2021年9月25日 監督リー・ハンシャン、西本正撮影による「梁山伯と祝英台」。いわゆる黄梅調と呼ばれる歌劇。ほぼ全編歌で綴られる恋人たちの悲劇が、「シェルブールの雨傘」並みに泣ける。訳あって男装で遊学した祝英台と兄弟の契りを交わした梁山伯。学業をやめ里に帰ることになった英台を見送る道中で、彼女は想いを歌に託して山伯に伝えるが、英台を男性と思い込む山伯にはなかなか届かない。英台は「では私の双子の妹と契りを結んでほしい、妹は私と瓜二つだ」と言葉を置き換え、山伯は了承する。特にこの30分弱に及ぶ道中の歌唱場面が美術や衣装を含めて実に丁寧に作り込まれ、二人が最も幸福だった時間を際立たせている。競合作があったためにキン・フーを第二班監督に据え、急いで作られたというのが信じ難い。

 

 2021年9月18日 「モンタナの目撃者」、主演のアンジェリーナ・ジョリーではなく、二人組の殺し屋がいい。はじめの殺しは殺人シーンを省略し、二人が何事もなかったかのように表に出たところで家が爆発するというのは、もはや近年の映画でお馴染みの光景だが、二人がスーツを着込んだところからいわゆる“アメリカ映画”が始まる。個人的な筆頭はドン・シーゲル「殺人者たち」のリー・マービンとクルー・ギャラガー。マービンがドスをきかせて相手を締め上げる間、ギャラガーはミニカーを棚から滑り落とすなど、子供のように身の回りを破壊していく。ホモセクシュアルの香りがほのかに漂う「ガルシアの首」のロバート・ウェッバーとギグ・ヤングのコンビも素晴らしいが、小学生の頃に観た「ふたりの殺し屋」が忘れ難い。といってストーリーはほとんど覚えていないが、ジャック・クラグマンとヘンリー・シルバの二人組がつけ狙う相手とついに接近遭遇した瞬間、殺気としか呼べないようなものがモノクロ画面に映っていたと記憶する。これらの殺し屋はいずれもスーツを着込んでいるのだ。「モンタナの目撃者」を観ている間、そんな記憶がふつふつと蘇るが、監督のテイラー・シェリダンは、殺し屋側の視点から撮っていると楽しんでしまう。エイダン・ギレンの面構えがいい。

 

2021年9月6日 濱口竜介「ドライブ・マイ・カー」。冒頭から異様な緊張感が持続する3時間。「寝ても覚めても」もそうだったが、濱口監督はファーストシーンから一気に観客を画面に没入させてしまう。しかも冒頭から40分経って、ようやくタイトルが(正確にはタイトルは挿入されないが)始まるカッコよさ。車(内部)の映画。終盤の車に光が射す場面。ホラー映画以外で、これほど車が生き物になっていく映画を観たことがない。西島秀俊の車に乗ることを許される人間は限られる。卓抜した運転技術を持つ三浦透子の佇まいが、素晴らしい。登場した瞬間から目を奪われるが、彼女にも妻を失った西島と同様の過去がある。何度も車のガラスを叩く“侵入者”岡田将生が、ようやく車への同乗を許され、目に涙を溜めたまま告白する車内は異界への扉が開く戦慄の場面。3人には“死”がまとわりついている。三浦透子はフォード的にフリスビーと花を投げる。岡田が語る、監視カメラに話す空想の少女の光景は万田邦敏「接吻」を想起させる。そして三浦透子のラストランはイーストウッド「グラン・トリノ」につながっている。韓国人の手話がこれほど美しいとは思わなかった。「ペッ」とつばを吐きだすような動作に心を奪われ、「ワーニャ叔父さん」の語りに涙が溢れる。

 

 2021年6月26日 デヴィッド・ロウリー、「さらば愛しきアウトロー」、観直す程に傑作。空間をとらえるキャメラが素晴らしい。単調な切り返しなど一切なく、ふとこんなカットが挿入されて、独特のリズムが刻まれる。

 

2021年6月24日 クリストファー・リー、ピーター・カッシングのそろい踏みで、ハマー・プロの未公開作品かと思いきや、スペイン、イギリスの合作という「ゾンビ特急地獄行き」(1972)。マカロニチックなゆるい演出だろうと高を括っていたら、スピーディで要領のよい展開にのせられる。人類学者であるクリストファー・リーがシベリア横断特急に持ち込んだ数万年前の死体が実は謎の生命体で、乗客に次々に乗り移っていく。死者が次々に増える中で犯人は誰なのかという非映画的な推理ものには堕せず、襲われると白い目をむき出して暴れ回るなど見世物的なサービス精神で貫いているところがいい。特に少しいかれたテリー・サバラスが隊長のコザック軍団が突如列車に乗り込み、あっという間にやられてしまう場面などは、88分の映画らしい由緒を感じさせる。調べると製作者のバーナード・ゴードンは赤狩りで米国を追われた人物。フィリップ・ヨーダンの口利きで、スペインでの仕事を得たらしい。脚本を書いた人物も赤狩りで追われた後の変名らしく、つまりハリウッド映画のDNAがこの作品には流れ込んでいる。限られた予算とスケジュールで、ハマーとマカロニ量産のスペインとハリウッドが融合したいわゆるBムービーだが、紛れもない〝映画〟の精神が息づいている。

 

2021年4月24日 ホセ・ルイス・ゲリンの短編「良寛へ」。窓枠の向こうに緑の木々が揺れ、右下方に置かれた鏡に良寛の像が映り込む。ガラスの歪みに伴ってキャメラがゆっくりと移動すると、木々が不思議な形になって流れてゆく。突然差し込まれる良寛と子どもが語らう銅像。やがて日が暮れ、ちいさくぽっかりと見える月。ガラスや鏡に映る像たちの連鎖は「シルビアのいる街で」で印象的に表現されていたが、キャメラが上下に動き出すと、月の像も激しく上下動し、ぶれ、光の点と線となって、唐突に作品は終わる。たった4分の作品だが、恐ろしくも美しい光景に立ち会った気がする。

 

2021年4月13日 井口奈己「こどもが映画をつくるとき」。12人の子どもたちが青、赤の2チームに分かれ映画をつくる。1つのチームは宮崎のさびれた商店街に焦点を当て、自分たちの力で取材の協力を得ようとする。ある店舗のドア越しに子どもたちの後ろ姿が連なり、店主の姿は画面に映らない。年長の女の子の映画を説明する声だけが聞こえ、一番小さな男の子は心配そうに周囲をうろついている。観ている側も子どもたちと同様にハラハラし、映画的なサスペンスを生んでいる。いざ撮影を始めると、短時間で終了してしまい、質問が足りない、考えてから質問しようなどと、反省の声を掛け合っている。店がほとんどシャッターで閉じてしまった裏路地をとらえた縦の構図が素晴らしい。もう1つのチームは神社で撮影をはじめ、池に石を投げる場面を撮ろうと、役割分担を始める。中には撮影に乗り気ではない女の子の姿も混じっている。構図を決め、掛け声と共に子どもたちが石を投げ始める。構図の中心には巨木がすえられていることに軽く驚く。木と水と石を投げること。まるでジョン・フォードだ。キャメラの映像を確認しながら歩く子ども、自分の背丈より大きなマイクを抱える子ども、あらぬ方向に駆け出してしまう子ども…。彼ら、彼女たちは皆ばらばらで、しかし撮影の目的地に向かって歩む楽し気な様子に心がざわめく。やがて子どもたちは機材の扱いに慣れ、自分の意見を述べるようになる。そしてある女の子がふと「映画づくりって楽しい」とつぶやく。日程を終え、撮影した画面をみつめる子どもたちの表情を、キャメラが横移動でとらえていく。子どもたちの顔は3日前とはまるで異なり、子どもでも大人でもなく、「映画」を見つめる顔になっていることに感動を覚える。

 

2021年1月2日 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。新型コロナに振り回された昨年。当店はもちろん、知り合いのお店の方々にとっても大変苦しい年となりました。早期の終息を願うばかりです。

