、数撃を加えてもなお死を果たし得ず、しかも冷厳なる意識を保った大尉は無残というほかない。 大尉に血判した手紙を送った弟は二二六事件の翌年、満州炭坑会社に就く。やがて終戦を迎え、邦人の内地帰還問題等の対策に奔走する。その後、満州の事態が急変、中共軍の進出で変革の嵐が襲来し、満州人、日本人の摘発が強行される。その中に弟も含まれ、取り調べの結果、日本人は次々と釈放されていったが、唯一、弟だけは再び帰ってくることができなかった。在獄一年余りの後、銃殺刑に処せられたのだ。弟の思想や動向もあっただろうが、河野大尉の実弟であるということも処刑の理由だったという。河野司氏は二人の弟を失った。

2月4日 なぜか突然小津が観たくなって「秋日和」を再見。今回の印象は小津のスピーディーさだった。あなどるなかれ、小津映画は時間がどんどんぶっとんでいく。オープンカーでビュンビュン風を切るがごとしである。説明過多のセリフ回しや懇切丁寧な時間の経過描写など観たくないのである。小津の若き時分からの写真をあらためて眺めていると、驚かされるのは晩年にかけてのスピーディな老け込みぶりだ。12月12日という自分の誕生日にぴたり60で亡くなるという数字の符号ぶりは、それだけで常人に真似できぬ映画的人生の結末を感じさせるが、写真を見ているとこの老人がまだ60前の人なのだろうかと疑問を感じるほどに老け込んでいる。山内静夫氏は45歳の小津に会い、「人間的に完成しているというか、できあがっているというか、五十歳から六十歳にみえた」と語り、「ガッチリした体格で岩を見るという感じだった」とも語っている。この小津が映画を撮るきっかけになったのは一杯のライスカレーなのだ。撮影所の食堂でカレーを注文し、自分より後に注文した人間(映画監督の牛原虚彦)にカレーが先に運ばれたので、怒った小津がボーイを殴りとばした。カレー一杯でボーイを殴る小津に驚くが、映画的で愉快なエピソードでもある。この件で小津は撮影所長の城戸四郎に呼ばれ、ある脚本を執筆することになる。それが気に入られて監督に昇進し、デビュー作「懺悔の刃」を撮影することになる。一杯のカレーが小津唯一の時代劇に化けるのだ。小津は後に自分の作品について「豆腐屋は豆腐しか作れない」(豆腐じゃなかったかもしれない、うろ覚えだ)と食べ物にたとえて語ったことがある。映画においても、歳をとると食べ物の嗜好が変わることを晩年の作品で中村伸郎に語らせたりもするわけだが、ライスカレーで出発した小津映画は、食べ物を通して眺めて観てもなかなかに興味深いものがある。スピーディな作品とスピーディな老け込みぶりという話からはそれてしまったが、小津映画の切り口の達観ぶりというものは、いったいどのような境地から来るものなのか。いつまでも小津と小津映画に興味の尽きることはない。 山中貞雄作品のリメイク「丹下左膳 百万両の壺」を観る。企画自体が愚かな行為だと思ったけれど、やはり多少は気になった作品。結果、惨敗と思うが最後まで観てしまう。そうなのだ、これはオリジナルの話自体だけで格段に面白いのだと思った。左膳を演じるトヨエツは大河内傳次郎のセリフ回しを意識した形でなかなか善戦。沢村国太郎の役を野村宏伸というキャスティングも、センスがいいと思った。チャンバラシーンは、なかなか時代劇は撮れないのだからという気持ちもあったのか、座頭市とマキノ映画テイストも若干加えられ、徹底できないところが悲しく、あれはいらないと思う。マキノはシーンそのものを真似るのではなく、時間も金もない中でやりくりする創意工夫と映画的精神を学ぶべきではないのか。映画史にマキノさんがたくさんいてほしい。マキノさんの精神を受け継ぐ人は何人いてもいい。小津は「フツウの映画」を撮る人ではないが、マキノさんの精神は「フツウの映画」の基礎を盤石にする。今年はまだ始まったばかりだが、来年2008年はマキノ生誕100年ダゾ。映画業界は今からたくさんの企画を準備してほしい。東映チャンネルは先月「日本侠客伝」シリーズを全作放映してくれたけどね。小山中、マキノか。と来ると、成瀬を欠かすわけにはいかない。日本のいや、世界の最高峰に連なるのだ。

