2012年12月21日 「人生の特等席」、「グラン・トリノ」に続き、イーストウッドの姿が観られたのは嬉しい。チキンのような首のシワを本人は嬉々としてさらけ出している。が、「俺はバスにでも乗って帰るか」と歩き去ってゆくラストに、もうこれがスクリーンで本人を観る最後かも、という気がしてならず寂しくなる。その可能性は低くないだろう。近年の野球映画の佳作「マネーボール」の真逆をいく設定で、二本立てでいくと面白い。脚本がよく練られている。というか、イーストウッドが相当ダメ出しをして、ここまで持っていったと思われる。ホンの仕掛けがよいので、ラストの一気にいくたたみかけはフォードかキャプラか、ハリウッド古典の香りがして楽しい。が、キャメラはいまいち。直近のイーストウッドは、「インビクタス」などざっくりと映画を撮ることがあるが、ロバート・ロレンツの演出をみると、あのざっくり感は年季の賜物であることがわかる。そうそう、エド・ローターが出ていた! 70年代ファンは喜ぶ。僕の観た回の帰り道、志村けんのような声で話す小さなおばあちゃんが二人、「楽しかったねえ!」と高揚していた。おばあちゃんを楽しませるアメリカ映画、素晴らしいじゃないですか。

11月23日 本日は「強奪のトライアングル」「やがて哀しき復讐者」に滑り込みで間に合う(「コンシェンス」は挫折)。「強奪のトライアングル」は一人の監督が撮った30分を観て、次の監督が展開を考え、さらに30分を撮り足すという形式で90分までもっていくという、信じがたい方法で完成させた作品だが、お遊び満載で楽しかった。ツイ・ハーク、リンゴ・ラム、ジョニー・トーがどの順で撮るかを知らずに観ていたが、ジョニー・トーはすぐにわかる。だいたい、今まで登場していなかったラム・シューが突然、首を左右に振りっぱなしのヤク中役で登場し、画面をあっという間にさらってしまうのだから。ワニが回遊する湖上レストランで炸裂する三つ巴の強奪戦は、それまでシリアスだった展開が一気にドタバタ喜劇すれすれのアクション映画へと飛翔する。ジョニー・トーの個性が際立っている。

 11月10日 「アウトレイジ ビヨンド」は始まった瞬間から異様なまでに面白く、観ている間中、終わらないことばかり願っていた。こんな思いで映画館にいたのも久しぶりだが、武映画はスコンと何か突き抜けてしまった気さえする。あの西田敏行でさえよいのだから。武はツービートという漫才師が出発点だからなのであろうか、映画の肝として二人組が必ずといってよいほど登場する。「キッズリターン」「Dolls」「あの夏、いちばん静かな海。」に至っては二人組が主役だ。しかしこの「二人」とは横並びに座った瞬間に、死の起動装置とも化す。「アウトレイジ」の新幹線や水野の暗殺場面、「アウトレイジ ビヨンド」のパチンコ屋。こうなると、記念写真を撮った直後に必ず誰かが死ぬことになっている小津安二郎的でさえある。「二人の対峙」する場面、つまり映画的な切り返しも、「アウトレイジ」を観直していたら、唐突に手前の人物ナメなしの、小津的な真正面からのショットが挿入される。いったいこれはなんなのか。「2」という数字だけとっても、北野武作品の奥は深い。「2という数字が嫌いなので、ビヨンドと付けたんだけど」と本人はうそぶいているが。

10月30日 川端康成の「眠れる美女」を原作とした「スリーピングビューティー 禁断の悦び」。オーストラリアは基本的に映画不毛の地だと思っているが、こんな傑作が不意に登場する面白さ。登場人物が一体何を目的に行動しているのか判らないまま、彼女がアルバイトを掛け持ちしている様が描かれ、この作品もまた映画的運動のあとに物語がやってくる。ジュリア・リーという人のデビュー作なので未知の人物だが、映画の呼吸を感じる。撮れる人は処女作から違う。

 10月21日 「奇跡」。是枝裕和を初めてよいと思った。描写が決して心理的にならない。キャメラにリー・ピンビンを迎えてもあれだけダメな「空気人形」の人がこんな映画を撮れてしまう。イマジナリーラインの怪しいシーンは偶然か故意か。故意ならすごい。その一方で、ダニー・ボイルの「127時間」は画面が汚く観ていられない。自分の腕をちぎりとっちゃう男の実話はそれなりに面白くなりそうだが、この人は画面に余計なものをぶちこみすぎで、幻想と現実の区別もつかず、所詮はスラムドッグの人か。その点、ロージーはさすがに別格だ。「鱒」はすべて運動が先行し物語が後からやってくる、映画の典型。冒頭からストーリーの方向性が予測できず、妙な緊張感を強いられる。観客はあれよあれよという間に、フランスの片田舎からロージーの観る東京に連れていかれ、ブーツを履いたまま畳の上を歩き回るイザベル・ユペールを何の違和感を感じることもなく受け入れることができるだろう。何故ならロージーがそのように撮っているから。実にデタラメな映画であり、映画はデタラメでよいことを教えてくれる。これを傑作を呼ぶのだ。

10月19日 若松孝二氏が亡くなったが、テレビの「名監督が亡くなった」的な報道には違和感が残った。まあ、テレビ報道などまともなものではないけれど、海外の映画祭がどうたらこうたらばかりで、当然ピンク映画への言及はない。自分にとって最もインパクトの強かった若松作品はピンク時代の作品であり、中でも「現代性犯罪 理由なき暴行」と「13人連続暴行魔」が印象深い。後者は阿部薫が全編に音楽をつけ、本人も登場する。アルトももちろん素晴らしいが、ギターの腹を叩く音とハーモニカの肺腑を突くような響きが今も脳裏から消えない。若松報道で滝田洋二郎のことも思い出した。あの醜悪な「おくりびと」のことだ。アカデミー外国語映画賞を受賞した際には滝田がピンク映画出身であることは報道されず、次回作の「釣りキチ三平」は無視された。映画祭の本質には目を向けず、賞に権威があるものと盲信し、過剰に持ち上げる。しかしそこは消費的でしかないため、作家として追いかけることも掘り下げることもない。受賞直後に「釣りキチ」撮ったんだから、あのアカデミ賞受賞監督が…などと報道してやれよ。と当時思った。 映画を自分の目で見ようとすることは難しい。なぜなら日本人は読むことから教育されるから。そこに抗って観る力を鍛えなければ、いつまでも映画がわからない。鍛錬を怠った自分は未だに苦労ばかりしている。でも努力はしているつもりだ。テレビ界隈で映画が“わかる”人をほとんどみたことがないけれど、映画を“観る”ことができる評論家も何人いることか。10人ほどはぱっと思い浮かんだが。これだけはいえる。観た映画の本数で映画を観た気になっている人の話は絶対に信用しません。

10月17日 フォード、「肉弾鬼中隊」を再見。第一次大戦で、メソポタミア砂漠を偵察する英国騎兵隊。つまり砂漠を行進するのはラクダではなく馬。趣向を変え、砂漠で西部劇をやってみようという企画だろう。映画を作るにあたり、最も難しいであろう構図が完璧にキマっている。稜線と馬。その光景を観るだけで深く感動してしまう。しかも砂漠には馬の隊列の足跡がつき、稜線のようにラインを形成している。これさえもフォードが計算した構図だと思う。横長の画面に一本の線を描くこと。これは構図の、いや映画の命でもあるだろう。稜線でも地平線でも水平線でも、あるいは屋根や尾根でもいい。そこに無限ともいえる縦の構図が生まれる。それは空間や奥行を表現することもあれば、屋根の向こうから忽然と敵が銃を発砲してきたり宇宙人が侵略し、アクションの起動装置となることもあるだろう。言語ではなく、運動によってドラマやサスペンスが表現されるのだ。「肉弾鬼中隊」では稜線の向こうの見えない敵が、英国兵を一人ずつ仕留めてゆく。思えば、「捜索者」はあのラインの向こうから少女だった白人を奪還する物語であり、「戦火の馬」はあのラインの向こうに少女(馬)を奪われるのだ。若きスピルバーグにフォードがアドバイスをした、地平線の話。単なる構図にとどまらぬ実に深いことをフォード的に述べたのだろうな、と思う。

10月9日  「アントキノイノチ」。死の影を引きずった若者が選んだ遺物整理係という職業。孤独死した老人らの死臭から起こる化学反応がこの作品の物語を転がしてゆく。あと100年で人口が3分の1になるであろう、この国の衰弱ぶりを鋭い臭覚で切り取る瀬々氏は、近年でいえば「おくりびと」などのノーテンキぶりを鮮明にするほどに重心が低い。「ヘヴンズストーリー」に続き、いま日本で最も突出した作品を撮る一人だと思う。が、正直なところ、僕は同時にもったいない、と思っている。撮影はこれでよいのか。手持ちのぶれはこれでよいのか。光と影の調節の具合は。画面からぷんと香り立つ映画的強度。それがあってこそ映画は人の魂を串刺しにするのではないのか。 「タンタンの冒険」、妙だ。スピルバーグほどの監督であれば、模型の柱に仕込まれた秘密を「マクガフィン」にして、いくらでも物語を引っ張れるだろうに。「ブラック・スワン」、こんな単線で撮られても。映画を面白く撮る技術を持っているのはわかったけれど、ねらいがアカデミー賞レベル。お盆に帰札した脚本家が「映画はパッションよね」と連発していたが、パッションはまるでない。

 10月7日 フレデリック・ワイズマン、「クレイジーホース・パリ 夜の宝石たち」。これはきっと私の今年のベストワンだろうな。女性のお尻がこれまでで最も美しく撮られた作品ではないだろうか。ダンサーの一人が映像を見て「この出し物はダンスと音楽が合いすぎている」と語るシーンがあるが、この作品自体突出した音響と突出した映像が微妙にずらされている印象もあり、音楽と動きが100%同期するカッコ悪い映画から最も遠いところにいて心地よい。音をずらすかと思えば、テレビドキュメンタリー特有の余計なナレーションやテロップはいっさいなく、安心して観ていられる。これが映画なんだよ。余談だが、プロローグとエピローグで登場するおじさんが見せる猫の影絵は一瞬ながら、その素晴らしさに泣きました。

10月4日 ジャック・ロジェ、「アデュー・フィリピーヌ」。見終わって、その素晴らしさにため息がもれた。ヌーベルバーグはつくづく、素晴らしい才能の集団であった(ルイ・マルごときをヌーベルバーグ一派と勘違いする向きもあるので誤解のないように)。とくに後半、若い男性と二人の女性がコルシカ島でバカンスを過ごすくだり。突然流れる美しいカンツォーネなど、音楽映画といってよいほど。この作品に決定的ショットなどひとつもない。が、それでも映画は成り立つのだ。兵役につく男性を見送る、ふたりの女性のラストがすごい。切り返しがないのだ。もしこのような場面を自分自身が撮るとしたら? そう想像力を働かせれば、切り返しの凡庸さを軽々と超越するラストに驚愕できるだろう。未だに、新しい映画である。 10月3日 リドリー・スコット「プロメテウス」、一部の信頼できる批評家筋で圧倒的に評判が良いのだったが、そこは低空飛行の人リドリー、「観客に推理させちゃ映画はダメなんだよ」とキレそうになる。といっても展開はあっという間の終盤で悪くないし、面白い。思えばこの方、「エイリアン」「ブレードランナー」まではそれなりに観られたわけで、これ以降が低空飛行、今回が若干持ち直したものの、自殺とされる弟のトニーには大きく水をあけられたまま、距離を縮めることをできないであろうことを確信してしまった。もっとも致命的なのは主演女優のキャスティング。おそらく演技力を買っての抜擢だろうが、決定的な場面で“映画的”に走ることができない。近年の映画で比較すべきは、ジョン・カーペンターの「ザ・ウォード」だろう。映画は(広義の意味での)アクションであり、このような作品では活劇性が求められる。「ザ・ウォード」にあって「プロメテウス」にないのは、主演女優のしなやかな肉体のアクションだ。  「プロメテウス」はここに、“論理”が加わってさらにこの作品の価値をワンランク貶める。謎解きを小説そのままに描くほど、映画は“映画”から遠ざかっていく。横溝正史原作ものの映画がことごとく失敗しているのは、まさに論理が映画を支配するからだ。謎解きを小説同様に観客に推理させ、クライマックスで探偵が回想シーンと共に正解を開陳する。しかし、このとき“映画”の流れは停止している。映画は筋=論理で展開するものではないからだ。ヒッチコックは観客に論理的思考を一度として求めたことはなく、すべてアクションで展開したが故に偉大なのだ。ハワード・ホークスの聡明さも、筋を透明化するほどのアクションの徹底ぶりにある。その意味で成瀬巳喜男も世界のトップに君臨するアクション監督といえるだろう。映画的感性の根本が、リドリーとトニーの差にもつながっているのだと思う。 

9月9日 突然発売されてしまったボリス・バルネットDVDボックス。これは事件といってもいいでしょう。「帽子箱を持った少女」のアンナ・ステンの可憐さ。自分の唇に針を刺し、指でその形を変形させて血を搾り出し、キスを迫る場面。こんなに可笑しくてキュートなキスシーンも滅多に見られない。「国境の町」のしゃべる馬。「青い青い海」の見たこともない海の表情(フラハティの「アラン」を思い出す)。本日はバルネット3本立てで至福の時を過ごす。我が家の家宝です。 その他近作。「ダークナイト ライジング」。クローズアップがまったくきまらない。深刻さに付き合いきれず。「おおかみこどもの雨と雪」。私とは別のところで熱狂的ファンがいるであろう作品。筋の展開が途中から疑問符だらけになる。「THE GREY 凍える太陽」。アクションシーンがへた。べたべたな演出。でもダメ男が最後に立ち上がる映画ってつい泣いてしまう。全然悪くない。

7月8日 ここ数日は我が家でクロード・シャブロル祭り。「最後の賭け」に始まり、「甘い罠」「引き裂かれた女」「悪の華」「沈黙の女 ロウフィールド館の惨劇」「肉屋」「不貞の女」、そして今日「石の微笑」。はずれがない。いずれの作品にも冒頭からただならぬ雰囲気が画面いっぱいに漂う。殺人と終盤の急展開、宙吊りの幕引き、そして女が怖い。「沈黙の女」でのイザベル・ユペールのキレぶりの凄まじさ。「甘い女」での毒盛りぶり。「不貞の女」のミシェル・ブーケが狂っていくのも、ステファーヌ・オードランを激烈に愛すが故だ。「不貞の女」は最もシンプルな段階まで削ぎ落とした三角関係の極みだ(と、書いたところで日本には増村保造がいるぞと世界に向けて叫びたくなる)。シャブロル作品には「映画」がゴロゴロと転がり、物語を際立たせる演出が残像となって脳裏から消えない。共犯関係となったおばあちゃんと孫世代のお兄ちゃんとお姉ちゃんが、身長順に肩を組む「悪の華」。「不貞の女」でとうとつに登場するでっかいライターは、映画史に残る小道具だろう。ライターは「肉屋」でも決定的アイテムとして使われる。シャブロルの「変態」に寛容な視線はイーストウッドがいかにアメリカ的であるかを際立たせ、興味深い。「戦火の馬」の一頭に、クロードと名づけたスピルバーグはあらためて映画共和国の住人であることを認識させてますます好きになった(「未知との遭遇」でトリュフォーを登場させたのは快挙だが、「ミュンヘン」でミシェル・ロンズダールを起用する渋さ!)。 今週はもう一度観たくてしょうがなかった千葉泰樹の「二人の息子」も観られ、なかなか幸福な気分だ。千葉の演出は情容赦がなくて怖い(何せあの「鬼火」の人)。冒頭、団地の階段を降りてくる宝田明のシーンからして、これから絶望の淵に巻き込まれる流れを予感させる。その不安はすぐに的中し、宝田の乗ったエレベーターを待つ、藤原釜足の後姿がすでに「不幸」を漂わせている。父親に会社に来てほしくない宝田は、後ろも振り返らずビルの裏側にスタスタと歩き去る。藤原釜足が杖を片手に足を引き摺りながら追いかけていくのが痛々しい。千葉はそんなシーンをさりげなくも強調してみせる。そして告げられる失職したとの言葉。夜、次男の加山雄三を交え、家族会議が開かれるが、父親に冷たい宝田は安易に養老院にでも行けばと口走り、釜足の激怒を誘う。このとき釜足は湯のみを投げつけるのだが、釜足の後方に据えられたキャメラがワンカットで湯のみの行方をとらえている。つまりこの瞬間、実際に宝田に向けて湯のみが飛んでおり、結構顔面に近いところを飛んでいるので、釜足のコントロールも素晴らしいのだが、それを演出する千葉はやはり怖い。白タクの運転手となった加山が轢いちゃったんだよといって、だらりとした鶏を差し出す。今日は滅多にないご馳走だと、賑やかなトリすきになるはずが、たった一個だけ残っていた卵をめぐりみじめな言い争いの場と化す。次に続くのは宝田の家庭で、ホットケーキのために卵を3個立て続けにわるシーンだ。不幸の連鎖をたたみかける、千葉の終盤の演出はひたすら怖い。ざっと千葉の演出作品をカウントしてみると、戦前だけで100本超え。30年代に集中している。掘り起こせば、傑作がごろごろあるのではないか。 シャブロルも亡くなり、世界的にも女優を撮れる監督がつくづくいなくなったな、と思う。「午後5時以降は女性としか過ごしません」と宣言するトリュフォーのように、根っからの女性好きでなければ、女性の美しさや怖さは撮れないだろう。今日本にそこまで撮れる監督はいないでしょう。そんなわけでまた成瀬巳喜男が観たくなってしまう。で、「女の座」。夏木陽介について司葉子と星由里子が歩きながら語り合うシーンの背景に「二人の息子」のポスターが貼られている。これは千葉が撮るはずだった「浮雲」で息を吹き返した成瀬との関係もあり感慨深い。そして成瀬と千葉の決定的な違いも際立つ。つまり成瀬は二人の「息子」の人ではなく、「娘」の人なのだ。徹底的に女の側から映画を撮り続けた成瀬巳喜男。二人の女がひとりの男を取り合う映画を撮り続けた成瀬巳喜男。そして今日は「妻として女として」を再見。デコちゃんvs淡島千景! アクションを起こすのは常に女性であって、森雅之はひたすらおろおろするばかり。娘から「お父さんがいちばん卑劣よ!」と蔑まれる始末。女優を撮るという成瀬の資質を考えたとき、松竹を退社する契機となった「小津は二人いらん」という言葉がいかに的外れであったか。成瀬は女の側からしか映画を撮っていない、小津は男性の側から撮っている。小津と成瀬も、千葉と成瀬同様決定的に異なるではないか。

