2016年10月23日 「ハドソン川の奇跡」、ハワード・ホークスを想起させるプロフェッショナリズムと男の友情を描く映画。エンディングのあっけなさが、映画史の既視感となって泣ける。昔は、アーロン・エッカート(いい役をもらいましたね)のセリフのあと、即「THE END」でよかった。モブシーンのさばき方もすごすぎる。コクピットでクローズアップになる手、公聴会のシミュレーション、不時着時に繰り返されるスチュワーデスの呼びかけ…淡々と描かれるが実に濃密な96分。原題は「Sully」。シンプルでテーマが凝縮したタイトルだが、日本人にはそのままいける勇気がない。「11/22/63」はジョージ・デ・モーレンシルツを登場させるまでは、どこまでケネディ暗殺の真相に迫るのかワクワクしたが、結局メロドラマに収束してしまう。サム・ジアンカーナが「ダブル・クロス」であそこまでアメリカ裏面史を暴露しているのだから、オズワルドだけに着目するのはおかしいと思っていた。大洗はいい。もう一度行きたい。

7月18日 黒沢清「クリーピー」、黒沢劇場を更新する傑作。おお、クレーンかと思いきや、ドローンだという驚き。クレーンは「トウキョウソナタ」で堪能させてもらったのでよいのだが。香川照之が黒沢作品に登場すると怖くて楽しいのは小走り。「トウキョウソナタ」も「贖罪」も印象的だったが、今回は本当に怖い。拳銃の発射音の本格派ぶりと、香川さんの被弾するタイミングは、弾丸の速度を感じさせる。これは監督の拘りか、香川さんの提案か。興味深い。 それにしてもおもしろすぎるのは「ガールズ&パンツァー劇場版」。映画館に4度も足を運ぶのは生まれて初めての体験だった。家の者までうち2回は劇場に通い、とうとうブルーレイBOXまで購入し、細部を検証するという事態に。4Dというものを完全に馬鹿にしきっていたのだが、戦車のエンジン音の違いまで配慮した4Dの演出は、砲弾の発射音の強烈さと合わせて体験する価値があった。ここまでおもしろがれるのは、テレビ版からしてレベルが高いからで(全13話)、これを踏まえて劇場版を観たならば悶絶ものだったろう。何度も観たくなるのは戦車戦のリアリティと荒唐無稽ぶりの絶妙なバランスにもある。第2次大戦までに使用した戦車に限定し、それを女子高生が「戦車道」の名のもとに激戦を繰り広げ、しかし戦車は「特殊なカーボンに守られている」ために戦死はないという設定。日本の女子高生ながら、ドイツ、ソ連、イタリア、イギリス、アメリカなど校風や制服は戦時中のデザインで、ただしミニスカートだというのもおかしい。僕が最初におもしろがったのは、テレビ版からミュージカル的要素がある点で、彼女たちは「カチューシャ」や「雪の進軍」を歌いながら進軍やスパイ活動を行い、ドイツ系の高校が登場すれば「パンツァー・リート」どころか「エーリカ」、アメリカ系高校は「アメリカ野砲隊マーチ」、イギリスは「ブリティッシュ・グレナディアーズ」という具合に流れるのだ。 「ガールズ&パンツァー劇場版」のおもしろさは、高校の存続をかけ、大学選抜チームと8対30両という不利な状況で戦わざるを得なくなった際に、かつて戦った個性的な各国(もどき)の女子高生たちが一挙に集結してくれることにもあり、さらにテレビ版では登場しなかった日本軍とフィンランドまでが参戦する(集結の暗号として、ノルマンディ上陸作戦で使われたヴェルレーヌの詩を発信するという凝りよう!)。日本の九七・九五式戦車隊が参戦する場面では「雪の進軍」マーチが高鳴り、フィンランド軍(といっても1両)が活躍する場面ではポルカにノって履帯のはずれたクリスティン式戦車BT-42が70キロ台にまで速度を上げ、パーシング3両と戦う。後者は敵が密かに用意したカール自走臼砲を潰すための囮作戦であり、カールに立ち向かうのはなんとヘッツァーやカルロベローチェといった豆戦車隊なのだ。これこそ荒唐無稽の極みであり、映画史に残る名場面だと思う。3個中隊の編成は、アメリカと日本、ソ連とドイツチームなどと、かつて戦争を行った国の戦車同士が助け合うというのも心憎い。複数の軍事研究家が監修にあたり考証は細密なのだが、音声特典のコメンタリーを聞くとダンディなはずのおじさんたちが完全に子供がえりしていて笑わせる。

4月7日 ジョン・フォード、「荒野の女たち」に絶句する。アン・バンクロフトの、あの衣装と化粧。自己を犠牲にする、あっけない幕切れ。これがフォードの遺作だったのかと、もう3日も衝撃を引きずっている。

4月3日 大滝詠一の新作「DEBUT AGAIN」が発売される。本人の歌唱音源がこれだけ残っていたのは驚きだが、「怪盗ルビイ」「星空のサーカス」「Tシャツに口紅」「探偵物語」あたりの流れがいい。名曲。自分の好みとしては、「ナイアガラ・リハビリ・セッション」なる4曲が最高。私の大好きな「私の青空」を歌っているのもうれしいが、プレスリー・メドレーのシャウトがきまっている。 大滝さんの業績というか、研究成果、例の映画ロケ地巡りについても何とか表に出してもらえないものだろうか。ラジオ音源を聴いただけでもレベルが只者ではない。例えば、小津安二郎の「長屋紳士録」は室内シーン以外はオールロケで、ロケ地は全シーン解明したという。坊やが飯田蝶子の家にやってきた日、早速寝小便をしてしまうわけだが、布団を干す場所のロケ地が全部異なるという。大滝の推測は、当時空襲のあとが都内にけっこう残っており、築地、宝町、茅場町、八丁堀など転々と撮影場所を変えながら廃墟を狙っていたのではないかと。とくに茅場町のあたりはひどかったそうだが、布団があるので同じ場所に見えるが、あれは小津のトリックだというのだ。「助監督が寝しょんべん布団を持って歩いたんだよ」という大滝さんがおかしいが、さらに成瀬巳喜男との比較に持っていくところが深い。 大滝さんは成瀬の「銀座化粧」のロケ地解明をすでに行っており、成瀬の場合、新富橋なら新富橋の四方から撮す人であり、しかも丁寧にドキュメンタリーのように撮っていて、トリックなど使わず素直、という人物評になる。つまり当時、会社上層部から似ていると言われた小津と成瀬の違いに関する大滝さん流のアンサーだ。ショットによってロケ地を変えることは珍しいことではないだろうし、他人には書き込みだらけの脚本を絶対に見せなかった成瀬さんが素直なはずはないが、小津と比較した場合の成瀬という大滝さん流の読み方があるのだろう。 大滝さんのロケ地解析能力は相当なものだが、その極意の語りがまた面白い。「『銀座化粧』のロケ地を全部解明したときの最終ポイントはもはや自分は成瀬であると。成瀬はどういうアングルを狙ってどうやるかを考えている。それは自分であるから、僕がどう考えるかが成瀬なの。その手法を小津でやってみたら、布団がトリックだった。なかなか味がある。さすがだね」。 「長屋紳士録」の研究成果を当時キャメラマン助手だった川又昂さんに発表したところ、「すごい発見だ」と評価してくれたという。小津映画の解析にあたり、丸の内界隈にはないであろう、やたらに古い街燈が多いことにも気づき、大滝氏は「持って歩いた」と推測。川又さんは「常に違う種類の街燈を3種類ほど持ち歩いていた」とあかしたそうだ。

  「ガールズ&パンツァー 劇場版」見たさに、4D劇場にかけつける。茶道ならぬ戦車道。「特殊なカーボンに包まれているから大丈夫」な戦車にのって高校対抗戦で実弾を撃ちまくる女子高生たち。高校存続をかけ、8対30という不利な状況下で大学生軍団と対決せざるを得なくなった瞬間、「バルジ大作戦」のあの音楽がたかなり、かつてのライバル校生たちが応援に駆けつける。これは泣けた。4Dの仕掛けが映画に邪魔だったものの、あまりの面白さにまったく気にならなくなる。 

2月15日 ロン・ハワード「白鯨との闘い」、徹底した「帆」の映画。風を受ける帆の羽ばたき、黒澤明の旗どころではない。この船を映画的題材にした時点でロン・ハワードの勝利だろう。敵対する男性二人を物語の軸に置く点は「フロスト×ニクソン」「ラッシュ/プライドと友情」に続く流れ。今回、脚本家は違う方だが、このパターンのロン・ハワードはすべていいですねえ。デヴィッド・ロバート・ミッチェル「イット・フォローズ」も傑作だろう。最初の10分が長いが、自分を襲う怪物はゆっくりと歩いてこちらに向かってくるか、屋根の上などから見張っているだけ。従って簡単に逃げられるが、車で逃走しても、一箇所に留まっていると追いつかれてしまう。これをあざとい演出をせずに、じっくりと撮っている。カーペンターの「ハロウィン」も思い出す。この監督の名前は覚えておこう。 スカパーでフライシャー「スパイクス・ギャング」を放映してくれる。じっくり観るとすごいスピードで話が展開しているのがわかる。映画が90分の時代、スタジオシステムが機能している時代はこれが当たり前だった。とくに驚いたのは少年3人が家出するまでの速度。こんなに簡単に3人の足並みが揃っていたか。そこからはジェットコースターで、彼らはあっという間に犯罪を犯し収監され、スパイクス=リー・マービンに救われ、スパイクスと敵対する。そしてあっという間に終わるのが「映画」だった。

1月31日 スピルバーグ「ブリッジ・オブ・スパイ」、ですよね~、映画監督たるもの、一度は人質交換をやりたいものでしょう。スピルバーグはこの人質交換を大クライマックスに、しかも1対2の交換という離れ業をやってのけるのだ。人質交換の映画史、考えるだけでも愉しい。 boid樋口泰人氏の爆音上映で三宅唱の新作ドキュメンタリーがかかるというので駆けつける。縦長の部屋の手前に機材を配置し、ヒップホップアーティストのOMSB氏がサンプリングしながらリズムを作り始める。映画のほとんどはこの構図で、仲間のミュージシャンが周囲を囲んだり離れたり。そして後半突如存在感を発揮し始めるBim氏がところどころ、この音がよい、と的確な意見を述べる。上映後の三宅氏のトークショーで理解できたが、彼らは普段一緒に活動しているメンバーではなく、つまりこの音楽制作の過程は馴れ合っていそうで、内面的には緊張感を伴うものだったのだろう。そう考えると、一箇所にキャメラを据えたこの構図は決定的に正しくOMSB氏を囲んだり離れたりという周囲の距離感が非常に面白く、また実に映画的なものだと思う。OMSB氏をリスペクトする姿勢が構図によって明確になっているが故に、突如真横から捉えた恐竜のような首の動き(三宅監督の表現)が衝撃的なのだ(正面からの撮影ではこの動きがまったくわからない)。スーパーボールを使って楽曲の構想を練るOMSBとBimは、遊んでいるようで集中力を高め、キレキレの問答をするところも面白い。たったの二日の撮影というが、瞬時に空間とポイントをつかむ三宅監督、なかなかのものです。

 爆音上映、翌日は飲み会の約束があったので諦めていたのだが、「悪魔のいけにえ」がプログラムされている。チェーンソーを爆音で聞きたい! その欲望には勝てず、飲み会の遅刻を宣言し駆けつける。すごかったです! チェーンソーの爆音もすごいが、最初の犠牲者がハンマーでやられたあと、すかさず鉄の扉が閉まる場面、扉の閉まる音と同時に重低音の音響が地べたから吹き出すのだ。上映後の場内はあちこちでクスクス笑い。もう笑うしかないよね、あれは。運営の小野さんという女性は、この作品は生涯のベスト5に入る作品、爆音上映はこの作品をかけたいが故に行ってきたようなもの!と熱く語っていたが、あなたはエライ!

2016年1月6日 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。ホームページの更新中、操作ミスで、ここ3年分の日記を消去してしまう。やはりこまめにバックアップをとっておかなければダメですね。と、諦めていたところで、ホームページの製作をお願いしていた知人に相談するとあっさり復旧。助かりました。 昨年はすっかり音楽の方にシフトした感があり、ジャズ、ロック、大瀧詠一(&日本ポップス史)三昧といったところ。映画の本数は少ない。“映画三狂人”の対談でイーストウッドは「グラン・トリノ」以降、作風が変わっただのといった指摘がなされていたが、これはまったく同感ともいいたいが、「アメリカン・スナイパー」にはまったく乗れず、その前作「ジャージー・ボーイズ」の線の弱さもあって、さすがのイーストウッドも衰えがみられてきたと思っている。本来であれば、ホークスの「ヨーク軍曹」と並べる楽しみもあったのだが、まったくそんな気が起こらず。黒沢清「岸辺の旅」、見事な色の映画でもあるが、男女の絡みのシーンで黒沢さんの照れがそのまま画面に出ているようで、居心地が悪かったのは否めない。登場人物二名を正面を向かせたまま前後に配置し、会話させる構図があったが、通常ならセリフに応じてピン送りなどというダサい演出をしたら、その場で劇場をあとにするところ。もちろん、黒沢さんはそのような演出をするわけもなく、安心して観ていられた。溝口の指摘もあるが、僕は加藤泰「瞼の母」も紛れていたと記憶する。キワモノだが、イーライ・ロス「グリーン・インフェルノ」、空撮から始まるワクワク感、久々に堪能。グロイが演出がきちんとしているので汚くない。これは傑作だ。空撮といえば、やっぱりイーストウッドのトレードマークのようなものでもあって、ブルース・サーティースという名前を懐かしく思い出しながら、「グリーン・インフェルノ」の世界にのめり込んでいった。意外にも面白かったトム・ハンクス「幸せの教室」、男と女が突然近い距離に至る車のシーンの演出、ただものではないと思う。まあなんだかんだいって昨年は「マッドマックス 怒りのデスロード」に尽きる。出発から帰還まで。筋などないに等しい。アクションそのものが筋になっているとも言える。映画は「ジョン・フォード=西部劇」とマック・セネットでいいんだよ、とでもいっているかのような。この作品で、ジョージ・ミラーが一気にドナルド・シーゲル、ペキンパー、セルジオ・レオーネクラスに並んだ気がする。劇場に2度観に行ったのも久しぶり。ところでジョニー・トーはミュージカル映画を仕上げたはずだが、この街では公開されるのか。「スリ」など観ていると、ミュージカル=「シェルブールの雨傘」もやりたくて仕方がなさそうなのがわかる。トーさん、昨年は「柔道龍虎房」を観直したが、最高傑作ではなかろうか。映画的「省略」の快感。♪やーれーばーでえきいるさ~できいカ~ケェリャ~…テレビ版「姿三四郎」の歌詞をあちらの方が耳コピでデタラメに再現するのを、さらにメモって再現したくなるほど、歌がいいんだなあ。