2月3日 2月といえば「226」である。最近も関連書籍を何冊か。恩田睦の「ねじの回転」は226を題材におそろしくぶっとんだSF小節だった。やがて人類が過去の時間(歴史)を自由に改変できる技術を手に入れ、手を加え過ぎたが故に絶滅の危機に瀕し、元の歴史をリプレイすることで人類を救おうというのだ。これは国連の手によって成されるわけだが、歴史の修正にあたっては複数の実在の人物にキーマンとなってもらい、過去の現実と同じ行動を要請する。しかし、予定外のハプニングがあった際はある程度時間を遡れる巻き戻し機能もあって、それはコンピュータが判断することになっている。226の時代のキーマンとされたのは、安藤輝三、栗原安秀になぜか石原莞爾が加わっている。コンピュータの判断には多少のあそびの部分もあって、必ずしも厳密に正史と一致しなくてもいいようだ。しかし負傷で済むはずの鈴木侍従長が死に、義弟の身代わりで難を免れる岡田首相を栗原が後日射殺してもコンピュータは不一致と判断せず、あろうことか陸軍と海軍が帝都で内線をはじめるに至っては、呆然とせざるをえないのだが、このあたりは226への深い省察というよりもSF的発想の方が勝っていてやや熱も覚めたはりキーマンには磯部浅一が登場しなくては。NHKの古いドキュメントを再見。電話傍受録音盤の復刻で栗原や安藤の肉声を聴くことができる。要所を占拠中の安藤に北一輝が「金、金、マルはいらんか」と電話をかけてくる。「端がうるさくて、よく聞きとれんのです」と言う安藤の声は意外にもさっとした印象。戦争映画を観ていると上官と兵士の会話は軍人独特の規律に則った言葉を遣っているものだが、原隊復帰を促す上官とある兵士の電話上の会話はいたって普通語だ。西田税は占い師に37歳で死ぬことを予言され、しきりに37という年齢を気にかけていたというが、実際に処刑場の露と消えたのも37のときであった。ドキュメントにも登場するご婦人の西田はつさんは「未だに2月と8月は嫌でございますね」と淡々と語る。これほど静かで重い口調もないだろう。

1月14日 道外のジャズ屋さんからも年賀状を何通か頂く。少ない客数でも相変わらず、レコードだけは買い続けていますだのと、ジャズ屋さんらしいコメントの数々。笑ってしまったのは岩手の某店。元旦早々、スイッチを入れたら電球の球が切れ、二日目には以前から我慢していたお客にとうとう出入り禁止の破門状を渡したという。事態はそれで収まらず、3日目には自宅の給湯機が壊れ、風呂なし生活が始まり、4日以降もいろいろありますとのこと。ますます厳しいご時世に、どこのジャズ屋さんも本当にがんばって経営を続けてほしいものだと思う。

2007年1月1日 昨年はなかなか映画が観られずもどかしい年ではあったなあ。とりあえず、昨年印象に残った作品です(順不同、再見含む)。今年も良い作品との出会いに恵まれますように。(邦画)「我が家は楽し」(中村登)「手討」「疵千両」(田中徳三)「黒い傷あとのブルース」(野口博志)「ブワナ・トシの歌」(羽仁進)「冷飯とおさんとちゃん」(田坂具隆)「山口組外伝九州進攻作戦」「京阪神殺しの軍団」(山下耕作)「北陸代理戦争」「やくざの墓場くちなしの花」(深作欣二)「沓掛時次郎 遊侠一匹」「明治遊侠伝 三代目襲名」「瞼の母」「車夫遊侠伝 喧嘩辰」「風の武士」「人生劇場」「花と龍 青雲篇・愛情篇・怒濤篇」「日本侠花伝 第一部あざみ 第二部青い牡丹」「真田風雲録」(加藤泰)「ニワトリはハダシだ」「塀の中の懲りない面々」(森崎東)「UNLOVED」「宇宙貨物船レムナント6」(万田邦敏)「赤線玉の井ぬけられます」(神代辰巳)「四つの恋の物語」(成瀬巳喜男他)「若親分」(池広一夫)「朝やけ血戦場」「一本刀土俵入」「おかる勘平」(マキノ雅弘)「パッチギ!」「岸和田少年愚連隊」(井筒和幸)「ヴァイブレータ」(廣木隆一)「リンダ リンダ リンダ」(山下淳弘)「ザ・力道山」(高橋伴明)「新宿乱れ街いくまで待って」(曽根中生)(洋画)「三匹、荒野を行く」(フレッチャー・マークル)「21グラム」(アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ)「パリの灯は遠く」(ジョセフ・ロージー)「影の軍隊」(ジャン=ピエール・メルビル)「スリ」(ロベール・ブレッソン)「ドラゴン対7人の吸血鬼」(ロイ・ウォード・ベイカー)「スクール・オブ・ロック」(リチャード・リンクレイター)「子猫をお願い」(チョン・ジェウン)「F/X引き裂かれたトリック」(ロバート・マンデル)「太平洋航空作戦」(ニコラス・レイ)「海底二万哩」(リチャード・フライシャー)「死の谷」(ラオール・ウォルシュ)「無頼の谷」(フリッツ・ラング)「新婚道中記」(レオ・マッケリー)「クライシス・オブ・アメリカ」(ジョナサン・デミ)「若き日のキャシディ」(ジョン・フォード他)「騎兵隊」(ジョン・フォード)「スパイダーマン2」(サム・ライミ)「マイ・ボディガード」(トニー・スコット)「バイオレント・サタデー」(サム・ペキンパー)「バットマン・ビギンズ」(クリストファー・ノーラン)「乱気流タービュランス」(ロバート・バトラー)「フライト・プラン」(ロベルト・シュヴェンケ)「キングコング」(ピーター・ジャク)「ミュンヘン」(スティーブン・スピルバーグ)「クラッシュ」(ポール・ハギス)「ヒストリー・オブ・バイオレンス」(デビッド・クローネンバーグ)「チキンラン」「ウォレスとグルミット野菜畑で大ピンチ!」(ニック・パーク他)「グレン・ミラー物語」(アンソニー・マン)「超高層プロフェッショナル」(スティーブ・カーバー)「ピンクパンサー」(ショーン・レヴィ)「キャリー」「ブラック・ダリア」(ブライアン・デ・パルマ)「ファイヤー・フォックス」「父親たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」(クリント・イーストウッド)  