 若い頃に比べ、近年は元々劇場に足を運ぶ回数が減ってはいたものの、昨年はコロナの影響でさらに足が遠のきました。一方、ネットを通して観る映画の本数は増え、昨年は1日1本ペースには届かないものの、カウントすると300本越え。蓮實重彦氏の文学界におけるジョン・フォード連載や、瀬川昌久氏との対談「アメリカから遠く離れて」の面白さにも触発され、特にジョン・フォードの「モガンボ」と「コレヒドール戦記」の女優陣の素晴らしさにしびれました。昨年は森崎東さんが亡くなった年でもあり、「喜劇・特出しヒモ天国」などで泣き笑いしながら追悼したものです。小津とイーストウッドを再見しつつ、ケリー・ライヒャルトとS・クレイグ・ザラーという才能ある監督に巡り合えたのも昨年の収穫です。以下、昨年印象に残ったシネマです。

(洋画)「誉れの一番乗り」「ドクター・ブル」「コレヒドール戦記」「モガンボ」(ジョン・フォード)「田舎医者」(D・W・グリフィス)「アパッチの太鼓」(フューゴ・フレネーズ)「ハイ・シェラ」(ラオール・ウォルシュ)「透明人間」(ジェームス・ホエール)「イヴの総て」(ジョセフ・L・マンキウィッツ)「硫黄島の砂」(アラン・ドワン)「バスター・キートン物語」(シドニー・シェルダン)「血塗られた墓標」(マリオ・バーヴァ)「リチャード・ジュエル」(クリント・イーストウッド)「トイストーリー4」(ジョシュ・クーリー)「残酷ドラゴン 血斗竜門の宿」(キン・フー)「大列車強盗団」(ピーター・イエーツ)「デッド・ドント・ダイ」(ジム・ジャームッシュ)「ザ・レイド」(ギャレス・エヴァンス)「フォードVSフェラーリ」(ジェームズ・マンゴールド)「T-34レジェンド・オブ・ウォー」(アレクセイ・シドロフ)「ファーストフード・ネイション」(リチャード・リンクレイター)「ナイト・スリーパーズ ダム爆破計画」(ケリー・ライヒャルト)「ブルータル・ジャスティス」「トマホーク ガンマンVS食人族」「デンジャラス・プリズン 牢獄の処刑人」(S・クレイグ・ザラー)

(邦画)「喜劇・特出しヒモ天国」「街の灯」「野良犬」(森崎東)「玉割り人ゆき 西の廓夕月楼」「毒婦お伝と首切り浅」(牧口雄二)「消えた中隊」(三村明)「あなた買います」(小林正樹)「徳川いれずみ師 責め地獄」(石井輝男)「ジーンズ・ブルース 明日なき無頼派」(中島貞夫)「博徒外人部隊」(深作欣二)「野良猫ロック マシン・アニマル」(長谷部安春)「散歩する霊柩車」(佐藤肇)「血を吸う薔薇」(山本迪夫)「悲愁物語」(鈴木清順)「ざ・鬼太鼓座」(加藤泰)「愛と希望の街」「夏の妹」「帰って来たヨッパライ」「無理心中日本の夏」(大島渚)「ヨコハマメリー」(中村高寛)「FAKE」(森達也)「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!栄光のヤキニクロード」「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!夕陽のカスカベボーイズ」(水島努)「桃太郎 海の神兵」「桃太郎の海鷲」(瀬尾光世)「風の電話」(諏訪敦彦)「スパイの妻」(黒沢清)

 

2020年10月4日 ジョン・フォード「誉れの一番乗り」、文學界の蓮實氏の連載を読むまでもなく、構図の素晴らしさを堪能。馬はもちろん、動物の扱いを注意深く観る。映画は動体視力が重要であることを相変わらず蓮實氏は教えてくれる。同じくフォード、「コレヒドール戦記」のドナ・リード、「モガンボ」のエヴァ・ガードナーにしびれる。フォード作品に登場する女優は本当には印象深い。ささやかなパーティの直前に鏡の前で髪をとかすドナ・リードにははっとさせられるし、男性陣から「君は面白い」と重宝されるエヴァ・ガードナーは全編にわたって可愛い“”としか言いようがなく、その魅力になかなか気付かないクラーク・ゲーブルにはらはらする構造になっている。

 「残酷ドラドン 血斗竜門の宿」、キン・フーのカンフー・アクションは優雅で美しい。延々と続く殺陣は巧みに考え抜かれ、驚きがある。

 

2020年9月5日 8月は大島渚作品を全作観なおす。ラストに突如登場するライフルが素晴らしい「愛と希望の街」、深刻になるほど笑えてしょうがない「儀式」、小松方正の「この足は下駄なんか履いたことのない足だ」「細い血管ですね」のセリフに爆笑した「帰ってきたヨッパライ」「悦楽」、北野武への影響が濃厚な「無理心中 日本の夏」、こんなフェミニズム映画は観たことがない「愛のコリーダ」等々見どころ満載だが、「夏の妹」が最も印象に残った。誰かに殺されたい殿山泰司の下船後の転倒ぶりから笑えるが、誰かを殺したい戸浦六宏の倒れたままの登場ぶりがまたおかしく、しかも栗田ひろみ(スータン)の「起きてますか、寝てますか」の問いかけに「起きてますよ」と答え爆笑してしまう。エロ話をぶつ殿山泰司が絶好調だが、佐藤慶、戸浦、小松、小山明子を加えた大島一家の談論風発ぶりを逐一ぶち壊していくスータンが全編を引っ張ってゆく。沖縄返還の年の作品である「夏の妹」とは沖縄を指すのか。武満徹の気恥ずかしいまでに夏の風景を奏でる旋律が耳を離れない。

 他、8月は三村明の初監督作「消えた中隊」も印象に残ったが、ジェームス・ホエールの「透明人間」が抜群に面白かった。CGなど使わない方がイタズラ場面は面白い。透明人間ものの最高作ではないか。

 

2020年7月25日 前夜に観た「玉割り人ゆき 西の廓夕月楼」の衝撃から未だ抜け出せずにいる。中島葵だ。謡曲師の父を自殺に追い込んだ男を愛してしまった矛盾と狂気の中、中島葵は新内流しとなって、その男、坂口祐三郎を影のように追い続ける。自ら三味線を弾き、新内を歌う様には地獄に道連れにするかのような気配が濃厚に漂っている。この地場を作り出す、中島葵という女優の凄み。加えて坂口祐三郎という俳優は「仮面の忍者 赤影」の呪縛から終生抜け出すことができなかった方であり、ずるずると人生から落ちていく様が登場人物と重なるようで、映画に強烈な印象を残す。金沢を舞台に、才気溢れる構図と方言が異様なリズムを生み、ただひたすら映画の中に埋没させられる。中島葵が哀れでしようがない。この間、たった64分。撮影はわずか12日間だったというが、監督・牧口雄二とはすごい才能だったのだと再認識する。

 そして中島葵といえば、亡くなった森崎東「特出し ヒモ天国」の子連れストリッパーでもある。この、始まるとどこへ行くか予想もつかぬ群像劇。ロバート・アルトマンなど目ではないのだ。筋など追う必要はない。「特出し ヒモ天国」の群像性はほぼ爆発に近いのだから。森崎作品の中で最も炸裂しているのではないか。そして爆発を目撃したならば、笑い泣きしながら「芹明香バンザイ!」と叫ぶことがこの映画のよい見方のような気がする。

 森崎さん追悼で「街の灯」再見。途中「カルフォルニア・ドールズ」になる。堺正章の身体能力の高さに驚いた。女子レスラーに技をかけられるところも異様に長いのだが、堺の代役はいっさいなし。顔が隠れた姿勢で投げられても、必ずキャメラの方におどけた表情で向き直るので、本人だとわかる。今の映画作りではありえないような奇妙なラストもいい。

 

2020年6月27日 ヒューゴ・フレゴネーズ「アパッチの太鼓」。アパッチの襲撃に、教会に立て籠もる住人たち。いくつもある窓の位置が高過ぎて、外部が一切見えない。聞こえるのはアパッチの太鼓の音だけ。梯子を作って外をのぞくと、アパッチが突然襲い掛かってくる。外部をほぼ見せることなく、襲撃の恐怖を描く演出は今見てもドキドキする。1951年、72分の傑作。