 以下昨年のベストシネマ(順不同、旧作含む)。(洋画)「マッドマックス 怒りのデスロード」(ジョージ・ミラー) 「グリーン・インフェルノ」(イーライ・ロス) 「ミッション・インポッシブル ローグ・ネイション」(クリストファー・マッカリー) 「幸せの教室」(トム・ハンクス) 「フライト・ゲーム」(ジャウマ・コレット=セラ) 「大統領の執事の涙」(リー・ダニエルズ) 「牢獄処刑人」(エリック・マッティ) 「柔道龍虎房」(ジョニー・トー) 「ビフォア・サンライズ」「ビフォア・サンセット」「ビフォア・ミッドナイト」(リチャード・リンクレイター) 「パワープレイ」(マーティン・バーク) 「ブルー・ジャスミン」(ウディ・アレン) 「マイ・ブラザー 哀しみの銃弾」(ギヨーム・カネ) 「デブラ・ウィンガーを探して」(ロザンナ・アークエット) 「ブラック・ハット」(マイケル・マン) 「ドラフト・デイ」(アイヴァン・ライトマン) 「イコライザー」(アントワーン・フークア) 「フォックス・キャッチャー」(ベネット・ミラー) (邦画)「岸辺の旅」(黒沢清) 「ペコロスの母に会いに行く」(森崎東) 「龍三と七人の子分たち」(北野武) ワースト 「アメリカン・スナイパー」(クリント・イーストウッド) 「寄生獣」(山崎貴)

 

2015年5月19日 コッポラ制作の「オン・ザ・ロード」にスリム・ゲイラードが登場する。パーカー好きは「オン・サヴォイ」で遭遇するので、間違いなく聴いているわけだが(「フラット・フット・ブギ」のかっこよさ!)、映画を見ていて、ああ、ここも追いかけ損なった分野だなあと考え込んでしまった。「ジャズの歴史物語」にとらわれると、マイルスのヒップホップがつながらないという故・中山康樹氏の指摘が応用できそうだが、音楽の歴史はいわゆるジャンルを縦に辿るのではなく、時代を横断しながら眺めなければ、見落とすものがたくさんある。スリム・ゲイラードはスイングからバップの時代に流行したジャイヴ系の中心人物だが、キャブ・キャロウェイやルイ・ジョーダンなど追いかけたいミュージシャンは数多い。ディスク・ユニオン時代、ヨーロッパのマイナー・レーベルからスープレコードまで扱ったジャズ・フロアにいたので、ちょこちょこ視聴はしたが、掘り下げていない。ジャイブ系のミュージシャンを集めた輸入ビデオは未だ所有しているが、ベータなので現在観られず。トレイナーズという4人組のふざけたダンスが実はかっこいいというところを確認したいのだが。 世の中にはいろんな趣味人がいるもので、ユニオンはその宝庫だったが、モダン・ジャズにはまったく興味がなく、40年代前後のビッグバンドしか聴かないという人間もいた(先輩方の年代には珍しくないが、同年代にはいなかった)。とはいうもののその彼、ジャイブは大好きで、吾妻光良を教えてもらったことには感謝している。中高年の病気を歌って爆笑させてくれるのが、小沢昭一と吾妻光良なのだから。

5月10日その1 つくづく思うのは、一度好きになったものはとことん追いかけなければ、だめだなあということだ(広げすぎると浅くなってしまうものでもあるが)。高校時代にブルースと日本のポップスに強い友人がいたので、その影響から「はっぴいえんど」を聴き始め、自分の小遣いで初めて買ったLPレコードが(映画音楽を除いて)、大瀧詠一の「ナイアガラ・ムーン」(ちなみに、その友人のリーダーシップで、高校の合唱コンクールでは大瀧さんの「サイダー」を歌うことになった)。そこから、「ナイアガラ・トライアングルVOL.1」やシュガーベイブ、山下達郎ファースト「サーカスタウン」周辺までいき、あとはジャズ一辺倒になったため、大瀧さんを追いかけることはなかったのだ。せめて同時進行で追いかけていたならば、あの素晴らしい「大瀧詠一」に衝撃を受け、諧謔の「ゴー!ゴー!ナイアガラ」や「ナイアガラ・カレンダー」に引き込まれ、パロディの極北「レッツ・オンド・アゲイン」に打ちのめされたに違いない。10代で出会っていたなら、何らかの精神的影響を受けたであろう。権利の関係からピンクレディーの替え歌「河原の石川五右衛門」が「レッツ・オンド・アゲイン」に収録されるのは後のことだが、パロディがこのレベルにまで達するのは並の才能ではない。そして、桁外れといえるポップス知識とそれをミックスするセンス。このレベルが全曲に維持され、最後に音頭で締めくくるという荒唐無稽ぶり。何度聴いても爆笑と興奮と脱力を繰り返し、最後にほろりと落涙しそうになる。この感覚は以前も感じたことがあるなあと思っていたが、思い出した。マキノ正博の「鴛鴦歌合戦」を観たときだ。今、大瀧氏の900ページに及ぶ「Writing&Talking」を読んでいるが、本人の文章が収録されていた。日本映画史上初の徹底したオペレッタ映画であり、この後も音楽をフィーチャーした映画は山のようにあるが、これほど成功したものはなく、まさに最初で最後の作品だった、と大絶賛。さすが!分かっていらっしゃいますね。 大瀧氏のポップス研究は明治時代にいかに日本人が洋楽を吸収していったかというところから出発するが、日本人によるジャズの歴史とも重なり非常に興味深い。瀬川昌久+大谷能生による名著「日本ジャズの誕生」と合わせるとまだまだ聴いていない音楽が山ほどあるな。大瀧氏は添田唖蝉坊への関心から高田渡へのインタビューも行っており、ここで神代辰巳もつながってしまうという面白さだ。

5月10日その2 それにしても「映画」を観るのはつくづく難しいと、この年齢になっても痛感している。これはずうっと思っている実感。映画のすべてを観ることは不可能ではないかとさえ思う。映画を観るためには、動体視力が重要でそのためには孤独な訓練が必要だ。ある映画が面白いと言われた際、よく聞くと大概は筋のことを指している。もちろんそれも重要な要素だが、映画には筋とは異なる別の「物語」が流れており、その発見こそが最も重要な問題なのだと思う。でなければ映画など必要なく、小説かテレビでよいのだ。 構図という問題ひとつとっても、映画の構図とはどこで発明されたものなのか、それを追い求めなければ理解したことにはならないのだと思う。構図とは、どこにキャメラを置くかということ。自分も自主映画をやっていたのでわかるが、素人ほどおそれもなく簡単にキャメラポジションを決めてしまうものだ。しかし、優れた映画を何本も観ていくと、構図に共通性があることを発見する。構図を意識していくと、どんどん映画史を遡らざるを得ない。そこで辿り着くグリフィスやリュミエール。このエモーションは何十年も映画を観てきた経験を覆すほどに衝撃的なのだ。映画はサイレント時代に完成していたと言っても過言ではない。映画の筋を読み取ると同時に、構図だけではなく、照明つまり光に対する感受性や、カット・イン・アクションなどによる映画独特のテンポなどなど、画面上に映っているあらゆるものを見つめることができなければ、本当に映画を理解したといえるのかどうか。例えば、成瀬巳喜男のように、あまりにうまい監督であるほど映画は滑らかに流れ、技術を感じさせないものだ。そして、筋に飲まれてしまいがちになる。

 構図ひとつとっても、どこにキャメラを置くことが最良なのか。未だにリュミエールの構図が至るところで活用されていることを、知っておくべきだと思うのだ。そして映画史の積み重ねの中で考えたとき、映画の最盛期がどこにあり、「今」と比較してどうなのか、「映画」とは何かという問題が見えてくる。評価されているはずのスコセッシやイーサン・コーエンがいかに凡庸で、イーストウッドはいつも上手いわけではないといった問題を提示することにもなるだろう。また、加藤泰が「通俗」からいかに遠いところで映画を撮っていたかという真剣さに驚愕するかもしれないし、小津安二郎のアヴァンギャルド性を発見するかもしれない。しかし、やはり「映画」を観るのはなかなかに難しいというのが実感だ。なので、自分は「映画」をよく観ている人間」と自負したことは一度もないし、むしろ観ていないほうだといったほうが近い。映画を観て面白いと言ったことは何度もあるが、これは私の主観であり、他人に勧めたことは一度もない。かつて開いた映画のイベントも含めて。 昨年フィルムセンターで、フォードの「香りも高きケンタッキー」が数十年ぶりで上映され、青山真治が「今日からこの映画を観た人間と、観ていない人間の2種類に分けられる」といったようなコメントを残したのをどこかで読んだが、観ていない私も悔しいがその通りだろうと思う。一方で、ヒッチコックは「たかが映画じゃないか」と言うのだが…。

5月9日 中山康樹さんの訃報には衝撃を受けたが(なぜか、とあえて言うが、映画芸術でも追悼記事を掲載している)、ここ一年でも、ジョー・ボナーやケニー・ホイーラー、チャーリー・ヘイデン、ジャッキー・ケインなど数多くの愛すべきジャズ・ミュージシャンが亡くなっている。がっくりきたという感じなのは、井上淑彦さん。宮坂高史さんと演っていたあたりが初めてだろうか。でもまあ、なんといっても森山威男の「ライヴ・アット・ラヴリー」だ。このアルバム制作の背景には私がディスクユニオンでお世話になった方が絡んでいてやや複雑な思いにかられるが、あの20分を超える「エクスチェンジ」の迫力。本当に言葉を失ったことを覚えている。 ローソン・マーシャル・サーバーの「なんちゃって家族」が拾い物だった。ジェニファー・アニストンの踊り(というか擬似ストリップ)シーンが笑えるが、ヤクの売人とストリッパー、童貞の少年、家出少女が麻薬の密輸のために擬似家族を装い、いつしか本物の家族のようになってしまうという過程をコメディで描くセンス。「ドッジボール」を撮っただけある。

5月5日 もはや昔のWOWOWではなくなってしまったものの、「ヒドゥン・フェイス」などというとてつもない傑作をこっそり放映してくれるので、ときどきチェックしているが、同じスペインの「MAMA」はアヴァンタイトルの部分は最高。幼い姉妹が幽霊に育てられてカスパール・ハウザーになってしまい、そこからいかに人間に戻れるかという話で、廃屋の暖炉の灯りに取り残された姉妹のもとに、暗闇からさくらんぼが転がってくるイメージは素晴らしい。だんだん凡庸な展開になってしまうのだが。凡庸といえば、ジュゼッペ・トルナトーレはやはりダメか。「鑑定士と顔のない依頼人」、終盤までかなりのものだと思えたが、結局通俗的に終わってしまうのだ。思えば、「ニュー・シネマ・パラダイス」の人。当時、周囲の映画関係者もぼろぼろにいっていたものだが、この人は演出がいつか観た手垢にまみれたものばかり。90年前後でいえば、一見新しそうに見えるデビッド・リンチやジョエル・コーエンがなぜ評価されるのか理解に苦しんだものだが(正確に言えば「赤ちゃん泥棒」のときは期待できると思った)、コーエンは最近も「トゥルーグリット」でフォードやホークス、アンソニー・マンその他もろもろを観ていないという馬脚を表した。とくに馬で川を渡る場面を観て欲しい。これは僕でもわかる明らかな間違いで、新宿の映画館で居心地が悪くなった。全盛期の西部劇はこんな撮り方をしていない。つまりコーエンはイーストウッドもちゃんと観ていないのだろう。出来が良い方の「ノー・カントリー」は蓮實さんに「あれは珍しく間違いの少ない映画で」といわれてしまう始末(誰も言わないので何度も書くが、これはシーゲルの「突破口」だからいいのだ)。90年頃といえば注目すべきは、カウリスマキやカラックス、ジャームッシュ、ホオ・シャオシェン、北野武などいろいろあるが、なんといってもカネフスキー「動くな、死ね、甦れ!」ですよ。ああ、あとエドワード・ヤン!。

  大瀧詠一さんの「分母分子論」「普動説」はかなり面白い。大瀧再検証の中で出会った布谷文夫もいい。「悲しき夏バテ」は名盤だ。「深南部牛追唄」。三橋美智也もつながっている。その他、三木鶏郎、弘田三枝子、エノケン、美空ひばり、服部良一、アラン・トゥーサン、プロコルハルム、ドクター・ジョンなど。

4月17日 イーストウッドさん、どうしてしまったのでしょう。「アメリカン・スナイパー」、冒頭のタイトルで、制作会社の多いことから、何か引っかかるものを感じたのだが。だいたい、トム・スターンが撮影しているのにキャメラがよくない。イーストウッドの光と闇に対する感性はこんなもんじゃなかったはず。悪い映画ではないのだが、イーストウッドとうとう衰えたか…。何らかのいつもとは違う製作事情があったとしか思えないのだが…。イーストウッド人脈なら、ポール・ハギスは無視して、ジョン・リー・ハンコックが頑張っている。「ウォルト・ディズニーの約束」「しあわせの隠れ場所」の質の高さ。ブライアン・ヘルゲランドも「42」はよかったな。

 最近では「プレシャス」はどうかと思ったが、リー・ダニエルズの「大統領の執事の涙」は傑作だった。驚いたのはトム・ハンクスの「幸せの教室」。ハンクスとジュリア・ロバーツの距離を近づけていく演出がなんてことないようですごい。「ペコロスの母に会いに行く」は泣ける。「いっちに、いっちに」とおじいちゃんを歩かせる声がオフになって聞こえるところに爆笑。こういうことを今の監督はできない。

 ふと思い出して大瀧詠一を聞きなおす。メロディではなく、ノベルティ時代が本質と思っているので、未だに「ア・ロング・バケーション」は聞いたことがない。といってもしつこく追いかけていなかったので、「レッツ・オンド・アゲイン」を初めて聴いてぶっとんだ。最後の音頭でちょっと泣けるおもしろうてやがて哀しきの世界。ピーター・バラカンが日本人のアルバムで最も好きな作品というのがよくわかる。小林旭やクレイジーキャッツでもお世話になった方だが、この方のポップス知識と理論は半端なく、三橋美智也も聴きたくなる説得力。 