 

2006年12月17日     年に一冊発行する別冊雑誌の仕事も15日から書店に並び、ようやく一段落。あっという間に年末だ。ここ数カ月、映画館へもなかなか足を運べず、観たのはイーストウッド作品2本と「ブラック・ダリア」のみ。帽子を目深にかぶった女性のシルエットが武器を手に主人公に迫る、あの1シーンだけで「ブラック・ダリア」は映画的満足感がある。入り組んだ設定に決してわかりいい作品ではないが、「ブラック・ダリア」はデ・パルマの作品中でもかなりの傑作に入るのではないか。女性が武器を取るといえば、森崎東の「ニワトリはハダシだ」の倍賞美津子が包丁を両手に立ち上がる瞬間には感動した。映画ってもうそれだけでもよいのだなあと思う。最近ビデオでぺキンパーの「バイオレント・サタデー」を観たのだが、もう4、5回観ているにも関わらず、ジョン・ハートの登場するシーンでどうしても理解できないところがある。モニター・ルームにルトガー・ハウアーが突然やってきて何か言うと、ハートがおもむろに立ち上がり、両手を肩の高さまで左右に広げ、しかし、手首は日本の幽霊のうらめしや~の状態にだらんと下げて、それと交互に押し出しつつ前面に迫ってくるのである。もちろん、そこはハウアーの問いかけに答える形で、セリフを言いながらなのだが、セリフと仕草が一致していないし、あの仕草自体がまったく意味不明。ぺキンパーの演出とは思えず、あれはハートの芝居なのだろうが、あまりにも不気味で観るたびに戦慄してしまう。

10月22日 我が映画狂の親友は長男に「泰」という名を授けたのだけれど、最近知人に借りた加藤泰DVD5枚組ボックスはニュープリント仕立てでもあり、加藤泰の素晴らしさをあらためて強烈に体験できる貴重盤だ。中身は「瞼の母」「風の武士」「車夫遊侠伝  喧嘩辰」「明治侠客伝 三代目襲名」「沓掛時次郎    遊侠一匹」という豪華なラインナップ。山根貞男氏と鈴木コーフンさんの附属ブックレットも読み応えがあって、映画を観る格好のナビゲーションになっている。さめざめと涙した「瞼の母」の中村錦之介のうまさたるや、映画を観てもらうしか理解のしようがない。母を尋ね、何人もの母親らしき女性たちと交流するシーンの数々。文盲の番場の忠太郎は弟分の母の手を借り、文字を書く。母の温もりが背中に伝わり、思わず言葉をつまらせてしまう錦之介の表情。しかも、その文字とは忠太郎が母親たちの前で死んでいるやくざたちを斬ったのは自分であることを伝える書状なのである。「この人間ども、叩っ斬ったる者は…」と口にしつつも、母の温もりに言葉を詰まらせるシーンは、夏川静江さんの好演もあって何度観ても泣けてしまう。この温もりのイメージは終盤、実の母に会い、拒まれ、というドラマチックなで、思いもかけぬ形でリフレインされることになる。この瞬間はあまりに映画的な、映画でしか表現し得ない素晴らしいシーンに結実する。ブックレットによると、伊藤大輔のアイデアによるものだという。「沓掛時次郎 遊侠一匹」は雷蔵版も大好きだけれど、やはり錦ちゃんがいい。一宿一飯の義理から斬った男の女房、子供の道中を助ける時次郎。しかし、おきぬはある日忽然と姿を消し、時次郎は呆然としてしまう。ここからあの宿屋の女将相手に長話しをする長回しのシーンに至り、次のシーンでもう再会するという大胆な省略。ここには何の不自然さもなく、映画のマジックとしかいいようのない素晴らしいシーンが待っている。未見だった内田良平主演「車夫遊侠伝 喧嘩辰」はまさに竹を割ったような男の一本気の世界。そして明蝶さんと桜町弘子とのやりとりに笑って泣いた。加藤泰。ぶっ続けで観ても、ため息ばかりが漏れる映画、映画、映画の世界だ。