 室内の接近戦といえば、最近見直した「片腕カンフー対空飛ぶギロチン」にもあった。ジミー・ウォングとタイのキックボクサー戦。小屋には仕掛けがあって、ウォングの弟子達が床下から火を焚いている。床は鉄板焼き状態で、裸足のボクサーは足を地べたにつけていられない。たまらず窓から脱出しようとすると、弟子たちがたけやりを突いてさえぎる。勝負は目に見えており、いささか卑怯な気もするが、ウォングは腕が3倍に伸びるインドの使い手やら、空飛ぶギロチンを操る坊主(ギロチンを投げるとバキューンと銃声がするのがいちいち笑える)を立て続けに相手にするため、応援してしまう。

 久々にラオール・ウォルシュ「ハイ・シェラ」。ボガートもいいが、アイダ・ルピノにしびれる。そんなことを考えているうちにスティーブ・キューン、ポール・ブレイの「アイダ・ルピノ」を聴きたくなってしまう。

 D.W.グリフィス「田舎医者」。突然の病に死にゆく少女と家族が哀れ。ひたすら構図とキャメラの素晴らしさに酔う。

 

2020年1月31日 諏訪敦彦「風の電話」、横へ横への移動から、風の電話に向けて二人が歩き出す縦=斜面の移動に転換するとき、映画はまったくの別世界に突入する。強弱のついた生き物のような風と突然晴れた空から降り注ぐ光。風の電話で話すモトーラ世理奈の背後に風がそよぎ、彼女の髪の右側は差し込む光で金色に輝いている。彼女が死者と対話する10分間はひたすら美しく感動的だ。伏し目がちな目をしたモトーラ世理奈の存在感、西島秀俊もかつてのように素晴らしいし、三宅唱をさりげなく出演させているのは諏訪さんの何らかの意思表示だろう。大槌を歩き出す場面、今は亡き佐々木マスターに駅まで送ってもらった際に通りかかった踏切と鉄柵の光景を思い出し、心が乱れた。

 

2020年1月30日 イーストウッド「リチャード・ジュエル」、母親の泣き演説からの巻き返しが圧巻。本人は無罪という前提で作品が構築されているが、グレーはグレーのまま表現しているとはいえ、クロシロどっちもあり得る宙吊り状態に本領を発揮するイーストウッド向きの作品ではないという気がしないでもない。鑑賞中は物語に引きずられ面白く観ていたが、ベラ・ブランジェのいかにものドリー・イン、ノワール風映像(イーストウッドの指示という)などキャメラ(と照明)に気になる点がいくつも。終盤でジュエルと弁護士が向き合った状態から横並びになる場面は感動的だが、ジュエルの顔の逆光というよりも黒いぼかしは心地よくない。

 ポン・ジュノ「パラサイト」、家族が一人ずつ寄生していく様が単調。桃も使い過ぎ。理屈こね過ぎでクライマックスが爆裂しない。脚本から失敗していないか。マンゴールド「フォードVSフェラーリ」、エンジン、タイヤ、コースの周回…どころかラジオのダイアル等々徹底して「回転」(とそれを止めること)の映画。ハンマー1発でドアを閉めるのはアメリカ映画的、工具の「継承」はイーストウッド的でいい。

 

2020年1月3日 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。周防さんの「カツベン」はちょっと残念。サイレント映画への憧憬が感じられませんでした。OSS時代のジョン・フォード、「秘密工作員:敵地の行動規範」にはフォード本人がスパイに指示を出す人物の一人として登場。二人のスパイが潜入した後の演出はしっかり映画になっていて面白い。スタッフの詳細はわかりませんが、撮影はグレッグ・トーランドでしょうか。「伝説の映画監督─ハリウッドと第二次世界大戦」は従軍したフォード、ウィリアム・ワイラー、ジョン・ヒューストン、ジョージ・スティーブンス、フランク・キャプラという5人の監督に焦点が当てられる。ノルマンディー上陸作戦の撮影をスティーブンスと分担して行ったフォードはあまりに凄絶な戦闘ぶりに、フランス海岸の将校宿舎で3日間酒を飲み続け、悪態をつきまくった挙句、撮影隊に引き取られたという。フォードはその後戦地を離れたが、スティーブンスはヨーロッパ戦線の撮影を続け、裁判資料にもなった「ナチスの強制収容所」を撮る。各収容所のあり様に息を飲む。本作がいかなる編集・加工も加えていないことを証明するとして、ジョン・フォードのサインもみられた。ジョン・ヒューストンの「光あれ」、PTSDがそう簡単に治癒するとは思えないが、照明が効果的で、ハリウッドの監督がドキュメンタリーを撮るとハイレベルの映像が生まれるのがよくわかる。

 以下、昨年印象に残ったシネマです(順不同、再鑑賞含む)。

邦画「嵐電」(鈴木卓爾)「蜜蜂と遠雷」(石川優)「祇園の暗殺者」(内出好吉)「八百万石に挑む男」(中川信夫)「懲役十八年」(加藤泰)「緋牡丹博徒 お命戴きます」(加藤泰)「緋牡丹博徒 お竜参上」(加藤泰)「緋牡丹博徒 花札勝負」(加藤泰)「緋牡丹博徒 仁義通します」(斎藤武市)「徳川女刑罰絵巻 牛裂きの刑」(牧口雄二)「玉割り人ゆき」(牧口雄二)「戦後猟奇犯罪史」(牧口雄二)「ポルノ時代劇 忘八武士道」(石井輝男)「黒い画集 あるサラリーマンの証言」(堀川弘道)「黒い画集 ある遭難」(杉江敏男)「黒い画集第二話 寒流」(鈴木英夫)「けものみち」(須川栄三)「ドカベン」(鈴木則文)「シルクハットの大親分」(鈴木則文)「実録三億円時効成立」(鈴木則文)「緋牡丹博徒 一宿一飯」(鈴木則文)「多羅尾伴内」(鈴木則文)「風の視線」(川頭義郎)「昭和枯れすすき」(野村芳太郎)「影の車」(野村芳太郎)「突然、嵐のように」(山根成之)「おとうと」(山根成之)「忍者狩り」(山内鉄也)「桜の代紋」(三隈研次)「女系家族」(三隈研次)「大魔神怒る」(三隈研次)「セックスチェック第二の性」(増村保造)「この子の七つのお祝いに」(増村保造)「あばよダチ公」(沢田幸弘)「天使のはらわた 赤い教室」(曽根中生)「波の塔」(中村登)「早乙女家の娘たち」(久松静児)「沈丁花」(千葉泰樹)「釣りバカ日誌スペシャル」(森崎東)「おかしな奴」(沢島忠)「宮本武蔵」シリーズ(内田吐夢)「ぼけますから、よろしくお願いします」(信友直子)

外国映画「運び屋」(クリント・イーストウッド)「さらば愛しきアウトロー」(デヴィッド・ロウリー)「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」(クエンティン・タランティーノ)「帰れない二人」(ジャ・ジャンクー)「グレイテスト・ショーマン」(マイケル・グレイシー)「LOGAN ローガン」(ジェームズ・マンゴールド)「ウォーク・ザ・ライン/君に続く道」(ジェームズ・マンゴールド)「ドッジボール」(ローソン・マーシャル・サーバー)「俺たちフィギュアスケーター」(ウィル・スペック、ジョシュ・ゴードン)「タラデガ・ナイト オーバルの狼」(アダム・マッケイ)「アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル」(クレイグ・ギレスピー)「ヤング・ゼネレーション」(ピーター・イェーツ)「オフサイド・ガールズ」(ジャファル・パナヒ)「勝利への旅立ち」(デヴィッド・アンスポー)「男の出発」(ディック・リチャーズ)「犬の生活」(チャールズ・チャップリン)「インディアン渓谷」(ジャック・ターナー)「かわいい毒草」(ノエル・ブラック)「ホワイト・ドッグ」(サミュエル・フラー)「バラバ」(リチャード・フライシャー)「正午から3時まで」(フランク・D・ギルロイ)「セルラー」(デヴィッド・エリス)「長く熱い週末」(ジョン・マッケンジー)「雨のなかの女」(フランシス・フォード・コッポラ)「アンノウン」(ジャウマ・コレット=セラ)