6月14日 遅ればせながら「ファンタスティックMr.FOX」を観て大感動すると同時に、劇場で体面できなかったことを深く後悔する。まずコマ撮りアニメでCGに喧嘩を売る根性がいい。しかもハリーハウゼン時代よりも、遥かに表現力が豊かで、造形とアクション、しぐさのテンポ、ユーモア、すべてが完璧にコントロールされ、そのコントロールが手作り的であることが心地よい。画面は100%「映画」である。映画はいかに物語から画面を引き剥がしていくかの戦いだ。ショット、ショット、カット・イン・アクションの連続で、今目の前で「映画」が進行していることに陶然とする。冒頭の鶏強奪シーンの数分ですでに目が眩んだ。狼とすれ違うシーンではつい目頭が熱くなってしまう。90分に満たないこの作品は想像を絶するほどに進行が早い。この情報量の多さとスピード感はホークス的であるだろうし、ショットはフォードでもあり、グリフィスでもあるだろう。2度続けて観たが、ぜひ劇場で観直したい。 

 アピチャッポン・ウィーラセタクンという名前が覚えられかどうか心配だ。「ブンミおじさんの森」。幽霊の出る映画というのを一度整理する必要性を感じている。フォードの幽霊、イーストウッドの幽霊、黒沢清の幽霊、青山真治の幽霊、カール・ドライヤーの幽霊……考えてみれば小津映画も幽霊的であるかもしれない。「ブンミおじさん」の場合はそこに猿になってしまった親戚まで現れて。シネコンではありえないこんな映画作りの可能性を思い出させるウィーラセタクンは貴重な監督。2作3作と傑作を続けて名前を刷り込んで欲しい。

5月13日 現在発売中の映画芸術、ときどきいや最近はほぼ全号購入していたが、編集長と寺脇(この方はアメリカ映画は観ず、韓国映画を優先するというあらかじめ馬鹿丸出しの評論家)の「戦火の馬」に関する対談があまりにひどく、購入せず。筋を批判し、画面=映画を観ていないという典型的な脚本家の映画の見方の対談で、他に食われている馬もいるというのに、戦争で馬を助けてハッピーエンドとは何なんだよという結論になってしまう。 大阪の芸大で脚本を指導する知人が、「友だちのうちはどこ?」を上映したいのでソフトがないかと相談を受けた際、ある対談で監督が「うそつきキアちゃん」というあだ名で呼ばれていたけど、由来を知らないかと尋ねてみた。彼女は知らないとのことだが、青山真治氏に会う機会があるので聞いておくとのこと。その返事が今日届き、要はキアちゃんってものすごく方向転換やできないことをやろうとし、キャメラマンもクビにすることがあるのでそのことが由来という。

 連休はどこにも行く予定を立てずわりと映画三昧。あとは某業界新聞にジャズ連載の原稿書き。アース、ウインド&ファイアー音楽担当の珍品「ザッツ・ザ・ウエイ・オブ・ザ・ワールド」、はじめと終わりにだけアースが登場し、演奏シーンに顔のアップがない理解不能作。有能プロデューサーをハーベイ・カイテルが演じ、彼にプロデュースを強引に頼む壊れた一家のジョイという曲が馬鹿馬鹿しい名曲。瀬々さんの「へヴンズストーリー」、賛否両論なんだろうなあ、4時間38分一気に観る。東北の廃墟の使い方が素晴らしい。「東京公園」は大胆な小津。幽霊の登場する場面。役者の使い方、近年の中でも突出して深く感動した作品。ホラー好きの榮倉奈々が突っ伏すと一番手前に転がるDVDのパッケージがドライヤーの「吸血鬼」だった。ジョニー・トー「MAD探偵」、久し振りに登板のラウ・チンワンの気違い探偵、容疑者が多重人格の場合、人数相応分の人間が目に見えてしまう。そこを絵にするトーのセンスはひたすら映画的。ただし、ラストのみ頂けず。

4月6日 アンドリュー・二コル「TIME/タイム」。この近未来世界で人間は25歳までしか生きられず、残りの人生は片腕に表記される時間=金をやりとりすることでいくらでも生きられることになっている。つまり金持ちほど長く生きられる。どのような展開になるのかと思っていたら、銀行強盗ならぬ時間強盗をしてまわる男の女の逃亡劇であり、まさに「暗黒街の弾痕」「夜の人々」「拳銃魔」に連なる作品なのだ。ほとんど読むところのなかったパンフレットの映画評論家の解説によれば、現代版ボニーとクライド、「俺たちに明日はない」のことだけにふれているのだが、映画は「暗黒街の弾痕」を明らかにリスペクトしており、それは女優さんのメイクを見れば一目瞭然で、容貌がシルビア・シドニーそっくりなのである。しかも役名も「シルビア」というのだから、気づいてあげたいところだろう。ふらりと入った劇場での予想外の拾いものだった。  スピルバーグ「戦火の馬」。なかなか書けずにいたが、スピルバーグでこれほど泣かされた映画もない。ジョン・フォードのドキュメンタリーで、スピルバーグは10代の頃、フォードに会いにいったという感動的なエピソードを披露しており、「壁に何が見える?」「‥絵です」「違う!何が見える?」「地平線です」「そうだ! 地平線は真ん中に置くよりも、上か下に置くと、いい映画が撮れるかも知れないぞ。以上、映画講義終わり!」。後は帰れといってスピルバーグを追っ払ういかにもフォード的なエピソードなのだが、「戦火の馬」は主人公が馬であるだけにフォードを想起せずにはいられず、ようやくスピルバーグも馬を撮るのかという感慨も重なり、目頭があつくなってしまう。グリフィス的クローズアップも父親の場面でみられ、少女が2頭の馬に付けた名前は二人のフランス人監督の名前に違いない。

 久しぶりに「博打打ち 総長賭博」「博打打ち いのち札」。小さなほつれがどんどん大きくなって最悪の悲劇に突入する。映画のテンションは始まった時点からどんどんあがり、観ているほうは気も狂わんばかり。どちらも100分前後、総長賭博はたった95分なのだ。なぜこのようなことが可能なのだろうか。僕がもっと体力もなくなってしまった老人になって総長賭博を観たならば途中で死んでしまうかもしれない。

2月15日 借金の残りを返済するため、明日は100発のパンチを受けます。耐えられるかわかりませんが、その間、100本の映画のことを考えようと思います。そして当日、会場となるトイレの喧騒の音が消えると、パンチの数と共に映画のタイトルと監督名、製作年度のクレジットが繰り返される。異様なテンションが継続する「CUT」のクライマックスだ。主人公は売れない映画監督であり、街頭でシネコンのクソ映画を唾棄し、かつての「映画」を観よとアジテーションする過激なシネフィル。こちらにしてみればよくぞやってくれましたと拍手喝采ものだが、多少気恥ずかしくもある。でもこれはありだ。おおありだ。クライマックスでは声をあげてしまった。フォード、ムルナウ、ドライヤー、ルノワール、ブレッソン、小津、成瀬、ヴィゴ、ロッセリーニ、グリフィス、ホークス、ヒッチコック、トリュフォー、キートン、フラー、コッポラ、ブニュエル、ウエルズ、オフュルス、レイ、ヴィゴ、清水、ラング、フラハティ、ゴダール、エリセ、相米、キアロスタミ、北野、大島、カサヴェテス、ヴェルトフ、タチ、ウルマー、ワイズマン‥出る出る。が、今村、ローチ、小林、フォアマン、スコセッシ、リード、市川、小林、新藤というのもあって。色々語りたくなる。

2月14日 イーストウッド「J・エドガー」。善悪の宙吊り。これもまたイーストウッド印、「真夜中のサバナ」を思い起こした。老けメイクはこれまで観たハリウッド映画の最高レベル。ディカプリオ、ナオミ・ワッツ共に驚くべき自然さだ。老けメイクが完璧なので、時空が忙しく前後しても観客はいっさい混乱することがない。もちろんイーストウッドの透明化したテクニックがそうさせていることは言うまでもない(「プライベート・ライアン」はこのくらいのメイクによって、マット・デイモンが老人本人を演じるべきだった)。老境のディカプリオが「市民ケーン」のオーソン・ウエルズにそっくりという畑中佳樹氏の指摘は面白い(そっくりというほど似ているとは思えないが)。フーパーの腹心トルソンにあたる人物は「市民ケーン」ではリーランド(ジョゼフ・コットン)として重なっている。「市民ケーン」のマザコンぶりは「ローズバッド」として封印されるが、「J・エドガー」ではヒッチコック!になってしまうという恐ろしさだ。ちょっと気になるのはディカプリオの眉間のしわ。スコセッシと組むようになってから深くなった気がするのだが、眉間にしわをよせなくとも深刻な顔は作れるわけで、根本的にどこか間違っているように思われる。

 近作で抜群に面白かったのはアレクサンドル・アジャの「ピラニア」。冒頭ピラニアに食われる男がリチャード・ドレイファス。「ジョーズ」の傷を自慢しあう場面で合唱した歌を、ボートの上で口ずさんでいる。ここからもうノレた。馬鹿な若者たちが馬鹿に描かれるほど、ピラニアに食い散らかされるシーンが生きる。どうせ下品にやるのなら徹底したほうがいい。「ピラニア」は徹底しているのだ。「孫文の義士団」は孫文を守る寄せ集め部隊が一人また一人と倒れ、そのたびに「仁義なき戦い」風に人物名が入る。これもよいのだが、クライマックスよりも前半の静かな人物描写に感心した。文字の読めない車引きが、ご主人に頼み、商人の娘に結婚を申し込む場面に涙する。

 アッバス・キアロスタミの子どもを描くうまさにあらためてうなったのは「トラベラー」。サッカーの試合が観たいがために、母親から金を盗み、フィルムの入っていないカメラで記念撮影をするといって子どもたちから金を巻き上げ、自分の所属するチームのミニサッカーゴールを勝手に売り払い、とにかくやることは極悪非道。しかし、ちっとも憎まれるようには描かれず、サッカー好きのただの馬鹿な男子で、何とかこの少年にサッカーの試合を見せてやりたいものだと思い始めてしまうから不思議だ。テヘラン行きのバスの出発時間は午後11時。子どもにとっては睡魔との闘い、2階からの脱出などもあってサスペンス描写になっており、キアロスタミの手腕はなかなか見事。サッカー場についたはいいが、すごい行列で、少年の前の男が買った時点でソールドアウト。このあとはダフ屋との攻防など馬鹿な男子っぷりが炸裂し、なかなかにワクワクさせる傑作だった。

 その他、「1000年刻みの日時計 牧野村物語」のラスト、今まで登場した村人たちが村の軍楽隊の演奏でカーテンコールよろしく、自分の名前をいいながら通り過ぎてゆく場面にも涙した。40年ぶりに「シェーン」。もともとノレない西部劇だったが、最後の決闘に馬で行くシェーン、それを走って追いかける少年。決闘現場に少年に追いつくのはおかしい、というのはケチのつけ過ぎかな。今観ると不思議だったので。

2012年1月4日 2011年は途方もない年だっただけに、今年はよい年になってほしいと心底思う。今年もよろしくお願い致します。 年末、マキノさんの次郎長三国志放映があってちょこちょこ見返していたが、このクオリティを今の日本映画が取り戻すことはないだろう、が、せめて「映画」になってくれていればそれでよしと、求める映画の水準は年々地盤沈下しているのが本音。これがどうしてという作品がヒットしたり、世評が高かったりすると、暗澹たる気持ちになってしまう。「空気人形」などもそうだが、空気人形のように中身のない、とされる周辺人物の描写は自主映画レベルの平板さでまったく不要であるし、ペ・ドゥナがかわいそうになってしまう。だいたい最初のヌードシーンが下品で観ていられない。女優さんは綺麗に撮らないと。せっかくキャメラにリー・ピンビンを招いてもとんとんのっていけない。三谷の「素敵な金縛り」は観る気も起きないけれど、「ザ・マジック・アワー」をテレビ放映していたので眺めていたら、テレビか舞台であって「映画」ではなかった。しかし本人は、画面に必要なものは何かを吟味して配置することを伊丹から教わり、それをしっかり踏襲して映画作りしていると自慢げに語っている。まあそんなことは本人から聞かずとも映画を観れば伊丹映画的であるのはよくわかるわけで、日本映画界はこんなに致命的に「映画」を撮れない方がのさばっている。

 マキノ襲名監督の「旭山動物園物語」も観ちゃったけれど、伊丹映画ってある種の流れを形成するほど大きいものになっちゃっているのでしょうか。思えば撮影所システムが崩壊しはじめた70年代以降(実質的にはさらに遡るが)、製作システム的にも角川映画が台頭したあたりからもうおかしくなっていたのかもしれない。日本映画にあまりがつんとしたものを感じないが(という以前にあまり観ていないのですが)、印象に残ったものはあった。豊島圭介氏のコメディセンスは期待したいし、「裁判長!ここは懲役4年でどうすか」はエピソードのみ物語なしという構成が妙におかしかった。横浜聡子は主人公よりも子どもの扱いが異様なほど面白いので、子どもばかり観ていた。今年は「CUT」に期待だな。最近は音楽の話はあまり書いていないが、昨年はここ数年でも突出してCDを購入した年かも。ほとんどジャズですが、時代がこうなので安易なチャリティだけはやってほしくないと思う。ジャズ以外ではティナリウェンが耳に残る。

 以下、昨年のベストシネマ(順不同)。(洋画 「ボディ・アンド・ソウル」(ロバート・ロッセン) 「悪の力」(エイブラハム・ポロンスキー) 「彼等はフェリーに間に合った」(カール・ドライヤー) 「ローラー・ガールズ・ダイアリー」(ドリュー・バリモア) 「ナイト&デイ」(ジェームズ・マンゴールド)  「ザ・タウン」(ベン・アフレック) 「ザ・ウォード 監禁病棟」(ジョン・カーペンター) 「アクシデント」(ソイ・チェン) 「密告・者」(ダンテ・ラム) 「ディバージェンス 運命の交差点」(ベニー・チャン) 「ミッション・インポッシブル/ゴースト・プロトコール」(ブラッド・バード) 「RED/レッド」(ロベルト・シュヴェンケ) 「パッセンジャーズ」(ロドリゴ・ガルシア) 「ヒア・アフター」(クリント・イーストウッド) 「ゴダール・ソシアリスム」(ジャン=リュック・ゴダール) 「アンストッパブル」(トニー・スコット)  「ワイルド・スピードX3 TOKYO DRIFT」(ジャスティン・リン) 「メカニック」(サイモン・ウエスト) 「ザ・ファイター」(デビッド・O・ラッセル) 「マチェーテ」(ロバート・ロドリゲス) 「キック・アス」(マシュー・ボーン) 「サロゲート」(ジョナサン・モストウ) 「吸血鬼ボボラカ」(マーク・ロブソン) 「恐怖の精神病院」(マーク・ロブソン) 「死体を売る男」(ロバート・ワイズ) 「過去を逃れて」(ジャック・ターナー) 「私はゾンビと歩いた!」(ジャック・ターナー) 「ビッグ・コンボ」(ジョーゼフ・H・ルイス) 「口紅殺人事件」(フリッツ・ラング) 「スカーレット・ストリート」(フリッツ・ラング) 「歩道の終わる所」(オットー・プレミンジャー) 「アスファルト・ジャングル」(ジョン・ヒューストン) 「エッセンシャル・キリング」(イエジー・スコリモフスキ) 「アンナと過ごした4日間」(イエジー・スコリモフスキ) 「出発」(イエジー・スコリモフスキ) 「早春」(イエジー・スコリモフスキ) 「スペル」(サム・ライミ) 「トイ・ストーリー3」(リー・アンクリッチ) 「柔道龍虎房」(ジョニー・トー) 「暗戦 デッドエンド」(ジョニー・トー) 「デッドエンド 暗戦リターンズ」(ジョニー・トー) 「ダイエット・ラブ」(ジョニー・トー、ワイ・カーファイ) 「スワンプ・ウォーター」(ジャン・ルノワール) 「プライドと偏見」(ジョー・ライト) 「マッドボンバー」(バート・I・ゴードン) 「地獄の逃避行」(テレンス・マリック) 「スプリングフィールド銃」(アンドレ・ド・トス) 「将軍たちの夜」(アナトール・リトバク)(邦画)「ショージとタカオ」(井手洋子) 「サマーウォーズ」(細田守) 「時をかける少女」(細田守) 「下町 ダウンタウン」(千葉泰樹) 「日本春歌考」(大島渚) 「みなまた日記 甦る魂を訪ねて」(土本典昭) 「徳川セックス禁止令 色情大名」(鈴木則文) 「エロ将軍と21人の愛妾」(鈴木則文) 「嵐を呼ぶ十八人」(吉田喜重) 「裁判長! ここは懲役4年でどうすか」(豊島圭介) 「ソフトボーイ」(豊島圭介) 「SR2サイタマノラッパー2 女子ラッパー☆傷だらけのライム」(入江悠) 「ジャーマン+雨」(横浜聡子) 「ウルトラミラクルラブストーリー」(横浜聡子) 