9月3日 わが家の家族が増えた。といっても猫の話だが、ペットショップの「もう一匹行くよう」という誘惑の声と共にあまりにつぶらな瞳の子猫たちがいっせいにこちらをみつめていたのだ。結局いちばん自分の指をちゅうちゅうしていた虎柄の雄猫ちゃんがわが家に来ることになり、今ではジロと呼ばれている。もともと飼っていた雌猫はさすがに自分の縄張りを荒らされると感じたか、敵対心向きだし(と、言いつつ腰は引けているのだが)で、しばらくは直接対面させることができなかった。1週間も経たないうちに、仲良しになってくれたので安心したが、母性が目ざめたのか、見守るような態度と母親的なふるまいもみられ、甘え猫だとばかり思っていたのでかなり意外だった。キャラクターというものは同種の生き物がもう一匹現れることで出現するものだということを実感。それにしても性格とは違うもので、まったく人見知りしないジロと神経質なぽんの違いが際立ち、なかなかに面白い。 それにしてもなかなかゆっくり映画を観ることができない。このまま年末まで突入しそうな勢い。くうの映画音楽秘宝、再開したいのだが…。黒沢清氏の「黒沢清の映画術」、一気に読み終えてしまった。8ミリ時代から最新作の「LOFT」まで語っている。そうか内輪の一部では「打鐘 男たちの激情」が最高傑作と呼ばれているのか。ところで札幌市内の中古ショップに浅川マキのレコードが大量に入荷し、浅川マキの仕切が作られていて驚いた。といっても14,5枚ほどだが、もっていない「流れを渡る」と「CAT   NAP」があったので即購入。3300円と4000円は決して高くない。全品ほぼ新品状態なのはまさかデッドストック!? ディスクユニオン時代も何度か注文を試みたことがあったが、ないものはなかった。「流れを渡る」は、めんたんぴんの池田洋一郎、憂歌団の内田勘太郎も参加した77年のアルバム。この時代のマキさんが好きだという人がいちばん多いのだろうな、と思わせるのは萩原信義氏のギターのブルース色がここでも濃厚なせいもあるだろう。実際、80年代以降のアルバムでは萩原氏は参加せず、近藤等則、本多俊之といった名前が頻繁に登場するようになっていく。代わりに器用されるギタリストは山内テツ、トニー・メイデン、土方隆行といった面々だ。「流れを渡る」では前作「灯ともし頃」にも参加した坂本龍一がオルガンを弾いている。YMO加入直前の坂本と浅川マキの関係ってどんな感じだったのだろうか。8月7日 バンケイ・ジャズ・フェス、いや、ロッジの綴りからいけば、VANKEIなので、ヴァンケイか、なかなか堪能できた。あの屋外ジャズ・フェスとは思えぬ濃いメンツでよくぞ成り立ったもの。札幌市長の演説口調には辟易したが、野外フェスの割りに、中心部から近距離な所も素晴らしい。入場者がもっといれば最高だったのに。「リンダ リンダ リンダ」は掘り出し物。韓国の女の子の顔がいいのです。プロデューサーは根岸氏だったか。「パッチギ!」もそうなんだよね。相変わらずがんばっておられる。知人に勧められて観た「黒い傷あとのブルース」、以前から小林旭の主題歌「黒い傷痕のブルース」が大好きだったのだが、映画のほうもなかなか。監督は野村孝だが、いい絵を撮ってる。吉永小百合は我慢して観るとして、ラストもきまっている。個人的には郷えい治さん(悲しいことに、金へんに英語の英と書く文字が変換されない)も出演しているのが、うれしかった。大泉洋という人は売れているのですねえ。どうでもいい「釣りバカ日誌」やらリリー・フランキー原作ドラマの主演やら、イッセー尾形の共演やら。北海道弁というより札幌弁まるだしの話っぷりを聞くと何やら気恥ずかしいものもあり。ダニエシュミット、亡くなったのか。「アメリカの友人」に出演していた顔が思い浮かぶ。合掌。