 

2019年10月28日 石川慶監督の「愚行録」は未見だが、「蜜蜂と遠雷」、なかなかに素晴らしい。国際ピアノコンクールに参加する4人のピアニストの物語で、彼らに「春の修羅」という課題曲が与えられるところから俄然面白くなる。即興で演奏するカデンツァが第2次審査の肝で、母親の死をきっかけにコンクールから遠ざかっていた主人公の女性(松岡茉優)がようやくひらめきを得て、うす暗い工房で練習を始める場面。「お邪魔します」とコンクールに参加しているいわくつきの天才少年が突如現れ、やがて二人は月あかりの元で連弾を始める。演奏曲は月にちなむ曲ばかりで腕の交差が極めてエロティックだ。ピアノには死んだ母親と幼少期の松岡が楽し気に連弾している姿が映り込み、「横並び」という光景が強調される。北野武の「アウトレイジ」の横並びは即、死を意味したが、松岡の場合はコンクールでピアノを弾くという恐怖心を、いったんはだが、克服する。二人が横に並ぶという光景はこの後、相手を変えながら様々に展開され、危機を乗り越えるきっかけを生む「映画的」場面として機能する。4人の主人公のうち、生活者の音楽を目指すという松坂桃李だけは天才の名に値せず、「外側」の人間となっていくのだが、「内と外」という描き分けも、審査する側にまで及び重層的だ。登場人物たちが「歩く」ことも印象に残った(天才少年の登場場面など歩いてさえおらず、立ったままの足元がいきなり強調される)。おそらく映画的才能のない監督が演出すれば、過剰な説明が随所に成されただろう。傑作。

 ジャ・ジャンクー、「帰れない二人」。水を媒介して男とつながっていく女。水の潤いと渇きが画面のすみずみに演出され、緊張感がとぎれない。真利子哲也、「宮本から君へ」。結婚宣言をしに彼女の会社へ飛び込んでいく爆発力。

 「町山智弘・春日太一の日本映画講義」。お二方とも多少異論のある方だが、内田吐夢版「宮本武蔵」と「仁義なき戦い」のキャメラは吉田貞次(宮本武蔵は3~5部)、照明は中山治雄であることに言い及び(二人を意図的に呼んだのは日下部五郎)、「一乗寺の決斗」の大殺戮の撮り方が「仁義なき戦い」の原点であり、構成自体もまず大きな戦争で敗戦し、そこから再び暴力の世界に入り、最終的には何も得られず虚しく終わると、これは同じ戦後史である結論に導いていくところは面白かった。

 

2019年9月18日 タランティーノ、「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」が予想以上によかった。妄想の人タラちゃんなので、シャロン・テート事件をまともにやらないことは想像がついたが、60年代をここまで自己流に再構築するのは立派。ドライブ・イン・シアターなど、ところどころ不発の場面が散見されるのは残念だが、やたらと繰り返されるティルト・アップにサスペンスが生まれ、チャールズ・マンソンの住処(本人は不在だが)にブルース・ダーンを訪ねるところなど素晴らしい。そして「大脱走」の1シーンで、マックィーンの顔をデカプリオに置き換えてしまう大胆な演出。唖然としつつ「やったー!」と心の中で叫ぶ。

 「さらば愛しきアウトロー」、引退作にデヴィッド・ロウリーを指名するところはさすがレッドフォード。が、ロウリーは昨年の「ア・ゴースト・ストーリー」が素晴らしすぎた。イーストウッド「運び屋」には衝撃を受けた。近年のイーストウッドは「ジャージー・ボーイズ」あたりからのれず、「アメリカン・スナイパー」にやや失望し、「15時17分、パリ行き」ではもうどうしようかというくらいの思いだったが、「運び屋」のイーストウッドの動きのベクトルはただごとではない。こんな風に戻ってくる映画監督が存在するのかと思うのだけれど、私の見方がおかしいのだろう。先日「15時17分、パリ行き」を見直し、不覚にも落涙した。「ハートブレイク・リッジ 勝利の戦場」を思い出していた。「小さな勝利」に感動したのだ。まもなく観られる「サッドヒルを掘り起こせ」も楽しみにしている。

 邦画はもう「嵐電」につきる。私は手帳に秘かに電車の映画史なるものを記しているが、ここまで電車が主役の作品は映画史上初だろう。途中ぶっとんだのはパンで溝口健二の「雨月物語」をやったところ。「雨月物語」の田中絹代は幽霊だったけれど…。

 今年はしばらく体調を崩したが、前半とばしたのでスカパー等は250本程。収穫もたくさんあって、大笑いしたのは千葉泰樹「沈丁花」。京マチ子=菊子、司葉子=梅子、団令子=桜、星由里子=あやめと花の名がつけられた姉妹に、母が杉村春子と女優陣がものすごい。後半のメインは嫁ぎ遅れた歯科医の京マチ子を皆で結婚させようという話で、気障な宝田明やら真っ黒い顔をした佐藤允やら女心に鈍い仲代達矢やらがからんでくすくす笑わせ、小林桂樹が近所の商売敵の歯科医として登場するところがおかしくてたまらない。登場場面が少ないながら鮮やかな印象を残す男優陣もいいのは千葉泰樹の演出力。加藤大介という役者は演出を越えてケタ違いに素晴らしい。

 久松静児の「早乙女家の娘たち」は、香川京子=松子、白川由美=梅子、田村奈巳=竹子に、弟・鶴亀(つるき)が成瀬さんの作品に登場した大沢健三郎と、これまた姉弟物。両親はすでにないため松子が内職で生計をたて、鶴亀がネリカン出の少年とつきあっているために家庭にさざなみが立ち始めるのだが、歳の近い竹子と鶴亀の他愛ないやり取りが微笑ましく、映画を引っ張ってゆく。問題児、鶴亀のとぼけつつもよき理解者となる教師がこれまた小林桂樹で、私の中で大いに株があがる。

 日本映画でここまで刑事ものができるのかと驚かされたのは三隈研次「桜の代紋」。若山富三郎の持ち込み企画のようだが、音楽の使い方といい、若山の軽めの関西弁といい、乾いた人間関係といい、70年代アメリカポリスアクションもののようだ。他70年代を中心に邦画を観直したが、牧口雄二あたりを拾い見しても、失われた撮影所の技術力を思わざるを得ない。

 ショーケンが亡くなったのをきっかけに「傷だらけの天使」を全作見直したが、2本の神代辰巳作品が突出していると思った。いずれも港町や山あいの田舎でロケしている点からして異様で、歌にまみれ、ぐねぐねとした肉体の動きが強調され、女性か女児が首を吊る。

 

2019年2月11日 イマジナリーライン順守の凡庸な切り返しからいかに脱却するか。「きみの鳥はうたえる」の驚きはまさにその点にあった。登場人物をいかに正対させないか。例えば柄本とバイト先の先輩が対峙する場面。先輩の背後にある台車が転倒させることで、正対を回避する。台車はそのために置かれている。トイレで対峙する場面でも柄本が小便をしていることで、振り向くという動作を導き正対させない。主人公3人が登場する場面では横並びか三角形に配置することで絶対に正対させない。それにしても石橋静河の素晴らしさに目を奪われた。「寝ても覚めても」は冒頭から高低差を使った視線のドラマとして成立させている。恐怖映画調が飽きさせない。昨年の洋画は「フロリダ・プロジェクト」と「犬ヶ島」が特に印象に残った。とくに「フロリダ・プロジェクト」は冒頭の数秒で「ああ映画が始まる」と心を鷲掴みにされる。

 昨年、渚ようこさんが亡くなる。以前、京都のろくでなしのマスターに強力にプッシュされ知った方だが、その日はパーカーハウスロールという店でソワレというシャンソン歌手が歌うから是非聞いてと、これまたプッシュされ急いで足を運んだことがあった。この方たちには共有点があったのですね。渚さん、「ふるえて眠る子守歌」「アダムとイヴのように」なども素晴らしくぜひライヴを観てみたかった。