11月27日 札幌でもようやく公開された「ザ・ウォード」、初日に駆けつける。原題のタイトルの上に乗った、ジョン・カーペンターの文字を見ただけで胸が熱くなった。これは今年の僕のベスト1。病棟を刑務所ととらえれば、一種の脱獄ものであり、主人公の女性は脱出することだけに意識が向けられているところがまさに活劇になっていて、このシンプルさはイーストウッドにもスピルバーグにもない、まさに映画の王道をいっている。90分という時間に回帰するハリウッドの最近の傾向の中で、最も90分にふさわしい作品でもある。思えばカーペンターも70年代からずっと付き合ってきた映画作家だ。映画の王道を行く監督が、カーペンターといい、ジョージ・A・ロメロといい、ホラーというジャンルに今残っているというのは、本当に感慨深いものがある。ホラーをキワモノ扱いする、自称“映画好き”とはおさらばだ。

10月23日 連日帰りが遅くて全然映画が観られずストレスがたまる。本日ようやくイーストウッドの「愛のそよ風」。イーストウッド作品の中ではテンションが落ちるが、顔面破壊のイメージはこんな恋愛映画にも!と軽く戦慄する。今月はスカパーの受信機器がとうとう壊れたので、デジタル機器に乗り越え。各チャンネルが2週間無料受信できるので、休みの日にあるチャンネルをぼうっと観ていたら、「クレイマー、クレイマー」。ロバート・ベントン、悪くはないけれど、アクターズスタジオの心理的な芝居のオンパレードでなかなかつらいものがある。とくにメリル・ストリープの芝居が観ていられなかった。続いて流れた「カッコーの巣の上で」は公開当時以来の再見だが、物語の転がし方が無残で見ていられない。要するにあまりにべたべたの演出で、次の展開が容易に想像がつき、釣りに出かけるシーンあたりであまりにばかばかしくなってやめてしまった。業界事情で受賞が決まってしまうアカデミー賞はほとんどまともな評価ができず、最近も「スラムドッグ&ミリオネア」などのような信じがたい駄作に賞を与える迷走ぶりで(勘違いしたままイーストウッドに受賞させることもあるが)、アカデミー賞は無視するに限る。 そんなことよりもRKO、ヴァル・リュートン製作のホラーは映画を観る上で大いに勉強になる。たった70分で、いかに語り魅せるか。「吸血鬼ボボラカ」「私はゾンビと歩いた!」「恐怖の精神病院」を続けた観たが、いずれも傑作だ。スカパーといえば今月の衛星劇場はすごいことになっていて、「斬人斬馬剣」「忠次旅日記」「長恨」のデジタル復元版、「浪人街」を放映している。これを観ないでどうするんだって話。

8月16日 エイブラハム・ポロンスキー、「悪の力」。これはぜひ、ロッセンの「ボディ・アンド・ソウル」との2本立てで観たい。「ボディ・アンド・ソウル」はポロンスキーが脚本を書き、ジョン・ガーフィールドが主演であるから。アメリカ映画では何度もギャングムービーで主役というよりも、きれやすい脇の登場人物として登場したダッチ・シュルツの悪徳弁護士をガーフィールドが演じる。ジョージ・バーンズの撮影は当然特筆に値し、終盤の何も見えない銃撃シーンなど絶句ものだが、レッドパージという暴挙によって失われた無念の歴史が、この傑作の印象を格別に痛みを伴うものへと変貌させてしまう。レッドパージほど、「アメリカ」と「アメリカ映画」がまったく別物であることを理解させてくれる出来事はないだろう。一本の映画の脚本に投入する情報量の多さは半端なものではない。思いつきのアイデアがいかに面白いものであっても、それが映画として成立するためにはさらに二つ三つ四つと映画的感性を必要とする展開が必要であろうし、映画の現場においては脚本との葛藤を踏まえた「活劇」を獲得する闘いを求められるだろう。レッドパージはそうしたアメリカ映画の充実を無残に奪い取った無念の傷跡でもある。「悪の力」はギャングの実話を題材に、格調高い古典悲劇の域にまで到達させた傑作であり、同時代のアメリカ映画で今なお回顧される類の作品の上位に、容易にランクされるような闘いを求められるのだということを真剣に思う。

8月15日 親友の大病でお盆休みは見舞いに上京。といっても、現在は自宅で療養中で、お酒も飲めるということなので、結果的には二日間にわたって痛飲。大丈夫だよね。合間CDを買い漁り、スコリモフスキー新作!「エッセンシャル・キリング」へ! 面白いだの、傑作だの、衝撃作だの、といった言葉では到底括れず、こんな出逢いがあるから映画はやめられないのだとだけ言って口を閉ざしてしまいたい…。米軍に追われるタリバンが登場するからといって、政治的な文脈で語ってはいけない。この男の逃げる理由を詮索する必要もない。我々はこの男が生き延びるために殺し、食い、森の中をさまよう様をひたすら凝視し続けるほかない。極限状況におかれた男のとる行動は衝撃的ではあるが、紛れもない活劇であるがゆえに感動的なのだ。今これほど美しいショットを撮れる監督が何人いることだろう。しかも論理ではなく出来事の連鎖によって物語が転がっていくという極めて映画的な展開の中で、ショットをきめていくという素晴らしさだ。そして説明不要のものはいっさい説明しない気持ちよさ。ヴィンセント・ギャロは一言も台詞をしゃべらない。その一方で、聞かれる自然音は極めて繊細な神経をもって強調されている。さまざま登場する動物も素晴らしかった。どんどん増える野犬のシーン。ヒッチコックを想起させる戦慄シーンだが、ヒッチコック同様にあれもなぜを問うてはいけない。これが映画なのだ。そして最後に登場するのが白い馬だ。背景のない男が登場し、極めて映画原理的な展開をみせ、そして馬でしめる演出とは何なのであろう。そう書いてしまえばまるで西部劇ではないか。そして、ゴダール、イーストウッド、スコリモフスキーの新作が観られる今年とは! 今高齢の映画監督が最も過激な作品を発表していることの意味を真剣に自覚しなければいけないと思う。

7月3日 先日の「過去を逃れて」の興奮冷めやらぬうちに、ロッセンの「ボディ・アンド・ソウル」。長年観たかった作品がまたしても。ジョン・ガーフィールドの存在感がすごい。すっかりフィルム・ノワール気分になってしまい、本日はオーットー・プレミンジャー「歩道の終わる所」、フリッツ・ラング「スカーレット・ストリート」「口紅殺人事件」を立て続けに。ダナ・アンドリュースという俳優を堪能する。たしか、ウィリアム・A・ウェルマンの「牛泥棒」で吊るされていた…。「L.A.コンフィデンシャル」のラッセル・クロウの元イメージはダナ・アンドリュースではなかろうか。「口紅殺人事件」はアイダ・ルピノにも惚れ惚れとしてしまう。この方、女流監督の先駆けでしょう。ドリュー・バリモアの遥か昔に、あんな顔して、こんな映画撮っちゃうという。片目が閉じない殺人鬼が登場する「ヒッチハイカー」! 俳優の撮る映画の面白さは、イーストウッドやカサベテスを筆頭に、チャールズ・ロートンや田中絹代、有能な師匠を得るともっとすごくなるだろうベン・アフレック、微妙なショーン・ペン、ちょっと困るかものレッドフォードなどなど考えてみると面白い。

6月29日 観たい観たいと念じていた映画はいつかは観られるものだ。その念願を果たした一本が、カール・ドライヤーの「彼等はフェリーに間に合った」だ。何せ膨大な数の映画タイトルが登場する「映画千夜一夜」を読んだとき以来。山田宏一がわずか10秒ほどで物語を語りつくせるほどシンプルで、実際12分ほどの短編映画、いやスピード違反に関するキャンペーン映画なのだが、トラックを運転する死神がふっと笑う瞬間が怖くて怖くて。この戦慄すべき短編はやがてスピルバーグの「激突」を生み出すことになる。それから最近はジャック・ターナーの「過去を逃れて」ですねえ。フィルムノワールってどうしてこんなに面白いのだろうか。

6月9日 布川事件の再審無罪が確定したという。彼らの十数年を追ったドキュメンタリー「ショージとタカオ」はなかなかの面白さで、それは彼らの冤罪となった背景を暴こうというよりも、もろにこの二人の人間味に迫った点にあるように思う。冤罪だといいつつも、この二人、若かりし頃は自他共に認める“チンピラ”で、警察に疑われてもしょうがない素性だったらしい。さらに面白いのは二人はもともと仲が悪かったということ。しかも、ショージはタカオなら殺人、間違いなくやるだろうと思っていた点だ。殺人事件の容疑者として先に拘束されたのはショージで、何をどういっても警察は自分を陥れる姿勢が崩れないことに半ば絶望し、やりましたと告白して、タカオをちくれば、自動的に自分の無罪の証明につながるだろうと思ったのだ。つまり、ショージとタカオというコンビ名で二人の名前が売れてはいるけれど、もともとの根底には実にどす黒いものが流れていたのだ。このあたりのタカオの複雑な心境(といって済まされる次元のものではないだろうが)は、何せ拘束から40年もの年月を経ているため、うらみますよのレベルなど、すっかりとんじゃってるわけで、人間、何十年も経つと、こんなにあっけらかんとしちゃうのかという、ものすごいものを感じさせる(しかしながら、支援者の会のおばさんが、突然タカオに、そんなに斜に構えていてどうなのよと突っ込むシーンがあって、ここ、タカオの本音に迫るちょっとした見所)。 この作品は二人が出所し、浦島太郎の状態からいかにシャバに溶け込むか、というドキュメントとしても面白い。両者とも時間差があれど、驚くべき順応性の高さで、当初は切符を買うのも、公衆電話をかけるのも覚束ず、女子高生のスカートの短さに冷や汗をかくほどなのだが、しばらくもすると携帯電話をつかいこなし、とうとう彼女もでき、タカオの場合は子どもまで授かるたくましさ。社会復帰までのスリリングともいえる道のり、二人の強烈なキャラ、こうした部分に井出監督の視線は広がっており、単なる冤罪追求のドラマには終わっていない。何十年も刑務所暮らしをすると、わさびなどの辛さにはてんで弱くなり、頭を抱えるショージの姿にも爆笑した。 僕が最もこの作品に心惹かれたのは、二人がチビとノッポであることだ。あちこちで指摘される、サッコとヴァンゼッティ、つまり映画「死刑台のメロディ」にもなった事件が本作のタイトルの語源だろうというわけだが、映画史におけるチビとノッポ、デブとノッポ、凸凹などといった系譜を考えれば、ハリウッド草創期のスラプスティックギャグの時代までさかのぼり、何より絵になっていることが感動的なのだ。出所日自体異なるので、冒頭の出所シーンをはじめ、二人が綺麗に並んでシーンはさほど多くない。監督はどこまで意図したかは不明だが、チビとノッポが正面から手前に歩いてくる決定的ショットがあり、そのシルエットがとても映画的だったと思う。

5月28日 物語を連続して語るのではなく、ぽつりぽつりとエピソードを提示しながらショッキングなラストを迎えるロドリゴ・ガルシアの「パッセンジャーズ」、遅ればせではあるが、なかなかの傑作だった。飛行機が墜落し、わずかに生き残った乗客のカウンセリングを始めるアン・ハサウェイが主人公で、乗客たちの証言から墜落事故がパイロットのミスではなく、飛行機会社の怠慢経営が原因である疑惑が浮上する。証言をもみけそうとやっきになる飛行機会社の思惑から、一人また一人と生き残りの乗客たちが消え始める。一方、生き残った乗客の一人の男性だけがやたらと元気で、アン・ハサウェイに積極的にアプローチをかけ、ついにはカウンセラーと患者という一線を越えてしまう…。これを本筋に、一見物語と無関係のエピソードがアン・ハサウェイの周囲に挿入され、これが不気味でしようがない。彼女にほとんど意味もなく近づいてくる登場人物が印象的で、そうかと思えば些細なことから音信普通となった姉とはまったく連絡が取れず、登場する気配もない。本筋と意味不明のエピソードが絶妙の配合で提示され、説明し過ぎない加減がまた絶妙なので、最後まで魅せられてしまった。ロドリゴ・ガルシアというのはかなりの監督ではないのか。

 昨日はジピーホールにて板橋文夫クインテットを堪能する。川嶋さんのフルート、初めて聴いたがなかなかのものだった。瀬尾君と竹村君、あの長丁場でまったくパワーダウンしないのは実に立派だよ。ウッドベースにピックを使って津軽三味線までやってしまう瀬尾君の、ウッドベースの可能性を開拓する心意気には打たれるものがある。

5月22日 一昨日まで函館出張。今回こそleafに行こうと思い、宿も五稜郭方面にとって夜うろうろするがみつからず。まさか閉店?と思いつつ、翌日駅前周辺で中華屋を探していたら偶然発見。マスターのお話では2月に移転したばかりとのこと。以前のスペースの半分になったというが、木のぬくもりと手作り感漂う内装で、しっかり昔から存在するジャズ屋さんっぽくて心地よい。20分ほどしかいられないのが残念だった。それにしても先日の、くうでの坂田明と梅津和時のバトルは面白かった。咳払いしてジャケットを脱ぐだけでおかしい坂田さん、まさか「ひまわり」が聴けるとは。バスクラとアルトクラの響きには絶句するものがあった。 三池版「十三人の刺客」、昨今の時代劇リメイクよりはじけて面白い。が、ちょっと褒められすぎという気も。役所さんが「みなごろし」と書かれた文字を稲垣吾郎に見せるところでちょっと涙腺が緩む。三池作品で涙腺が緩んだのは初めてだ。よりによってSMAPの稲垣君をキャスティングするセンスは素晴らしいと思う。 最近我が家からDVDを借りまくっていった女性がすっかりジョニー・トーにはまり、「ヒーロー・ネバー・ダイ」を観て「ジョニー・トー、はんぱねえ!」と興奮気味のメールをくれたのに笑ってしまう。なんたって「ヒーロー・ネバー・ダイ」だからね。僕はこの作品がトーの中で一番好きかもしれない。世の中にジョニー・トーほど携帯電話(あるいは普通の電話)をうまく使う監督はいないだろう。だいたい「ザ・ミッション 非情の掟」にしても襲撃を免れた組織のボスが冷蔵庫の中からかけた一本の電話からあの連中が召集されるのだし、日本人の演じた切れ者の殺し屋の運命を定めるために、携帯電話をテーブルの上に置いて一夜を明かすのだ。また、ボスの女と寝てしまった相手が発覚する場面にも携帯電話が使われる。トーにとっての携帯電話は物語の起動装置として扱われている。「PTU」も海岸沿いの電話ボックスに主要メンバーが集結し、3つ巴の銃撃戦を繰り広げる。「アンディ・ラウの麻雀大将」では、ラウが久々に母親に電話をかけると、認知症の進んだ母親が電話の子機を持ったまま家を飛び出し、ラウと遭遇する。傑作「ブレイキング・ニュース」では携帯が包囲する警察を撹乱する装置として機能し、切れ者の犯人はついに携帯電話の扱いが裏目に出て追い込まれるはめに陥るのだ。 ロバート・ロッセンの「ボディ・アンド・ソウル」が早く観たい。

5月5日 連休中、上京。東京は飲み食いにはホント最高の街だと実感する日々。馬場の鳥やす、焼き鳥一本60円からはじまっちゃって串盛りは490円、ナムルのしゃきしゃき感も素晴らしい。馬場なのでイントロ、久しぶりに訪ねたが、超名盤ばかりかかる選曲が不思議だった。帰りに飲んだ新宿の岐阜屋は中華飲み屋で、しょんべん横丁独特の混雑と店構え、そして会計後ニカっと微笑むオニイチャンの笑顔に大満足。20年ぶりに行った渋谷の台湾料理店、麗郷も当時とまったく変わらず、腸詰、しじみ、ビーフンをさかなに昼間っからメートルがあがる。中年のベテラン店員4人がどっしり構えていて、無愛想なようでしっかりプロの動きをするのが大変心地よい。もちろん近いので、226慰霊塔も参ってきた。新宿の老舗バー、イーグルはバーボン一杯300円からというのも衝撃の安さだった。アケタの店でライブを聞く前に飲んだ西荻の飲み屋街は、歩いただけで住みたいと心底思う。瀬尾君参加のベース・アンサンブルはノリノリの内容で、アケタさんお勧めのラーメン屋丸福で再びメートルをあげる。 中井の林芙美子記念館は一見の価値ある建築物。風通しのよさをテーマに相当考え込んで作られた設計は素晴らしいの一言。中井駅前を地図をみながら歩いていたら、「林芙美子さんのところですかあ」とおばちゃんが話しかけてきて、そこのボランティアなんですよとスタスタ追い抜いていく。このおばちゃん、鹿児島出身の独り者で、まあよくしゃべり、ほぼ1時間にわたって林芙美子邸の特徴を叩き込まれる。居間、アトリエ、はなれ、すべての建物を真横からみると50センチずつずれて建てられている。他の特徴は忘れてもここだけは覚えといてくださいとおばちゃん。設計は山口文象で、ほっとくと奇抜にされるので林は相当口を出したらしい。「実はこのご近所に文象設計のおうちがあって、私訪ねたんですよ。実に住みにくいといってました」とのエピソードに爆笑する。林芙美子邸をみながら成瀬巳喜男映画のことを考えていたが、成瀬さんの墓参りにも行ってきた。小田急線の駅からいくとめちゃくちゃわかりにくい。地図片手に枝番チェックしまくりで到着できたが、あの複雑な住宅街を迷わず進むのは困難極まりない。NHK技研前に到着するバスで向かうのがベスト。

4月6日 スコリモフスキー、「早春」。童貞のオニイチャンが大暴走する、ぶっとんだ映画。めちゃめちゃ面白い。告知です。5月10日に、くうで映画音楽秘宝、開催します。テーマは「夜と闇にうごめく人々~“物語”から飛翔するシネマの快楽」。いろいろ検討中ですが、ジョニー・トー、メルビル、鈴木英夫、スコリモフスキーなど予定しています。