6月25日 今日はテレビで「スモール・ソルジャーズ」を放映していたので再見したが、やはりなかなかに面白い作品だ。98年の正月映画として、さほど話題にならなかった気がするが、監督はジョー・ダンテなので一応見逃したくはない監督だ。物語は、とある玩具メーカーが電池交換不要で、自ら動き、話をするフィギュアを開発するのだが、埋め込まれたマイクロ・チップが軍事用のもので、フィギュアたちは自らの意志でコマンド部隊を組織し、敵対するもう一方のフィギュアたちと周囲の人間を相手に戦闘を仕掛けるというものだ。テレビの吹き替え版では楽しめないが、コマンド部隊の声を担当する俳優陣が豪華で、リーダー格のチップ・ハザードの声はトミー・リー・ジョーンズ、顔がシュワちゃんそっくりのバズーカ男の声はジョージ・ケネディ、通信とエレクトロ技術のエキスパートはブルース・ダーン、暗殺と秘密工作のプロはアーネスト・ボーグナイン、黒人狙撃兵はジム・ブラウン、爆破のプロはクリント・ウォーカーという布陣。ということは、この6人の精鋭のうち、4人はロバート・アルドリッチの「特攻大作戦」の出演組となるわけで、やってくれますよねとなるわけである。おまけに音楽はジェリー・ゴスミスが担当しており、星条旗を背景にトミー・リー・ジョーンズが演説をぶつシーンでは「パットン大戦車軍団」のテーマ曲が流れてしまうのだ。家庭工具を素材に殺傷能力を持つ武器を開発してしまうコマンドーたちは敵役ながら、ついつい応援してしまう。

6月7日 仕事の部署異動があってなかなか腰を落ち着けて映画が観られなかった。最近の収穫は中村登「わが家は楽し」、田中徳三「手討」など。磯村の「解夏」は観ていられず。廣木の「ヴァイブレータ」はそれほどいい作品だろうか。しかし、観ていると、はっぴえんどが聴きたくなってしまう。ようやく観られたハマーとゴールデンハーベストの合作「ドラゴンvs.7人の吸血鬼」はけっこう楽しめる。観るつもりはなかった「ピンクパンサー」のスティーブ・マーチンの芸達者ぶりに感心。ジョヴァンニ「ル・ジタン」のドロンはいい。「グッドナイト&グッドラック」はどこが肝だかわからず。話は無茶苦茶だが「Vフォー・ヴェンデッタ」のお面の人達が集結するシーンは胸が熱くなる。「北海道ジャズ物語」はようやく発売になっていたのですね。紹介店舗数意外に少なかったが、ジャズ関係者だけでこれだけのボリュームになってしまう北海道はやはり異色だ。大槌クイーンのマスターからベイシーの菅原さんの新刊が出たと連絡をいただくが、市内大手書店では見つからず。

5月7日 先日は坂田明とジム・オルークのコンサート。お目当てはむしろオルークなのだけれど、正直、もっとやってほしかったといったところ。しかし、人のよさそうな生オルークをみられたのはうれしい。ここ一月程劇場へは足を運べていないが、「ヒストリー・オブ・バイオレンス」「ウォレスとグルミット野菜畑で大ピンチ!」は素晴らしい出来の作品! 遅ればせながら、「スクール・オブ・ロック」も観たが、こちらも実に愉快な映画だった。

4月2日 オーネット・コールマン、素晴らしかった。何が素晴らしいってあのアルトの音色。生で聴くと声を失う程艶やかさで、いつまでも聴いていたいと思わせる美しさなのだ。ダブルベースは想像以上に効果的。トニー・ファランガってなかなかのものなんですねえ。オーネットのバイオリンがこの日また絶品で、ファランガとの絡みに興奮した。アンコール曲はロンリー・ウーマン。終了後、他のメンバーはもう1曲演奏するそぶりを見せていたようだけれど、オーネットのおしまいの素振りで終了。短いけれど、満足感の大きい内容だった。