 

2019年1月14日 あけましておめでとうございます。ロンドは今年60年目、父もまだ何とか現役でお店を続けています。今年もよろしくお願い致します。

 最近はすっかり更新が途絶えましたが、以下昨年のベストシネマです(再見含む)。

(邦画)「きみの鳥はうたえる」(三宅唱) 「寝ても覚めても」(濱口竜介) 「私は猫ストーカー」(鈴木卓爾) 「ゲゲゲの女房」(同) 「敵中横断三百里」(森一生) 「怪盗ルビイ」(和田誠) 「ガールズ&パンツァー最終章」(水島努) 「この世界の片隅に」(片淵須直) 「マイマイ新子と千年の魔法」(片淵須直) 「オーバーフェンス」(山下敦弘) 「海底軍艦」(本多猪四郎) 「大怪獣バラン」(同) 「フランケンシュタイン対地底怪獣」(同) 「サンダ対ガイラ」(同) 「キセキ─あの日のソビト─」(兼重淳) 

(洋画)「フロリダ・プロジェクト」(ショーン・ベイカー) 「犬ヶ島」(ウエス・アンダーソン) 「希望のかなた」(アキ・カウリスマキ) 「デス・ウィッシュ」(イーライ・ロス) 「ヴェノム」(ルーベン・フライシャー) 「ア・ゴースト・ストーリー」(デヴィッド・ロウリー) 「マイ・サンシャイン」(デニズ・ガムゼ・エルギュベン) 「へレディタリー 継承」(アリ・アスター) 「ウィンド・リバー」(テイラー・シェリダン) 「ザ・スクエア 思いやりの聖域」(リューベン・オストルンド) 「人生タクシー」(ジャヒル・パナヒ) 「別離」(アスガル・ファルハーディ) 「セールスマン」(同) 「彼女が消えた浜辺」(同) 「或る終焉」(ミシェル・フランコ) 「ナイロビの蜂」(フェルナンド・メイレレス) 「シュガー・ラッシュ」(リッチ・ムーア) 「ボーダーライン」(ドゥニ・ヴィルヌーブ) 「プリズナーズ」(同) 「モンスター」(パティ・ジェンキンス) 「エルヴィス・プレスリー:ザ・サーチャー」(トム・ジニー) 「ダンボ」(ベン・シャープスティーン) 「乙女の祈り」(ピーター・ジャクソン) 「ザ・イースト」(ザル・バトマングリッジ)

 

9月19日 「カメラを止めるな!」、モーション・ピクチャーではなかった。一生懸命に作り込んだのはわかるが、映画的場面がまったくない。映画内映画の混乱ぶりはトリュフォーの「アメリカの夜」を観ているし、ワンシーンワンカットはヒッチコックの「ロープ」やオーソン・ウエルズの「黒い罠」もある。ステディカムが普及し、フィルムがデジタル化した時代、その気になれば誰でもワンシーンワンカットはできるだろう。映画史的目配せもなく、学生の卒業制作のような作品に、こんなに観客が入っていいものだろうか。この受けように三谷幸喜を思い出してしまう。「寝ても覚めても」、蓮實さん、煽動し過ぎだと思うが、例のロングショット、僕は怖かった。所々ホラー演出で、彼女が駆け落ちするところから俄然映画が躍動する。東出氏、とうとう代表作をものにした。盆休み、上京すると佐々木(浩久)の新作「呪いの赤襦袢」を上映しているというので上野オークラへ。ここ、有名なハッテン場で上映中にも関わらず、パートナーを探すおじさんたちが、映画ではなく客席を観ながら歩き回っている。足音が耳に残っているが、こっちの方が怖かった。

 

2018年1月2日 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。以下、昨年印象に残ったシネマです(順不同、再鑑賞含む)。

(外国映画)侵入者(ロジャー・コーマン) ハネムーン・キラーズ(レナード・キャッスル) 拳銃の報酬(ロバート・ワイズ) 雀(ウィリアム・ボーディン) パターソン(ジム・ジャームッシュ) ぼくらの家路(エドワード・ベルーガー) アスファルト(サミュエル・ベンシェトリ) マリアンヌ(ロバート・ゼメキス) 獣人島(アール・C・ケントン) ロリ・マドンナ戦争(リチャード・C・サラフィアン) 夕陽の群盗(ロバート・ベントン) セコンド(ジョン・フランケンハイマー) 空の大怪獣Q(ラリー・コーエン) センチュリアン(リチャード・フライシャー) ラスト・ラン(リチャード・フライシャー) 七人の無頼漢(バッド・ベティカー) 反撃の銃弾(バッド・ベティカー) 平原の待伏せ(バッド・ベティカー) ライド・ロンサム(バッド・ベティカー) 帰らざる夜明け(ピエール・グラニエ・ドフェール) 燃えつきた納屋(ジャン・シャポー) ドント・ブリーズ(フェデ・アルバレス) シング・ストリート未来への歌(ジョン・カーニー) 俺たちフィギュアスケーター(ウィル・スペック、ジョシュ・ゴードン) サイレント・パートナー(ダリル・デューク) 狼の死刑宣告(ジェームズ・ワン) バンク・ジョブ(ロジャー・ドナルドソン) イーグル・ジャンプ(デクスター・フレッチャー) ラブリー・ボーン(ピーター・ジャクソン) 生き残るヤツ(アイヴァン・パッサー) ウォーキング・トール(フィル・カールソン) 要塞(フィル・カールソン) 導士下山(チェン・カイコー) ホワイト・バレット(ジョニー・トー) 九龍猟奇殺人事件(フィリップ・ユン) イップマン継承(ウィルソン・イップ) クーリンチェ少年殺人事件(エドワード・ヤン) スーパー!(ジェームズ・ガン) 悪魔の赤ちゃん(ラリー・コーエン) ドクター・モローの島(ドン・テイラー) たたり(ロバート・ワイズ) 死体を売る男(ロバート・ワイズ) 殴られる男(マーク・ロブソン) 悪魔のような女(アンリ=ジョルジュ・クルーゾー) 蝿男の呪い(ドン・シャープ) 大アマゾンの半魚人(ジャック・アーノルド) クライング・ゲーム(ニール・ジョーダン) ラ・ジュテ(クリス・マルケル) オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ(ジム・ジャームッシュ) リミッツ・オブ・コントロール(ジム・ジャームッシュ) ヘルハウス(ジョン・ハフ) キャノンフィルム爆走風雲録(セラ・メダリア) レイジング・ケイン(ブライアン・デ・パルマ) 悪魔のシスター(ブライアン・デ・パルマ) 理由なき反抗(ニコラス・レイ) ペギー・スーの結婚(フランシス・コッポラ) バニー・レイクは行方不明(オットー・プレミンジャー) 海の底(ジョン・フォード) イニスフリー(ホセ・ルイス・ゲリン) 白熱(ラオール・ウオルシュ) ゴングなき戦い(ジョン・ヒューストン) 

(日本映画)Play Back(三宅唱) やくたたず(三宅唱) ディストラクション・ベイビーズ(真利子哲也) NINIFUNI(真利子哲也) 散歩する侵略者(黒沢清) 予兆(黒沢清) アウトレイジ最終章(北野武) ケンとカズ(小路紘史) 彼女がその名を知らない鳥たち(白石和彌) 全員死刑(小林勇貴) 団地(阪本順治) 聖の青春(森義隆) 人斬り市場(西山正輝) 呪怨 白い老女(三宅隆太) 淵に立つ(深田晃司) リップヴァンウィンクルの花嫁(岩井俊二)