3月1日 2月、横浜と鎌倉方面へ行く。鎌倉はとにかく小津さんの墓参りをすることだけが目的なので、円覚寺へ。北鎌倉駅を降り立つと、プラットホームの狭さがもう小津さんの世界だもんなあ。小津さんの墓前にはいまだにお酒や花が供えられていて(周囲の墓には何もない)、未だに愛されていることがよくわかる。鎌倉ついでに川喜田記念館も訪問。数々の映画監督が訪れた写真も展示され、この古風な家の造りと庭の佇まいにさぞかし外国人は喜んだことだろう。僕も喜んだ。横浜は関内のホテルに宿泊し、みなとみらいなどに興味はない、毎日野毛へ。ジャズと中華と馬鹿鍋。この町に住みたい。平岡正明チックな足取りとなったが、ご存命中に大道芸活動を見てみたかった。山崎洋子さんらと自著の叩き売りもやっていたんでしょ。「野毛の運動は、闇市時代、儲けて儲けて儲けまくって、気がつくとスッテンテンになっていた行け行けおやじと、儲けよう儲けようと思いながら、未だにスカンピンのダメおやじという、精神構造を異にする、二種類のおやじの力関係で決まる」のだそうだ。野毛者(やもうもん)の面白さは住んでみて初めてわかるのだろうな。カラスに糞を落とされた革ジャンに気づかぬまま、復活ちぐさに長居する。

 横浜といえば、落語家のキョンキョンも学生時代はこっちでしょ。桜木町で電車を下りてどっちへ曲がるかという枕があって、みなとみらい方面なのか、野毛方面なのかという。もちろん、みなとみらいはケッというニュアンスなのだが、別の話の枕では、横浜にぎわい座の人口密度の薄さをネタにして笑わせる。YouTubeでも見られる「歌う井戸の茶碗」を先日久々に見たが、もう10回程見ているのに爆笑する。「井戸の茶碗」をミュージカルにするという発想がブッ飛んでいるが、構成が緻密。「木綿のハンカチーフ」を、千代田氏と高木氏の双方の言い分で挟むところなど、笑いながらも、映画的場面転換を見ているようで鳥肌が立つ。登場人物を集結させ、「私の青空」で締めくくるというエンディングには何度見てもなぜか泣かされる。生でみたキョンキョンもそうだったが、この人、枕で一瞬にして観客の心をつかむんだよなあ。その感覚は天才的。で、ふだんから非常によく人間を観察している気がする。微妙な人間の気のうつろいを笑いに転じさせるところが、創作の面白いところかもしれない。

 中山康樹さんが亡くなったことに衝撃を受けている。まだ62歳。ジャズ史の読み直し、大いに注目していた。対談で柳楽光隆氏が「2代目中山康樹を襲名しようと思っているんですよ」と本人に語っていたのが冗談ではない状況だが、柳楽氏では弱い。グラスパー本、いいアルバムを相当紹介しているが、弱いんだよなあ。

 1月18日 ここ数年、秘かにというのも変だが、中森明菜を聴いている。80年代から歌謡曲にはなかなか興味が持てず、自分の中に突出して飛び込んできたものを聴く程度だったが、しかしテレビの歌番組の中で聞こえてくる明菜の話し言葉と声にはとても魅力を感じ、気になっていた存在でもあった。実際に聴いてみると、想像以上の歌のうまさに驚かされ、聴き進むごとに畏怖のようなものさえ感じられてくる。このような存在感を感じた日本人の歌手は僕の中で浅川マキさんだけだが、中森明菜の歌は恐ろしいほどに孤独で、祈りのようにさえ聴こえてくる。彼岸からの歌声といえば言い過ぎだろうか。とくに「艶歌」の「無言坂」が大好きで、このCDは最初の2曲を飛ばして「無言坂」「氷雨」「みちづれ」と続く流れに聞き惚れていたものだが、女性歌手の参考にときどきのぞく「まこりん」のサイトを先日のぞいて衝撃が走った。「無言坂」の作詞は久世光彦。同氏の小説「早く昔になればいい」に、無言坂と書いて「ごろざか」と読む廃寺へ続く坂があり、しーちゃんという静かに気の狂った少女が登場する。彼女は「好き」と言われれば誰とでも寝てしまい、人前で着物の裾を翻して放尿してしまう狂女なのだ。彼女はやがて、嵐の日に川に落ち、数日後に亡くなってしまうのだが、周囲に“フライング・ダッチマン”のような彼女をいつまでも忘れることのできぬ人々がおり、四十年のときを経て、無言坂の丘にある廃寺でしーちゃんの帰還を待つのだ。しーちゃんは川で溺れたまま死ぬのではないが、小説を読むとミレイの「オフェーリア」が残像に残る。そして、まこりんは水商売の女性風に歌う香西かおりではなく、本を読むのが嫌いでスタッフに教わるはずもないであろう、しーちゃんを明菜が直感的に理解し、「無言坂」をたどたどしく歌う様に慄然とするのだ。今日「早く昔になればいい」を読み終え、恐ろしくも美しい小説に深く感嘆すると共に、明菜の歌としーちゃんのイメージが重なった気がする。

 ジャウマ・コレット=セラの「フライト・ゲーム」、全編「映画」でできた超傑作。筋で映画を観る人は犯人捜しのアラを探すだろう。「映画」はそんなもの、軽く凌駕する。 昨年書きたかったことだが、日本エレキテル連合の流行語になった「だめよだめだめ」は、小津安二郎の「秋刀魚の味」で、岡田茉莉子がすでにそのまま述べているセリフ。例のマクレガーのクラブについて、だんなの同僚とやりとりするシーンだ。だめだめいった言った後にツンとしまして、これ以上拒むとだんながふてくされると困るからといって、今月分の月賦を同僚に差し出す。なんという素晴らしいシーンだろう。来月は神奈川県に行く予定なので、小津さんの墓参りに行こう。

1月12日 年末から、去年あまり音楽を聴けなかった反動なのか、我が家ではCDがかかりっぱなしの状態。ざっと数えると80枚を超えていた。ジャズがメインだが、一番力が入っているのはデューク・エリントンかな。エリントン山脈は高くてなかなか険しく面白い。10年程前に、「クラブ世代のためのジャズ・ディスク・ガイド」と称して発行された小川充氏の「ジャズ・ネクスト・スタンダード」を読み、ハードバップ、モーダル、スピリチュアル、ファンキー、ストレンジ、ヒューチャー・クラシックス…などといったジャズの分類法に驚いたことがある。例えばストレンジの項目にはエリントン(極東組曲)とビル・エヴァンス(シンバイオシス)、山本邦山(銀界)などがカテゴライズされ、ボーカルではサッチモから簡単に国境を越えてブルガリアやブラジルのタニア・マリア、エリス・レジーナあたりまで併記されるという面白さで、いわゆる「クラブ世代」のジャズの聴き方の片鱗を知ることができた。“ジャズ本”としては違和感をもって受け入れられるだろうと思ったが、それにしてもよく拾って聴いているなと関心もした。個人的には南米やアフリカをはじめとしたワールドミュージックやテクノ、現代音楽なども好んで聴くので編集(並べ方)の面白さを感じたわけで、違和感のほうは、ジャズがサブジャンルとして紹介されているようにも見えたから。しかし、中山康樹氏が近年取り組んでいるジャズ史の再検証と、柳楽光隆氏のいわゆる「グラスパー本」などである程度の整理をつけることができるかもしれない。基本線として問題となるのは、油井正一さんの「ジャズの歴史物語」であり、この書籍が日本人のジャズ史観に大きな影響を与えている点だ。僕自身も高校生のときに、ノートに図式化しながら読み、ニューオリンズ、スイング、バップ、ハードバップ、モード、フュージョンなどといったラインを敷いてジャズを聴いてきた。しかし、書籍が発行された70年代前半以降のジャズのみならず、それ以前に発表された中にも、説明しきれないものがあることも事実なのだ。この路線でいくと、ファッツ・ウォーラーやキャブ・キャロウェイといったジャイブ系は無視されるし(というか軽視に近い)、象徴的にいえば、マイルスの遺作がなぜ「ドゥー・バップ」だったのかという道筋がつけられない。ジャズ・ファンには完全に無視されたと本人は語っているが、「ウィントン・マルサリス問題」と同時に、40年代のディジー・ガレスピーや50年代のミンガスあたりまでヒップホップの歴史に遡る中山氏の近著は、従来のジャズ史観に大きな問題提起を促すものだと思う。

2015年1月3日 新年おめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。 昨年後半はちょっと体調を崩し、久々の更新だが、その間最も悔しい思いをしたのはイーストウッドの新作を見逃したこと。近年初めてのことだろう。イーストウッドが死んだら間違いなく映画の何かが確実に死ぬだろう、そのくらいの人。年末にテレビで「ミリオンダラー・ベイビー」 を放映していたが(意外にもノーカットで)、重要な場面はマクガフィンでうまく引っ張っている。例えば、イーストウッドがヒラリー・スワンクのコーチを引き受ける重要なシーンは、シルエットの中で二人が握手を交わす場面で終わるわけだが、マクガフィンとなるのはチーズバーガーだ。モーガン・フリーマンのもとに、「食べられないからどうだ」とイーストウッドがチーズバーガーを持ってきて、あんたが物をくれるのは初めてだななどと、いつもの憎まれ口のやりとりをしていると、誰もいなくなったはずのジムから、サンドバッグを打ち込む音が聞こえてくる。この音にひかれてイーストウッドと彼女のやりとりの場面につながるわけで、つまりイーストウッドとスワンクの契約を成立させるシーンのために、逆算してチーズバーガーが用意されている。  もう一つ重要なマクガフィンとして用意されたのは犬だ。スワンクが実家の母に家をプレゼントすると、「生活保護を打ち切られる。くれるなら現金にしてほしかった」などと毒づかれ、彼女の行為は無に帰す。傷心のままイーストウッドが車に給油するのを待っていると、向こう側の車で愛犬を抱いた少女が微笑み、スワンクの苦しい表情の中にも少しだけ笑顔が取り戻される。これを観ている我々も、救われた気持ちになれる美しい場面ではあるのだが、この場面には同時に犬という恐ろしいマクガフィンが用意されている。犬はスワンクの父が愛犬にした仕打ちのエピソードを道中で蘇らせ、この映画最大のクライマックスの契機となるからだ。

  こうした構造を考えるならば、優れた作品にはエピソードの羅列ではなく、表現したい絵があって、そこへ美しく至るための逆算の思考過程をみてとることができる。もちろん、これはとうの昔にヒッチコックがマクガフィンという言葉で教えてくれたことなのだけれど。「ミリオンダラー・ベイビー」の冒頭、ヒラリー・スワンクがどのように登場したか覚えておられるだろうか。顔の半分がシルエットで切断されているのだ。あるいは、スワンクがイーストウッドに最初に自分を売り込み、一蹴されて取り残されたときの彼女の顔。彫りの深い外国人の骨格的特徴があるとはいえ、とくに目の周囲は真っ黒になるよう強調されている。瞳の光さえ映りこまないよう、意図的に撮影されていると思う。が、この場面が演出されているからこそ、最後に彼女の顔に当たるささやかな光に僕は何度も泣いてしまうのだ。 

 以下は、昨年観た作品のベスト20&ワースト映画です(旧作含む)。 ①「桜並木の満開の下に」(舩橋淳)②「ハンナ」(ジョー・ライト)③「恐迫/ロープ殺人事件」(リチャード・フライシャー)④「ウォルト・ディズニーの約束」(ジョン・リー・ハンコック)⑤「L.A.ギャング・ストーリー」(ルーベン・フライシャー)⑥「もらとりあむタマ子」(山下敦弘)⑦「バーニー みんなが愛した殺人者」(リチャード・リンクレイター)⑧「ドラッグ・ウォー 毒戦」(ジョニー・トー)⑨「42 ~世界を変えた男~」(ブライアン・ヘルゲランド)⑩「セブンスコード」(黒沢清)⑪「セインツ ─約束の果て─」(デヴィッド・ロウリー)⑫「しあわせの隠れ場所」(ジョン・リー・ハンコック)⑬「ラッシュ/プライドと友情」(ロン・ハワード)⑭「インベージョン」(オリヴァー・ヒルシュ・ビーゲル)⑮「ワイルド・バレット」(ウエイン・クラマー)⑯「怒りの山河」(ジョナサン・デミ)⑰「ボラット 栄光ナル国家カザフスタンのためのアメリカ文化学習」(ラリー・チャールズ)⑱「コップランド」(ジェームス・マンゴールド)⑲「ドッジボール」(ローソン・マーシャル・サーバー)⑳「ダラス・バイヤーズクラブ」(ジャン=マルク・ヴァレ)ワースト 「ライク・サムワン・イン・ラブ」(アッバス・キアロスタミ)、「許されざる者」(李相日)、「ゼロ・グラビティ」(アルフォンソ・キュアロン)、「スノーピアサー」(ポン・ジュノ)、「オール・イズ・ロスト」(J.C.チャンダー)

2014年 8月24日 お盆は上京していたのだが、最近フィルムセンターは休みに入ってしまうので、楽しみが半減。オーディトリアム渋谷かシネマヴェーラ渋谷、ユーロスペースあたりで帰りに麗郷でいっぱいというお楽しみコースもあるが、話題の「アクト・オブ・キリング」は長いのと嫌な予感がするし、今いち足が伸びず。しかし、今回の主眼は寄席で落語を見ること。キョンキョン(柳家喬太郎)見たさに上野・鈴本を予約し、駆けつけたようなもの。色物を含め、持ち時間約15分というのはテレビではありえず、“芸”を堪能した。キョンキョンはさすがに、笑いに爆発力があるのだが(寄席の笑い声が実際にでかくなる)、おいしいとこどりのテレビとはまったく違って、一人で舞台に上がり笑いで勝負する姿がすっきり見える。勝負といっても、そこは「落語なんぞ適当に聞き流して頂くのがいちばん」と落語家本人が語るように、売店でお茶とせんべいでも買って楽しめる空間なのだ。江戸家猫八のものまねもよかったが、三増紋之助の曲独楽が印象に残る。噺家の合間の色物ってものすごいめりはりをつけるものだ。気づけばうしろはびっちりと立見。客の入りや天気などその場ならではのエピソードが枕に入るので、落語は寄席でみるのが一番。このためだけでも東京に住みたいと思わせる。今回は上野に合わせ宿泊地が浅草だったので、帰りは歩いて行ける、なってるハウスでシューミー・バンド。ギターは、もちろん加藤崇之。数日後には石田ミキオ、ライブソロとあり、頑張ってますね。 以前勤めた事務所のひとつが浅草にあったので(寿町だが)、目印の駒形どぜうの周囲を散歩すると面影もない。芸人を引退した赤いベレー帽のおじいちゃんに会える喫茶店だの浅草ならではのお店がいくつかあったのだが…。東京でオリンピックを開催するのは外国に失礼だと未だに思っているが、どんどんきれいにされちゃうんだろうなあ。