3月23日 先週末から火曜まで上京。最近、ライター付きの煙草を購入するのでライターを山ほど持っているのだけど、空港はライターの持ち込みは一個になっているらしく、鞄の底に落ちていたライター2個を没収される。土曜は阿佐ヶ谷のスターダスト。マイルスが亡くなったときは1週間喪にふくしただの相変わらず熱いジャズ話の連続。九州時代から突っ張って生きてこられた方だけに、けっこう怖い話の片鱗をみせてくれるが、今は一般の人相手の商売、ほんとのこと言うと誰も来なくなると。地元の名士と言っておくが阿佐ヶ谷でジャズストリート盛り上げようと叫ぶ方がいるのだけど、どこか決定打に欠けていて、あれも九州出身なのよ、うちに初めて入った途端入口でこけちゃってさあ、奥の席で若い子とキスしちゃってえと言うので、写真とっちゃうぞと酔っ払いの自分。さらに某雑誌、最近来たのよという某評論家の悪口で盛り上がる。新宿時代のスターダストに偶然連れて来られたあるお母さん、ボックス席で泣いていたそうだ。ママさんが家庭で何かあったのかと思い声をかけると今かかっていたコルトレーンに感動したのだという。まったくジャズなど聴いたことはなかったそうだが、音楽ってすごいですねえ、翌ノ自分の生き様と突然クロスして感動をもたらせることがあるのですねえ。そのお母さんが隣の席に座っていて、コルトレーンをきっかけにあっという間にオーネット・コールマンにはまってしまったという。ジャズを聴くのに、歴史的なお勉強など必要ではないし、入門書のたぐいも必要ではない。その人のその瞬間に合ったものと巡り会うだけで、共鳴することができるわけだ。帰りしな、そのお母さんが住む大泉学園のおいしいパン屋のチョコパンを頂いた。うまかった。阿佐ヶ谷の後、高田馬場まで戻り、マイルストーンに寄るとマスターは入院中でお休み。イントロもライブで入れなかったので、西新宿のホテルまで散歩しつつ帰る。沈丁花がぷんと香り、東京の春を感じた。 二日目は遠路はるばる本庄まで行く。りんどうが目当て。家の者が昨年12月に訪問しており、噂通りの濃いマスター。顔はちょっとウィリアム・デフォーに似ているかな。ジャズではズートの大ファンでレコードは80枚以上。日本のジャズメンとの交流も深く、本庄ジャズクラブの実質的な主催者。元々宿場町だった人口8万人の町を歩くとそこここにジャズコンサートのポスターが貼ってあり、マスターの動きっぷりが会う前から伝わってくる。スイングジャーナルを届けに来た本屋のお兄ちゃんにも、あそこのお店に持ってってよとポスターを持たせる手際の良さ。とにかく仕切りには素晴らしいものがあるのだけど、元々地元のいわゆるガキ大将というやつで、ガキ大将はガキ大将から代々受け継ぐものだそうだ。野球でボールが隣家の窓ガラスを破り、メンバー全員、親父に拳固を食らうと、翌日早速仕返しに行ったという話は何だか小津安二郎の「生まれてはみたけれど」の風景が甦ってくる。隣に据わっていた方は草を縛ってといてね、追っかけてきたら足が引っかかるようにするんですよなどと話している。その日はりんどうのライブの日だったため、途中で引き上げ、翌日取材を兼ねてもう一度訪問。往復4時間はかかる。昼間から飲んでしまったため、両日とも夜はでかけられず。 4日目は飛行機に間に合うぎりぎりまで町田のNICA`Sへ。ここもジャスラック問題を抱えているお店でその話題やらスターダストでも出た某ジャズ評論家の悪口で盛り上がる。ジャズ屋ではとことん人気がないのか。また、ここでもあのママさんの熱さはすごいとスターダストの話題になり、業界では有名な方ですねえ。相変わらず入退院をしているとおっしゃっていたが、お元気そうで何よりだった。NICA`Sも居心地がいいので結局4時間近く話していたのかな。ここでも昼間から飲んでしまったので羽田まで遠かったこと。というわけで、今回楽しみにしていたフィルムセンターはとうとう行けずじまい。 ディスクユニオンにも寄ってきたが、中古は安い。自分が勤めた頃より値段は下がっているんじゃないか。レコードコーナーを覗くと、ジジ・グライスの「NICA`S  TEMPO」、底抜けとは言え300円はあまりに安い。昔手放してしまって、もう一度聴きたいとかねがね思っていたデビッド・マレイの「ラバーズ」など戦力外通告で、足元の段ボール行きの300円。他、ジョン・サーマン、ファブリツィオ・ボッソとジャンニ・バッソの共演ものやオーネット・コールマンなど。スコット・ラファロはオーネットとやっているときが一番すごい。「サイクリカル」が聴きたいのでジャッキー・マクリーンの「マックアタック」を探したがみつからず、同時期録音の「ライツ・オブ・パッセージ」。これは同一メンバーで息子さんとの共演盤。お店でアンドリュー・ヒルのディスコグラフィーを作成して無料配布しているのはうれしい。