 昨年の洋画は「パターソン」が圧倒的によかった。淡々とした日常の中に流れる常に不穏な空気。アダム・ドライヴァーがいつ嫁にブチ切れるのかとハラハラし…。不穏さを言うならばロジャー・コーマン「侵入者」の導入部。ウィリアム・シャトナーの放つ得体の知れぬ人物像。こういうのをアメリカ映画が描くと本当に怖くて、チャールズ・ロートン「狩人の夜」のロバート・ミッチャムに通じる。この不穏な空気が全編に漂うのがレナード・キャッスル「ハネムーン・キラーズ」だった。バッド・ベティカーこそ映画の奇跡。山田宏一さん風に言うならば「あまりに映画的な」。再見してしびれたのはデ・パルマ「レイジング・ケイン」の末期がんの奥さんを看病しつつも、クリスマスの夜に主治医の女医とできてしまう夫の場面。夫と女医が口づけをかわすと、心電図のモニター画面に意識がなかったはずの奥さんの目を見開いた表情が写りこんでいる。瞬間、心停止の音が鳴り響いて…。デ・パルマの「どうよどうよ」の声が聞こえてきそうだがあまりに「映画的」場面。

 今も好きな役者さんだが、70年代のジェフ・ブリッジスは本当によかった。「ロリ・マドンナ戦争」「夕陽の群盗」も素晴らしいし、なんといっても我らがイーストウッド「サンダーボルト」があるではないか。アラン・ドロンで敬遠して観ていなかった「帰らざる夜明け」「燃えつきた納屋」もいい。とくに「帰らざる夜明け」の冒頭、南仏の片田舎でのドロンとシモーヌ・シニョレの出会い方。バスから降りたシニョレがドロンに椅子を運ばせ、仕事を与えるまでのやりとり。髭のドロンが素晴らしい。「キャノンフィルム爆走風雲録」は80年代、ブイブイいっていたキャノン・フィルムのドキュメンタリー。メナハム・ゴーランさんというのも相当な人物だが、ゴダールとは馬が合ったらしく、レストランのナプキンを契約書代わりにしたというエピソードがもう「映画的」。

 マーク・ロブソン「殴られる男」はハンフリー・ボガートの中でも傑作、代表作の部類に入れるべき作品。ロブソンは50年代にこうした作品をものにしながら、その後あまりぱっとしなかった監督で、遺作となった「アバランチ・エクスプレス」(79年)など当時キネ旬で派手に紹介しながらいざ蓋を開けるとひどくしょぼい映画でがっかりしたことを記憶している。ダメだと思っていた監督が初期には優れた作品を撮っていたのかと発見するのが僕の世代の見方になるのだが、フィル・カールソンもその一人になるかもしれない。一人生き残った兵士ロック・ハドソンが子どもたちと力を合わせてナチと戦う「要塞」はけっこういけていて(モリコーネの音楽も素晴らしい)、「いつからアメリカ人はバカになったんだ」とハワード・ホークスに言わしめた「ウォーキング・トール」も僕は嫌いではない。カールソンは「無警察地帯」(55年)はとくに観たい一本。ところでカールソンは「ウィラード」の続編「ベン」も撮っているが、リー・ハーコート・モンゴメリーが少し頭のおかしな少年だと思えば、すうっと観られる。とくに歌の場面。あと昨年はなんといっても「拳銃の報酬」。ガスタンク爆発後、遺体を収容する警官のセリフがスゴすぎて…。

 

2017年12月11日 ホームページの利用期限が終了していたことに気づかず、急遽、代理サービスに移行。ところどころ、使えないところもありますが、少しずつ改善していきます。どうぞよろしくお願いします。

12月10日 「IT」、思ったより観客が入っているので驚いたが、子供たちがピエロに反撃する準備がないのに、幽霊屋敷にとどまる根拠がわからない。そこから全然のれない。「悪魔のような女」を劇場で観られたのはうれしかった。不吉な水のイメージ。冒頭から徹底している。とにかく面白いのは「ディストラクション・ベイビーズ」。真利子哲也、ずっと気になっていた監督だが、見逃していた。柳楽優弥の顔がいい。真利子は「NINIFUNI」がまたいいんだな。「ディストラクション~」で柳楽に一言もしゃべらせなかったら、「EUREKA」級の傑作になったと思うが、「NINIFUNI」の宮崎将にそれをやらせている。その「EUREKA」の宮崎将をキャスティングしてくるのだから関心したが、その対になるキャラクターとして登場したももクロもえらかった。サミュエル・ベンシェトリという方はまったく知らなかったが、ジャン=ルイ・トランティニアンの娘婿という。この監督の「アスファルト」が傑作。フランスの団地もので、阪本順治の「団地」と2本立ても面白い。阪本版は宇宙人が登場するが、サミュエル版は宇宙飛行士が落ちてくる。団地はいわゆる「グランドホテル形式」ものになる。小津さんにも団地は登場するし、千葉泰樹にも「団地・七つの大罪」、日活の団地妻等々映画的ジャンルとしての「団地もの」もありだな。

11月3日 念願の「ロリマドンナ戦争」をようやく観ることができた。ロッド・スタイガーを家長とするフェザー家と、ロバート・ライアンを家長とするガットシャル家の土地をめぐるいがみあい。フェザー家の息子たちにスコット・ウィルソン、エド・ローター、ジェフ・ブリッジス、ランディ・クエイド、ガットシェル家にはゲイリー・ビジー、ポール・コスロがいる。なんたる豪華さ。ポール・コスロなんて聞いて、今喜ぶ方などほとんどいないだろう。冴えない顔に、とうもろこしのてっぺんのようなヘアースタイル。いつも中途で殺される役。そんな役者を映画館の片隅で発見すると目頭が熱くなったものだ。すごかったのはエド・ローター。両肩に翼だけの刺青を入れ、鏡の前で鳥が飛翔するようにばたつかせる。するとエドの耳に「レディースアンドジェントルメーン、今宵紹介するのはメンフィスが生んだ偉大なシンガー…」という司会者の幻聴が聞こえてくる。やおら立ち上がると「センキュー、センキュー」と聴衆におじぎをしながら、演奏が始まる。しかし実際に彼の前にいるのは三頭のブタだけだ。聞こえてくるサウンドと、田舎の光景、貧相な出で立ちとのギャップが大きすぎて、この場面はただひたすら物悲しい。エドは兄のスコット・ウィルソン(ああ、この人もいい役者なんだよなあ)と共に両家が殺し合いを始める決定的なきっかけを作るわけだが、実は兄に依存して生きてきた弱い人間でもあり、兄が死ぬと「明日から生きていけない」と泣き崩れるのだ。そして、終盤に再び歌手になりたいという叶わぬ夢が活かされるエド最後の見せ場があって…。エド・ローターファンにとっては最高の作品ではないだろうか。冒頭とラストに挿入された、愛に溢れていた頃の両家の家族写真が泣ける。

10月28日 最近印象に残ったものを駆け足で。阪本順治「団地」。久しぶりに関西弁が心地よかった。団地とUFOという取り合わせに違和感がないという驚き。これには関西弁の力が大きく働いているのだと思う。フィリップ・ユン「九龍猟奇殺人事件」。「怒り」だの「葛城事件」だの「ぼっちゃん」だの、日本映画の病理的な殺人事件ものはなぜことごとく観ていられないのか。この作品に答えのある気がする。少女が存在している。黒沢清「予兆」。黒沢・高橋洋コンビだと「散歩する侵略者」はこうなりますね。バッド・ベティカー「ライド・ロンサム」。ジェームス・コバーン、スクリーンデビュー作。もうそれだけで観る価値が。ジョン・フランケンハイマーの最高傑作は「セコンド」ではないだろうか。北野武「アウトレイジ 最終章」。まさか再び「ソナチネ」?と不安にさせる導入部。いやいや、パワーゲームのサイはすでにふられている。あとは終幕にひたすら突き進むだけ。いつも疑問符の残るピエール瀧でさえいい。今回とりわけよかったのは金田時男と白竜。横並びに座ると必ず殺されるという法則は踏襲されていなかった。