3月28日 昨年予告編をみて、これはいいかなと思って観ていなかった「ナイト&デイ」、ものすごい傑作で驚かされた。ヒッチコックを今最も理想的な形でやってしまった映画といえるだろう。「マクガフィン」である。何の意味もない永久電池が映画を圧倒的に牽引していく。何か往時のハリウッド映画を観ている様な感覚があったのは何なのだろう。もっといえば、引き合いに出す作品はヒッチコックでなくともよい。50年代までの映画全盛時代の登場人物たち、それは過去も未来もなく、ひたすら自分の置かれた立場、役割、職業だけを純粋に遂行してゆく。演技や描写によって心理など描く必要はない。今目の前に起っているアクションがすべてを説明しているのだから。アクターズ・スタジオ系の芝居がいかに「映画」から遠ざかったものであるのかをトム・クルーズは理解あるいは本能的に知っている。来日したトム・クルーズにインタビューすべきなのは、その映画的記憶、あるいはアプローチの方法だろう。「3時10分、決断のとき」にいまいち乗れず、「ナイト&デイ」が傑作であるのは、両方の監督ジェームズ・マンゴールドが脚本に左右されたと考えるよりも、トム・クルーズが「映画の人」だからだと思う。そうか、書いていてあらためて思う。心理など描く必要はなく、登場人物たちが自身の役割を遂行していくこと。まさにそれこそが「西部劇」だ。もちろんそこに「真昼の決闘」などは含まれない。「決断の3時10分」が素晴らしく、リメイクである「3時10分、決断のとき」がだめだと思ったのは、決断の理由を主人公が述べてしまうからだ。過去などとうとうと述べる必要はないのだ。イーストウッドの西部劇の聡明さも、もちろんそうした面を継承していることは言うまでもない。コーエンの「トゥルー・グリット」、未見だが本当に大丈夫なのか。 その他最近。ウォルシュ「死の谷」再見、最高。ジャン・ルノワール「スワンプ・ウォーター」再見、最高。「キック・アス」、かなり面白い! ぐわっと盛り上がる場面で、なんとエルヴィスが流れる。さらに10点増し。そして鈴木則文、「徳川セックス禁止令 色情大名」「エロ将軍と二十一人の愛妾」。マキノさんの不肖の弟子、則文さんの映画祭りだ。映画をジャンルで観てはいけない。映画好きを自称するのであれば、則文さんをも観なければ映画の豊かさを著しく欠く体験になってしまうだろう。タイトルだけで笑ってしまう「徳川」は爆笑必至。しかも豊かな映画的サービス精神に溢れた、驚愕の傑作だ。

3月27日 色々と書きたいことがあったのだが、東北の大震災で何も書く気がなくなる。大槌町のクイーン、釜石のタウンホールのマスターたちの消息が心配で、まさか今年の年賀状のやりとりが最後になってしまうのではないかと、数日間はそれを追うことだけで気持ちが一杯だった。いち早く消息情報を求めたのは坂田明氏で、タウンホールのマスターの消息が数日でつかめ、ついには本人の「必ず再開します」とのコメントが寄せられ安堵する。坂田さんにも感謝したい。大槌の佐々木さんは避難所名簿を一つ一つチェックし、一度名前を発見するが複数の避難所に名前があってどうやら同姓同名の方がいるらしい。確信できたのは岩手ジャズ愛好会の情報で、東北ジャズ喫茶マスターたちの結束力の固さにあらためて感嘆した。佐々木さんは親類に救出され、名古屋に移動したという。途中、ベイシーに寄り、何もなくなった、老眼鏡だけをもって逃げた、本物のコーヒーは久しぶりだ、と菅原さんに語ったそうだ。 クイーンは1964年に開業した東北で最も古いジャズ喫茶。半世紀にわたって蓄積されたあのレコード、CDと本の山、居心地のいい空間、扉、ぽかぽかとした春の陽気に線路脇の鉄柵の影が地面に映り込んだジャズ喫茶までの道のり、時報を告げる「ひょっこりひょうたん島」ののどかなメロディ、2度目に訪問した際は小雨の中を駅までマスターが送ってくれた。あの忘れられない風景がすべてないのか。被災された方々の喪失感は想像もつかないし、一瞬にしてすべてを失ったジャズ喫茶マスターの喪失感も想像がつかない。が、生きているだけでいいと思った。それがわかった瞬間、わっと涙があふれ、このじじいめと笑ってしまった。

3月6日 「ヒア アフター」、どこに物語が転がっていくのかまったく予想のつかない展開。3つの話の同時進行を呆然と観ていた感じ。マット・デイモンと少年がいい。イーストウッドさん、パンフのインタビューでオリベイラの年齢について語っており、本当に100歳を過ぎるまで映画を撮るかもしれない。 ドリュー・バリモアが監督、出演した「ローラー・ガールズ・ダイアリー」、ものすごい傑作で驚かされた。説明的なクローズアップは容易に回避しつつ、ただただ映画的な運動だけで物語を転がしていくセンス。旗を振ったり止めたりするだけで、映画はこんなに可笑しくなってしまうものなのか。縦の構図を使った人物描写も絶妙。手前の登場人物が感情的なやりとりをしているのだが、奥に配置された人物はそれとはまったく無関係の行動をとっており、しかもピンが合わないままになっていることで、くすくすとした笑いを誘うシーンに変貌してしまっている。映画俳優の家系で小さな頃から出演していると、「映画」が体に染み込んでしまうものなのか。マキノさん、とまでは言わないが、ドリュー・バリモア、もはや只者ではない。この作品の出演の仕方も、4番手5番手くらいのポジションにいるのがいいし、黒沢清や北野武くらいの引きのキャメラで表情が収められ、天才的なセンスを感じさせる。3月5日 とあるところから、映画とジャズについての短文の依頼を受け、ジョン・ウエインとアルバータ・ハンターについて書く。ジョン・ウエインの話を書くにあたって「駅馬車」の初登場シーンを再見していたら目頭が熱くなった。走る駅馬車に銃声が一発。それはジョン・ウエイン=リンゴー・キッドが駅馬車を止めるための銃声で、キャメラがウエインに向かってぐっと寄っていく。クローズアップになる一瞬手前で、右手に持っていたウィンチェスターをくるりと一回転させる。そしてウエインのアップ。キャメラがウエインのショットに切り替わってからわずか5秒。あまりにも有名なシーンだが、このたったの5秒はすべての始まりを告げる永遠の5秒だ。 昨晩は脚本家の友人がロンドに来て、楽しく飲む。イエジー・スコリモフスキの話題やら何やら。「早春」早く観たい。ブラームス、なかなかに面白いのだそうだ。 監督としてろくな作品がない(だろう)バート・I・ゴードンの「マッドボンバー」、タイトな低予算の傑作というわけでもなく、あちこちに一貫性のない、というか筋の通らない演出ぶりが観られる作品なのだが、「普通」でありつつ、突出した場面が際立ち、実に面白い。爆弾の入った紙袋を抱えて歩き回るチャック・コナーズの風情がもう最高。この人、娘さんを亡くしてから世の中にいらだつ度に爆弾を置いて回る、まさにマッドボンバーで、かなりやさぐれた刑事とレイプ常習犯のネビル・ブランドが絡み、観客は誰にも感情移入できないまま目撃するしかない。が、爆破シーンなどカットを変えて過剰に見せる必要性などないのだし、物語の整合性などなくても十分に映画は成り立つことをばっちりと見せてくれる傑作といってしまいたい。 

2月17日 「ザ・タウン」、なかなかの作品で、ベン・アフレックというあまりぱっとしなかった俳優をすっかり見直す。だいたいアメリカ映画の銀行強盗ものだからお家芸みたいなところがあって、冒頭の強奪シーンがまず秀逸。その銀行の支店長がすごい美人で、襲撃したベン・アフレックと結果的に恋におちてしまうところが目新しいプロットだが、そもそも銀行の支店長にこんな美人がいるのかという疑問は、サム・ライミの傑作「スペル」を観ていたので、あまり持たずに済んだ。ちょっと残念なのはかなりのプロ集団である強盗4人組の友情にあまり力点が置かれなかった点。これが例えばジョニー・トーであれば、反目しあいながらも食事をとる場面で一瞬にして男の絆を描き、「ハート・ロッカー」のお兄ちゃんの死に花も見事に咲いただろうに。また、追いかける刑事(ここではFBIだが)もリノ・バンチュラくらいの機微のある俳優と脚本をもってきて、ぐっと泣かせる映画にしただろう。最近のアメリカ映画(とくに9.11以降)はあまりそちらの方向にいかないし、そこまでの贅沢をいうつもりはなく、これだけどんぱちをみせてくれたら十分ですという満足感のある作品だった。ほか、土本さんの「みなまた日記」など。遺作は祈りの映画だったのか。脚立をもってみなまた病患者の遺影を撮り歩く姿に深く感動する。ぶらりとDVDショップをのぞくと、「ビッグ・コンボ」を発見。即購入。イエジー・スコリモフスキに関する書籍の帯、「君と僕は世界一優秀な映画監督だ」というゴダールがスコリモフスキにあてた手紙の文面に大笑いし、こちらも即購入してしまう。

2月14日 三池版「十三人の刺客」がやたらと評判がよいので、のこのこと蠍座まで出かけると予想外にも満席であきらめ、自宅にてたまっていたDVDを鑑賞。ジョー・ライトの「プライドと偏見」。18世紀のイギリス中流家庭に生まれた娘たちの恋の顛末。「いつか晴れた日に」といい、ジェーン・オースティンの世界は、終わりにもやもやがどかんと晴れて、どっと泣かせる。「いつか晴れた日に」のぱーっと晴れわたるラストの転調はものすごかったが、「プライドと偏見」も父親の愛情がしみじみと伝わり、幸せな気分に包まれてしまう。続いて観たイエジー・スコリモフスキの「アンナと過ごした4日間」は、うらぶれた中年男のあまりにむくわれない愛の物語。時間軸の交錯のさせ方が巧みで、いったいここがどこだかわからないほど無国籍で荒廃した田舎町の風景に、異様な行為を重ねる中年男の日常がスリリングに積み重ねられる。男の行為は常軌を逸しているがあまりに純粋無垢で、それ故に滑稽で哀れに映る。構図、編集、ショット、音、いずれもテンションが高く、トータルで異様なアクション映画を観てしまった印象。川を流れる牛の死体、泥に足をとられて転倒する男、深夜に突然降下するヘリコプターなどなど。音楽の使い方も尋常ではない。当初過剰に感じたが、この作品の肌触りを増幅し、血肉と化す。とうに70を超えたスコリモスキ、やはり只者ではない。「イースタン・プロミス」のあの親父さん、たしかにこんな作品作りそうな雰囲気あったものな。

2月8日 ヤン・イクチュン、「息もできない」。ひたすら殴り続ける映画。韓国にはこんな才能も登場したのかと戦慄する。しかし、次はどこへ行くのか、心配になる。千葉泰樹、「下町 ダウンタウン」。ようやく観られた。三船敏郎と山田五十鈴のやりとりを観ているだけでいい。サム・ライミ、「スペル」。ホラー+コメディはこの人のお家芸。ホラー部分が徹底しているからこそ、笑いの反動も大きい。天井から重い物が落ちてきて顔面が半分につぶれ、目玉が飛び出すギャグなどハリウッドはおろか、世界中の誰もがやらないだろう。サム・ライミは立派だ。ブルース・キャンベルがどこかに登場していてくれれば、もっとうれしかった。

2月7日 工藤美代子氏が三笠宮崇仁親王、百合子妃に行った貞明皇后を巡るインタビュー「母宮 貞明皇后とその時代」もなかなかに読み応えがあった。阿南陸相が1945年8月14日の時点で三笠宮のもとを訪れ、昭和天皇がなんとしても降伏の決意を翻し、戦争を継続するよう口添えしてほしいと懇願するのだが、あっさりと断られる。百合子妃は防空壕のある谷坂からの登り道を阿南惟幾陸相が肩を落とし、なんとも寂しそうな後姿で帰っていく様を目撃している。その後、三笠宮は御所に伺おうとするが、徹底抗戦すべしと事前まで三笠宮と怒鳴りあっていた将校が、宮城周辺は危険だからお止めするように、と制止して帰っていったという。どうやら、玉音放送録音盤奪取事件が起こることを知ってのことらしい。阿南が三笠宮のもとを訪れたのは14日の午後6時30分を回ったあたりのこと。阿南はこの朝、ポツダム宣言受託を巡る最後の御前会議に出席し、即時終戦の御聖断を聞く。その後クーデター計画中の将校に決心変更を迫り、それでも納得いかぬなら、この阿南を斬れと一喝。前線各軍への伝達を指示し、戦争終結が打電される。この作業が終了したのが午後6時前と推定され、阿南は最後の一縷の望みをかけ、三笠宮を訪れる。すべてが終わったことを諭された阿南は、日付が15日に変わった夜半、自刃する。ちなみに、二・二六事件当時の阿南は侍従武官で、重症の鈴木貫太郎を助け、事件後、部内粛正、軍紀厳正化に務めた。 夏の陽が暮れなずむ坂道に、寂しそうな後ろ姿が見えたという阿南最後の一日、そして、一方で起こる玉音放送録音盤奪取事件、いかにもドラマチックな歴史的事実がこの本の中で語られていくが、また面白いと思わせるのは陸大に学んだ三笠宮の、バランス感覚にすぐれた戦争観にもある。戦争に負けた理由は、東條や杉山がいけないといった次元での問題ではなく、明治維新の際の陸軍建設以来の問題が尾を引いているという。新政府は陸軍はフランス式、海軍は英国式に整備を開始するが、ヨーロッパにおいてフランスとプロイセン間で普仏戦争が勃発、ビスマルクのプロイセンが圧勝する。この王国はやがてドイツ帝国を形成し、この勢いを見ていた日本はドイツ式にその範を切り替える。ところで、戦術には大きく分けると決戦戦争と持久戦争の二つがあり、明治初期の日本がモデルとしたドイツ軍の戦略はまさに決戦戦争。決戦戦争とは短時間で一挙に敵を撃滅して勝利する方法だが、結果的にドイツは第一次、第二次世界大戦ともに持久戦に持ち込まれ、降伏する。これは日本の太平洋戦争においても同様の結果をもたらしたのだといえる。三笠宮は陸大の戦術講義はほとんどが決戦戦争のもので、持久戦争の研究にもっと時間を割いていたなら、対英米戦争ももう少し違った結果になったのではないかと振り返っている。 

 三笠宮の話は戦う前提条件となる戦術から、予期せぬ事態を学ぶ戦史の重要性に及び、予期せぬ様々な要素として、司令官の性格、指揮能力、参謀の戦術能力、一般兵士の力量など枚挙にいとまがないとする。面白かったのは兵士のローカル色で、九州出身の兵は昼間の戦闘に強いという。なぜなら、九州人は君主のご馬前で名誉の討ち死にをしてでも名を末代まで残そうとする伝統を戦国時代からもっていたから。反対に東北人は上官の命令通り任務を黙々と遂行する伝統があり、夜間の戦闘に強かった。西南戦争以来弱かったのは大阪、京都で、あそこはもう商売が先だから、勝ち戦なら行くし、負け戦なら逃げると損得勘定を昭和天皇の弟が語ってしまうところが笑ってしまった。

2月2日 松本健一氏が賢崇寺で行われた「二・二六事件七〇周年」の法要で講演を行ったことは、末松太平氏のご子息の運営するホームページで知っていたが、「畏るべき昭和天皇」にそのときの様子が描かれている。松本氏は、もし二・二六事件の渦中に身を置くとするならば、青年将校の側に身を置くだろうと明言される方だが、「天皇の処置が政治的に正しく理性的な判断だったとすると、青年将校たちの行為はテロであり、彼らは「国賊」と規定されることになるのか」、といった途端会場に緊張した気配が漂ったという。松本氏は北一輝の研究をはじめた六〇年代、北の故郷である佐渡ヶ島で、「北さんは何しろ国賊だから」といって北の手紙を見せてくれようともしなかった世間的風潮を目の当たりにしている。また、松本氏が「評伝 北一輝」で毎日出版文化賞を受賞した際、ある女性が「長い間二・二六のことを書いてくださってありがとう」とお礼を述べたという。その理由を尋ねると、女性は安藤輝三大尉の姪で、「安藤を慕ってくれる部下の方は多いのですが、社会的にはもちろん、身内の中にもあれは国賊だという意見が多く、戦後六〇年経った今まで安藤の姪だと名乗ったことはありませんでした」と告白した。賢崇寺の法要で遺族や関係者の顔に鋭い緊張感が走ったのも、「国賊」という言葉を松本氏が口にしたからに他ならない。 「畏るべき昭和天皇」は二・二六事件を皮切りに、北一輝、三島由紀夫、戦争責任、民主主義といった切り口から昭和天皇と天皇制の本質にまで言及する力作で、縦横無尽に昭和史を往来しつつも、再び心の棘としての二・二六事件が浮上する。そして、エリザベス女王が来日した際、昭和天皇とグラスを傾け、乾杯する一枚の写真。その中央に写っている通訳官は真崎秀樹、つまり皇道派、真崎甚三郎の息子である。もちろん、昭和天皇は真崎大将の息子であることを知っており、あえて呼び寄せたものではあったが、松本氏は、天皇がGHQと同じように、二・二六事件を「民主主義的改革」と認め、事件関係者の罪をゆるしたことを意味するのかと自ら問いかけ、NOという答えを提示する。つまり、昭和天皇は心の棘を抜くことができなかった。二・二六勃発直後、陸相官邸に駆けつけ、青年将校たちと共に軍上層部にかけあった斎藤少将の娘、斎藤史が皇室最大の文化的行事である歌会始に召人として招かれたのは、昭和天皇の死から八年後のことだった。