 8月5日 塩田明彦氏に触発され、ヒッチコックの「サイコ」。ガス・ヴァン・サントって「サイコ」の肝がわからないままリメイクした馬鹿なのか。アクターズ・スタジオ系俳優の映画史にもたらした弊害が浮き彫りになる。「引き裂かれたカーテン」は傑作だが、ポール・ニューマンじゃだめなんですよ。「サイコ」のラスト、アンソニー・パーキンスの顔に頭蓋骨がオーバーラップする3秒は猛烈に怖いし、ヒッチコックは狂人のような感性で編集している。確実に当時の20年は先を行っている。「主題なんか、どうでもいい。演技なんか、どうでもいい。大事なことは、映画のさまざまなディテールが、映像が、音響が、純粋に技術的な要素のすべてが、観客に悲鳴をあげさせるに至ったということだ。大衆のエモーションを生み出すために映画技術を駆使することこそ、私たちの最大の歓びだ」。映画とはまさに“エモーション”。「映画術」でヒッチコックはそう明快に述べている。ガス・ヴァン・サントも映画好きなら最低限「映画術」を読むべきだろう。 「もらとりあむタマ子」、傑作。前田敦子は今いちばん輝いている役者。エピソード集だが、それぞれの話が決して分節化せず、独特のノリとなり、ゆるいエモーションを生み出している。といってノリはオフビートであり、くすくす笑いが続く感じ。これ、山下監督の持ち味だが、今作で一歩突き抜けたんじゃないか。「さよなら渓谷」は、“あの人物が実はあの人と同一人物”といったことが判明する場面で論理になる。論理とは映画とは最も相容れない部分だと思うので、そういう意味で映画的ではない。「凶悪」は俳優の映画、という意味で映画的ではない。「セブンスコード」はまたしても前田敦子が素晴らしい映画的映画。車を走って追いかけるというデタラメぶりに涙が出る。

5月6日 「セインツ 約束の果て」は冒頭の黄昏時の逆光でとらえられた草原を歩くルースとボブのシーンだけで傑作を予感させる。「夜の人々」や「拳銃魔」「暗黒街の弾痕」などにつらなる題材であり、「ボウイ&キーチ」のデヴィッド・キャラダインに出演を依頼していることからして、監督のデヴィッド・ロウリーは映画史をしっかり継承しようとしている。作品の中で、愛し合う二人が共に過ごせる時間は極めて短い。それゆえに二人がお互いを触れることのできる場面は印象的で、刑務所に入りルースに合うために脱獄したボブは、触れ合った貴重な時間を幾度も回想し、痛ましいほどの願いが繊細な光の中で描写される。そして深手を負ったボブがようやくルースのもとにたどり着いた挙句に立ち現れる幸福な時間のオーバーラップ…。映画的な時間が持続するこの作品のルックは、やはり70年代を連想させ、自分の頭の中には「ギャンブラー」や「男の出発」あたりの映像がなんとなく蘇っていた。つまり西部劇の感触もあるわけなのだが、ルースに恋心を寄せる保安官の役名がパット・ホイーラー、これは「リオ・ブラボー」のワード・ボンドの役名であるわけで、「セインツ」には明らかに西部劇が紛れ込んでいるのだ。

 よせばいいのにと思いつつ、日本版「許されざる者」をDVDで鑑賞したが、この監督、西部劇というジャンルがいかに映画的なものであるかをまったくわかっていない。ガンマンはガンマンであり、保安官は保安官であるという、そのことだけで物語が成立し映画的運動が成り立つという原理。イタリア製西部劇、つまりマカロニウエスタンが西部劇とは明らかに異なるものでありながら、それなりの成功を修めることができたのは、「荒野の用心棒」でセルジオ・レオーネがクリント・イーストウッドの役名を「名無し」(一応ジョーという名が付いたが)にしたからなのだと僕は思っている。つまりどこから来た何者なのかという説明がない=心理的な意味が付加されていない、という意味でアクションを起動させる装置と化すからなのだ。ヒッチコックでいえば、これはマクガフィンになる。もちろんこれは原理的な話なのだが、日本版「許されざる者」を観て5秒でがっくりきたのは、イーストウッドが当然のように描かなかった過去の殺人鬼ぶりを冒頭で描いたことによる。映画は最初の10分が勝負とは思っていたが、誰が輸入するのか最近はあまりにもどうもと思うことが…。昨年公開の「スタートレック」もJ.J.エイブラムスと期待したのだが。「スーパーエイト」はスピルバーグが相当口を出したことがよくわかった。

5月5日 テレビメディアの近視眼的なスポーツ放送ぶりには呆れるばかりで、卓球女子団体戦がどれだけ激戦を戦い抜こうと、真の感動は遠のくばかりなのだ。参加国が世界最大規模といいつつ、日本チームの試合しか放映しない偏向ぶりはいつものごとくだが、クローズアップ偏重主義は日本の相手国にさえほぼ向けられることはない。準決勝で日本男子チーム選手を破ったドイツ選手が、試合終了直後、それまで軽く手をタッチする程度だった選手同士の儀礼を超え、相手を讃えようとボディタッチをしようとするのだが、一瞬にして別の画面にスイッチングされてしまう。まあこれは日本人選手の側も負けた悔しさからか淡白な態度をとったせいもあるだろう。しかし、ドラマチックな場面を撮るチャンスは他にいくらでもある。準決勝女子の香港戦。平野が2セットを先取され、4対9という敗色濃厚の場面から始まった逆転劇で、香港チームの監督がネットすれすれのサービスによる失点コールに対し、あれはレットではないかとビデオ確認を迫る。この監督がジョニー・トーの暗黒街ものに出てきそうな2枚目なのだが、執拗な抗議の挙句、副審に傍まで迫られ却下される。ビデオを見る限り、きわどいながらセーフのサービスで、あれは流れを変えようという作戦の意味もあったのだろう。と、ここまで選手以外で相手チームの顔を印象づけた例もなかったわけで、敗戦が決まったあとの監督の態度を押さえるだけでも、この試合の厚みはまったく変わるはずなのだ。彼の態度が日本チームを讃えるものであれば、試合の感動度合いは倍増するだろう。床に唾を吐いたならば次の香港・日本戦が待ち遠しいものになるに違いない。こういう描写こそがハワード・ホークスいうところの3クッションだと私は解釈する。

 スポーツ話ついでに、4月下旬のWBCバンタム級山中・ジャモエ戦、なんとボディブローによるKO劇。在京時、後楽園ホールには何度も行ったけれど、テレビ観戦も含めてボディブローによるノックアウトは初めて観た。スローVTRで観た左ストレート、ジャモエの腹はサンドバックのようだった。頭は天国、腹は地獄。何発くらっても9Rまで戦ったベルギーのシュテファーヌ・ジャモエ、ナイス・ガッツだよ。同日行われた長谷川・マルティネス戦、長谷川は負けたが(しかも眼底と鼻骨骨折だった)、これはIBFのスーパーバンタム級王座をかけての試合だった。国内ではWBAとWBCしか認められていなかったが今やWBOとIBFも試合が組めるとは隔世の感がある。私も通った中目黒のバトルホーク風間ジムには新垣諭というIBF世界チャンピオンがいた。しかし、1980年代半ばのこと。国内で認められている団体ではなかったために、まったく知られないままに現役生活を終えた。敗戦後のこと。新垣さんはジムの忘年会で酒に酔い、荒れた。俺は世界チャンピオンだといって、リングの上でズボンのベルトを抜き振り回し始めた。見かねた風間会長が一発見舞いマットに沈めた。もう故人になってしまった、立松和平さんがそのときの様子を記している。というわけで、新垣さんは今になって日本人のIBF初代日本人チャンピオンとして認められることになった。

3月3日 「桜並木の満開の下で」を本日も再見。高橋洋への演出はちょっと怖い。セリフがすべて遺言になっている。幽霊的に登場する場面の、逆光で切り取られる顔のショットの長さは完全にホラー的で、効果音はそれを明らかに強調している。「あ、波だ」で断ち切られるのでぎりぎり怖くならないが、あれが無言のままならば相当こわいだろう。ダンボールの扱いは黒沢清の影響っぽい。反復は小津的でもあり心地よい。そういえば音楽もミニマル。ライヒよりグラスに近い。映画を見ている人の映画はやはり何かと引っかかってくる。ドキュメンタリー「フタバから遠く離れて」は未見だが、間違いなさそうだ。 同年代のアメリカ人と先日久々に飲む。日本語はいまいち通じないが、僕と話す際はほぼ映画の話オンリー。固有名詞だけでいくらでも話が続くので面白い。先日アメリカに帰国した際にフィルムノワールを何本か観たというが、とにかく観てくれと勧められているのが、「THE NARROW MARGIN」。その場では何の作品かわからなかったが、調べるとなんとリチャード・フライシャーの「その女を殺せ」。これは観なくては。

3月2日 成瀬巳喜男の遺作「乱れ雲」がまさか震災後の日本でこのような形でリフレインされるとは。舩橋淳の「桜並木の満開の下に」は光に対する繊細な感受性を携えた傑作だ。逆光で主人公を捉えた海岸の場面で時間軸が交錯し、“幽霊”が登場する驚くべき演出。といってもちろんこれはホラーなどではなく、夫を亡くした主人公の哀切な想いを伝える映画的な名場面なのだ。思いは言葉や俳優の表情で表現しなくても、曇天の空や登場人物の行動が十分に伝えてくれる。だからこそ、桜並木の夜桜が痛切に輝くのだ。 ところで、最近落語に目覚めたことを友人に伝えると、志ん生の「びんぼう自慢」を勧められ、読了。爆笑の連続だが、背景から暴力的な時代のにおいがぷんぷん漂ってきてこわい。そして今、立川談春の「赤めだか」。まだ冒頭だが立川談志の狂気がびんびん伝わってくる。なぜ今頃落語に目覚めたのかといえば、談志の「芝浜」に衝撃を受けたから。終盤の夫婦で除夜の鐘を聞きながら「百八つ」と言葉を重ねる奥さんの健気さが胸を刺す。談志は「落語は人間の業の肯定」という人。話はずっしりと尾を引く。帰りの足取りは重そうだが、その分はまると深いだろう。

3月1日 「ドラッグ・ウォー 毒戦」は近年のジョニー・トー作品の中でも出色の出来。銃撃戦の場面ひとつとっても、単なる撃ち合いに終わらず、登場人物のキャラが香りたつ場面として時間が停滞しない。はじめは人のよさそうな人物として描かれていた聾唖の兄弟が出色で、警官隊との撃ち合いになると俄然強くなるというのがいい。しかも聾唖者なのでセリフがなく、動きで表現させるという映画的仕掛けが素晴らしい。中国大陸で撮影された空気感は、香港という“都市”の作家でもあったトーの作品群からすると違和感があったが、今回も紛れもないトー印の傑作。当局の検閲で死体と弾丸の数を抑えたという発言が信じ難い。観客は私のほかに、一人で来た女性が三人。えらい。 たった一週間で上映の終わってしまった「スティーラーズ」もよかった。質屋を訪ねてくる3組の客が別々の場所でトラブルを起こし、一瞬交錯するというタラちゃん的な設定だが、デタラメぶりもここまでいけばタラちゃんを超える。ドサ回りをするエルビス芸人のエピソードが出色で、悪魔に魂を売って歌う「アメージング・グレース」には泣けた。

2月12日 あの「トゥモロー・ワールド」のアルフォンソ・キュアロンの新作となれば、ますます期待も高まろうというものだが(しかも90分!)、なんとなく嫌な予感がしていた「ゼロ・グラビティ」はいわゆる「アカデミー賞をとりそうな弱さ」をもった作品といった印象に留まる。冒頭からなにせ「映画」が始まってくれない。3Dの上映作にありがちな、真ん中によりがちの構図がまず映画的ではなく、だいたい“前”を強調する3Dには基本的に“奥”の構図がないわけで、であれば縦の構図に凝るオーソン・ウエルズや加藤泰の方が遥かに3D的だ。映像よりも説明が先行し、随分と観客を馬鹿にした展開だなあと呆れていると、地球から赤ん坊や犬の鳴き声が届き、サンドラ・ブロックが船内で雄叫びをあげるという下品極まりない場面が登場する。これが死を受け入れる人間の姿だとは。唯一ジョージ・クルーニーが船外から扉をノックするシーンだけが映画的だったといえるだろうか。シチュエーションだけの面白さで最新技術を駆使するのだから観客受けはするだろうが、「映画」に向けられて撮られていない。つまり映画史には残らない。でも数十年後の「朝10時の映画祭」では上映されるだろう。そんな典型。「トゥモロー・ワールド」の、ピンポン玉の口移しから始まり不意の敵の登場により車の逆走に至る驚きの連続といっていい長回しの見事さ、太陽の光の出し入れを綿密に計算し人物の動きと同調させることで言葉を必要とさせなかった演出など、金をかけなくてもキュアロンは「映画」が撮れた監督だったはず。クローズアップを多用しないのはこの人の美徳といえるが、「悪しきハリウッド映画」の方に傾き、「映画」に負けている。「アカデミー賞受賞作」とはこんなのばかり。実際に受賞するかどうかなどまったく興味はないけれど。

2014年1月4日 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。 歳を経るごとに小津安二郎の〝反復とずれ〟が身にしみる。以下、昨年印象に残った映画です(順不同。含再見) 《邦画》 「コクリコ坂から」(宮崎吾朗) 「リアル~完全なる首長竜の日~」(黒沢清) 「かぐや姫の物語」(高畑勲) 「風立ちぬ」(宮崎駿) 「もののけ姫」(宮崎駿) 「斬人斬馬剣」(伊藤大輔) 「長恨」(伊藤大輔) 「忠次旅日記」(伊藤大輔) 「借りぐらしのアリエッティ」(米林宏昌) 「お茶漬けの味」(小津安二郎) 「お早よう」(小津安二郎) 「早春」(小津安二郎) 「東京上空いらっしゃいませ」(相米慎二) 「宵待草」(神代辰巳) 「選挙」(想田和弘) 「Peace」(想田和弘) 「愛しのソナ」(ヤン・ヨンヒ)  