3月6日 ほっておくと仕事に追われて映画が観られないので合間合間に観る。劇場は「クラッシュ」「アサルト13要塞警察」。カーペンター版はわらわらと殺戮者がいくらでも溢れ出すところが恐かったが、今回は明快な理由付けあり。その他節操なくカーペンター版「透明人間」、「影の軍隊」「パリの灯は遠く」「仄暗い水の底から」「手錠のままの脱獄」、ブレッソンの「スリ」など。「手錠のまま~」はいただけなかった。二・二六ものでNHK制作の番組も2本。佐々木監督お薦めのジールク、観に行くことができそうだ。これは楽しみ。

2月7日 偶然にもナオミ・ワッツ出演の映画を3本続けて観てしまう。「リング2」「21グラム」「キング・コング」。リングは結局エクソシスト風味の憑依ものになってしまうのだなあ、アメリカでは。「21グラム」はイニャリトウならではの分解編集の傑作。ショーン・ペン、いつもいいですねえ。「キング・コング」はほぼ3時間の作品で、コングが登場するまでちょうど1時間、コングがニューヨークに拉致されて死んでしまうまでが1時間、残りがドクロ島でのコング話。前半ちょっと長いんだが、コングがドクロ島ですでに孤独な存在であった描写がいい。エロール・フリン風の役者に爆笑。ピーター・ジャクソン、まったく期待していなかったが、予想外に面白かった。ナオミ・ワッツはいつ見ても、鼻先の中心に筋があるのが気になるのだが、凡庸な顔立ちで何故人気があるのかわからない。

2月1日 粉瘤という良性腫瘍ができ、先日手術、明日抜糸。締切が延び、それに伴って仕事もずるずると続く。先日試写会で観た「ナルニア国物語」は最悪。間延びした導入部、冴えない戦闘シーン、表情が全滅の兄弟たちなどどこをとってもいいところがなかった。最近観たディズニー映画で言えば、40年前の「三匹、荒野を行く」のほうが遙かに面白かった。見逃していた是枝裕和の「誰も知らない」「ディスタンス」も観たが、この人は映画的感性に欠けてるんじゃないか。物語より重要な動きの部分で、自主映画のような撮り方をされても。「誰も知らない」は評価も高かったようだが、親においてきぼりにされた子供たち、下の娘のマニキュアはただ塗っただけだし、押入に閉じこもった長女がさっと母親の衣類を中に引き入れるシーンの味気なさ。この人が小津国際シンポに招かれた意味が皆目わからない。コッポラの娘が撮った「ロスト・イン・トランスレーション」もひどい出来だった。これなら岩井俊二のほうが遙かにまし。日本の少女漫画のほうがもっとまし。思い返せば、この年のアカデミー賞授賞式にはイーストウッドが「ミスティック・リバー」で出席しており、アメリカ映画の差が露呈したような。お父さんは決して嫌いじゃないのだが。

 ライブドア、ヒューザーなどニュース番組を席巻しているが、ネット情報の氾濫ぶりもすごいことになったものだ。とあるブログは一日のヒット件数が28万件に達し、週刊誌のレベルをあっという間に凌駕している。真偽はともかくリーク情報もふんだんで、ホリエモンが小菅でパソコンは見られるのか、株は見られるのかと語ったどころか、接見禁止の接見を石鹸と聞き違えたという話には笑ってしまった。小菅には麻原だの和田だの今いろいろな人が入っているんだ。ライブドアの捜索で東京地検特捜部が入っていた入口は数年前、男の子が回転ドアに挟まって事故死した入口でもあって、まさに鬼門だという発言に納得する。