 二・二六事件で、昭和天皇の「御聖断」が正しく理性的な判断と考える限りにおいて、北一輝や青年将校は国賊であったのかという問いは避けては通れない問題だ。二・二六事件の渦中に身を置くなら、青年将校の側に立つという松本氏は法要で行われた講演で、当時の国民の六割が農民であり、徴兵制度の布かれた国民国家にあって、国民軍はすなわち農民軍であったという本質を踏まえる。昭和七年から九年にかけて続いた東北地方の凶作によって、全国の欠食児童は二〇万人を超え、農村では老父母の自殺、娘たちの身売りが相次ぐ。政治は農村の疲弊に何ら手を差し伸べず、二・二六の青年将校は徴兵による農村兵を部下に持つ。「もし天皇が二・二六事件に対して、自ら政治的処置を下されるなら、なぜそれよりも前に『飢えた農民』を救う政治を行ってくれなかったのか。これが『国賊』と呼ばれることになった青年将校たちの真情なのではないでしょうか」。そう語ったとき、記念講演の席上はシーンと静まり返り、涙とも安堵とも歓びともいえぬ表情が浮かんだという。

1月15日 過去に放送されたエルヴィス・プレスリーの5時間スペシャルを正月に堪能し、エルヴィス熱がますます高まる。今最も気になるのは68年のエルヴィス。ハリウッドとの契約に拘束され、歌手としての活動がまったく出来なかったエルヴィスが、テレビを舞台に復活し、そのあまりのカッコよさに目も心も奪われてしまった。当時全米視聴率70%と言われたラスベガス・ライヴは、素肌に革ジャンといういでたちで、ハリウッド映画に長らく出演した経験もあってか、顔の輪郭も綺麗で、エルヴィスが男性として最も脂ののった時代に見受けられる。当初マネージャーのパーカー大佐は、クリスマスショウとして企画を進めたというが、エルヴィスは初めて大佐に反抗し、自身の好きな歌を歌った点もショウの価値を高めている。ただし、観客を入れてのスタジオライヴだが、立って歌うことは厳禁という制約があった。ライヴといっても観客の中央にステージを作って演奏メンバーと円形状に座り、雰囲気はむしろセッションに近く、ここでどうしても立ち上がって歌いたいと、じたばたとする様子がまたいいのだ。スペシャル番組ではモノクロで撮影された初期のエルヴィスのステージが紹介され、メンバーがいつも同じであることに何となくエルヴィスの人柄を感じ、感心していたのだが、彼らがテレビショウのステージにも登場していて、昔話をしながら演奏するのがまたしびれる。ギターはスコッティ・ムーア、パーカッションはD.J.フォンタナだ(いいミュージシャンは名前までカッコいいものだ)。通称、ブラック・レザー・シットダウン・ショウと呼ばれるそうだが、リラックスしながらも、猛烈にグルーヴを生み出していくドキュメントでもあって、エルヴィスのすごさの片鱗にふれ、個人的なロック・ブームはまさにここから始まらなければならなかったのだと実感した。

1月14日 「アンストッパブル」、傑作だった。列車が暴走するだけの話を90分でいかにみせるか。映画監督であれば、さまざまに想像力をくすぐられるシチュエーションではないだろうか。トニー・スコットはさすがに凡庸な監督ではなく、そう来るんだそう来るんだ、と唸りながら観ていた感じ。意味深な冒頭のバックミラーの演出から、なるほどという展開で、デンゼルたちの前に列車の暴走を止めようと挑戦するベテランたちの演出から素晴らしく、列車のスピード感はあの車列の長さと重量を強調することで倍増することが明快になる演出。列車と並走するキャメラ、鉄の塊がガツンガツンとぶつかる響き、これは劇場でみるしかないアクション映画の更新ぶり。それにしても、僕の観た回はお客さんあと一人しかいなかった。

2011年1月1日 昨年は大きく体長を崩すこともなく、また、長期間ペンディング状態だった文庫本も発行され、お世話になった方々に、形にしてお返しすることができて何よりだった。では以下、昨年のベストシネマです(順不同)。 (洋画)「シルビアのいる街で」(ホセ・ルイス・ゲリン)  「ぼくら、20世紀の子供たち」(ヴィタリー・カネフスキー) 「ベスト・キッド」(ハラルド・ズワルト) 「クロッシング」(アントワン・フークア) 「トレーニング・デイ」(アントワン・フークア) 「スキャナー・ダークリー」(リチャード・リンクレイター) 「いつか晴れた日に」(アン・リー) 「第9地区」(二ール・ブロムカンプ) 「グリーン・ゾーン」(ポール・グリーングラス) 「リミッツ・オブ・コントロール」(ジム・ジャームッシュ) 「ブロークン・フラワーズ」(ジム・ジャームッシュ) 「ダージリン急行」(ウエス・アンダーソン) 「家庭」(フランソワ・トリュフォー) 「二十歳の恋」(フランソワ・トリュフォー) 「恋のエチュード」(フランソワ・トリュフォー) 「私のように美しい娘」(フランソワ・トリュフォー) 「ザ・ミッション 非情の掟」(ジョニー・トー) 「エグザイル 絆」(ジョニー・トー) 「冷たい雨に撃て、約束の銃弾を」(ジョニー・トー) 「スリ」(ジョニー・トー) 「ヒーロー・ネバー・ダイ」(ジョニー・トー) 「ブレイキング・ニュース」(ジョニー・トー) 「PTU」(ジョニー・トー) 「エレクション 黒社会」(ジョニー・トー) 「エレクション 死の報復」(ジョニー・トー) 「アンディ・ラウの麻雀大将」(ジョニー・トー、ワイ・カーフェイ) 「天使の眼、野獣の街」(ヤウ・ナイホイ) 「インファナル・ディパーテッド」(ハーマン・ヤオ) 「新・男たちの挽歌 ハード・ボイルド」(ジョン・ウー) 「パンチドランク・ラブ」(ポール・トーマス・アンダーソン) 「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」(ポール・トーマス・アンダーソン) 「サバイバル・オブ・ザ・デッド」(ジョージ・A・ロメロ) 「ゾンビランド」(ルーベン・フライシャー)  「闇の列車、光の旅」(キャリー・ジョージ・フクナガ) 「バーバー」(ジョエル・コーエン) 「コンドル」(シドニー・ポラック) 「突撃隊」(ドン・シーゲル) 「欲望」(ミケランジェロ・アントニオーニ) 「仁義」(ジャン・ピエール・メルヴィル) 「いぬ」(ジャン・ピエール・メルビル) 「潜望鏡を上げろ」(デビッド・S・ワード) 「新宿インシデント」(デレク・イー) 「スパイ・ゲーム」(トニー・スコット) 「コッポラの胡蝶の夢」(フランシス・コッポラ) 「東京暗黒街 竹の家」(サミュエル・フラー) 「インビクタス 負けざる者たち」(クリント・イーストウッド) 「チェンジリング」(クリント・イーストウッド) 「グラン・トリノ」(クリント・イーストウッド) 「アイガー・サンクション」(クリント・イーストウッド) 「ホット・ロック」(ピーター・イエーツ) 「母なる証明」(ポン・ジュノ) 「殺人の追憶」(ポン・ジュノ) 「リリス」(ロバート・ロッセン) 「チョコレート・ファイター」(プラッチャヤー・ピンゲーオ) 「絞殺魔」(リチャード・フライシャー) 「ガン・ファイター」(ロバート・アルドリッチ) 「ブラボー砦の脱出」(ジョン・スタージェス) 「カウボーイ」(デルマー・デイビス) 「ミルク」(ガス・ヴァン・サント) 「チェイサー」(ナ・ホンジン) 「10ミニッツ・オールダー」(ヴィクトル・エリセ監督版のみ) 「レスラー」(ダーレン・アレノフスキー)

       (邦画)「和製喧嘩友達」(小津安二郎) 「母を恋はずや」(小津安二郎) 「本塁打」(熊谷久虎) 「大阪ハムレット」(光石富士朗) 「いけちゃんとぼく」(大岡俊彦) 「私は猫ストーカー」(鈴木卓爾)  

      「サマーウォーズ」(細田守) 「三等重役」(春原政久) 「宵待草」(神代辰巳) 「かぶりつき人生」(神代辰巳) 「噛む女」(神代辰巳) 「ミスター・ミセス・ミス・ロンリー」(神代辰巳) 「遠い明日」(神代辰巳) 「太陽の王子 ホルスの大冒険」(高畑勲) 「パンツの穴」(鈴木則文) 「トラック野郎 御意見無用」(鈴木則文) 「トラック野郎 望郷一番星」(鈴木則文) 「トラック野郎 天下御免」(鈴木則文) 「トラック野郎 突撃一番星」(鈴木則文) 「トラック野郎 一番星北へ帰る」(鈴木則文) 「トラック野郎 度胸一番星」(鈴木則文) 「トラック野郎 男一匹桃次郎」(鈴木則文) 「トラック野郎 爆走一番星」(鈴木則文) 「トラック野郎 故郷特急便」(鈴木則文) 「トラック野郎 熱風5000キロ」(鈴木則文) 「温泉みみず芸者」(鈴木則文) 「狂った野獣」(中島貞夫) 「女番長 感化院脱走」(中島貞夫) 「総長の首」(中島貞夫) 「まむしの兄弟 懲役十三回」(中島貞夫) 「まむしの兄弟 傷害恐喝十八犯」(中島貞夫) 「女番長 タイマン勝負」(関本郁夫) 「清水港の名物男 遠州森の石松」(マキノ雅弘) 「次郎長三国志 海道一の暴れん坊」(マキノ雅弘) 「私は貝になりたい」(福澤克雄) 「闇打つ心臓」(長崎俊一) 「宮本武蔵」(内田吐夢) 「宮本武蔵 般若坂の決斗」(内田吐夢) 「宮本武蔵 二刀流開眼」(内田吐夢) 「宮本武蔵 一乗寺の決斗」(内田吐夢) 「宮本武蔵 巌流島の決斗」(内田吐夢) 「若い瞳」(鈴木英夫) 「夏目漱石の三四郎」(中川信夫) 「毒婦 高橋お伝」(中川信夫) 「怪談雪女郎」(田中徳三)

 

2010年12月11日 10代の頃、音楽はジャズから聴き始めてしまったために、ロックのリズム、というよりもドラミングそのものが単調に聞こえてしまい、ロックというジャンルにはどうしても馴染めなかった。もちろん、特定のアルバム、ミュージシャンには昔から好きな人はいるのだが、ロックはとにかく苦手、と思い込んでいたのだが、中山康樹氏の著作を読んだことをきっかけとして、最近はとくに60年代のロックを聞いている。参った。ものすごい宝庫なのだなというのが素直な感想。最近はキンクスやバファロー・スプリングフィールド、CSN&Y、ダスティ・スプリングフィールドなどがお気に入りだが、アルトマンの「ギャンブラー」の音楽をつけていたレナード・コーエンの最近のロンドンでのライブ!禅宗の坊さんにもなってしまったおっさんの40年前とはまったく異なる声からにじみ出る色艶、いやそんな次元さえ超えてしまったような、この存在感とはいったいなんなのか。ことに「ハレルヤ」は素晴らしい。あるいはヴァン・モリソン。この人はチーフタンズとやった頃から、何枚か聴いてきたが、近年も精力的にアルバムを発表しており、いずれもまったく衰えることなく充実している。確かに、ロックというジャンルの老人は誰もみたことがないわけで、ロックは若者の音楽などという感覚はとうの昔に過ぎ去り、今実はものすごい時代に突入している。というわけでいろいろあるけれど、最もずっしりと心に響いてきたのはエルヴィス・プレスリーなのだなあ。その昔、エルヴィスエルヴィスと騒いでいたせんだみつおという人はなかなかえらかったのだな、と今にして思ったりする。CDショップに行くと、ジャズやブラック・ミュージック、ブラジルもののほかにロック・コーナーもチェックするはめになり時間がかかる。

12月6日 「冷たい雨に撃て! 約束の銃弾を」のDVDが発売になり、今日はパッケージだけ見に行こうと手にしたつもりだったのだが、気がつくともうレジの前に立っていた。「ザ・ミッション」「エグザイル」の流れにあるが、さすがにジョニー・トーはどんどんひねりを加えてくる人で、銃撃戦の素晴らしさもさることながら、今回はひたすらジョニー・アリディが素晴らしい。当初アラン・ドロンにオファーが行ったものの、折り合いが合わず、アリディはドロンから拳銃を一丁託されて撮影に臨んだという(コステロの役名にドロンの痕跡が残っている)。ペキンパーにレオーネ、そこにメルビル風味まで加わったようなジョニー・トー節がたまらないのは、ジョニー・アリディの存在感が際立っているからだろう。頭に銃弾が残ったままの男という設定が、この映画の成功をすでに約束しており、そこにアリディのあの瞳と声が役柄におそらく脚本以上の厚みを加え、そこにアンソニー・ウォン、ラム・シューらが義兄弟となり、圧倒的に不利な戦いを挑んでいくという、もう書いているだけで感動するしかない設定。そして、ひねりとなった最後のもう一山。想像以上に素晴らしかった。インタビューで語ったトーの一言、最初は自分の作った映画を自分が牽引していたつもりだったが、いつの間にか映画に牽引されていた、これは監督にとって大切なことなのだ。ジョニー・トーは紛れもなく映画の人なのだ。

11月3日 リチャード・ギアもやるときはやるのだ。「クロッシング」、今までの作品で一番いいんじゃないか。イーサン・ホークにドン・チードル、それにギアと、3人が三者三様の警官を演じ、ひとつの事件を巡って一度も視線を合わせることはないのだが、見知らぬ他者同士として一瞬すれ違う瞬間は、何も起きないにも関わらずテンションがあがる。安月給で、子沢山となったために善良ながら汚職にまみれる寸前のイーサン、潜入捜査に深入りしすぎ人生を取り戻したいチードル、警察ものではもはや類型的な人物設定ではあろうが、三者の描写のめりはりが効き、まったく気にならない。ことにチードルに絡む、女性上司がすごかった。顔の映る前から聞こえる嫌味が強烈で、しかもその顔がこれ以上ないというほど歪み、気弱そうなチードルとの見事な対比になっている。エレン・バーキンは嬉々として演じていたことだろう。そしてギアはあと一週間で定年、しかも生涯一警察官でしかなかったというほど、警察に貢献した例はなく(実際に上官から同様のことを言われている)、起き抜けに拳銃を加え、弾が入っていないのだが、引き金を引いてしまうという自殺願望の持ち主。ギアのダメダメぶりの演出が最も徹底しており、そこを踏まえてのラストのあの展開と表情のアップ! 戦慄せずにはいられないのだ。アントワン・フークア、今回も絶好調ではずさない。

10月31日 野沢那智さんが亡くなる。僕くらいの世代の人間は、ビデオさえない時代、テレビで放映される映画を観ては胸を熱くしたもので、声優に対しての違和感はまったくないどころか、声優なしに自身の映画歴を振り返ることはできないほどの存在感をもっている。野沢那智はなんと言ってもアラン・ドロンをメインに吹き替えた、いやアテた人であり、ジュリアーノ・ジェンマ、アル・パチーノ、さらに古くは0011ナポレオン・ソロのデビッド・マッカラムなど、主役中の主役をはった人で、思い入れは深い。ドロンものでは「シシリアン」「冒険者たち」「ジェフ」「高校教師」「太陽がいっぱい」「ボルサリーノ」「暗黒街のふたり」「テキサス」など。ときどき堀勝之祐(ダーティハリーのさそり!)もあてたがやはりドロンは野沢だった。パチーノでは「ゴッドファーザー」の印象が強いが、「狼たちの午後」や「セルピコ」、ロバート・レッドフォードもたまにあり、「夕陽に向かって走れ」「コンドル」「裸足で散歩」「ブルベイカー」、ジェンマは「怒りの荒野」「南から来た用心棒」「星空の用心棒」、実はジェームズ・ディーンもアテていて「ジャイアンツ」「エデンの東」、ほかにもトロイ・ドナヒュー「避暑地の出来事」、ジェフリー・ハンター「捜索者」、ユニークなところでは「スターウォーズ」のC3POなんてのもあって、基本的には何でもできる人なのだった。山田康雄亡き後は、「ザ・シークレット・サービス」など、山田テイストを大切にしつつイーストウッドもかなり健闘したと思う。そうか、もう山田さんも、広川太一郎もいないのか。野沢那智は薔薇座出身だが、当時の声優は舞台や映画の俳優さんがやっていて、つまり全身で芝居をする方がアテていたわけで、後の声優ブームの声優学校出身などという中途半端な志向はまったくなかった意味で、一線を画す。声優をなめるなとは声を大にしていっておきたい。コロンボの小池朝雄から石田太郎にバトンタッチした、あの独自の個性の確立と継承という大技は、今あり得るのだろうか。  

     三上寛は別として、日本のフォークソングは未だ理解できないのだが、はっぴいえんどが演奏しているというので高田渡「ごあいさつ」を聴いてみたら、実によかった。山之口獏さんが大好きなので「獏」だけは持っていて、なんだ当時から獏さんをやっていたのか。獏さんの貧乏で貧乏でユーモラスな世界をこんなにうまく歌にのせられる人はいないだろう。思えば、高田渡さんがツアー中に亡くなった先が北海道の釧路。同行していたのが渋谷毅さん。浅川マキさんといい、渋谷さんはすごいピアニストだな。

10月26日 スタローン「エクスペンダブルス」。期待していたのだが、アクションスター勢ぞろいの予告もむなしく、“顔”をうまく生かしきれない残念作。得な役柄はジェイソン・ステイサムとジェット・リーなのだが、いかんせんスタローンが傭兵として初めて金のためではない戦いを挑むという肝が弱いので、男たちが結集し、勝利をおさめる(できれば苦い勝利)というこうした作品の快感にまったくつながっていかない。最後のロッキーとランボーであれだけやってくれたスタローンだったが、ミッキー・ロークの役柄などセルフパロディどまりだし、スターの扱いに配慮しすぎたのか。しかし脚本のせいにするにもアクションもいまいちだったと思う。せっかくジェット・リーを使っているのに、演出だろうがやたらと小柄なトッチャン坊やにみえるのも気になった。やはり今年はジャッキー・チェンの「ベスト・キッド」か。 レコードコレクターズの60~89ベストが集計されたが、あらためてはっぴいえんどというか、大滝、細野の時代であったかがわかる内容。ベスト10だけ見ても、はっぴいえんどの風街ろまんが評論家部門1位、ファーストが10位、大滝のロンバケが3位、細野の泰安洋行5位であるほか、大滝プロデューサーのシュガーベイブ/ソングス4位、サイドで参加した小坂忠/ほうろう7位、高田渡ファースト9位、近しいサディスティック・ミカ・バンド/黒船6位と。このような流れは100位に至るまで延々と続き、ここを太い柱としたJポップスの垂直、水平の話は非常に読みたいものだ。今、狂い咲きの感ある中山康樹氏の新書連発は読み応えある。