      「先生を流産させる会」(内藤英亮) 「恋や恋なすな恋」(内田吐夢) 「浪花の恋の物語」(内田吐夢) 「血槍富士」(内田吐夢) 「森と湖のまつり」(内田吐夢) 「浪人八景」(加藤泰) 「風と雲と砦」(森一生) 「ろくでなし」(吉田喜重) 「東京島」(篠崎誠) 「ヌードの夜/愛は惜しみなく奪う」(石井隆) 「(秘)色情めす市場」(田中登) 「天使のはらわた 赤い教室」(曽根中生) 「濡れた荒野を走れ」(澤田幸弘) 「その男、凶暴につき」(北野武) 「3×4=10月」(北野武) 「ソナチネ」(北野武) 「塀の中の懲りない面々」(森崎東) 「ロケーション」(森崎東) 「炎の舞」(河崎義祐) 「血を吸う薔薇」(山本迪夫) 「拳銃は俺のパスポート」(野村孝) 「ボクは五才」(湯浅憲明)《外国映画》 「ジャンゴ 繋がれざる者」(クエンティン・タランティーノ) 「ロボット」(シャンカール) 「顔のないスパイ」(ロバート・ブラント) 「ヴァージニア」(フランシス・コッポラ) 「刑事ベラミー」(クロード・シャブロル) 「マリリン 7日間の恋」(サイモン・カーティス) 「ザ・クラッカー 真夜中のアウトロー」(マイケル・マン) 「パレルモ・シューティング」(ヴィム・ヴェンダース) 「デジャヴ」(トニー・スコット) 「ウェイバック-脱出6500km-」(ピーター・ウィアー) 「コロンビアーナ」(オリヴィエ・メガトン) 「呪われた者たち」(ジョセフ・ロージー) 「コーマン帝国」(アレックス・ステイプルトン) 「激怒」(ジョージ・C・スコット) 「旋風の中に馬を進めろ」(モンテ・ヘルマン) 「果てなき路」(モンテ・ヘルマン)「無言歌」(ワン・ビン) 「マンディンゴ」(リチャード・フライシャー) 「吼えろ!ドラゴン 起て!ジャガー」(ジミー・ウォング) 「情け無用の街」(ウィリアム・キーリー) 「メーヌ・オセアン」(ジャック・ロジェ) 「オルエットの方へ」(ジャック・ロジェ) 「パパラッツィ」(ジャック・ロジェ) 「バルドー/ゴダール」(ジャック・ロジェ) 「ブルー・ジーンズ」(ジャック・ロジェ) 「猿人ジョー・ヤング」(アーネスト・B・シュードサック) 「ハンター」(ダニエル・ネットハイム) 「テレフォン」(ドン・シーゲル) 「ワンドゥギ」(イ・ハン) 「トールマン」(パスカル・ロジェ) 「恐怖ノ黒電話」(マシュー・バークヒル) 「4・44地球最期の日」(アベル・フェラーラ) 「ヒドゥン・フェイス」(アンドレス・バイス) 「殺人者はライフルを持っている!」(ピーター・ボグダノヴィッチ) 「THE GREY 凍える太陽」(ジョン・カーナハン) 「フライト・プラン」(ロベルト・シュべンケ)

 

2013年12月7日 ここ数日、北野武の初期作品10本程を観直していた。あらためて思ったのは「ソナチネ」の突出ぶりであり異様さだ。冒頭の雀荘での登場シーンからして、たけしは暗がりの中を下半身を切断された状態で横移動でとらえられ、幽霊のようにみえる。約90分中前半の30分が東京、残りが沖縄での撮影だが、東京はほぼナイトシーンが続き、たけしの表情には疲労感(これがそれ以上のものであることを後で気づかされるが)が滲み、実際に短いセリフでもそれが示される。組の意向でたけしら一行は無理やり沖縄に送られるが、沖縄でもナイトシーンが続き、観光案内のような撮影は意図的に排除されている。沖縄で最初にはく「夢のようだな」というたけしのセリフが印象深い。案内された事務所があまりに汚いがゆえの皮肉のように演出されているのだが、これも後で考えればそれ以上の意味のこもった戦慄的なセリフに思える。沖縄での組同士の揉め事は一向に治まる気配がなく、一瞬で噴出するたけしの天才的ともいえる暴力シーンが散りばめられるが、身内が殺されようとも死に対するたけしのリアクションは描かれず感情の持続性はない。抗争が泥沼に入った段階で、たけしら一行は海辺の隠れ家に案内される。ここまできてようやく沖縄らしい空と海の青さがキャメラに収められる。しかしこの直後の場面が怖い。砂浜へとおりていく寺島進と勝村政信に落ちる陽の影があまりにも急速で、きらきら輝いていた砂浜が一瞬にしてどす黒く染まるのだ。彼らの行く末を暗示する戦慄の瞬間であると同時に、これがねらってできる撮影とはとても思えず、この作品そのものに偶然以上のおそるべき何かが「映ってしまった」ように思えるのだ。映画はこの場面以降、たけしの顔に笑顔がべったりと張り付いた状況で進行する。この笑顔はおかしさゆえの笑顔ではない。笑いを超えた虚無、あるいは諦念といったところまで行き着いているように思える。そのことは次の場面で、笑顔のままに行われるロシアンルーレットで強烈に示される。 組が抗争状態に入ったとはいえ、明確な敵は終盤まで登場しない。彼らは何もすることがなく、砂浜で相撲をし真っ青な月明かりのもとで花火や落とし穴を作って戯れる。この月明かりのブルーもまた鮮烈で、やがてたけしが入手するブルーの車とともに死臭を放っている。真っ赤なフリスビーをクレー射撃の要領で銃撃する場面で、たけしは一発も当てることができず、寺島進に「お前やってごらん」といって銃を手渡す。この「お前やってごらん」はたけし特有の言い回しかもしれないが、ヤクザとは思えぬあまりに優しい口調で、このアンバランスが虚無と背中合わせの笑顔同様にそれ以上のニュアンスを感じさせる。そしてこの直後に寺島は釣り人を装った刺客に一発で頭を打ち抜かれる。ここでたけしにべったりと張り付いていた笑顔が消え、映画はクライマックスに向かう。この作品は冒頭から死の臭いが充満しており、「夢のようだな」というセリフは「死」と裏腹の「ユートピア」に足を踏み入れた気分を象徴したセリフのように思え、後からボディブロウのように効いてくる。その場所が「ニライカナイ」の地、沖縄であることもこの作品を異様なものにさせているだろう。「アウトレイジ ビヨンド」におけるたけしも、決して前面に出たがらないスタンスから半ば亡霊のような存在感を示すが、「ソナチネ」は次元が違う。もはや演出の域を超えてしまったところで映画が成立し、一生で一本撮れるかどうかという戦慄すべき作品だろう。

11月11日 森崎東の新作「ペコロスの母に会いに行く」がまもなく公開される。集団劇のごった煮、そんな作品を撮るとこの人はロバート・アルトマンどころではない、間違いなく世界ナンバーワンである。「生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言」に詰め込まれたエピソードはギネスものといえるかもしれないが、あれだけまとまり笑って泣ける作品になったのは森崎でなければ有り得ない。その変奏曲ともいえる「ニワトリはハダシだ」は男も女も愛も憎しみも思想もくそもなく、もはや何もかもがごった煮となり、キャメラの前では何もかもが平等で、その映画というエネルギーの塊の前に呆然とするしかないのだ。今日は「塀の中の懲りない面々」を久々に観たのだが、九十分があっという間に終わってしまう。極端にいえば囚人たちがひたすらに話し続けていただけのような作品なのだが、人生の落伍者たちの見る夢はたわいもなく、それゆえにしみじみとさせられる。ある囚人は鉄格子の向こうにいるカラスを見つめながら、出所したら鳥類の中でいちばん利口なカラスを飼育し銀行強盗をさせるのだと語り始める。すると画面は本当に銀行を襲撃するカラスの場面となり、銀行の前で待つ男の鳥かごに一万円札を加えて(カラスが千円札と一万円札を選別するギャグあり)戻ってくると男はよしよしといいながらバイクで逃げ去っていく。オカマのケーシー高峰が壁を隔てて主役の藤竜也に語る場面はとくに印象的で、男に傷つきながらも男子中学生がプールで泳ぐ写真雑誌を入手し、大学生なんか目じゃないのよと妄想する。ケーシー高峰は夏になったら自分の乗ったゴムボートを少年たちに曳かせて走らせるのだと語り、実際に走るボートが映し出される。男たちの見る夢はあまりにバカバカしいのだがあまりに切実で、映画の登場人物たちとともに耳を傾け、妙に泣けてしまう。川谷拓三が語る(この作品の川谷の芝居は絶品)、健脚の囚人が入浴中に突然パンツいっちょうで脱獄し、おりしも開催されていた子供のマラソン大会にまぎれ、ごぼう抜きをした挙句に逃げ去った「真鶴アべべ」のエピソードには爆笑してしまったが。

11月10日 本日は職人監督といってよい湯浅憲明の「ボクは五才」という珍作。大阪に出稼ぎ中の父(宇津井健)恋しさに、五歳の少年が土佐から大阪までの400キロを旅するという実話(らしい)。主役の子自ら歌う、天使の孤独な旅がモチーフの主題歌が全編に流れ、ベタベタの演出だが観始めると止まらない。母を亡くした少年は祖父母(左卜全と北林谷栄)の実家に預けられ、息子夫婦ら10数人家族の中で暮らす。加えてタバコ屋のミヤコ蝶々をはじめ、地域コミュニティがしっかり成り立つ土地から、いかに家出するかが前半の主題で、よくいえば一種の脱走物になっている。少年は合計四回の脱走に失敗し、五度目にして無銭旅行というむちゃぶりをすることになるが、子供なりのこずるさが適当にまぶされ、有り得ないと思いつつも、実録ものなのでそれで通しきるところがおかしい。電車、バス、小舟、列車、トラック、連絡船と乗り継ぐ行程は完全にロードムービーで、子供の行動にツッコミのようなナレーションが生真面目に入るのがギャグになっている。家族を代表して左老夫婦が追跡隊となり、ついには迷子になるというくだりは笑ってしまったが、ついに父と子が再会する場面にはちょっと泣けてしまった。 作品は1970年のダイニチ配給。大映、日活の共同配給路線という完全に撮影所時代の末期という香りが、この作品からもぷんぷんと漂ってくる。つまり何でもありの時代だった。当時、「ボクは五才」の併映は「ママいつまでも生きてね」で、完全に泣かせ路線。しかし、その前後に何を上映していたかというと、「ハレンチ学園」や増村さんの「しびれくらげ」だったりするわけで、末期とはいえエネルギッシュだ。だいたい、「野良猫ロック」シリーズや渡哲也の「関東幹部会」「関東破門状」はダイニチ時代だったし、澤田幸弘の「反逆のメロディー」、長谷部安春の「流血の抗争」、藤田敏八の「新宿アウトロー ぶっ飛ばせ」などもそう。なるほど、そう考えれば大映よりも明らかに日活勢のほうが勢いがあって、ロマンポルノへの布石となっていったことがわかる。

11月8日 ずっと観そびれていた田中登「色情めす市場」。大阪は釜ヶ崎の旧赤線地帯で、「うちなあ、なんや逆らいたいんや」と芹明香がつぶやくと同時に響き渡る天王寺の鐘の音。この導入部にはしびれた。70年代のプログラム・ピクチャーファンは芹明香と聞くだけで心が踊るだろう。深作欣二は「仁義の墓場」撮影前にスタッフに向け何度もこの作品の参考試写を行ったと聞くが、芹明香の登場シーンがなぜセピア調になるのか腑に落ちた。「㊙色情めす市場」の色調にリンクさせたオマージュだったのですね。「あれよかなんぼもええで」と渡哲也演じる石川力男にヒロポンを勧める芹明香の独特の言い回しが今でも耳にこびりついている。「㊙色情めす市場」は俳優も印象に残る。娘である芹明香と男を取り合う花柳幻舟。萩原朔美から宮下順子を奪う高橋明。萩原は登場するだけで驚いたが、ガス詰めのダッチワイフを抱え、大阪の街を歩き回った挙句に高橋、宮下ともども爆死するという衝撃。ゲリラ的に隠し撮りされた西成の風景もよい。人間むきだしの釜ヶ崎の強烈さを語りつつ、のっぺらぼうのような札幌の光景に「もう二度と来ない」と怒ってロンドから帰っていった大阪のお兄ちゃんを思い出す。

 11月5日 「映画芸術」、最新号も友人が原稿を寄せているので読むけれども、特集の見出しを見て「本領発揮でしょうか」と悲しい気持ちになる。特集は「国民的映画『風立ちぬ』大批判」。執筆者の肩書きは映画監督のほかに、評論家、文芸評論家、歴史学者などとある。もう読まなくてもわかる、映画を「読む」人たち。かたや宮崎駿はストーリーからではなく、絵から入る人。世の中、映画を「読みたい」人があまりに多いので、こんな特集にはまったく驚かないけれど、「風立ちぬ」って国民的映画だったのか。宮崎氏って国民的監督なんだろうか。ふいにいま、「ダーティハリー」の1シーンが頭をよぎった。警官がビルディングの屋上にいるサソリをヘリで確認したものの、見失ってしまう場面。シーンが代わって、イーストウッドがつぶやく。「連中は話すことに夢中で、見ることを忘れたのさ」。これってもしかして、ドン・シーゲルが観客に対して飛ばした痛烈な皮肉ではなかったのか。ドン・シーゲルという天才もまた、細部を磨く人だった。シーゲル作品では中の上くらいだろうが「ダーティハリー」も細部でしか成り立っていない作品だろう。映画的な物語は大きな物語を語る必要はない。これはホークスでもアルドリッチでも、アンソニー・マンでもルノワールでも誰でもよいけど、そうでしょう。宮崎さんも細部の人だと思うのだけど。