2006年1月1日 ホームページも更新しないまま年が明けてしまった。最後は11月だったか。おおみそかも元旦も関係なく過ごしているのは初めてかも。ジャズ関係の文章を読んでいると映画についてまともに書いている人があまりいないことを発見。ある評論家はルイ・マルの「死刑台のエレベーター」やロジェ・ヴァディムなんかもヌーベルバーグに含めて書いていて、それはないでしょうと。映画と言えば中条省平氏はとうとう昨年ジャズ本を出版されたが、前書きはさすがの視点で書かれており、膝を何十回うったことか。ある人と映画の話をしたとき、物語でしか語らないので困った。この映画が好きだといいつつファースト・シーンを覚えていない…というハスミさんの言葉を思い出す。以下再見含め昨年印象に残った主な映画です(順不同)。(邦画)「煙突の見える場所」(五所平之助)「教室の子供たち」(羽仁進)「チエミの婦人靴」「魔子恐るべし」(鈴木英夫)「伊豆の艶歌師」(西河克己)「浅草の灯」(島津保次郎)「懲役十八年」(加藤泰)「叛乱」(佐分利信)「潜水艦イ-57浮上せず」「太平洋の翼」「人間魚雷回天」(松林宗恵)「白昼の襲撃」(西村潔)「さらばラバウル」「太平洋の鷲」(本多猪四郎)「鶴八鶴次郎」「歌行燈」「乱れ雲」「おかあさん」「妻の心」「杏っ子」「山の音」「ひき逃げ」「乱れる」「女が階段を上る時」「妻よ薔薇のように」「噂の娘」「桃中軒雲右衛門」「女優と詩人」「娘・妻・母」「女の中にいる他人」「妻として女として」「女の座」「女の歴史」「稲妻」「愉しき哉人生」「雪崩」「乙女ごころ三人姉妹」「芝居道」「妻」「夫婦」「あにいもうと」「あらくれ」「晩菊」「流れる」「コタンの口笛」「サーカス五人組」「放浪記」「秀子の車掌さん」「秋立ちぬ」「浦島太郎の後裔」「朝の並木道」「銀座化粧」「白い野獣」「母は死なず」「三十三間堂通し矢物語」「春の目ざめ」「女人哀愁」「君と行く路」「鰯雲」「舞姫」「はたらく一家」「くちづけ」「浮雲」(成瀬巳喜男)「戒厳令」(吉田喜「暴力団再武装」(佐藤純彌)「蛇の道」(黒沢清)「ifもしも 打ち上げ花火下から見るか?横から見るか?」「リリィ・シュシュのすべて」(岩井俊二)「太平洋奇跡の作戦キスカ」(丸山誠治)「戦艦大和」(阿部豊)「パッチギ!」(井筒和幸)「ALWAYS三丁目の夕日」(山崎貴)「TAKESHIS'」(北野武)(洋画)「地獄への道」「拳銃王」(ヘンリー・キング)「地獄の逆襲」「暗黒街の弾痕」(フリッツ・ラング)「地獄の天使」(ハワード・ヒューズ)「拳銃魔」(ジョセフ・H・リュイス)「ジェニーの肖像」(ウィリアム・ディターレ)「サンライズ」「吸血鬼ノスフェラトゥ」(F・W・ムルナウ)「ラブ・オブ・ザ・ゲーム」(サム・ライミ)「ティン・カップ」(ロン・シェルトン)「素晴らしき放浪者」「ピクニック」(ジャン・ルノワール)「コンドル」(ハワード・ホークス)「ランド・オブ・ザ・デッド」(ジョージ・A・ロメロ)「ドーン・オブ・ザ・デッド」(ザック・スナイダー)「ショーン・オブ・ザ・デッド」(エドガー・ライト)「ヴァンダの部屋」(ぺドロ・コスタ)「春の惑い」(田荘荘)「つばさ」(ウィリアム・A・ウェルマン)「第七天国」(フランク・ボーゼージ)「アタラント号」(ジャン・ヴィゴ)「気狂いピエロ」「ウイークエンド」(ジャン=リュック・ゴダール)「人類の戦士」(ジョン・フォード)「無法の王者ジェシイ・ジェイムズ」「夜の人々」(ニコラス・レイ)「パサジェルカ」(アンジェイ・ムンク)「ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ」「進め龍騎兵」(マイケル・[Bス)「回転」(ジャック・クレイトン)「ローラ殺人事件」(オットー・プレミンジャー)「上海から来た女」(オーソン・ウエルズ)「脱出」(ジョン・ブアマン)「アモーレス・ペロス」(アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトウ)「ガントレット」「ミリオンダラー・ベイビー」「ミスティック・リバー」(クリント・イーストウッド)「カンフー・ハッスル」(チャウ・シンチー)「香港国際警察」(ベニー・チャン)「炎のメモリアル」(ジェイ・ラッセル)「宇宙戦争」(スティーブン・スピルバーグ)「チャーリーとチョコレート工場」(ティム・バートン)「シン・シティ」(ロバート・ロドリゲス他)