9月7日 中居正広はSMAPの中でも、とりわけ貧相な顔にしか見えなくて、どうしても興味をもてない存在なのだが、「私は貝になりたい」の存在感にはちょっと無視できないものがある。「にわか貝マニア」となったライムスターの分析によれば、フランキーと所という過去二人の俳優になかったもの、それはまさに狂気なのであり、実際、絞首刑が確定してからの終盤、中居の眼には絶望のどん底に突き落とされた男の虚脱とも虚無ともつかぬ狂気の光が宿りだし、中居という人の不気味な存在感を感じずにはいられない。そういえば、森田の首シュポーンのラストも含め、映画的には勘弁してくださいよだった「模倣犯」の中居は、テレビキャラとはまさに別人で、透き通った冷たい表情に、天才と狂気が混在し、これがあの中居かと目を疑ったものだ。「私は貝になりたい」は個人的にそもそも脚本段階からどうなのよという疑問符が残る話であり、大きな興味を持つことはなかったが、中居の存在感によって引っかかる作品に昇格してしまった。 何もここで今更「私を貝になりたい」を積極的に擁護しようと思っているわけでなく、言いたいのはそれを観る気にさせてしまうライムスターのほうなのだ。吉田広明氏はいわばサイコロ博打で観るべき作品を決めていく批評スタンスにふれつつ、実は批評家とは作品を選んだ時点で何かしらの「根拠」を持ち込んでおり、作品の選択を問わない場合においても自身の感受性という「根拠」を持ち込んでいないか、という問題提起を行っている。ライムスターはまさに「無根拠」に批評を晒したうえで展開しており、ときたま違和感を感じることはあるけれど、舌鋒鋭く作品によっては考察も深い。「私は貝になりたい」を観たのも、中居の芝居を含め、素直に観たいと思わせてくれる批評になっていたからだ。近年の日本映画への怒りを込めた批評はユニークな話芸との相乗効果で笑わせながらも、かなり憤りを感じていることが伺える。ことに「踊るナントカ」などの亀山プロデューサーを揶揄する部分などは爆笑しながら拍手喝采もの(それにしてもこいつはホントにA級戦犯!)。あるいは一秒たりとも映画的な場面が作れない三谷作品についても、面白「げ」、よく出来てる「げ」、とすべて「げ」の人であり、「げ」と本物を分けよと面白おかしくさばいていく。三谷作品はかねてから腹に据えかねるものがあり、溜飲を下げた。あわせて、「崖の上のポニョ」もようやく鑑賞。あのラストでいいのだろうか。だからクライマックスの位置がいびつになっているのではないだろうか。宮崎さん、もう体力ないと思った。実際、アリエッティ、抜擢になっていた。公開中に放映されたドキュメントは面白かったが‥・。ライムスターと対談する町山の、子供の教育によくないで押し切る発言には爆笑した。

9月1日 (先日に引き続き)というわけで、私の80年代Jポップスベスト50枚を考えてみる。以下、順不同。ムーンライダーズ「アマチュア・アカデミー」、鈴木さえ子「毎日がクリスマスだったら」、テストパターン「アプレミディ」、チャクラ「南洋でよいしょ」、三上寛「このレコードを盗め」、EP-4「リンガ・フランカ1 昭和大赦」、スクリーン「ペルソナ」、宮沢正一「人中間」、スターリン「フィッシュ・イン」、じゃがたら「ニセ預言者ども」、福島泰樹+龍「曇天」、石川セリ「メビウス」、ビートニクス「出口主義」、清水靖晃「サブリミナル」、マライア「うたかたの日々」、村川ジミー「オリジナル・デモーション・ピクチャー」、橋本一子「BEAUTY」、立花ハジメ「H」、イノヤマランド「ダンジンダンポジドン」、メロン「Do  you like  japan?」、サンディー&サンセッツ「イミグランツ」、ヒカシュー「日本の笑顔」、大貫妙子「シニフィエ」、加藤和彦「ベル・エキセントリック」、矢野顕子「ごはんができたよ」、芸能山城組「アキラ」、菊地雅章「ススト」、渡辺香津美「MOBO倶楽部」、本多俊之「サキソフォン・ミュージック」、ゲルニカ「改造への躍動」、YMO「BGM」、細野晴臣「フィルハーモニー」、坂本龍一「B-2UNIT」、高橋幸宏「ボク、大丈夫」、喜納昌吉「ブラッドライン」、仙波清彦とはにわオールスターズ「はにわ」、近藤等則「空中浮遊」、あがた森魚「永遠の遠国の歌」、佐野元春「ナポレオンフィッシュと泳ぐ日」、スネークマンショー「ピテカントロプスの逆襲」、泉谷しげる「吠えるバラッド」、前川清「Kiyoshi」、井上陽水「ライオンとペリカン」、沢田研二「ミスキャスト」、加藤登紀子「愛はすべてを赦す」、松田聖子「パイナップル」、アン・ルイス「LA SAISON  DAMOIUR」、山下達郎「FOR YOU」、たま「しおしお」、浅川マキ「アンダーグラウンド」

8月30日 先日、マキノさんの「次郎長三国志・海道一の暴ん坊」と「清水港の名物男 遠州森の石松」を見比べ。細部が同じどころか、志村喬、田中春男、田崎潤など同じ役柄で出てくるのだが、印象は結構異なる。もちろん石松を演じる森繁と中村錦之助の違いによるものだが、どちらも甲乙つけがたく素晴らしい。ラストの石松がかっと目を見開いて死んでいく卓抜なアイデアは中村版では延々と続き、あと何人と斬り捨てながらかろうじて生きているものの、いつの間にか異様な表情に転換しているので、これはすでに死者の目線なのかと思えてしょうがなく、それだけに見受山の鎌太郎と共に嫁入りの道中に向かう夕顔のシーンの哀切感が引き立っていた。もちろん、かっと目を見開いて終わってしまう森繁版も素晴らしいのだが。世界に映画のシリーズ物というのは数知れずあるが、いまさらながら東宝版「次郎長三国志」シリーズはその頂点にあると言いたい。海外の評価も低すぎというか知らな過ぎ。 音楽は相変わらずブラジル物ばかり。ジョアン・ジルベルトがやはりすごくて(元奥さんのアストラッドは全然聞けないんだけど)、「三月の水」はかけたとたんやめられなくなり、作業の手も止まり、最後まで聞き入ってしまう。何でしょうか、このゆらゆらの変な感じ。別のアルバムで「ス・ワンダフル」を歌っても勝手に一小節なかったことにして違和感の全然ない世界観。この人はボサノバの開祖の一人だが、特異すぎてジャンルとしてのボサノバの人とはいえないだろう。聞く人によると、ギターのチューニングもほとんどが半音下がりと半音下がり気味で演奏されているそうだ。下がり気味って何なんだよ。そのほか、ジョイスのCDが最近異様に増え、ガル・コスタ(カエターノとの「ドミンゴは最高だった)、マリーザ・モンチなど。それから自分は今頃ピチカート・ファイブのよさがわかった人で、中古屋でみつける度に購入。シングルスだけはもっていたが、レコードコレクターズの80年代ベスト100で「カップルズ」が入っており、聞いてみたのがきっかけ。何度か編成の変わったバンドだが、その発足には元札幌在住者の知っている方が関わっていたことを知り驚いた。80年代ベスト、なんでこれが入るの入らないのでけっこう盛り上がる。ちなみに1位「ロン・バケ」、2位「暗黒大陸じゃがたら 南蛮渡来」(おー!)、3位フリクション。

8月17日 「まむしの兄弟」シリーズ、本日は「懲役十三回」と「傷害恐喝十八犯」を鑑賞。監督は中島貞夫、いいねえ。後者を観ていると、「トラック野郎」シリーズの原点を見る思い。一目ぼれ具合(といってもこの作品の場合は母親への憧憬)と文太さんのコミカルな演技。最近、坪内さんの本を借りて旅行中ずっと読んでいたので、1972年という年につい注目してしまうのだが、この作品も偶然72年。なるほど、土地立ち退き問題に絡んでまむしの兄弟が立てこもり、警察の放水を浴びるシーンはこの年に起こった事件をもろに反映していることに気づく。それにしても中島作品はアベレージが高い。「遊撃の美学」で本人があまり熱心に語っているように見受けられない作品でも水準を超える。「女番長 感化院脱走」も僕はかなり面白く観た。「傷害恐喝十八犯」も笑えるところはつい声を出して噴き出してしまうほどだし、殿山泰司と北村英三扮する老まむしとの対比がいい。それから、まむしの二人が志賀勝をはじめとしたチンピラに連続して三度喧嘩を挑み、三度とも惨敗するシーンのテンポ。さりげないようで、これは職人技だ(志賀勝の使い方もすごくいい感じで、印象に残る)。文太さんは「仁義なき戦い」に出演する直前。「木枯らし紋次郎」が同時進行しているので、硬軟のメリハリがあってのコミカル調、どっちもいけるという勢いが感じられる。そういえば文太さんはかつて週刊誌で取材をしたことがある。記者同士で、あの人はしゃべらない、この話題はご法度などと情報交換をしたものだが、文太さんはしゃべらない分類(週刊誌への先入観もあるだろう)。そんな不安を抱きながら代官山の撮影現場で待機していると、弁当を食べ終わった文太さんが「合間合間でやろう」と積極的。子供っぽい笑顔を見せる人で、ちょっと安心するが、話題によっては「その話はもうええじゃろう」と広島弁になる。なぜか息子さん(数年後に事故で亡くなったが)を同席させ、あれは理由を告げられなかったが、一種の売り出しのための宣伝だったのか。屋外で写真撮影を行い、お疲れ様ですと撮影現場に戻る際、全員ビルの入り口からエレベーターに乗り込んだのだが、文太さんだけはビルとビルの隙間に入っていった。浅川マキとの交流といい、興味深い人。何と言っても、今や死語になっている感さえある映画スターだ。スターだからこそ「トラック野郎」でも、クライマックスのトラック疾走シーンで、最もキマった形でハンドルを握れるのだ。あのポーズは決して演出ではなく、文太さん自らがこれしかないと生み出した形に違いない。

8月16日 13日から上京。初日は「ゾンビランド」に直行。これは拾いものだった。ゾンビ世界を生き残るための教訓が、走り回って逃げるための「有酸素運動」、一発撃っても死んだとは限らないから「2度打ち」、後部座席に隠れているかもしれないので「後方確認」などと、一々画面に文字まで出して笑わせるセンスが面白い。ビル・マーレーのゲスト出演ぶりに爆笑する。 ホセ・ルイス・ゲリンの「シルビアのいる街で」に近年ちょっとない程興奮。主人公が過去に出会った女性との再会を求め、その影を追い続ける‥と言えばまさに「めまい」なのだが、カフェでスケッチをとりながら探す瞳の先には恋人や友人と会話する複数の女性たち。数々の声と音響が強調され、そこに無数の視線が飛び交う。主人公の視線は誰とも交錯せず、そこに物悲しいバイオリンの2重奏が流れ、一人の女性をみつける。通り過ぎる電車の車間に、まるで覗きからくりの向こうに見えるような女性のシルエット。フランスの片田舎で撮影されたという街の佇まいが素晴らしく、迷路の中を男と女が歩き回り、固定されたキャメラの外から見知らぬ人々と街の喧騒が現れては消えてゆく。そしてショーウインドウや電車の窓など、ガラスに映り込む表情や風景の数々。電車の中で男と女が会話するという、たったそれだけのシーンがこれほど魅惑的なシーンとして描かれるとは。世界にはすごい才能があったものだ。ムルナウと小津のファンというゲリンは、「静かなる男」のロケ地で「イニスフリー」というドキュメンタリーも撮ったという。ビクトル・エリセの舎弟格なんでしょうか。その後、渋谷のイメージフォーラムから新宿に移動し、ディスクユニオンに直行。中古で浅川マキの持っていない中古CDを発見。また興奮する。これ、今年再発になった10枚組ボックスの2枚で、他の8枚は持っているので買おうかどうしようか迷っていたもの。CD化はボックスのみと記憶しているので、ばら売りしたものだろう。持っていない2枚だけが残っていたことに感謝。他、ジョイスとエリス・レジーナなどを購入。エリスはモントルー・ジャズ・フェスの、エルメート・パスコアールが参加しているやつ。このときの「マリアマリア」が聴きたかった。 夜、久しぶりに銀座シネパトス、この劇場まだ残ってるんだ。そこでもらったチラシによると、太田和彦セレクトによる「映画と酒場と男と女」企画が21日から神保町でスタートする。例の本にある作品はもちろん、観てない作品も多く、それどころかマキノさんの「泡立つ青春」(ビールのCM)まで上映するとは! つくづく東京に引越ししたくなる。シネパトスでは「闇の列車、光の旅」。アメリカへの移住を決意するメキシコ難民の物語。この作品も素晴らしい。

 3日目は南千住の回向院へ行き、磯部浅一さんの墓参り。終戦の日に重なり、複雑な心境に。回向院のすぐ側に有名な鰻屋があると家の者に聞き、早速訪ねると開店まであと30分もあるというのに、すでに80人程行列しているので諦める。その後フィルムセンターへ。現在のプログラムは、センターのフィルムコレクションからのセレクト。1934年の朝日映画ニュース2本に続き、小津さんの「和製喧嘩友達」(デジタル復元版)、熊谷久虎の「本塁打」、小津さんの「母を恋はずや」。「本塁打」は1931年の作品で、ターちゃん兄弟が草野球で大活躍する。が、近所の家のガラスを割るわ、あまりの腕白ぶりに兄弟そろって自宅に軟禁される。こちらでは野球の試合が始まっており、有力選手が足を痛めてしまう。すると、チームのおじさんが「そうだ、ターちゃん兄弟を呼ぼう!」と言って、コマ落としになって自宅を脱出させるシーンのおかしさ(軟禁状態なので、はしごを用意して駆けつける)。試合では、いつものガラスを割ってしまう家に打球が飛び込み、おそるおそるターちゃんが室内を覗くと、家人は不在、代わりに泥棒がうろうろしている。泥棒を試合参加者全員でとらえ、第一発見者たるターちゃんが褒められてハッピーエンドという、でたらめな展開に爆笑する。「母を恋はずや」は冒頭とラストが欠落した不完全版。劇場で観て、画質の素晴らしさに驚いた。ヌケのいいこと。異母兄弟の確執が物語だが、長男と母、弟の関係がこじれたまま突然フィルムが終わってしまうため、場内にものすごくどんよりとした空気が流れる。後ろのカップルもかなりがっくりきた様子、こちらは結末を聞いているので、教えてあげればよかったな。 その夜、ホテルから近いので錦糸町まで足を伸ばし、「ベストキッド」を観る。泣きました。傑作です。ジャッキー・チェンが全編よくてよくて。とにかくジャッキーを観ているだけで幸せで泣けて。ことに最近、青山・四方田対談で、ジャッキーがまさに9.11の朝、あのビルの屋上で映画のリハーサルをし、翌日撮影を予定していたという話を聞いていたので、思い入れも深くなっており。

8月1日 「トラック野郎」シリーズ全作観直す。このシリーズってこんなに面白かったっけ。ここ数週間はトラック野郎を観ながら「トラック野郎風雲録」を読むという、内心は完全にお祭り状態で、最終作を観終わったところで祭りの後の一抹の寂しさが。毎回シリーズには各地の祭りシーンが挿入されるので、気分も高揚するというものだ。ついついデコトラのプラモデルが欲しくなり、近所のおもちゃやをのぞくと1万5千円もするのでさすがに諦める。というか、未だにプラモデルが発売されていることに驚いた。「涙と笑い、義理と人情、下ネタとお色気、アクションとメロドラマが渾然一体となった奇跡のエンターテインメント」との帯文句に偽りなく、映画は大衆のものと娯楽に徹する鈴木則文の精神は、やはりマキノさんゆずり、マキノさんがほめたのもうなづける。菅原文太の芝居は基本的に実録路線と変わりなく、笑いの方向に針が傾いた途端、観客の爆笑を呼び込み、それを引き出した則文さんの功績はすごいと思う。早とちりで異常なまでに行動力のある星桃次郎が、一目ぼれした途端に(女優の顔の周りにきらきらと星が輝く)、マドンナの職業に近い業種の人物だと嘘八百を並べるおかしさ。しかもダボシャツに星のマークの入った腹巻姿でそれを述べるのだ。北海道が舞台となる「望郷一番星」では牧場に早速ジョッキー姿で登場するのがおかしい。芝居よりも口跡を重視するという則文氏だが、「度胸一番星」の片平なぎさも印象に残る。とくに冒頭の「佐渡へ佐渡へ」の言い回しにしびれた。一番泣けたのは最終作「故郷特急便」。マドンナは石川さゆり、もう一人のマドンナ森下愛子の母親が亡くなる場面で歌う「南国土佐を後にして」が絶品だった。一作目「御意見無用」の夏純子と湯原昌幸のトラックの拡声器を使ったギャグからシリアス、シリアスから泣き、という場面転換もお見事。男優陣の面白さは、文太を筆頭につい最近まで「仁義なき戦い」に出ていた面子が続々と登場するおかしさにもある。田中邦衛、梅宮辰夫、金子信雄、川谷拓三、成田三樹夫、山城新伍などなど。金子などは悪徳医者で、怒った文太にトラックごとバックで突っ込まれ、家を破壊される。そして全編通して素晴らしかったのが、愛川欽也の奥さんである春川ますみ。この人の存在はシリーズを本当に支えている。あっという間にファンになってしまった。