10月11日 「ハネムーン・キラーズ」に衝撃を受ける。結婚詐欺師のトニー・ロー・ビアンコが被害者となるはずの巨漢看護師に絡め取られるようで、看護師もビアンコを本気で愛しており、相互依存のまま姉か妹を演じつつハネムーンに同行し、殺人を繰り返すという実話。突き放したような視点で、淡々と彼らを捉えるモノクロ映像はドキュメンタリー的ともいえるだろうが、そんな容易な言葉であの尋常ではない空気感を説明できるものではない。1969年の作品というからアメリカン・ニュー・シネマが謳われた時代だが、いま観れば多くの作品が「同時代性」に埋没しがちであるのに対し、「ハネムーン・キラーズ」は時代性など軽く飛び越え、奇跡としかいいようのない「映画」として禍々しい光を放っている。それにしても映画が本職ではないレナード・カッスルという人物がなぜこのような作品を撮れたのだろうか。映画にはときにこのようなことが起こるとしかいいようがない。俳優だが監督ではないチャールズ・ロートンが「狩人の夜」を撮ったように(先日も見返したがやはりすごい)。 ジョニー・トー「ホワイト・バレット」。もうただの銃撃戦を撮るつもりはないトーさん。犯人の一人が病棟の扉を開くとミュージカル的銃撃戦が幕を開ける。ペキンパーを凌ぐスローモーションで、CG使い過ぎではの感もあるが、ここまできたのだなあと感慨深い。ラム・シューがいるだけで幸せな気持ちになる。79年に見逃していた「サイレント・パートナー」、ソフト化されていたので拝見すると、予想外の傑作。ケイパーものの変形で、実によくできている。監督はまったく知らない方だが、脚本はカーティス・ハンソン。きっとこの方の仕掛けでしょう。アイヴァン・パッサーの「生き残るヤツ」もようやく。アメリカン・ニュー・シネマから生き残る1本だ。アンリ=ジョルジュ・クルーゾー「悪魔のような女」。公開当時、劇場で悲鳴が上がったに違いない。ポール・ヴァーホーヴェン「エル ELLE」。アメリカではなく、フランスで撮ったからいい。フランスの悪女はいい。

9月24日 「散歩する侵略者」、冒頭の車がひっくり返るキメ方が堂に入っている。が、黒沢作品のようで違和感が残るのは舞台原作のせいだろうか。爆笑するシーンも多かったが、原作のセリフのように思える。超売れっ子、長谷川博己がノリノリで楽しい。撮影前、黒沢さんとジョン・カーペンターやカート・ラッセルの話ばかりしていたというが、キャラが「アメリカ」映画でよい。さめざめと感動したのは、ジャームッシュ、「パターソン」。冒頭、あ、奥さんの枕がいつもの青灰色!と思えば、詩の中にも頻繁に登場する。観たことのないアングルで捉えられるパターソンの町並みが素晴らしい。アダム・ドライバーの美しい佇まいを観ているだけで幸福だった。メアリー・ピックフォードの「雀」。沼地を10人の子供と逃走する場面がすごすぎるが、赤ちゃんが天に召された後のピックフォードの表情に、アメリカ国民に絶大な人気を得た理由を垣間見た。子供たちとの逃走シーンは後のチャールズ・ロートン唯一の監督作「狩人の夜」を思い出さずにいられないが、ロートン主演「獣人島」、バート・ランカスターもマーロン・ブランドもロートンには遠く及ばない。実は「パターソン」で、アダム・ドライバー夫妻がこの映画を観に行く場面があるのだが、「獣人島」の持つ映画的禍々しさが、留守をする愛犬マーヴィン(もちろんリー・マーヴィンからとった名前だろう)に伝播し、ドライバーのノートをめちゃめちゃにしたのだと僕は解釈している。ジガ・ヴェルトフ、「カメラを持った男」。電車が映画に登場するだけで興奮してしまう自分は大満足(例:ムルナウ「サンライズ」、ヒッチコック「海外特派員」、ゲリン「シルヴィアのいる街で」、 トー「スリ」、イーストウッド「チェンジリング」)。「人斬り市場」(西山正輝)が予想外に面白かった。雇われ人斬り稼業の主演は藤巻潤だが、城健三朗時代の若山富三郎の殺陣もいいし、それ以上に天知茂の飄々とした明るさの素晴らしさに驚いた。

8月27日 ロバート・ワイズは「ウエストサイド物語」や「サウンド・オブ・ミュージック」だけの人ではない。大作よりも地味な犯罪映画やホラー系が断然いい。「拳銃の報酬」を観てつくづくそう思った。「拳銃の報酬」は1959年の作品だが、今でも古さを感じさせない。それだけ時代性ではなく、映画的強度が強い。脚本、脚色はエイブラハム・ポロンスキー。時期的には、赤狩り時代の終わりの始まりの頃にあたるのでクレジットされている。ロバート・ライアンとハリー・ベラフォンテ、つまり白人と黒人の仲間割れは巨大ガスタンク上での対決にまで発展する。ハリー・ベラフォンテは、シドニー・ポワチエよりも遥かに“黒い”役者となり得たはずだが、映画はヒットせず、ベラフォンテも俳優としては活動しなくなってしまう。これは惜しい。ロバート・ワイズ、「たたり」も観直したが、この作品が素晴らしいのはもちろん、ヴァル・リュートン製作のホラー(ここには傑作がたくさん埋まっている)「死体を売る男」や、70年代の「オードリー・ローズ」もよい。 「拳銃の報酬」を観ると、あのラストからジェームズ・キャグニーの「白熱」も再見したくなるのが映画ファンというものだろう。この映画のキャグニーは本当にぶっ飛んでいる。頭痛持ちでマザコンのギャング団首領。受刑中に母親が死んだことを知ると、気がふれたようになるのだが、それは脱獄のための芝居だったというしたたかさ。とはいえ、あのラストの過激さは気がふれているとしか思えない。どなたかが、アメリカの“石川力夫”と形容していたがまったくそのとおり。この作品も映画的強度がすごくてまったく古さを感じない。時代に向けて作れば映画は古びる。“映画”に向けて作られた映画はいつまでも新鮮だ。 稲生平太郎、高橋洋対談が面白いので、ラリー・コーエンを拝見。脚本の暴走という脚本家ならではの視点が参考になるが、「空の大怪獣Q」、くだらなくていいじゃないですか。低予算上等。「シン・ゴジラ」の倍面白い。「蝿男の呪い」は、「蝿男」シリーズ3作目。前2作品とは直接関係はないというが、「転送装置」にとらわれた悲しい一族のサーガである。これこそリメイクしてほしいと思う。ジャック・アーノルドの「大アマゾンの半魚人」は「午前10時の映画祭」で上映してほしい。「ジョーズ」は音楽も含めて相当影響を受けている。女性博士の数メートル下を半魚人が並走して泳ぐ場面。これこそ映画美の極北。やはり低予算上等なのだ。ただし続編はペケ。が、イーストウッドのデビュー作でセリフが3つ程ある。スピルバーグとイーストウッドがここでつながりますか。 低予算上等。お盆休みはバッド・ベティカー、「反撃の銃弾」「七人の無頼漢」「平原の待伏せ」など。「映画」のすべてが詰まった西部劇のさらにエキスを凝縮した「超西部劇」。「許されざる者」をリメイクした日本の監督は根本的にアプローチが間違っていると思う。映画には「プロ」と「アマ」が登場する。プロを描くには背景は必要ない。だからホークスの「リオ・ブラボー」は突然始まる。だからフライシャーの「スパイクス・ギャング」は過程を必要とする。ベティカーは低予算の中で様々捨象し、特別な高みに至ったのではないか。「平原の待伏せ」の幌馬車から女性だけで敵を迎え撃つ場面に泣けた。近作の収穫はドイツ映画「ぼくらの家路」(エドワード・ベルーガー)。母親に捨てられた兄弟。「映画」だった。

8月6日 なんの期待もせずに観た「イーグル・ジャンプ」が、あきれるばかりの面白さ。技術はないが根性だけはある英国人がジャンプ選手を目指して本当にオリンピック選手になってしまうというデタラメのような実話。これをまあ、なんの迷いもなく描くのだが、「アメリカ映画」だけに可能な語り口になっている。フォードやホークスのDNAを感じた。この監督はそんなことは全く意識していないだろうが、逡巡せずデタラメを突き進む話芸はアメリカ映画の特権だろう。クリス・マルケル、「ラ・ジュテ」。写真だけで構成するSF映画。一瞬だけ挿入される女性の実写。あの繊細な光線。10代のときに観たかった。これは10代のうちに観るべき映画だ。マーク・ロブソン、「殴られる男」。ハンフリー・ボガートであり、ゴダールの「勝手にしやがれ」でもある。そして、問題のフィリップ・ヨーダンであり、もちろんレッドパージにも関係してくる。映画史的にも興味深いが、映画自体が大変な傑作! 