 11月4日 CGをめぐり、どうせやるならここまでやれよと思わせたのが「白蛇伝説」、使わないのならばこれはありだよねと思わせるのが「プレミアム・ラッシュ」。偶然だが並べて印象に残った中国とアメリカの作品だった。 それにしてもこのご時勢、いろいろと腹の立つことばかり。最近一番残念だったのは東京オリンピック開催決定。世界情勢を考えれば、どう考えてもイースタンブールでしょう。「おもてなし」の意味を履き違えた招致活動もひたすら恥ずかしかった/安倍の福島第一原発の5、6号機の廃炉要請を受け、東電は年内回答との段階に留まっているが、このおそらくはオリンピック開催を踏まえたであろうノリの軽さは何か。廃炉要請は法的根拠に基づくものか。緊急事態を迎えている状況ではない中、総理大臣の権限を逸脱した発言はあり得ず、このノリの軽さは同時に原発建設の要請もあり得ることを示す諸刃の刃でしかない。だいたい自民党は原発云々いう前に、まず野田の原発収束宣言を撤回すべきだ/ドイツの脱原発を日本の参考例とする発言もよく理解できない。ドイツは周辺国に原発を押し付け、都合よく購入しているだけで帝国主義的発想でしかないだろう。日本の原発を抑え、世界に売ろうとする姿勢もまた自分だけよければよいという帝国主義的発想。ドイツを見習えなどといううぶな考えで解決の糸口がみつかるのだろうか/パンクロッカーでスタートした30年来の友人は、官邸前の原発反対デモの今や音響係でYouTubeでも垣間見える。行動を起こすのは素晴らしいが、山本太郎を応援してよいのか。デモの仲間にR隊のNという名前を聞いてすっかり萎えてしまったのだが、大丈夫だろうか。数年前、都内某所でZ会の街宣を生で見たが、カウンターデモを行うR隊もやっていることはZ会と同じようにしか見えない/日本シリーズ最終戦をなんとなく見ながら、それなりにドラマ性を感じたけれど、テレビ中継はクローズアップが多すぎ、さりげなくも決定的な瞬間を絶対に撮っていないと確信する。

 20数年前に蓮實重彦氏を取材し、取材者の資格がないと決定的な批判をされ、申し訳ないけれども今日はやめましょうと言われ、明日原稿を入れなければ完全に首が飛ぶという状況で(そんなことは私に関係ありません、という蓮實さんもすごかったが笑)、自身の原初的な映画体験を語ることで不本意ながら凸凸と話してくれたことを思い出す。結果的に原稿は出たけれども、蓮實原稿としては最低だったが、なぜか野球の話に及び、日本には野球はあってもベースボールがないというのだ。まずあの馬鹿みたいな鳴り物の応援形態をやめることで浮かび上がるものがあるだろうが、あの球場の中にはロングで引いた際に、あるいは選手同士のコミュニケーションに、あるいは選手とスタッフ陣もしくは観客とのやりとりの中に、あるいは一人の選手の行動の中に、あるいは人間の介在しない瞬間に、より感動的な場面があるに違いない。ピッチャーとバッターというあまりに近視眼的なクローズアップが多くなりがちな野球放送は、大リーグに行った日本人選手の活躍だけを報道したり、日本人対決の部分だけを報道して満足するというオチがつく。AとBのやりとりをAかBではなくCに説明させることで笑わせるといったホークス的3クッションに心底感心していれば、どれだけスポーツ中継が豊かなものになるだろう。そんなことは起こりえないから、私は「カリフォルニア・ドールズ」でも観てうさを晴らす。感動的な細部の記憶とは映画と一緒で、言語などでは太刀打ちできない瞬間が必ず潜んでいる。野球中継も言語的であろうとするのがメディアであり、マー君くらいのシチュエーションにならなければ解説者も言葉を失わないわけで、クローズアップ=心理=ドラマ、という発想から抜け出ない限りベースボールには到達できないだろうと思う。

10月20日 ピーター・ボグダノヴィッチ、「殺人者はライフルを持っている!」、初見。シネフィル、ボグダノヴィッチで一番よいのではなかろうか。ロジャー・コーマンの映画史への貢献ぶりは近年の「コーマン帝国」でもうかがうことができるが、自伝「私はいかにハリウッドで100本の映画を作り、しかも10セントも損しなかったか」にも、ボグダノヴィッチに対しいかに厳しい条件を与え、それが結果として映画界の人材育成につながったかを具体的に知るエピソードが登場する。ボグダノヴィッチに与えられた条件はこうだった。①「古城の亡霊」でボリス・カーロフを使ったシーンを20分使用する②新たにカーロフの登場場面を20分撮影する③それ以外に40分の撮影をする。合わせて80分の作品を10日で撮影出来るかと。もちろんボグダノヴィッチの解答は「イエス」なのだが、このマキノ雅弘チックな製作条件の中で本人が思いついたのはチャールズ・ホイットマン事件(今でいえば無差別乱射殺人事件)に着想を得ることだった。このプランをサミュエル・フラーに相談したボグダノヴィッチも只者ではないが、コーマンのアドバイスはそれを上回っている。曰く、「ヒッチコックは事前にすべてのプランを決めた上で撮影に入る。一方、ハワード・ホークスはプランを決めずに現場で脚本の手直しをする。君にはヒッチコックになってもらいたい」。  実際、わずか10日という撮影期間の中で出来上がったフィルムには無駄を感じさせるショットがなく、緊張感が漲っている。ドライブ・イン・シアターのスクリーンの隙間からライフルを撃つ、つまり映画が人を撃つという、いかにもシネフィル的な場面も、自主映画(80年代の8ミリ小僧のことですね)的で嬉しくなる(小僧がそのまま大きくなったのが、タランティーノの「イングロリアス・バスターズ」)。当時この作品はメジャー公開されたのだが、コーマンは配給にあたり、ボグダノヴィッチに親心をみせたのも泣けるエピソードだ。「メジャーでいくならタイトルは「ターゲッツ」(原題)、うち(AIP)でいくなら「血とキャンディ」にする」。「血とキャンディ」などというふざけたタイトルではいきたくないボグダノヴィッチは必死で策を練り、メジャー公開に漕ぎつける。当時コーマンは「B級路線」で名が通っており、「メジャー公開ならプロデューサーから私の名をはずせ」と言ったらしい。「コーマン帝国」でコーマンの不遇ぶりを語るうちに、涙で言葉を詰まらせたジャック・ニコルソンの言動が思い起こされる。

 10月16日 コロンビアにもとんでもない才能があったものだ。アンドレ・バイズ、「ヒドゥン・フェイス」。怖がりながら爆笑するという体験を久々にした。こんなのって、いつ以来のことだろう。しかもこの監督、グリフィスなども確実に観ている。ナチス残党が建てた別荘で起こる事故というのも、ありそうで怖い。

 10月14日 宮崎駿「風立ちぬ」。飛行機、列車、帽子、パラソル、書籍…すべてのアイテムが風を引き起こし、物語を起動するマクガフィンと言ってもよく、ひたすらに宮崎駿の絵を動かしたいという欲望だけで押し切った傑作。宮崎は「落下」を描く作家でもあった。飛行した物体は羽が折れた鳥のように落下し、帽子やパラソルは愛し合う者を結びつけるマクガフィンとして飛翔~落下し、紙飛行機は鳥のように翼を羽ばたかせたと思えば、愛する者の元に決定的に落下する。また、雨とパラソルは愛し合う者の身体を密着させるためのマクガフィンとして機能し、傘の元で二人の会話がまったく噛み合っていないにも関わらず(主人公は傘から雨漏りがすることと、手が濡れてしまったことしか言わない)、二人の距離が急速に縮まったことを納得させてくれるのだ。こうした演出は宮崎吾朗「コクリコ坂から」の自転車の扱い方を思い起こさせる。落下のイメージは、お手伝いさんをおんぶすることで「重力」を強調しながら、主人公が空を見上げ見知らぬ飛行物体を幻視するという描写にも際立っていた。宮崎は風のない室内においても、タバコを吸わせることによって空気を漂わせ、絵を動かさずにはいられない。タバコがなくても、ヤカンから蒸気を吹かせるという徹底ぶりだ。しかもこうした煙の類が登場人物とキャメラの間に漂い、画面を曇らせる。ゾルゲとのやりとりなど、もはや異常(というか映像的執着度の凄まじさ)と言っていいかもしれない。動き=映画的に魅せる欲望は、堀越二郎とカプローニのイニシエーションの物語を「歩き方」でも観せてくれたように思う。右から左に移動する威風堂々とした歩き方をした堀越を観せた直後に零戦が飛ぶのだ。いかに動きで見せるか。断片的な細部ばかりが蘇るが、映画とは本来断片的なものなのだ。宮崎演出は涙のこぼし方も素晴らしかった。電報が届き、荷物をまとめる動作の途中にこぼれる(というより吹き出す)一瞬の大粒の涙。次のシーンで涙を確認させてはくれるのだが、あまりの一瞬ゆえショッキングであり、またアニメーションならではの表現でもある。感情のツボをはずしたところで主人公に大粒の涙を流させ、観客に不意打ちのような涙を流させる、これまた「コクリコ坂から」を思い出す。「風立ちぬ」は2度目以降のほうがより面白いだろう。

9月28日 ヤン・ヨンヒ「かぞくのくに」、映画は映画であり、歴史は歴史。歴史を題材にする映画はもちろんありだが、映画で語る以上はまず映画であるべきだ。でなければ映画で表現する必要はない。長男が自宅に戻ってくるという冒頭の俳優陣の芝居に辟易し、嫌な予感がしつつ結局は最後まで映画的強度を感じさせる場面がなかった。映画が実話に負けている。ただし、ヤン・イクチュンただ一人が素晴らしい。ヨンヒさん、ドキュメンタリーは面白いのに。似たタイトルの「希望の国」にもがっくりくる。園子温という人はがつんとやっているようで、結局は普通に戻ってくるという、じゃああのがつんはなんだったんだという、もしくは映画の外に飛び出したまま戻ってこないこともあるという感じ。ぴあで登場した頃はそれなりにセンセーショナルだったが。「希望の国」はこの人が311を題材にすること自体が不安を感じさせるし、夏八木さんの晩年の熱演が噛み合わず、家出した妻を追いかける場面の貧乏臭さに口直しが必要になった。WOWOWはそんな作品を放映する一方で、同時代の拾い物をじゃんじゃん放映してくれるところが面白い。イ・ハンの「ワンドゥギ」もなかなかで、韓国映画は打率は低いが、当たりが紛れている。「トールマン」にも感心した。俳優の芝居ではなく、絵でぐいぐい押してくる。映画はこれで当たり前なのだが。久々に「テレフォン」も観せてくれた。映画界は、テンポをぐっと加速させるカット・イン・アクションをなぜ忘れてしまったのか。シーゲルはだらしのない、クローズアップなどただの一度も撮ることはない。面白い映画とは何度観ても面白いのだということを実感させてくれる。これは映画の肝であると思うのだが、筋だけの映画は一度で飽きる、面白い作品は絵のパッションが半端ないのだ。

 9月16日 最近気に入った作品をいくつか。まとめて観たのは内田吐夢「恋や恋なすな恋」「浪花の恋の物語」「血槍富士」「森と湖のまつり」。いずれも傑作だが、「恋や恋なすな恋」は鈴木清順に先立つ舞台効果の素晴らしさ。狐の素性がばれて、あっという間に家が崩れ、黄色い草原が現れる場面などニュープリントで観たら素晴らしいだろうなあとため息が漏れる。数十年ぶりに観た「パララックス・ビュー」は内容よりも撮影の素晴らしさに驚いた。黒が真っ黒に映るという撮影は、今や珍しい。あらかじめDVD化を予定した黒味の撮影は、テレビ画像でも観られる濃度に調整されえることが多いから。キャメラマンを見ると、ゴードン・ウィリスの名。さすが「ゴッドファーザー」、テレビ画面では黒味の内訳が分からないという正しい納得のさせ方をしてくれる。以外な拾いものは「任侠ヘルパー」。細々と蛇足はあるが、映画へ映画へと近づこうとしている。ただし主役の草薙君だけが映画を壊そうとしている。SMAPは全員映画に近づくな、と言いたい。衝撃を受けたのは「コクリコ坂から」。今頃観てすみませんと謝罪したい。120%映画的な運動だけで作られている。全編にマクガフィンが仕掛けられ、個々のシークエンスにおいて映画的運動を起動させる装置と化す。ときにそれは論理を破綻させ、反物語の細部を構成する。これぞまさに何度も目撃してきた映画史の遺産であり、正しく映画的細部なのだ。これを脚本段階で書くという宮崎氏は天才ではないか。

7月27日 ジャック・ロジェ、「オルエットの方へ」。バカンスを南仏で過ごす3人組の女性たち。毎日のカレンダーと共に、綴られるたわいのない出来事。何が起こってもおかしい三人組の笑い声が弾け、しかし物語的には何も起こっていないという進行ぶりに、戸惑う方もいるかもしれない。しかし、描写の瑞々しさがたまらなく魅力的で、ぐいぐいと引き込まれていく。このへんのロジェの感覚は天才的だ。一人の女性に気のある会社の上司が訪ねてきてテンションが上がり(ベルナール・メネズ。「メーヌ・オセアン」にも出ていた人。この人いい!)、さらに、イケメンのヨットマンが出てきたあたりから、三角関係のニュアンスも漂い、「アデュー・フィリピーヌ」を思い出させる。ロジェは乗り物を数多く登場させる人でもあるが、馬の描写もなかなかのもの。こうした人生の一瞬ともいえるバカンスの光景が点描され、ほろ苦さを噛み締めながらバカンスは終わりの時を迎えるが、この終わってほしくない感覚はまさに「映画」そのものでもある。絶対に制度的にはならず、絶対に中心化もしない。ロジェのスタイルこそが映画そのものなのだ。エピローグも、実に気が利いている。 ロジェの「ブルージーンズ」を観ていると、映画のデビュー作にはつくづくその作家のすべてがあるということを納得させてくれる。カンヌで、バカンスにやってきた女性たちをナンパする男性二人組。わずか30分弱の尺に、夏の甘さとほろ苦さが横溢する。