7月19日 「トラック野郎」シリーズ、けっこう見逃していた作品が多かったので、このところ何本か観ている。下品でエネルギッシュで素晴らしいなあ、鈴木則文。シリーズ化にあたって澤井信一郎さんが脚本に大きく貢献しているのだが、考えてみれば則文さんもマキノさんの弟子筋にあたる方。といってもマキノおやじにさからった不肖の弟子で、決別したと思いきや、マキノさんはその後ずっと則文さんを見守っていたといういい話が「トラック野郎風雲録」に登場する。「黒澤も小津もあるかい、日本一の監督はマキノ雅弘や、文句あるかい!」と則文さんは結ぶのだ。全編、菅原文太が絶品で、高倉健が去った後の東映を支えた功績の大きさは相当なものだろう。しかもそれが喜劇だという大胆さ。それも寅さん風にマドンナにふられるパターンを繰り返しつつ、「男はつらいよ」には描かれない男の性も猥雑に描かれ、則文さんはその手腕を存分に発揮している。則文さんは、自分にその資格はないといって、ファンからのサインの要求にも応じない方であるそうだが、猥雑さもここまで極めれば神々しいほど。全編、下ネタ全開の「パンツの穴」、当時劇場で観てぶっとんだものだが、再見し、やっぱり大好きだといえる作品だった。佐々木は「日本一トラック野郎を愛す映画監督」として、5月に則文さんとトークショーを行ったそうだが、さぞや楽しいイベントになったことだろう。 夏の暑さのせいか、音楽はブラックミュージックをちょっとお休みし、ブラジルものを収集中。ボッサといえば、ジョアン・ジルベルト、やっぱりこの人の歌はすごい。どうやったらこんなふうに歌えるのというくらいの微妙な音程。ボッサは西洋音楽やってる人には絶対無理な音楽なのかも。ボサノバとビートルズの登場に当時のジャズ界には衝撃が走ったというが、僕はジャズマンのやるボサノバがどうしてもだめ。ゲッツ・ジルベルトも実はどこがいいの?という人で、ボッサもサンバもMPBもブラジルのミュージシャンしか聞きたくない。そんな中でどうして今までこれを聞かなかったんだろというくらいハマッってしまったのがジョアン・ドナートの「ケン・エ・ケン」。このアルバムが素晴らしいことは一曲目が流れた途端すぐにわかる。カエルの鳴き声を模したスキャットで全編ぶっちぎる「ア・ハン」もすごい。細野さん初めて歌ったボッサが「ア・ハン」だというけれど、細野さんが大好きでも日本人は聞く気になれないなあ。

7月1日 公開当時、いまいち乗り切れなかったレオーネの「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」、見直すとよかったなあ。などと思っていたら、「ザ・ウォーカー」のデンゼルをねらう一人がやたらと「ワンス~」の主題歌を口笛で吹いていた。そんなこともあって、できればほめたいところなんだけど、デンゼルの役、意味深に引っ張りすぎなんじゃないか。シルエットでみせる座頭市ばりのアクションなど、かっこいいの一言なのだが、デンゼルの知性が邪魔する感じ。残念。「コッポラの胡蝶の夢」は傑作。ばりばりのアメリカ映画。「東京暗黒街 竹の家」もよかった。これは敵役のロバート・ライアンを観る映画。悲しい男色の話が底に流れ、すべてをぶち壊した潜入捜査官への恨みが歯車の狂った自滅劇を生み出す。とんでもない日本人描写と不思議な日本ロケが目立つ作品だが、ちょっと泣きそうになる。

6月16日 ゾンビ映画のパイオニア、ジョージ・A・ロメロはいつも一味違うゾンビの殺戮シーンを演出してくれて感心するのだけれど、新作「サバイバル・オブ・ザ・デッド」でも顔面を銃で吹き飛ばすと頭の皿だけがカランと落ちてきたり、顔の内部から燃えたところに、主人公がタバコの火をもらい、一服した瞬間キックをお見舞いして海上に突き落としてしまうアクションなど堪能。そのほかにも、泳ぐ(というか潜水)ゾンビ、生前、乗馬になじみ、ゾンビ化した後も延々と馬で走り回るだけのゾンビの登場など、ゾンビ職人ロメロ、今回も冴えている。最も驚かされたのは、とうとう、ゾンビものに西部劇が持ち込まれたことだ。狭い島内で、ゾンビをみたら即射殺を主張する老人と、飼育する方法を見つけるまで温存を主張する老人が真っ向から対立し、殺し合いに発展するという図式。ラストショットの決まりっぷりに、鳥肌が立った。上映時間はぴたり90分。「ゾンビ」でアクションのうまさを証明したロメロだけに、西部劇風アクションで押し切ったら、ゾンビ番外篇の大傑作になったかもしれない。 「アウトレイジ」、北野武映画と思わずに観るとちょうどいい。「3-4x10月」や「ソナチネ」のきれた北野映画は望むべくもないわけで、今どうヤクザ映画なのかと思いきや、オーソドックスな形での内部抗争もの。メジャー作品で、スクリーンでヤクザ映画を観たかった身としては“顔”が求められる題材で、ここまで男優陣をみせてくれれば文句はない。

6月5日 「私は猫ストーカー」、終盤から不思議な幸福感に包まれて、笑いながらちょっぴり涙が滲んでしまう。「猫額洞」という古本屋さん(実際にあるらしい)のご夫婦とバイトする女性を中心に猫をめぐるお話。バイトの女性が猫ストーカーで、デジカメ片手に町を歩き回る。すると、猫仙人と呼ばれる老人やら、実は猫に詳しい僧侶らしき男やら、バイトの女性を実は軽くストーカーしている文学青年やらが現れ、ほとんど何事も起こらない。古本屋で飼っている猫が行方不明になったところから古本屋のご夫妻に亀裂が入り、話がちょっと展開して、猫は帰ってこないのだけれども、何となく一件落着する。翌朝、女性は猫ストーカーに出かけ、偶然文学青年に出くわす。「実は私猫ストーカーなんです」と一筋の涙を流しながら告白する瞬間にぎくりとさせられ、しかし、文学青年の絶妙のリアクションに脱力し、猫を手なずけるための特別なテクニックを秘伝3まで伝授するシーンに爆笑する。しかし、このカップルに恋が実ることもない。全編に大きな物語は展開せず、しかし、全編に野良猫たちが自然のままに徘徊する。猫たちはいかにもそこにいる感じ。そして登場人物たちも、まるで猫たちのように自然に佇んでいるかのようだ。それにしてもよくこれだけ、野良猫たちをキャメラにおさめたものだと感心する。キャメラ、たむらまさきさんなんですね。そして、蓮実重臣の音楽、絶妙にはまっているし、途中途中に挿入されるアニメが素晴らしい。観終わってハッピーハッピー、先日の「ダージリン急行」といい奇妙にハッピーになれる作品はなかなかないかも。 

5月30日 先日は、くうで3年半ぶりに映画音楽秘宝。来店していただいた方々ありがとうございました。久しぶりだったので気合が入りすぎてしゃべりすぎ、予定時間を大幅にオーバーしたのが大きな反省点。年内にまた開催したいと思います。仕事上のばかばかしい閉塞感から脱するにはオフの切り替えではなく、オンのプレスが必要だと感じ入った。 それにしてもウエス・アンダーソンの「ダージリン急行」はよかった。何だろう、この3人組みの男兄弟のよさ。列車内で反目しながらも、予測不能の展開を経て、ハッピーに終わっちゃう顛末。なんだかわからないまま、ラストシーンでジーンとしてしまう。ジョニー・トーの跡目相続もの「エレクション」シリーズ、一本目のサイモン・ヤムがライバルとなる時期ボス候補を拳銃を使わずに殺害するシーンや、「死の報復」のヤムが殺害される車中シーンなど、あのキャメラポジションと空気感はひところの黒沢清を思い出す。黒沢さんとジョニー・トーが同じ年の生まれであることはあまり指摘されていないことだと思うが、考えすぎかな。何だろう。トーさん、一刻も早く新作が観たいのだが…。 鈴木則文氏の「トラック野郎 風雲録」はなかなかのお買い得本。シリーズは愛川欽也がどうしようもないので、乗り切れない部分があったが、マキノさんの思い出なども綴られていて、まだ全部読んでいないが楽しい。さらにこのサイズで2400円は良心的。黒沢・ハスミ対談本が紙質からいってもかなりの割高感があったので好印象。

5月17日 ハーマン・ヤオの「インファナル・ディパーテッド」、潜入捜査していた警官がいかに正規任務につくのが難しいか、別の視点で潜入捜査を描いておりなかなか見ごたえがあった。ニック・チョンやら、フランシス・ンやら、アンソニー・ウォンやら、ジョニー・トー常連俳優が多く登場するのもうれしい。ポン・ジュノの充実ぶりにも目を見張る。「母なる証明」、素晴らしい。「殺人の追憶」「グエムル」も見直したくなる。そういえば、ユリイカはポン・ジュノ特集を組んでいた。なんたってソン・ガンホ、いいものね。36年ぶりに、ジョン・ミリアスの「デリンジャー」を見直したが、ジョン・フォードをやりたい気持ちはわかるけど、若かったんだなあ、ミリアス。随所で演出が空回り。しかし、ウォーレン・オーツ、ベン・ジョンソンを筆頭に、ジェフリー・ルイス、ハリー・ディーン・スタントン、スティーブ・カナリー、リチャード・ドレイファスなど男優陣の素晴らしいこと。それだけでも映画はいい。

5月6日 ライブハウスくうでの映画音楽秘宝、久々に開催します。時は5月27日午後8時から。テーマは「死の舞踏~踊るアクション空間、狂気と死のイメージに戦慄せよ」。タイトルからして「ワイルドバンチ」を登場させたいところですが、そこをぐっとこらえつつ、イーストウッド、ムルナウ、ベッケルなどはじめとして。 連休中は上京予定だったのに、突如腰を痛めキャンセルに。こんな展開は初めてだな。ロバート・ロッセンの「リリス」をようやく観られたのがよかった。ジーン・セバーグ、恐ろしい、恐ろし過ぎる。黒澤嫌いだが、上島春彦「血の玉座」は読み応えがあった。

3月22日 「上を向いて歩こう」、海外では「スキヤキ」というタイトルでヒットしたポップスがあるが、この曲を最も効果的に使った映画とは何か。それは間違いなくジョニー・トーの「ヒーロー・ネバー・ダイ」であると断言したい。「上を向いて歩こう」を使った映画自体さほど多いとは思えないが、この映画を観ると、どうしてもそのような言葉を吐きたい誘惑にかられてしまうのだ。もうとにかく、全編「上を向いて歩こう」が流れっぱなしといってもいいこの作品は、抗争を続ける組織のエース同士がお互いの腕前を認めながら相手のボスの命を狙うという出だしとなる。エースとは優男イケメン系のレオン・ライと、ヒゲとテンガロンハットのラウ・チンワン。この二人の腕前が同レベルであることを彼らの行動パターンによってジョニー・トーは執拗に繰り返し、二人にとっての休戦ポイントである酒場(実はここのハウスバンドが、上を向いて歩こうを歌うのですが)では「ザ・ミッション」の紙くずサッカーよろしく、相手の飲もうとするワイングラスをコインを投げては割りまくるというばかばかしさで(ここはイーストウッドとリー・ヴァン・クリーフが張り合う「夕陽のガンマン」のイメージ)、しかしその大人げなさが実は男っぽさであり、友情と信頼の証でもあるという、振り返れば、フォードやホークス、ペキンパーやイーストウッドなどにも大人げない男たちが戯れあっていたことを思い出し、けっこうジーンと感動させるシーンでもあるのだ。 しかし物語はテンガロンハットのラウ・チンワンの襲撃でエース同士が真正面から撃ち合い、絶命寸前の痛手を負ったところから一変する。両組織が将軍なる人物の号令で一本化した組となり、これまで命を張ってきた両エースが邪魔者となってしまうのだ。テンガロンのラウは両足と同時に生気さえ失って車椅子生活、レオンは足を洗って(いるように見える)バイト生活を送る日々だが、実は双方には献身的に尽くす彼女がおり(女性描写もトーは素晴らしい)、ここにもエース同士の相似性の仕掛けがあって、女たちが命を張り、そして絶命していくことで、再び復讐に燃え、立ち上がることになる。その後の展開はまだご覧になっていない方のお楽しみとなるが、ライフルを構えるラウの元に一匹の蝿が現れた瞬間に僕は思わず声をあげた。そして予想もしなかった形での復讐戦に流れる「上を向いて歩こう」、もはや書いているだけで涙あふれる男泣き映画の傑作であった。 予告編などを観ているとよく「巨匠ジョニー・トー」と巨匠がつけられているのだが、「スリ」のような格調高いミュージカル的演出もみせてくれるとはいえ、本質的にはまさに「大人げなさ」の人であって、まもなく公開される「冷たい雨に撃て、約束の銃弾を」の予告編をみていると、アンソニー・ウォンらが巨大な紙くずを転がしながら発砲しているシーンなどがあって、ほらほらまたやっているよ!と実にうれしくなり、「巨匠」などといういかめしい名はどうもふさわしくない気がする。だいたい「PTU」にしても、「ザ・ミッション」の太っちょラム・シュー演じる刑事が拳銃を奪われ、警察部隊PTUと捜査部隊、組織抗争が入り乱れる様をシリアスに描いてはいるのだが、ラム・シューがなぜ拳銃を奪われるかというと、バナナの皮で転倒、失神することが発端となるというばかばかしさなのだ。この男が泣かせる!

3月15日 今週末はゆっくりできたので、家で映画三昧。西部劇を中心に。「カウボーイ」(デルマー・デイヴィス)、「ブラボー砦の脱出」(ジョン・スタージェス)、「決斗!一対三」(ラオール・ウォルシュ)、「ガン・ファイター」(ロバート・アルドリッチ)。「ガン・ファイター」のカーク・ダグラスなど役者が口出し過ぎの悪い典型であろうが、それでも西部劇はいい。このジャンルは何でもあり何でもできる。「映画」以外の何者でもない。ここを踏まえてのイーストウッドでもあるのだ。そんなことを考えていると、ジョニー・トーという人は遅れてきたマカロニ・ウエスタンの人なのだ、ということに思い当たる。「エグザイル/絆」のような密室での銃撃戦、マカロニからサム・ペキンパーを経た世代の監督なのだな。「三等重役」(春原政久)、河村黎吉あっての森繁くらいのバランスがよい。

3月12日 最近またホルモン系の数値が下がり気味で調子を崩す。薬物によるコントロールの難しさを実感。「インビクタス」はマット・デイモンの受けの芝居のうまさに驚いた。あれは鼻にラグビー仕様のメイクをしているのだろうな。あと、名前が最高ですよ。フランソワ・ピナール。実在の人物名がそうだから役名になっているとはいえ、なんと美しい響きの名前なのだろうか。フランソワ。イーストウッド作品に、こんなフレンチネームが登場したことがあっただろうか。ところで、オールブラックスを見ていると、東京在住時代にスポーツ狂の知人たちから見せられ、聞かされたラグビー話を思い出した。と思っているとパンフレットに本人が文章を寄せていたので笑ってしまう。それにしてもイーストウッドさん、今回はしっかりとスポーツ映画としてみせてくれた。なんといっても、「ミリオンダラー・ベイビー」は戦慄すべき傑作であったとはいえ、一方では「カリフォルニア・ドールズ」にも匹敵するスポーツ映画の可能性を放棄してしまった作品でもあったのだから。

2月16日 11日から15日まで京都旅行。かつて週刊誌の取材で何度も東映京都撮影所には足を運んだことがあるが、太秦の映画村には一度も行ったことがないので、まずは大映通り商店街を「仁義なき戦い 代理戦争」の光景を思いつつ観光客気分で行ってみる。忍者ショーのイベント、密書をめぐる忍者同士のアクロバットアクションが売り物だが、悪役の方の年季のいった爆笑ものの語りといい、想像以上に楽しめた。修学旅行の女子高生たちの「かっこいい!」「日本一!」といった声援は本気だったろう。さすがエンターテインメントの本職。村内には可愛い仔馬、ポニーだろうか、一皿200円でニンジンを食べさせることができるのだが、家の者は小柄なので調教のおばさんが乗せてくれる。写真を撮ると、こっちのローアングルも見栄えが違うからと、カメラアングルまで指定されたのがまた映画屋さんの世界っぽくて笑えた。館内の大御所監督や俳優の展示コーナーでは、映画会社とは無関係に、成瀬さんや小津、山中、マキノ、田坂具隆さんらの遺品、資料がみられる。成瀬さんが削った脚本や、山中さんの脚本に書き込んだ文字などを見て身もだえする。 昨年生誕100年を迎えた山中貞雄さんの墓にも参ってきた。上京区のお寺が無数に立ち並ぶ一角、大雄寺の風情がまずいい。こじんまりと静かに佇み、山中さんの人柄を伝えるようだ。若いご住職さんに意を伝えると、それはそれはご苦労様です、と笑顔で墓前まで案内してくれ、この後ろが加藤泰さんのお墓、寺の入り口には小津さんたちが建てた碑がありますのでぜひ見ていってくださいと、感無量のひとときをすごす。その日はさらに北区の等持院にも足を運びマキノ雅弘さんの墓前で手を合わせる。夜、ジャズ屋ろくでなしでその話をすると、実はこのすぐ近くに山中さんがキャメラの宮川一夫を呼んでは飲んだ鳴瀬という料理屋があるんだといって連れていってくれる。鳴瀬は当時のまま残されている小料理屋で、山中は上京時に自身が見出し可愛がった宮川を呼び出し、終電前まで語り合っていたという。山中の上京は小津さんに会うのが目的だった。現在の店主は3代目で、「小津さんもよく佐田啓二さんなどと来ていましてね、私もそのころみています」という。えー!で、小津さんはどこに座ったんですかと聞くと、「あなたが座っているその席ですよ」。キャー! 今回の旅行でいちばん舞い上がった瞬間だった。 その夜、ろくでなしでは何度も店の扉を開けては店主を罵倒し、一発殴られたり警察が登場したり、後ろでは撮影所の助監督さんたちが飲んでいたり、などと何やら新宿ゴールデン街のノリでけっこう楽しく飲んだのだった。疲労困憊となった最終日はあまり遠出もできなかったが、ジャック・ロジェを上映していることを知り、よく見ると大阪なのであきらめ、しかし、ホテル側の劇場でおいおいヴィタリー・カネフスキーやってるよと、のこのこ出かける。「ぼくら、20世紀の子供たち」はストリートキッドたちを路上や施設、刑務所でインタビューし、みんなあっさりと明るく盗みや殺しの犯罪歴を語り始める戦慄のドキュメンタリーで、途中、あの「動くな、死ね、甦れ!」の少年が青年となって刑務所の中で登場したことに動揺し(カネフスキー自身が絶句している)、ギターで弾き語る彼の歌の寂しさに打たれた。旧体制崩壊後のサンクト・ペテルブルグという地で、ストリートキッドにならざるを得ない時代の厳しさは、あどけない表情で犯罪歴を語るほどに切実さを増すのだが、新生児たちの写真で埋め尽くされるエピローグの彼方に決して絶望感が投影されることはない。 京都ではけっこうラーメンを食べた。朝7時だの5時だのからやっている駅側の新福菜館、第一旭、衝撃的な天下一品など。天下一品の濃い目ラーメンはスープがどろどろ。家の者はシチューラーメンと呼び、実はこれがなかなかいける。