7月17日 コルトレーンとビリー・ホリデイ、市川雷蔵、石原裕次郎が亡くなる7月17日とはなんという日なのだろうと、いつも心穏やかではないのだが、今日はジョージ・A・ロメロの訃報が届いてしまった。亡くなったのは16日。本人は“ゾンビ”を撮っているつもりはなかったという「ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド」が未だ続くゾンビものの元祖といえるが、死者が動くのは相当に怖いこと。死の過程を軽視した安易なゾンビものが続々と登場する中で、ロメロは孤高の存在だった。79年の「ゾンビ」は自分にとって「悪魔のいけにえ」以来の衝撃作で、しかもアクション映画としても痛快。79年は「エイリアン」が公開された年でもあって、後の映画表現に大きな影響を与える作品が出揃っている。そういえば、札幌のタウン誌でその年の邦洋の映画のベスト1を公募するイベントがあって、自分は邦画が「太陽を盗んだ男」(いや、「その後の仁義なき戦い」だったかも)、洋画は「ゾンビ」に投票した。ロメロの近作では西部劇で月夜の決闘をキメてくれる「サバイバル・オブ・ザ・デッド」、そして花火が打ち上がるとゾンビたちがポカンとみとれてなにもできなくなる「ランド・オブ・ザ・デッド」が最高のイメージだった。 最近観た作品では「イップ・マン 継承」のドニー・イエンの師匠っぷりに気品と威厳がありよかった。好調ゼメキスの「マリアンヌ」、映画のメリハリの正しさをみせてくれたし、「ドント・ブリーズ」もいい。自分の小学生時代のトラウマ映画は「世にも怪奇な物語」の第3話「悪魔の首飾り」と「バニー・レイクは行方不明」なのだが、「バニー・レイク」を約45年ぶりに観直した。小学生当時、人形を燃やす場面で密かに腰を抜かしていたのだが、ブランコのあたりが舞台だと思い込んでいた。公園が登場するのは後の話で、いま観ても映画の強度はまったく落ちていない、ブランコの場面こそがメチャメチャ怖い!

5月8日 エドワード・ヤン、「クーリンチェ少年殺人事件」札幌市内はまだ上映中。黙って観に行くしかありません。

4月1日 ミュージシャンとしてデビューしてしまったジョン・カーペンターの「LOST  THEMES」、作曲家としてとのカーペンター節炸裂で、テンションが上がる! 作曲家といっても、いつものアレ、シンセで「ズンズン、ズンズン」と低音を響かせるヤツ。スタジオライヴを見ると不良老人が軽く体を揺さぶりながら「ニューヨーク1997」のテーマを弾き、若手が横でエレキをギュイーンと突き上げてる!かっこいいよ、ロックじゃん。すでに2枚目のCDも発売し、米国ツアー中。日本には…絶対来ないだろう。タワーレコードのロックコーナーに、「ジョン・カーペンター」コーナーがあるのが笑える。 遅ればせながら三宅唱の「Playback」をようやく観ることができた。こんなに面白い映画だったのか。月曜、火曜と続けて観て、細部を確認したいので、昨日はプロジェクターで再見。簡単に言ってしまえば、前半と後半があって、登場人物が同じ場面をもう一度演じ直す映画。が、後半はひとりの登場人物が消えており、母親だった女性はなぜか妻となって登場し、ズレが生じている。余白には死臭が漂っている。もちろん恐怖映画ではない。ひとりの俳優が再生する物語とひとまずはいえるだろう。俳優もよい。主演の村上淳ももちろんよいが、モンジ役の渋川清彦にはまいった。飄々とした軽みがこの作品を支えていると思った。そして三宅唱は女優も綺麗に撮れる人でもあることに驚いた。渡辺真起子、河井青葉、汐見ゆかり、三者三様のとくに横顔の輪郭が印象に残っている。昨年、「the Cockpit」の舞台挨拶で三宅氏を拝見した際は、ラッパーみたいノリの軽いお兄ちゃんという感じだったが、聡明な人なのだろう。でなければ、こんな映画は絶対に撮れない。前作の「やくたたず」がまた素晴らしい。三宅自身が撮影も行った全編札幌ロケ。3人の高校生が雪の中を、キャメラに向かって走り出すファーストシーンだけで、傑作であることを確信できる。札幌の雪をこんなモノクロームでとらえた作品は今までにないだろう。軽トラックの荷台に立ったまま乗る高校生たちの姿に、ああ「映画だなあ」とため息がもれた。 「Playback」を観て、どうしてもニコラス・レイの「理由なき反抗」が観たくなった。視線のドラマがすごいが、階段で親子3人言い合う場面、映画的運動感が爆発している。 今やリチャード・フライシャーの「センチュリアン」も「ラスト・ラン」も観られ、ありがたい。「ラスト・ラン」の車の爆破シーン、はるか昔黒沢さんが「映像のカリスマ」で書いていたが、本当にたった3カット。スゴすぎる。

1月14日 札幌市内のCDショップの中古コーナーがえらいことになっていて数日通いつめ、しかも安いので30枚ほど購入。おかげでここ数日はジャズ漬けの日々。どこかのコレクター(もしくは遺族?)が一気に放出したのだろう。札幌ではあり得ない品揃えになっていた。うわさになったのか、ジャズ界隈の方々も散見した。アケタも何枚か入手。通して聞くと、アケタさん、本当に名曲が多い。“胸かきむしられ系”とよく言われ、いかにも日本人的な旋律がいいのだが、「ALP」などはリズ・オルトラーニかジョルジュ・ドルリューあたりを思い出す美しさ(オルトラーニのバラキのテーマは最高の名曲!それを思い出した)。思えば、アケタさんもそうだが、自称天才の方がワタクシは好きらしく、荒木経惟と谷岡ヤスジもいるのだ。谷岡さんのあの線で爆笑させるセンス。荒木さんは新宿DIGでうれしい誤解をされたことを思い出す。増刷になった中山康樹氏の「ディランを聴け!!」。大きめの帯にディランの文字が隠れ、まるで中山さんがノーベル文学賞を受賞したようで笑える。

 

2017年1月1日 新年おめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。 という訳で昨年印象に残った映画から。昨年はイーストウッドもスピルバーグも黒沢清も観られる年でうれしかったが、最も印象的なのは「キャロル」だろうか。ケイト・ブランシェットにはいつも、目をつけられたら逃れられないような野生動物の凄みを感じるのだが(私のベストは「ハンナ」)、こうした題材で牙や爪を封印したかのような抑えた演技が却って凄みを感じさせ息を呑んだ。トッド・ヘインズは女優を撮る。ダントツのバカバカしさで爆笑の連続だったのは「エブリバディ・ウォンツ・サム!!」。南東テキサス州立大学の新入野球部員が先輩の車に乗せられると、いきなり全員が歌いだすという冒頭からノリノリで、マリファナ中毒、ギャンブル狂、妄想癖など曲者だらけの野球部員が毎日常識はずれのお祭り騒ぎを繰り広げる。しかし、彼らは単なるバカなのではなく、プロに近い強豪大学の選手で、新学期までのカウントダウンがポイントごとに挿入される。ジョン・ベルーシの「アニマルハウス」などを思い出す素材だが、そこは監督がリチャード・リンクレイター、一筋縄ではいかない展開で軽くは終わらない。「6才のボクが大人になるまで。」は重すぎたので、このくらいがちょうどいいね。残念だったのはジョニー・トー、「香港、華麗なるオフィス・ライフ」。ミュージカルもいけるのは、「スリ」で実証済みだが、まず話が面白いとは思えない(舞台の映画化らしいが)。しかし、セットと演出は洗練の極みという感じで、なぜこれほどのれないのか。ラム・シューも出ていないし。ラム・シューといえば、フルーツ・チャンの「ミッドナイト・アフター」は主役扱いでうれしい。原発がとんでもない扱い方をされる作品だが、日本に近い外国人にはこのように映るのだろう。