7月26日 ジャック・ロジェ、「メーヌ・オセアン」。映画が弾けている!シコ・ブアルキとフランシス・ハイミ作曲による軽快なサンバが流れる中、デジャニラという名のブラジル人女性がナント行きの列車「メーヌ・オセアン号」に慌てて乗り込む。うたた寝していると乗務員が切符にパンチがないと説明するのだが、フランス語を解せないため、意図がなかなか伝わらない。そこにもう一人の規則に厳しい乗務員が強い口調で詰め寄っていると、弁護士らしい女性が通訳をさせろと参戦し、画面はあっという間に四つどもえの空間となる。このくだりが約10分ほど続くのだが、微妙にコミュニケーションの成立しないずれが妙におかしく、あっという間に引き込まれてしまう。意気投合した女性二人が駅に降り立つと、待っていたのは声が大きく気性の荒い漁師。彼のために女性弁護士は法廷に立つことになっていたのだ。裁判自体は脱力ものの内容で、ここでも成立しないコミュニケーションと漁師の気性の荒らさだけが強調されておかしい。プチガという名の漁師が傑作で、フランス語のわからない自分にも相当なまっていることがはっきりとわかる。このなまりがフランス語にはとうてい聞こえないところがまたいい。映画には漁師がたくさん登場するのだけど、おそらく全員が本職で、顔つきと風情をそのままにみせているところがまたロジェの素晴らしさだ。そのなまりのままに、プチガは裁判で自分をこけにした全員と、二人の女性に難癖をつけた乗務員を海に連れ出し仕返しをしてやると息巻くのだが、周囲の人間たちは本気にしていない。ところが女性二人が乗った列車の乗務員がまたしてもあのときの二人組。実は乗務員の一人がブラジル人女性を密かに気に入っていたために、女性二人と乗務員二人はプチガの待つ島を訪ねることになるのだ。予想外の展開が続くまま、この五人の登場人物に、サンバのダンサーであるブラジル人女性の興行師が加わり(相当に胡散臭い人物)、やがてハワード・ホークスばりのジャムセッションが始まる。このシーンに至るまで観客は誰が主役であるのかわからないままであり、微妙にずれたままのコミュニケーションがくすくす笑いを誘い続けるのだが、ジャムセッションは一気にそれを解消し感動的だ。だが、ロジェがさらに本領を発揮するのはこのあと。話の焦点は一人の男性に絞られ、海と船を描きながら“バカンス=夢”の終わりという一抹の寂しさが画面を漂い始める。傑作。いや大傑作。

 7月19日 ワン・ビン、「無言歌」。衝撃的といってよい傑作。文革前の反体制狩りの収容所。ここを開墾するというが、ゴビ砂漠が目前の風景には山も川も森林もなく、湿り気を感じさせるものがまるでない。ひたすら荒涼とした平地が続くばかりだ。横穴を掘っただけの住居には砂嵐が容赦なく吹き込み、ぼろぼろになった布団に収容者たちが潜り込んでいる。収容所長がラーメンらしきものを食べている一方で、収容者には満足な食料が与えられず、実際に食料は不足し、食べられない草の根で痛烈な下痢を起こしたり、ようやく捕まえた鼠を完全に泥状になるまで煮込みかきこんでいる。人の吐瀉物も大切そうに食べ、死者の尻の肉をえぐる。「私は今死の危機に瀕している」と最後の力を振り絞って手紙を書いてもらっている老人は、詩をうたっているように聞こえる。人が息絶えると寝起きした布団にくるみ、必ず三箇所を紐で結わえ、ゴビ砂漠の近くに葬ることになっているが、秩序のないゴミ捨て場のように見える。どこまでも平地が続く、この乾ききった風景がこの映画の肝だと思う。

 モンテ・ヘルマン、「果てなき路」。一度観ても内容がよくわからなかった。が、映画の匂いがぷんぷん漂い、面白い。「断絶」といい、このおじさんも生涯をかけて一本の映画をこしらえているイメージ。同じヘルマンの「旋風の中に馬を進めろ」は強盗団に間違われて追われるカウボーイの話。脚本はジャック・ニコルソン。一時はタランティーノが30年代のギャングものに置き換えてリメイクを検討したというが、それは観たいと思わせる展開だ。ジョージ・C・スコット監督・主演の「激怒」は、今思えば充実していた70年代のアクション映画の中で生まれた“普通の映画”。はかれたつば、炎にかけらた水、など、意味のないところでスローモーションになるところが、伏線にもならず、妙な雰囲気を醸し出している。

 加藤瑛亮、「先生を流産させる会」。あの中学生グループのリーダー格の少女の醸し出す毒っ気がいい。サム・メンデス、「007 スカイフォール」。英国臭は「映画」を沈滞化させる。このシリーズはとうにだめでしょう。同じシリーズなら「トラック野郎」を観ているほうが、100倍「映画的」で幸せになれる。 ソイ・チェン、「モーターウェイ」。香港も“普通の映画”を撮ってくれる。映画的であるならば、ヘアピンカーブに命をかける話でよいのだ。ジョニー・トー・プロデュース作も日本では公開されない。まあ、本人の作品も大ヒットした話はあまり聞かないのだが。

6月9日 黒沢清、「リアル~完全なる首長竜の日~」は今やスピルバーグやタランティーノなどよりも遥かに「アメリカ映画=映画」となった傑作だ。一体目の「フィロソフィカルゾンビ」の登場シーンは、笑ったらいいのか、怖がったらいいのか、その造形イメージと登場のさせ方にぶっとんだが、黒沢さんもとうとう映画にゾンビを登場させたかと思うと、目頭が熱くなる。おそらく、この作品は「映画的」であることの理解をめぐるリトマス試験紙の役割を果たすだろう。例えば綾瀬はるか(運動能力の高さに目を見張った)が最後のセンシングを求める場面、主治医がゴーサインを出すが、これをご都合主義ととらえるか、映画的ととらえるか。ここで控えめだが躍動感のある音楽が流れ、クライマックスに突入する。これは映画史のお約束場面、疑問を持つ必要はない。映画であるならばゴーサインに突入して当然なのだ。佐藤健が運転する車のスクリーンプロセスは、余計なものは見せたくない黒沢清の演出意図と、映画史を継承する場面として、「映画やってますね」と楽しんで観るべきだろう。ディテールは黒沢節のオンパレード。廃墟、ダンボール、壁面の膜、人気のなさ、半分の顔、そして、フライシャーやスピルバーグ。細部があまりにも映画的に作られているが故に、シネコン感覚で鑑賞しにきた観客は混乱するに違いない。「リアル」は映画であることの生々しさを携えた作品であるが故に、爆発的なヒットはしないだろうし、映画賞を受賞することもないだろう。残念なことではあるが、それが映画史でもある。そして黒沢清の衰えぬ野心の未来がここにあるのだと思う。この先にあるのが、ヒッチコックでありホークスであり、フォードであり、小津や成瀬でもあるのだから。黒沢清は今や世界で最も過激な映画監督であることは間違いない。それにしても「奇跡」の是枝は初めて悪くなかったが、スピルバーグが審査委員長を務めるカンヌに「リアル」をぶつけてほしかった。間違いなく何らかの化学反応は起こったことだろう。「リアル」は俳優も素晴らしい。佐藤健は黒目の大きさがキャスティングの勝利。そして中谷美紀の素晴らしさ。その中谷の顔に風が吹く、これも紛れもない「映画」。

 6月5日 成瀬巳喜男「秋立ちぬ」、再再々見。黒澤「悪い奴ほどよく眠る」の添え物として公開されたという傑作。どうみても、成瀬のほうが上。こうした歴史的評価はしっかりと修正しなければだめだ。父親が亡くなり、信州から東京・築地の親戚宅に預けられた少年。住み込みで料亭で働く母親はやがて男を作り、駆け落ちしてしまう。その料亭の娘は妾の子供で、本宅の子供たちが上京した際に、自身の置かれた身の上を知り、母親を嫌うようになる。家に帰りたくない子供たちは家出同然のように、晴海まで海を見に行く。周辺は埋め立てられたばかりの荒れた光景で、子供たちは線路の上を左右に分かれ、ゆらゆらと歩く。こうしたちょっとした移動撮影と光景が、何も語らせることなく、子供の心情を痛いほどに伝える。自身自身の運命を絶対的に変えることができず、大人に翻弄されるしかない子供の世界。二人の靴が綺麗に並べられたアップが突然挿入され、心中を連想させてドキリとする。映画史は、観る者の心臓を突き刺すような子供の繊細な心の痛みを何度も描いてきたが、この作品も筆頭に挙げられる。

6月4日 ベン・アフレック、「アルゴ」。終盤のカットバックによるサスペンスはあまりに凡庸、ましてや電話に出たいのだが、映画撮影中のために通りの向こう側へ渡れないというサスペンスは古すぎて使うべき手ではない。「ザ・タウン」のキレの良さはどこへ行ったのか。しかし、このわかりやすさがアカデミー賞を受賞する理由。アカデミー賞と書いて、凡庸と読む。畏怖すべき映画は普通、賞を受賞することができない(間違って授けられたイーストウッド「許されざる者」のような例外もあるが)。 小津安二郎の「東京物語」デジタル復元版の感想を読み、衝撃を受ける。音がまるで違うという。杉村春子の家のシーンに、浪花節のような歌声や三味線が聞こえるという。また、熱海の温泉での若者たちの麻雀や歌声は耳障りなほどよく聞こえ、尾道では船のエンジン音が何度も印象的に行き交う。オリジナルネガがないため、上映用プリントからデュープネガを作りポジを起こしたというが、画像も鮮明。手前の蚊取り線香から上る煙も明確に撮影され、原節子の亡夫の写真もくっきり浮かび上がる。登場人物の白いシャツの襞まで鮮明で、終盤の尾道の夏の暑さがはっきりと伝わってくるという。銀座の名画座でも堪能したつもりの作品だが、こうした状態まで感じ取ることができないプリントでは、「東京物語」を観たとはいえないのではないか。ましてやテレビのモニターごときサイズでの鑑賞は、「映画」を観る行為において論外というべきなのかもしれない。デジタル復元版の再現力のものすごさはそこまで考えさせるのだ。 

6月2日 4月下旬以降、前代未聞ともいえる会社の突発事故の収拾に追われ、それが収束したかと思いきや、出張先で高熱と顔面の腫れに見舞われ、気づいたらもう6月。38~39度の熱があっても、取材には出歩けるものだなあと我ながら感心していたが、鏡をみると左耳を中心に外側全体に顔面が肥大し、目の位置もずれ、完全に別人顔。ステロイドの大量投与で、入院は免れた。なので、映画もライブもまったく行けていないが、小津さんの「お茶漬けの味」を見直していたら、理解不能の移動キャメラのシーンが二つ。未だになぜ移動したのか理解できず。佐分利信が姪っ子の津島恵子にお見合いに行くのを促す場面だったと思うが、人気の消えた室内のはずなのに、なぜかキャメラが前進移動し、何をとらえているのかわからないのだ。同様のシーンはもう一度登場する。ズームや移動を行うだけで小津作品では異常事態なのに、検閲問題など恵まれなかった映画的事情と何か関連があるのだろうか。佐分利信と若き鶴田浩二の二人組がいい。この二人組の取り合わせは、四半世紀後、「やくざ戦争・日本の首領」でより濃厚な親分と若頭という形で再生する。そうか、あの二人は会社勤めをしていたものの、どこかで道を踏み外し、鶴田が佐分利を日本一の親分にするために働いてきたのか、と脳内変換をして楽しむ。 神代さんの「宵待草」を再見しつつ、歌を再録。「ダイナマイト、ドン!」の歌が添田唖蝉坊の「ダイナマイト節」だったことを初めて知る。亡くなった小沢昭一さんのおかげでもあるかな。♪民権論者の涙の雨で/みがき上げたる大和胆ぎも/国利民福増進し 民力休養せ/若しも成らなきゃ ダイナマイトドン! 「宵待草」は歌の多い神代作品の中でもとりわけミュージカルに近い作品といえるだろう。しかも主題曲は細野晴臣。笑顔で歌う「船頭小唄」のセリフ入りバージョンを三度も映画内で使っていることに当初は爆笑していたものだが、「ダイナマイト節」をはじめ、気になる歌が何曲も登場する。一曲はおそらく四国地方の民謡あるいはその替え歌ではないか(♪①ちょうちょとんぼが鳥ならば/虱とるのも狩人か/花のお江戸の吉原で/春を売るのも商人か②親が裁判官で 子が泥棒/検事判事はおじさんで/そのまたいとこが弁護士で/この裁きはどうなるの)。もう一曲は江戸時代の端唄か(♪浅い川なら~膝までまくる~/深くなるほど~帯をとく~)。神代の音楽センスは古今東西の流行歌やCMソングのほか、民謡や俗謡、小唄、戯れ歌など、幅が広くてまたセンスがよい。誰かまとめてくれないものか。家の者に東京土産で買ってきてもらった、アルトのルドルシュ・マハンサッパがとてもよい。

4月14日 本日ようやく伊藤大輔のデジタル復元版「忠次旅日記」(27)、「斬人斬馬剣」(29)、「長恨」(26)を鑑賞。未だ「忠次旅日記」の素晴らしさの余韻に浸っている。造酒屋の番頭に身を隠すあたりのエピソードの素晴らしさ。人の背丈よりも大きな円形の酒造桶がいくつも並ぶ中、忠次に思いを寄せる酒屋の娘が名を呼ぶ。こちらに背を向けたままの忠次には声が届かず、キャメラは娘に少し寄った状態で切り返し、再びを忠次の名を呼ぶ(同時に字幕も大きくなる)。まだ背を向けたままの忠次。そしてキャメラはさらに娘を大きくとらえ、忠次はようやく顔だけをこちらに振り向ける。大河内傳次郎は全編にわたり素晴らしいのだが、この表情がとりわけ印象に残る。水も滴るいい男とはまさにこのことだろう。構図と背景、光線、これだけの素晴らしいバストショットも滅多にない。そして人間が振り返るという、ただそれだけのアクションの素晴らしさ。人を振り返らせる天才は成瀬巳喜男だが、伊藤大輔がすでにここまでやっていたとは!  心理に応じて娘のサイズが切り返されるごとに大きくなっていくくだりは、数十年後にクリント・イーストウッドが「マディソン郡の橋」でリフレインする。イーストウッドが「忠次旅日記」を観ているはずもないだろうが、伊藤大輔とイーストウッドがここで一直線につながるという映画史の妙。画面を独特に様々に切断する酒造桶を背景に、子供達が「かごめかごめ」で円環運動を活性化させる。後のシーンでこの円環運動は、ある誤解から崩れた忠次と娘の失意の場面で繰り返され、地面に膝をつく忠次の周囲をぐるぐると回る。サイレント映画が獲得した映像表現の真骨頂であり、セリフなどを使わずとも、いや、セリフなどないほうがインパクトのある表現を可能とするのだ。この後、忠次は中風の身を引きずりながら再び逃亡の旅に出る。病からの衰弱に、残してきた子供への思いが重なり、忠次は次第に狂気の闇に迷い込む。追手が子供に見えてしまうシーンの怖さ。以降の忠次は横たわったままとなってしまうが、素晴らしいシーンはまだまだ続く。映画ファン必見の傑作。そして「斬人斬馬剣」も凄かった。馬を追う馬。馬上での斬り合いを表現する移動とパンのスピードの凄まじさ。これほど迫力ある馬の追跡シーンは誇張抜きで観たことがない。