2月6日 ジョニー・トー、「スリ」。一歩行き過ぎると、映像美に流れすぎるキワキワの感じがちょっとつきまとうけれど、傘の場面などなかなかのものだった。夜の雨、見事な電車の光景からキャメラが歩道に移動し、少し俯瞰気味にとらえられる傘の群れ。ここは、一人の男が暗黒街のボスからいかにパスポートを盗めるか、駆け引きの場になっている。傘の群れと群れがすれ違う映画的シーンに、トーは真上から撮るショットの必要性も心得ながら、スローモーションと細かなショットを連鎖させる。パスポートの盗みに失敗したかと思いや、通りの向こうから現れる3人の仲間。再び形成逆転に向けて雨の中で繰り広げられる攻防。夜の闇と雨の水、信号機の光というシチュエーションで、順光と逆光の照明を巧みに操る様は、ふた昔前なら工藤栄一の土壇場といったところだが、トーの演出は貫禄たっぷりで、ほとんどミュージカル映画のように魅せてくれる。ジョニー・トーは撮影する街の切り取り方も素晴らしい。カメラへのこだわりも相当なものが伺えるが、ラストで挿入される街の風景写真はトーの撮影したものではないだろうか。それにしてもサイモン・ヤム、どんどんいい顔になってる! ダーレン・アレノフスキー「レスラー」は断然ミッキー・ロークがよく、スポーツ映画の傑作が一本追加された。ダメ男の花道が決まっている。光石富士朗「大阪ハムレット」は女の子になりたい小学生の三男に泣く。学校祭で野次を飛ばされながら演じたシンデレラのダンスがまた泣ける。その上のお兄ちゃん二人もよくて(一人はなぜか「ハムレット」を読み始めるつっぱり)、おそらくは全員お父さんが違うという大阪の人情喜劇。「アバター」はあまり知能レベルの高くない作品だが、スティーブン・ラングだけはいい。「パブリック・エネミーズ」といい、顔が出てくるだけで映画になるいい役者。「映画芸術」のベストワースト眺めていると、本当に日本映画どうなってしまうんだろうという印象。公開本数だけはすごい数になっているのだからなおさらだ。爆笑したのは、中原昌也と千浦僚が毎回ゲストを招く対談。今回はシネマヴェーラの元もぎり嬢(どういう人選!)で、なかなかの美人さん。このおねえちゃん、マキノさんの「次郎長三国志」を上映した頃、身振り手振りで熱く語っていたという実にいいやつなのだが、途中、学生時代に“プロレス”をやっていた経歴が判明。聞いてる相手はもちろん読者もそこで、「カリフォルニア・ドールズ」じゃん!と一斉に盛り上がるのだ。

2月2日 2010年になってしまったことで、うずうずとどうしても考えてしまうのが、00年代のベストテン。新作を満足に観ていないので相当偏るんだろうなあと思いつつ、メモをしていくと想像通り。でもまあ、もともと大好きなアメリカ映画ばかりになってしまっても構わないじゃないかといえるほどに、アメリカという国家ではなく、アメリカ映画界は人材が充実している。まあ、お遊びなので今はこのような感じかな。洋画1位 グラン・トリノ(クリント・イーストウッド)2位 ミリオンダラー・ベイビー(クリント・イーストウッド)3位 チェンジリング(クリント・イーストウッド)4位 ヒストリー・オブ・バイオレンス(デビッド・クローネンバーグ)5位 ミュンヘン(スティーブン・スピルバーグ)6位 ミスティック・リバー(クリント・イーストウッド)7位 ダーク・ナイト(クリストファー・ノーラン)8位 デスプルーフ・イン・グラインドハウス(クエンティン・タランティーノ)9位 トゥモロー・ワールド(アルフォンソ・キュアロン)10位 マイノリティ・リポート(スティーブン・スピルバーグ)10位 マイ・ボディガード(トニー・スコット)10位 アンダーカヴァー(ジェームス・グレイ)

 邦画1位 ユリイカ(青山真治)2位 接吻(万田邦敏)3位 トウキョウ ソナタ(黒沢清)4位 アカルイ ミライ(黒沢清)5位 UNLOVED(万田邦敏)6位 サッドヴァケイション(青山真治)7位 回路(黒沢清)8位 害虫(塩田明彦)9位 叫(黒沢清)10位 リンダリンダリンダ(山下敦弘)10位 顔(阪本順治)10位 ヴァイブレータ(廣木隆一)

2月1日 昨年秋、ダン・オバノンの「バタリアン」を10数年ぶりに見直し、未だに古びていないことを再確認。とくに冒頭の、ゾンビがなぜ墓場から復活することになるのか、いかにもばかばかしいエピソードがそのきっかけであることを説明するアヴァンタイトルのテンポのよさに、この人の才能を見直したところだった。しかもクルー・ギャラガー(あの「殺人者たち」の)を除いて超有名な俳優はほとんど出演していないながら、キャスティングが素晴らしく、それは単純にこの作品に登場する役者たちの顔を観るだけで納得できることなのだ。さらにロメロの正統派ゾンビものからいかに脱力していくか。走るゾンビ、半分だけ生き返る犬の標本、黒いビニール袋の中でピチピチと跳ねる手足、素晴らしいイメージだったと思う。残念ながらオバノンの活躍はあとは「スペース・バンパイア」「エイリアン」「ダーク・スター」などの脚本くらい。残念だなあ。もっと活躍してほしかった。

1月28日 ジョニー・トー「ザ・ミッション 非情の掟」。ショッピングモールでの絶妙の配置でボスを守りながら刺客を向かえうつシーンが素晴らしい。かつて観たことのないガンアクション、それも5人のプロフェッショナルが、まるで柱になったかのように微動だにせず、銃を連射するのだ。アンソニー・ウォンもよかったが、茶髪で若いながらも最も射撃が得意なお兄ちゃんが廃墟で立ち尽くしたまま、一騎打ちするところも気に入った。映画ってアイデアひとつで、ほんとにいろんなことができるものだ。ほとんど同じ配役が登場する「エグザイル 絆」も密室のガンアクションなど、かなりいい。が、写真撮影のくだりなど少しセンチメンタルに描かれるシーンやクライマックスのスローモーションがちょっと引っかかり、「ザ・ミッション」のほうが僕の好み。今年はジョニー・トーの新作「冷たい雨に撃て、約束の銃弾を」(邦題、これでいいんでしょうか)も公開される。またしてもアンソニー・ウォン! そして主演はジョニー・アリディという。「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」は思わぬ拾いもの。ブラッド・ピットが今のブラッド・ピットではないところがいい。デヴィッド・フィンチャーは前作「ゾディアック」もかなりいけていて、見逃せない監督になってきたものだ。まもなく、今年とうとう満80歳を迎えるイーストウッドの新作「インビクタス 負けざる者たち」が公開される。「クリント・イーストウッド ハリウッド最後の伝説」で中条省平氏が解説を書いているが、イーストウッドの想像力はいささかも衰えることなく、自分が一度も撮ったことのない新たなジャンルに挑戦しているとのこと。一刻も早く観たい。さらに今最も心待ちにしていること。フライシャーの「絞殺魔」DVDがいよいよ3月に発売される。小学生のときテレビで観て以来、何年この機会を待っていたことか。「ザ・ミッション 非情の掟」 このシーンが最高にいいのだ!

1月24日 浅川マキさんの死がずしりと響いている。なんだかずうっと浅川マキさんのことを考えている。ミュージシャンの中で、最も多くの回数ライヴに足を運んだ人。最も畏敬する歌手。この人だけは自分にとって音楽家以上の存在だったと思う。もともと亡くなった母が大ファンだったので、中学生の頃から刷り込まれていたんだろうな。コンサートから帰ってきて、あんなにはしゃぐ母の姿は見たことがなかったよう気がする。一人暮らしをしていた頃、もし家が火事になったら、今まで観た映画をつけたノートと浅川マキのレコードだけは死守しようと本気で考えていた。CDショップに行くと、新譜のないだろうことは承知でいつも「あ」の欄から目で追っていた。あの地下を降りてゆく黒い空間、迷路のような客席、柱、文芸座ル・ピリエで聞くライヴは最高だった。向井滋春、植松孝夫、渋谷毅、山下洋輔、川端民生、セシル・モンロー、横山達嗣、南正人、原田芳雄‥。そんなメンツとやった網膜剥離後の長期公演、大晦日公演。最前列に、なぜかはわからないけれど、目の部分だけ穴を開けた紙袋を、頭からすっぽりと被った観客がいて、ああこういう人もありなんだと妙に納得してしまった空気感。いつもの黒いドレスに黒のサングラス。ステージ上でふかすタバコの銘柄はピースライトだった。生の面白さはマキさんのもぞもぞとした語りを聞けるところにもあった。語りそのものが演奏と地続きになっていて、とにかく何もかもが心に響いてきた。ライブではレコーディングしていない歌もけっこう歌っていた。古いアパート、階段、本当は金さんが本名の金田さん、そんなイメージを綴る悲しげな歌に、突然「線路は続くよ、どこまでも」の旋律が挿入される構成に、震えるように聞き入ったことがある。南正人の「海と男と女のブルース」も絶品で、これはレコーディングしてほしかった。70年代のアルバムもすべて素晴らしいが、本多俊之などが参加するようになった80年代以降の作品は俄然凄みが増した。「UNDERGROUND」「こぼれる金の砂」「幻の女たち」「幻の男たち」「Nothing at all to lose」等々。もともとジャンル分け不能の人だけれど、先鋭的ミュージシャンとの競演でエッセンスが多様化し、そのエッセンスがすべてマキさんの世界に収斂し、暗い闇の奥から詩と旋律が溢れ出す。「アメリカの夜」のように、アップテンポで疾走感のある歌いっぷりはまさにカッコ良かった。しかし、ずっとマキさんを聞いていたのは、懐かしいような救われるような孤独を肯定してくれるようなほんの少しの希望でいいじゃないかと言ってくれているような、スローテンポの曲がたまらなく心に響いたからかもしれない。「少年」。「こんな風に過ぎて行くのなら」。「夕凪のとき」。わずか1分40秒ほどしかない、「あの男のウォーキング・テンポ」。こんな歌が歌える歌手はもう現れない。もう過去形でしか語れないことが悲しい。本当に悲しい。

2010年1月18日 3ヵ月半ぶりにようやく更新できた。最後に日記を書いてからすっかり体調を崩し、5週間に及ぶ入院生活。ホルモンに関わる面倒な病気の他に、眼病と睡眠時無呼吸症候群まで発見され、一気に老け込んだ気分になってしまう。ロンドの50周年直前から体調が悪くなったこともあり、50周年のイベントにはほとんど役に立たないという情けなさだ。その間、我が家の軒下で生まれた猫をさらに2匹飼うことになり、前からいる2匹が、後輩の現れたせいか、突然ボス争いを繰り広げ、また、3匹が重症の猫かぜを患うというあわただしさで、心労がたたってついに家の者まで年末に入院するという事態になってしまう。父が春に入院したことから数えると昨年は病の蔓延する年になってしまった。今はとりあえず全員元気に復帰できたのでよしとしなければ。ところでパソコンは昨年8月に長年使ったマックがクラッシュし、急遽中古マックを購入したのだが、それも入院直前に再びクラッシュ。修理に出すと10万円近くかかるというので、とうとうウィンドウズに変更。無料ソフトを検索し、移植作業にとまどい、ようやく本日更新できた次第。 劇場では「イングロリアス バスターズ」「パブリックエネミーズ」など堪能。年末は我が家で増村保造大特集を延々とやり、大いに盛り上がった。以下、昨年のベストシネマです(再見含む)。 (邦画)「接吻」(万田邦敏)「ありがとう」(万田邦敏)「UNLOVED」(万田邦敏)「トウキョウソナタ」(黒沢清)「叫」(黒沢清)「サッドヴァケイション」(青山真治)「水俣一揆 一生を問う人々」(土本典昭)「不知火海」(土本典昭)「ドキュメント路上」(土本典昭)「医学としての水俣病 第二部病理・病像篇」(土本典昭)「医学としての水俣病 第三部臨床・疫学篇」(土本典昭))「息子の花嫁」(丸山誠治)「その場所に女ありて」(鈴木英夫)「卍」(増村保造)「刺青」(増村保造)「妻は告白する」(増村保造)「華岡青洲の妻」(増村保造)「セックスチェック 第二の性」(増村保造)「妻二人」(増村保造)「好色一代男」(増村保造)「痴人の愛」(増村保造)「恋にいのちを」(増村保造)「夫が見た『女の小箱』より」(増村保造)「大地の子守唄」(増村保造)「氷壁」(増村保造)「女体」(増村保造)「うるさい妹たち」(増村保造)「御用牙 かみそり半蔵地獄責め」(増村保造)「大阪の宿」(五所平之助)「気違い部落」(渋谷実)「下妻物語」(中島哲也)「人のセックスを笑うな」(井口奈己)「東京の合唱」(小津安二郎)「クレヨンしんちゃん嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦」(原恵一)「サイドカーに犬」(根岸吉太郎) (洋画)「チェンジリング」(クリント・イーストウッド)「グラン・トリノ」(クリント・イーストウッド)「サブウェイ123」(トニー・スコット)「グッド・バッド・ウィアード」(キム・ジウン)「アンダーカヴァー」(ジェームズ・グレイ)「イングロリアス バスターズ」(クエンティン・タランティーノ)「パブリックエネミーズ」(マイケル・マン)「ラスト・オブ・モヒカン」(マイケル・マン」「レッドクリフpart2」(ジョン・ウー)「神の道化師、フランチェスコ」(ロベルト・ロッセリーニ)「バルタザールどこへ行く」(ロベール・ブレッソン)「悲しみは空の彼方に」(ダグラス・サーク)「翼にかける命」(ダグラス・サーク)「自由の旋風」(ダグラス・サーク)「モンパルナスの灯」(ジャック・ベッケル)「決断の3時10分」(デルマー・デイヴィス)「脅迫者」(ブリテイン・ウインダスト=ラオール・ウォルシュ)「ビッグ・トレイル」(ラオール・ウォルシュ)「何がジェーンに起こったか?」(ロバート・アルドリッチ)「ゲバラ!」(リチャード・フライシャー)「マジェスティック」(リチャード・フライシャー)「ミクロの決死圏」(リチャード・フライシャー)「救命艇」(アルフレッド・ヒッチコック)「汚名」(アルフレッド・ヒッチコック)「ドノバン珊瑚礁」(ジョン・フォード)「夕陽に向かって走れ」(エイブラハム・ポロンスキー)「キラー・エリート」(サム・ペキンパー)「ゲッタウェイ」(サム・ペキンパー)「サブウェイ・パニック」(ジョセフ・サージェント)「ローリング・サンダー」(ジョン・フリン)「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」(ルイス・ブニュエル)「皆殺しの天使」(ルイス・ブニュエル)「階級関係」(ダニエル・ユイレ、ジャン=マリー・ストローブ)「ナッシュビル」(ロバート・アルトマン)「カラビニエ」(ジャン=リュック・ゴダール)「小さな兵隊」(ジャン=リュック・ゴダール)「ワン・プラス・ワン」(ジャン=リュック・ゴダール)「ハスラー」(ロバート・ロッセン)「パヒューム ある人殺しの物語」(トム・ティクバ)「シュレック」(アンドリュー・アダムソン他)「シュレック2」(アンドリュー・アダムソン他)「シュレック3」(クリス・ミラー)「ダークナイト」(クリストファー・ノーラン)「ノー・カントリー」(ジョエル・コーエン)「ボーン・アルティメイタム」(ポール・グリーングラス)「ホステル2」(イーライ・ロス)「ハプニング」(M・ナイト・シャマラン)「アイアン・マン」(ジョン・ファブロー)「トロピック・サンダー」(ベン・スティラー)「レイ」(テイラー・ハックフォード)「ドリーム・ガールズ」(ビル・コンドン)「ワイルド・レンジ 最後の銃撃」(ケビン・コスナー)「ミラクル7号」(チャウ・シンチー)「激流」(カーティス・ハンソン)「クローバーフィールドHAKAISHA」(マット・リーヴス)「バタリアン」(ダン・オバノン)「ロック・ユー!」(ブライアン・ヘルゲランド)「太陽」(アレクサンドル・ソクーロフ)「プラットホーム」(ジャ・ジャンクー)「ミラーズ」(アレクサンドル・アジャ)「スタートレック」(J.J.エイブラムス)