 昨日はジョゼフ・ロージーの「呪われた者たち」。なんとハマー・フィルム作品! あらかじめ放射能を浴びた状態で生存する子供たちを登場させた異色作。今こそ観られるべき、これも傑作。

3月31日 昨年購入しながらなかなか読破できずにいた「禁断 二・二六事件」をようやく読了。著者が元NHKであるためか、なかなか気持ちが乗らなかった。しかし、歴史資料の飛び石的な狭間を想像力で埋める作業も、ここまで来れば読み応えがある。高橋是清襲撃の中橋基明のみが、処刑時なぜ三発の銃弾が必要であったのか。磯部浅一が書き残した、処刑場から聞こえてきた哂い声の主と意味は。そして宮城占拠作戦の実態は。読み進むほどに天皇制というブラックホールの深みを垣間見るようで身震いがする。関連して山口富永氏の書籍と真崎甚三郎の歴史的評価の問題、太田龍氏の発言、四天王延孝陸軍中将の存在など気になることが山ほど。二・二六の近辺には現在に至るターニングポイントのキーワードが多く興味が尽きない。末松建比古さんのいうように風化させてはならないと思う。 ジョニー・トー新作「奪命金」、前半が低調なのが残念。でもラウ・チンワンを観ているだけで映画。トーさんは低調でも映画にさえなっていない「レ・ミゼラブル」などよりも遥かにレベルが高いだろう。「野蛮なやつら」はベニチオ・デル・トロが登場するだけでハッピーだった。俳優は作品次第でよくも悪くもなるのでこわい職業だ。「ザ・ガール ヒッチコックに囚われた女」はティッピ・ヘドレンの暴露話をそのままに、ヒッチコックをパパラッチ感覚で貶めた作品。映画史を畏怖する感覚がまったく欠如したテレビ的感覚といったらいいか。「鳥」撮影の裏話は面白い。でもこれも演出はテレビっぽい。

3月17日 「ジャンゴ 繋がれざる者」。タランティーノは三池版ジャンゴに出演したときから、映画プランを練っていたに違いない。「イングロリアス・バスターズ」に続く虐げられた人種の復讐譚とは。レオーネはハリウッドにどんどん接近したが、タランティーノはイタリアに接近していくという不思議さ。が、しっかりフライシャーの「マンディンゴ」を踏まえているところがタランティーノの憎めないところ。 時節柄、二・二六関連の書籍を何冊か。今年の収穫は何といっても約40年ぶりに末松太平氏の「私の昭和史」が復刻されたことだ。登場人物の絶妙の描写に引き込まれる。皇道派、統制派を単純に分類することには無理のあることをこれまで読んだ書籍から感じていたが、末松氏の説明は実に明快にそれを伝えている。思わず、ご子息のブログに感想を書き込んだところ返信があった。一部の売文家諸氏による、事件を矮小化しようとする試みが目に余るとのこと。売文家諸氏とは「○○の3馬鹿」とあったが、○○にはもちろん「文春」と入る。山本又氏の記録が書籍化されたが、解説がまたしても3馬鹿の一人。数年前の週刊文春に掲載された二・二六事件写真の醜悪なキャプションをリフレインする内容に憤慨したばかり。

 1月27日 2012年公開作品のベストテンを考えてみる。1位 贖罪 黒沢清2位 アウトレイジ ビヨンド 北野武3位 顔のないスパイ ロバート・ブラント4位 クレイジーホース・パリ 夜の宝石たち フレデリック・ワイズマン5位 Verjinia/ヴァージニア フランシス・フォード・コッポラ6位 ル・アーブルの靴みがき  アキ・カウリスマキ7位 J・エドガー クリント・イーストウッド8位 TIME/タイム アンドリュー・ニコル 9位 戦火の馬 スティーブン・スピルバーグ10位 人生の特等席 ロバート・ロレンツ

1月22日 ロバート・ブラント「顔のないスパイ」。異様に不思議な映画を見せられた印象。冒頭、リチャード・ギアが少年野球を観戦する場面で、近くの席の女性とちょっとした会話をかわす。後に絡むことになる捜査官のご夫人?と思いきや、冒頭の女性はまったく登場しない。この作品、万事その調子でその場面のアクションなり進行なりのためだけに登場するマクガフィンだらけなのだ。それが筋の展開を妨害しているわけではなく、よおく細部を見れば頭の中にクエスチョンマークがよぎるといった程度なのだが、女性を脅す背後で異常に揺れる葉っぱだの、説明されない曇りガラスの向こうから聞こえる悲鳴だの、全編に不思議なものが散りばめられ、よくハリウッドでこのような作品が撮れたものだと思う。「映画」よりも「映像」に執着してしまう映画監督も存在するが、ロバート・ブラントはあくまで「映画」にこだわっているのが好ましい。この細部への執着ぶりはオーソン・ウエルズをも思い起こさせる。 パトリック・ルシエ「ドライブ・アングリー」。「ザ・ウォード」に続き、アンバー・ハードが素晴らしい。この男性の殴り方! カー・アクションが見事に活劇。その他、ようやくコッポラ「Verjinia/ヴァージニア」、ショーン・レヴィ「リアル・スティール」、シャブロル「刑事ベラミー」などが堪能できた作品。

 1月5日 そういえば、「ル・アーヴルの靴みがき」をユーロスペースではフィルムとDCPの交互で上映しており、当然僕はフィルムの回をチョイスして観たのであるが、今映画界にはデジタル化の波が急速に押し寄せ、長年の映画ファンとしては誠に憂うべき事態となっている。DCPの現物を僕は見たことはないが、タランティーノの「イングロリアス・バスターズ」で派手に燃やされていた、あの銀色で円形の缶に入っているのがフィルムであり(映画では可燃性)、DCPは映像と音声と字幕などがパッケージ化された単なるソフトに過ぎない。写真で言えば、フィルムからデジカメの世界に移行した違和感に近いかもしれないが、今やデジタルの世界は相当進歩しているので、劇場の大スクリーンにかけても文句を言われることはないのだ。しかし、詳細に見比べれば歴然とするだろうが、そこに漂っている空気感は明らかに異なっている。その意味でもフィルムとDCPを交互に上映するユーロスペースの試みは面白いと思う。シネコンには映画への愛などないので、全面デジタル化したところで一般の観客にわかるわけはないだろうと完全に客をなめているか、あるいはシネコンも観客もそのことにさえ気づいていない節がある。この急速なデジタル化の背景には、これも書くのがバカバカしくなるのだが、3Dという19世紀的見世物の隆盛が影響していると思われる。3Dには何の興味もないが、左右異なる色のメガネをかけて立体画像を見た経験で考えれば、飛び出すのはよしとしても、飛び出した元の奥の部分への配慮はない。それって構図としてどうなのよと。まあ、とうの昔に失敗したものなので、これ以上流行することはないのだろうが。問題は、デジタル化によって過去の作品が劇場で観られる可能性がどんどん少なくなってしまうだろうことにもある。一本の作品をデジタル化するのに200万円程度かかると聞いたことがある。当然、一本の映画にいちいちそんな予算を費やすわけもないだろう。シネコンの完全デジタル化は目前として、その他の劇場はどう考えているのだろう。この街からは何の声も聞こえてこないけれど。いち早くデジタル化に取り組み、成功を収めてきた黒沢清作品があるように、映画製作のデジタル化を批難するつもりはまったくない。が、今なかなか見事な黒味を観ることができない。「アウトレイジ ビヨンド」は傑作だが撮影はイマイチなのだ。蓮實さんが指摘していたように、今映画から“アクションつなぎ”も失われている。キャメラの軽量化で自在な動きが可能になったせいか、固定すべき場面でも緩やかな移動撮影が行われていたりする。当然、ショットや構図もきまらない。デジタル化の弊害で「映画」が失われなければよいのだが。

2013年1月1日 年末は息抜きで上京、CD漁りと映画鑑賞。アミル・ナデリの「駆ける少年」、黒沢さんもチラシで絶賛しているのだが、少年の生き抜こうというパッションが物語にうまくのっておらず、空転しているように思われた。ナデリさん、オーディトリウム渋谷に張り付けで、パンフを購入するとサインと握手をしてくれる。握力が強く、手の分厚いこと。なるほどあの「CUT」の人だと納得。帰り際、壁面に用意したコメントボードに何か書いて行けと指を指されるが、のれなかったので無視する。シネマヴェーラ渋谷では映画史上の名作シリーズを上映しており、僕が観られたのは「ウンベルトD」と「呪いの血」。「ウンベルトD」は老犬と暮らすおじいちゃんの物語。家賃滞納でやがて家を追われ自殺を思い立つが、愛犬を手放そうにも離れてくれない。ならば犬ごとと飛び込み自殺を図ろうとするが、このあとのやりとりは、あまりの侘しさに涙が止まらない。デ・シーカのタッチはネオリアリズモの人だけに、悲しくおかしく、冷徹だ。 「呪いの血」はリュイス・マイルストンが監督で、脚本にロバート・ロッセン。カーク・ダグラスのデビュー作で、バーバラ・スタンウィックが権力に身を持ち崩し堕落していく悪女を演じる傑作フィルムノワール。おおと膝を打つようなラストの展開まで一気に話が転がり、ハリウッド全盛の勢いを感じる。赤狩り時代におけるロッセンの脚本だけに、権力批判が裏テーマとなっている。スタンウィックは少女時代、資産家で厳格なおばに育てられ、何度も家出を繰り返す問題児で、喧嘩の最中に誤っておばを殺してしまうのが発端。このおばを演じるのが、「レベッカ」でダンバース夫人を演じていたジュディス・アンダーソン。ヴァン・へフリンの恋人役を演じたリザベス・スコットという女優も素晴らしく、女優陣も堪能できた。ラスト、家を立ち去るへフリンの背後の窓辺で撃ち合いが起こるが、カーテンのシルエットに倒れる人物の距離感が絶妙で、ああ映画はスクリーンで観なくてはだめだなあと痛感する。それにしてもシネマヴェーラ渋谷は年末というのに、ほぼ満席。入れ替え制でもないので、好きなだけ観ていられるのが、悪しきシネコン時代に良心的。 カウリスマキの新作「ル・アーヴルの靴みがき」もよかった。老人とベトナム人の二人の靴みがきが待機する駅で、いかにも悪人顔をした男が堂々と登場し、老人に靴をみがかせる。男の手には手錠がかけられ、その先にアタッシュケース。すると、背後にいかにもカバンをねらってますという風情でサングラスの男が二人。この一連の描写だけで、くすくす笑いが止まらない。こんなやりとりが随所にあって、中盤にはジャン=ピエール・レオが登場する。カウリスマキの演出は名人芸の域だ。スカパーでは新作公開と連動して、やたらと007シリーズを放映しているが、このシリーズはもはやまったく観る気がしない。英国産にまともな映画は存在しない。

 以下昨年のベストシネマです(順不同)。(邦画)「アウトレイジ ビヨンド」(北野武)、「1000年刻みの日時計 牧野村物語」(小川紳助)、「炎のごとく」(加藤泰)、「レイクサイドマーダーケース」(青山真治)、「東京公園」(同)、「現代インチキ物語 騙し屋」(増村保造)、「六カ所村ラプソディー」(鎌仲ひとみ)、「ヒバクシャ 世界の終わりに」(同)、「人魚伝説」(池田敏春)、「禍福」(成瀬巳喜男)、「海底軍艦」(本多猪四郎)、「そよ風父と共に」(山本薩夫)、「博打打ち いのち札」(山下耕作)(洋画)「J・エドガー」(クリント・イーストウッド)、「CUT」(アミール・ナデリ)、「戦火の馬」(スティーブン・スピルバーグ)、「TIME/タイム」(アンドリュー・ニコル)、「THE GREY 凍える太陽」(ジョー・カーナハン)、「クレイジーホース・パリ 夜の宝石たち」(フレデリック・ワイズマン)、「強奪のトライアングル」(ツイ・ハーク、リンゴ・ラム、ジョニー・トー)、「やがて哀しき復讐者」(ロー・ウィンチョン)、「人生の特等席」(ロバート・ロレンツ)、「映画の巨人 ジョン・フォード」(ピーター・ボグダノヴィッチ)、「ソルト」(フィリップ・ノイス)、「13/ザメッティ」(ゲラ・バブルアニ)、「孫文の義士団」(テディ・チャン)、「戯夢人生」(侯孝賢)、「パンと裏通り」(アッバス・キアロスタミ)、「トラベラー」(同)、「キートンの探偵学入門」(バスター・キートン)、「MAD探偵」(ジョニー・トー)、「猿の惑星 創世記」(ルパート・ワイアット)、「アンノウン」(ジャウム・コレット=セラ)、「サーチャーズ2.0」(アレックス・コックス)、「馬上の二人」(ジョン・フォード)、「ブンミおじさんの森」(アピチャッポン・ウィーラセタクン)、「柔らかい肌」(フランソワ・トリュフォー)、「夜霧の恋人たち」(同)、「逃げ去る恋」(同)、「ファンタスティックMr.FOX」(ウエス・アンダーソン)、「最後の賭け」(クロード・シャブロル)、「甘い罠」(同)、「引き裂かれた女」(同)、「悪の華」(同)、「沈黙の女 ロウフィールド館の惨劇」(同)、「肉屋」(同)、「不貞の女」(同)、「気のいい女たち」(同)、「いとこ同志」(同)、「石の微笑」(同)、「Tメン」(アンソニー・マン)、「青い青い海」(ボリス・バルネット)、「国境の町」(同)、「帽子箱を持った少女」(同)、「アデュー・フィリピーヌ」(ジャック・ロジェ)、「鱒」(ジョセフ・ロージー)、「スリーピング・ビューティー/禁断の悦び」(ジュリア・リー)、「キル・ザ・ギャング」(ジョナサン・ヘンズリー)、「マイキー&ニッキー」(イレイン・メイ)、「アンヴィル!~夢を諦めきれない男たち~」(サーシャ・ガバシ)、「クロエ」(アトム・エゴヤン)、「マネーボール」(ベネット・ミラー)、「ビッグ・トラブル」(ジョン・カサヴェテス)